番外編 凌華、ちいさくなりました②
【小さくなっても凌華は凌華】
翌朝。
凌華が目を覚まして最初にしたことは、自分の手を確認することだった。
掛け布の上へ両手を出し、指を開く。
小さい。
寝台の端から足を伸ばす。
短い。
「…………」
壁際の長剣から、孫策の声がした。
『戻ってねえな』
「見れば分かる」
『昨日あれだけ「絶対戻ってやる」って言ってたのにな』
「私が気合い入れたら戻る仕組みじゃなかったみたい」
『そりゃそうだろ』
「朝から腹立つなあ」
そう言いながら寝台から降りようとして、凌華は一度動きを止めた。
昨日はいつもの感覚で足を出して、そのまま掛け布ごと床へ落ちた。
今日は寝台の縁まで慎重に移動し、両手をついて身体を下ろす。
ようやく足が床へ触れたところで、孫策が感心したように言った。
『学習したじゃねえか』
「私を何だと思ってるの」
『昨日まで自分の身体が小さくなったこと忘れて何回も転びかけてた奴』
「……今日からは違う」
『へえ』
「その反応やめて」
ちょうどそこへ鈴がやってきた。
戸を開けた鈴は、きちんと自分の足で立っている凌華を見ると、ほっとしたように微笑む。
「おはようございます、凌華様」
「おはよう」
「お身体は?」
「この通り」
凌華が両腕を広げる。
「まだ小さい」
「そうでございますか……」
鈴は少し残念そうな顔をしたものの、すぐに持ってきた衣を広げた。
数日のあいだ必要になるかもしれないと、昨日のうちに身体へ合うものを何着か用意してくれていたらしい。
「こちらへお着替えください」
「自分で着られるよ」
「存じております」
「じゃあ大丈夫」
「ですが、こちらのお紐はお一人では結びにくいかと」
「…………」
言われて見れば、今の短い腕では背中へ回すのが難しい。
凌華は無言で鈴へ背を向けた。
「……そこだけお願い」
「はい」
背中で紐が結ばれる。
髪も邪魔にならないようまとめてもらい、支度を終えた凌華は鏡の前へ立った。
何度見ても幼い。
「……やっぱり慣れない」
鈴は鏡越しに笑う。
「よくお似合いですよ」
「それ昨日も言われた」
「本当ですから」
「みんな目悪いんだよ」
『まだ言ってんのか』
「孫策は黙ってて」
鈴には剣の声は聞こえない。
けれど、凌華が誰に言ったのかはもう知っているため、壁際の長剣へちらりと目を向けただけだった。
「では、朝餉へ参りましょうか」
「うん」
凌華が戸口へ向かう。
二歩進んだところで止まった。
振り返る。
壁際の長剣を見る。
「…………」
『何だ』
「孫策」
『おう』
「今日、ここにいて」
一拍。
『は?』
「だって持てないし」
『待て。俺を置いていく気か?』
「朝ご飯食べるだけだよ」
『そういう問題じゃねえ』
「じゃあどうするの」
『持ってけ』
「無理」
『昨日短剣は持ってただろ』
「あなた長剣なんだけど?」
『知ってる』
凌華は柄を両手で握ってみた。
一応、試す。
「ん……っ」
剣の先が僅かに動いただけだった。
すぐに手を離す。
「無理」
『諦め早えな!』
「昨日散々やったから!」
そこへ廊下から足音が近づいた。
「凌華?」
陸議だった。
開いた戸から室内を覗き、長剣の前に立つ凌華と、その少し後ろにいる鈴を見る。
「何をしているのです?」
「孫策を置いていこうとしてる」
『置いていくな!』
「反対されてる」
陸議は長剣を見る。
「連れて行けばよいのでは?」
凌華も長剣を見る。
それから陸議を見る。
「誰が持つの?」
「…………」
『お前しかいねえだろ』
「陸議さんしかいないって」
陸議は一瞬黙った。
「それは孫策殿が?」
「うん」
『そうだ』
「聞こえませんので、本当にそう仰ったのか確認できませんが」
『おい』
「本当だよ!」
「仕方ありませんね」
陸議は長剣を手に取った。
凌華が満足そうに頷く。
「よろしく」
『何でお前が偉そうなんだよ』
「孫策もよろしくって」
『言ってねえ!』
「今、違うことを言いましたね?」
「……何で分かったの」
「顔です」
鈴が後ろで小さく笑った。
◇
凌華の身体が突然小さくなってから、数日が経った。
原因はいまだにはっきりしない。
周瑜が調べても、身体そのものに異常があるわけではなかった。記憶も人格も以前のまま。考え方も言葉遣いも変わっていない。
ただ、身体だけはどうしようもなかった。
腕は短い。
足も短い。
力も以前とは比べものにならない。
何より厄介なのは、凌華自身の感覚がまるで追いついていないことだった。
自分では届くと思った場所に手が届かない。
いつもの歩幅で進もうとして足がもつれる。
以前なら何でもなかった段差を、同じ勢いで降りようとする。
身体だけが幼くなったということは、本人にとって想像以上に面倒だった。
そして、それ以上に。
「陸議さん! 降ろして!」
朝の廊下に、凌華の声が響いた。
陸議は何事もない顔で歩いている。
片腕には凌華。
もう片方の手には長剣。
『随分器用になったな』
「孫策、感心してないで助けて!」
『どうやって』
「陸議さんに降ろせって言って!」
『俺の声聞こえねえだろ』
「役に立たない!」
『ひでえ!』
陸議は当然、その会話の半分しか聞こえていない。
「暴れないでください」
「降ろしてくれたら暴れない!」
「先ほど転びましたから」
「一回だけ!」
「昨日も転びました」
「昨日は昨日!」
「一昨日もです」
「…………」
凌華の勢いが一瞬止まった。
けれど、すぐに立て直す。
「今日はもう転ばない!」
「先ほど転んだでしょう」
「だから、もう転ばないの!」
「根拠になっていません」
「歩けるって!」
凌華が腕の中で身体を捻る。
陸議は長剣を持っている方の腕を避けながら、危なげなく凌華を抱き直した。
「暴れないでください」
「だから降ろして!」
「降ろしたら走るでしょう」
「走らない!」
「昨日もそう言いました」
「昨日の私と今日の私は違う!」
「同じ凌華です」
「そういうところだけ正論やめて!」
少し後ろを歩いていた孫尚香が、とうとう耐えきれなくなった。
「ふふっ……」
凌華が振り返る。
「尚香!」
「ご、ごめん」
そう言いながら完全に笑っている。
「笑い事じゃないんだから!」
「だって凌華、ちっちゃいのに言ってること全然変わらないんだもん」
「中身は同じなんだから当たり前でしょ!」
「そこが面白いの!」
「面白くない!」
凌華は再び陸議の腕から抜け出そうとする。
もちろん逃げられない。
「陸議さん!」
「はい」
「降ろす!」
「降りる、でしょう」
「どっちでもいい!」
「よくありません」
「周瑜先生みたいなこと言わないで!」
その時だった。
「誰が私のようだと?」
向こうから歩いてきた周瑜が足を止めた。
凌華の顔が引きつる。
「……何でもないです」
「そうか」
周瑜の視線が陸議へ向く。
次に、その腕の中で頬を膨らませている凌華へ移った。
ほんの僅かに口元が緩む。
凌華は見逃さなかった。
「周瑜先生も笑った!」
「笑っていない」
「今絶対笑った!」
「気のせいだろう」
「最近みんなそれ言う!」
周瑜はそれ以上答えず、そのまま通り過ぎていった。
けれど孫尚香には見えていた。
すれ違った後も、周瑜の口元には薄い笑みが残っている。
「ほら、周瑜さんも可愛いと思ってるんだよ」
「違う!」
「何でそんなに認めないの?」
「私だから!」
「意味分かんない!」
二人が言い合う横で、陸議だけが淡々と歩き続けていた。
◇
問題は、凌華が小さくなったこと自体だけではない。
身体が戻るまで、以前とまったく同じ生活をさせるわけにはいかなかった。
戦場へ出ることなど論外。
訓練も禁止。
長剣は持てない。
双短剣でさえ、今の身体には重い。
高いところへ登るのも禁止。
一人で屋敷の外へ出るのも禁止。
階段を勢いよく降りるのも禁止。
「禁止ばっかり!」
庭へ出たところで、凌華はついに不満を爆発させた。
「私、大人なんだけど!」
「身体は違います」
隣を歩く陸議が淡々と答える。
今はきちんと自分の足で歩かせてもらっていた。
その代わり、陸議が半歩ほど後ろについている。
「頭は大人!」
「それは存じています」
「じゃあ一人で歩かせてよ」
「今、歩いているでしょう」
「さっきまで抱っこしてた!」
「階段でしたから」
「階段くらい降りられる!」
「昨日、最後の一段を飛びましたね」
「いつもの癖!」
「その身体で以前と同じことをしようとするから危ないと言っているのです」
凌華は言葉に詰まった。
そこを突かれると弱い。
本人は元の身体と同じつもりなのだ。
いつもの高さなら降りられると思う。
いつもの速度なら曲がれると思う。
いつもの距離なら手が届くと思う。
そして失敗する。
「……でも」
凌華はむっとした顔で陸議を見上げた。
見上げなければならないこと自体が気に入らない。
「陸議さん、抱っこしすぎ」
「必要な時だけです」
「多い!」
「あなたが無茶をする回数が多いので」
「してない!」
そう言った瞬間。
庭の向こうで何かが光った。
「あ」
凌華の視線が動く。
次の瞬間には、身体もそちらへ向いていた。
駆け出す。
――その直前。
ふわりと足が地面から離れた。
「わっ!?」
陸議が後ろから凌華を抱き上げていた。
「走らないでください」
「今のは走ってない!」
「走っていました」
「小走り!」
「同じです」
「違う!」
「何を見つけたのです?」
陸議が凌華の視線の先を見る。
庭の端に、小さな色硝子の飾りが下がっていた。
風を受けるたび、陽の光を反射している。
陸議が凌華を見る。
「触ろうとしましたね?」
「…………見るだけ」
「本当に?」
「……たぶん」
「先日の原因をお忘れですか」
「忘れてない!」
「ならば近づかないでください」
「見るくらいいいじゃん!」
「見るだけで済んだことが何度ありました?」
「数えてない」
「私は数えています」
「怖い!」
『完全に行動読まれてんな』
「孫策うるさい!」
凌華はむっとして拳を握る。
ぽか、と陸議の肩を殴ろうとした。
その前に、陸議の掌が凌華の額へ当たった。
「…………!」
凌華が腕を伸ばす。
届かない。
さらに伸ばす。
やっぱり届かない。
「陸議さん!」
「何でしょう」
「手!」
「殴ろうとするので」
「一回だけ!」
「一回も駄目です」
「ずるい!」
凌華は両腕を伸ばすが、陸議は片手で額を押さえたまま、完全に射程の外へ置いている。
「届かない!」
「届かせていませんから」
「むかつく!」
少し離れた廊下に、呂蒙と孫尚香が立っていた。
二人とも、何とも言えない顔をしてこちらを見ている。
やがて孫尚香の口元が緩んだ。
呂蒙も肩を揺らす。
陸議が気づいた。
「……何です?」
「いや」
呂蒙が咳払いをした。
「お前、凌華の扱いだけは上手いなと思ってよ」
「だけ、とは何ですか」
「だってそれ、他の奴じゃ無理だろ」
孫尚香も頷いた。
「私だったらもう降ろしてる」
「尚香! じゃあ降ろすように言って!」
「でも降ろしたら凌華走るじゃん」
「走らない!」
「さっき走った」
「小走り!」
「ほら」
「何がほらなの!?」
陸議が凌華の額から手を離した。
その途端。
凌華が拳を振り上げる。
ぺし。
再び掌で額を押さえられた。
「ほら」
今度は呂蒙だった。
「凌華」
「何!」
「諦めろ」
「何を!?」
「陸議に勝つの」
「嫌!」
呂蒙が声を立てて笑った。
「中身はいつも通りなんだけどな。身体がこれじゃどうにもならんな」
「笑わないで!」
凌華が怒っている横で、孫尚香はふと周囲へ視線を向けた。
庭の向こう。
廊下の端。
何人かの兵が、こちらを見ている。
いや。
正確には――陸議と、その腕の中にいる小さな凌華を見ていた。
兵たちは何かを囁き合っている。
そのうちの一人が孫尚香の視線に気づくと、仲間の袖を引き、慌てたように散っていった。
「……?」
孫尚香は首を傾げる。
けれど目の前で、
「陸議さん、もういいでしょ!」
「何がです?」
「私、もう殴らないから!」
「信用してよいのですか?」
「信用して!」
「では降ろします」
「やった!」
「ただし走らないでください」
「分かってるって!」
と騒いでいる二人へ意識を戻すうちに、その小さな違和感を忘れてしまった。
◇
その日の昼。
軍営の一角では、まったく別の話が始まっていた。
「なあ」
一人の兵が、周囲を窺いながら声を潜める。
「陸議殿が抱いていた子、見たか?」
「ああ」
「誰だ?」
「知らん」
別の兵が少し考え込む。
「親戚か?」
「だとしても、随分懐いてたぞ」
「陸議殿も慣れてたな」
そこで一人が、さらに声を落とした。
「……あの子さ」
「何だ?」
「凌華様に似てないか?」
一瞬。
全員が黙った。
一度そう言われると、妙に納得できてしまう。
黒い髪。
目元。
顔立ち。
何より、陸議へ向けるあまりにも遠慮のない態度。
「……似てる」
「だろ?」
「待てよ」
別の兵が割って入った。
「じゃあ、何だ」
数人の顔が近づく。
「陸議殿と凌華様の……」
「いやいやいや!」
即座に否定する声が上がった。
「そんな話聞いたことないぞ!」
「だから隠してたんじゃねえのか?」
「でも陸議殿、ずっと抱いてたぞ」
「父親じゃなくても子どもを抱くことくらいあるだろ!」
「じゃあ何であんなに扱い慣れてるんだ?」
その言葉に。
少し離れた場所で聞いていた年嵩の兵が鼻で笑った。
「陸議殿が子どもの扱いに慣れてんじゃねえよ」
皆が振り返る。
「あれは凌華様の扱いに慣れてんだ」
「……どういうことだ?」
「前からだろ。凌華様、分からねえことがありゃ陸議殿んとこ行くし、道に迷えば陸議殿が見つけるし」
「ああ……」
「陸議殿の部屋にもよくいるって聞くぞ」
「……俺、この前寝てるの見た」
「陸議殿の部屋で?」
「端っこで」
沈黙。
本来なら、その情報は噂を否定する材料になるはずだった。
ところが。
すでに妙な方向へ転がり始めた話には、逆効果だった。
「…………」
「まさか」
「いや、でも」
誰かが。
ぽつりと呟いた。
「……隠し子?」
噂は、その日のうちに走り始めた。
◇
当然。
凌華本人は何も知らない。
午後。
「自分で歩く」
「どうぞ」
ようやく陸議に降ろしてもらい、凌華は廊下を歩いていた。
陸議はその半歩後ろ。
長剣まで持っている。
『なあ』
孫策が声を掛ける。
「何?」
『俺、今日はずっとこいつに持たれてねえか?』
「だって私持てないし」
『お前が戻るまでこのままか?』
「たぶん」
『陸議、俺まで世話してんじゃねえか』
凌華が吹き出す。
「何です?」
後ろから陸議の声がする。
「孫策が、自分まで陸議さんに世話されてるって」
「剣を持っているだけですが」
『言い方!』
「怒ってる」
「そうですか」
『もっと何かあんだろ!』
「ないって」
『お前に聞いてねえ!』
凌華が笑いながら振り返る。
「陸議さん、孫策が――」
「前を向いてください」
「大丈夫だって」
「凌華」
「何?」
「前」
「だから大丈――」
柱が迫った。
「わ」
肩を掴まれ、寸前で止められる。
凌華と陸議の間に沈黙が落ちた。
「…………」
「…………」
「前を向いてください」
「はい」
凌華は素直に前を向いた。
『身体関係ねえじゃねえか』
「孫策は本当に黙って」
その一部始終を、廊下の向こうから兵が二人見ていた。
「…………」
「…………」
陸議が気づく。
「何か?」
二人の肩が跳ねた。
「い、いえ!」
「何でもありません!」
急いで立ち去っていく。
凌華が首を傾げた。
「最近みんな変じゃない?」
「そうですか?」
「私と陸議さん見ると、何か笑ってる」
陸議も僅かに眉を寄せた。
確かに、朝から妙な視線を感じていた。
「小さくなった私が珍しいのかな」
「……その可能性はありますね」
「やっぱり?」
凌華はそれで納得した。
陸議だけは、何となく納得できなかった。
◇
原因が判明したのは、その日の夕方だった。
凌華は陸議の部屋のいつもの場所で、壁に背を預けて座っていた。
身体が小さくなってからというもの、以前使っていた机も椅子も何かと不便になった。
だから結局、この部屋の隅が一番落ち着く。
陸議は机へ向かい、凌華はその近くで膝を抱えている。
長剣は壁際。
『お前また眠いだろ』
「眠くない」
『昨日もそれ言って寝ただろ』
「今日は違う」
陸議が書簡から目を上げた。
「何の話です?」
「孫策が眠いだろって」
「眠いのですか?」
「眠くない」
「先ほどから目を擦っていますが」
「擦ってない」
「擦っていました」
「眠くない」
「では、好きにしてください」
陸議は仕事へ戻った。
凌華は膝を抱える。
数分後。
頭が少し揺れる。
『寝るな』
「寝ない……」
『もう声が寝てんぞ』
「うるさい……」
その時。
戸が開いた。
「陸議、いるか?」
呂蒙だった。
「いますが」
呂蒙が部屋へ入り、すぐに壁際の凌華へ気づいた。
半分眠りかけた小さな凌華。
壁際には陸議が持ち歩いている長剣。
机には仕事中の陸議。
「……ああ」
呂蒙の顔が変わった。
陸議が眉を寄せる。
「何です?」
「いや」
口元が完全に笑っている。
凌華が薄く目を開けた。
「呂蒙さん……」
「おう」
「何で笑ってるの」
「何でもねえ」
「最近みんなそれ言う」
「そうかそうか」
明らかに面白がっている。
陸議の目が細くなった。
「呂蒙殿」
「何だ」
「何かご存じですね?」
「何が?」
「今日一日、兵たちの様子がおかしいのですが」
「…………」
呂蒙の肩が揺れた。
「呂蒙殿」
「いやあ……」
呂蒙は凌華を見る。
凌華も、眠気が少し飛んだらしくこちらを見ている。
もう一度、陸議を見る。
そして。
耐えきれなくなった。
「お前と凌華の隠し子ってことになってるぞ」
「…………」
陸議が完全に止まった。
手にしていた筆も、空中で止まる。
「…………は?」
凌華は瞬きをした。
「かくしご?」
呂蒙が吹き出しそうになる。
陸議は即座に凌華へ向き直った。
「凌華」
「何?」
「あなたは知らなくて結構です」
「何で?」
「知らなくていいからです」
「今、私の名前入ってたよね?」
「気のせいです」
「絶対違う!」
「違います」
「呂蒙さん、『お前と凌華』って言った!」
「呂蒙殿」
陸議の声が低くなった。
とうとう呂蒙が笑い出す。
「ははははっ! 悪い、悪い!」
「誰がそんな話を?」
「知らねえよ。俺が聞いた時にはもう広がってた」
「なぜ訂正しなかったのです!」
「したところで、あれ見せられちゃなあ」
呂蒙が凌華を指す。
凌華が自分を指差した。
「私?」
「そう、お前」
「何?」
「いや」
「何!?」
「言わない方が面白――」
「呂蒙殿」
「分かった分かった」
凌華はますます怪しむ。
「ねえ、隠し子って何?」
「凌華」
「何?」
「知らなくて結構です」
「だから何で!」
そこへ、また戸が開いた。
「まだ教えてないの?」
孫尚香だった。
「尚香!」
凌華が立ち上がる。
「知ってるの!?」
「うん」
「何!?」
孫尚香は陸議を見る。
陸議の顔を見た途端、口元を押さえた。
「……駄目です」
「何が!?」
「本人には言わないでください」
「何で陸議さんが決めるの!」
「必要がないからです!」
いつになく強い。
凌華はますます疑わしそうに目を細めた。
「絶対私のことじゃん」
「違います」
「嘘」
「違います」
「目逸らした!」
『分かりやすいな、陸議』
凌華が長剣を見る。
「孫策も何か知ってる!?」
『知ってる』
「何!?」
『教えねえ』
「何で!!」
『面白いから』
「孫策!!」
部屋の中が、一気に騒がしくなった。
◇
結局。
凌華には教えられなかった。
正確には、陸議が全力で阻止した。
そして翌日。
噂は消えるどころか、さらに広がった。
原因の一端は――陸議自身にあった。
昼前。
凌華は庭を歩いていた。
少し離れたところには陸議がいる。
今日は何としてでも自分で歩く、と朝から宣言していたためだ。
「ついてこなくていいって言ったのに」
「私もこちらに用があります」
「本当かなあ」
凌華は疑いながら進む。
数日経ったことで、少しずつ今の身体にも慣れてきた。
歩く速度も分かってきた。
段差も慎重に降りられる。
だから今日は大丈夫。
そのはずだった。
「凌華」
「何?」
「そちらではありません」
「え?」
振り返る。
庭の分かれ道。
進むべき方向とは、完全に反対側へ来ていた。
「…………」
『身体関係ねえじゃねえか』
「孫策うるさい!」
陸議が壁際の長剣を見る。
今日は途中から、また陸議が持っている。
「孫策殿ですか?」
「道間違えたのは身体関係ないって」
「それはその通りですね」
「陸議さんまで!」
凌華は方向を変え、むっとしながら歩き始めた。
そのせいで。
足元の小さな石に気づかなかった。
「あ」
身体が傾く。
地面へ手をつくより先に。
後ろから伸びた腕が凌華を抱き上げた。
「…………」
凌華は陸議の腕の中。
陸議は何事もなかったように歩き出そうとする。
「降ろして」
「嫌です」
「今のはたまたま!」
「危ないので」
「もう転ばない!」
「信用できません」
「歩ける!」
「知っています」
「じゃあ降ろして!」
「目的地までこのまま行きます」
「陸議さん!」
凌華が拳を振り上げる。
陸議が慣れた動きで片手を伸ばす。
額を押さえる。
「届かない!」
「届かせていません」
「ずるい!」
ちょうどその時、向こうから数人の兵が歩いてきた。
兵たちは足を止めた。
陸議。
その腕の中の、小さな凌華。
怒って拳を振り回す凌華。
それをまったく動じず制している陸議。
「…………」
「…………」
兵たちの顔が一斉に緩んだ。
凌華が気づく。
「ほら!」
陸議を見る。
「また笑ってる!」
「……そうですね」
「何で!?」
兵たちは慌てて頭を下げる。
「し、失礼しました!」
そのうち一人が、つい口を滑らせた。
「陸議殿、ご苦労さまです!」
陸議の目が細くなる。
「何の話です?」
「い、いえ!」
「待ちなさい」
逃げた。
凌華は本気で分からない顔をした。
「何なの!?」
陸議には、だいたい分かってしまった。
「…………」
「陸議さん?」
「何でもありません」
「またそれ!」
陸議はそのまま歩き出す。
「降ろして!」
「駄目です」
「みんな見てる!」
「見せておけばいいでしょう」
「嫌なんだけど!」
「では暴れないでください」
「降ろしてくれたら暴れない!」
「それは昨日も聞きました」
周囲から、また小さな笑い声が聞こえる。
陸議の眉間には皺が寄っている。
それでも。
凌華を降ろすことはなかった。
◇
少し離れた廊下から、その様子を三人が眺めていた。
孫尚香。
呂蒙。
周瑜。
「……あれじゃ噂消えないね」
孫尚香が言う。
「むしろ広がるだろ」
呂蒙が答えた。
周瑜はしばらく二人を見ていた。
陸議の腕の中で凌華がまだ何か抗議している。
陸議は聞き流しているように見えるが、凌華が少し身体を傾ければすぐ抱き直し、歩く先に段差があれば足を止める。
「陸議は」
周瑜が静かに口を開いた。
「子どもの扱いが得意なのではないな」
「ん?」
呂蒙が振り返る。
周瑜の目は、二人へ向いたままだった。
「凌華の扱いに慣れているだけだ」
孫尚香が一瞬きょとんとして。
すぐに笑った。
「……ああ」
確かにそうだった。
陸議は、子どもという存在全般に慣れているわけではない。
凌華が何をするかを知っているだけだ。
知らないものを見つければ近づく。
気になるものがあれば手を伸ばす。
疲れていても大丈夫と言う。
痛くても隠す。
道を覚えたと言って迷う。
歩けると言いながら転ぶ。
そして。
何か分からないことがあれば、結局は陸議のところへやって来る。
それは身体が小さくなる前から、何も変わっていなかった。
「陸議さん、あれ見たい!」
少し先で凌華の声がする。
「後にしてください」
「ちょっとだけ!」
「先ほどもそう言って別の方向へ行ったでしょう」
「今度は行かない!」
「信用できません」
「ひどい!」
「事実です」
呂蒙が低く笑った。
「なるほどな」
「何?」
孫尚香が見る。
呂蒙は腕を組む。
「身体が小さくなっても、陸議だけ何も変わってねえんだ」
周瑜の口元にも、ごく薄い笑みが浮かんだ。
「そういうことだ」
◇
夕方。
一日中あちこち動き回った反動か、凌華はとうとう大人しくなっていた。
陸議の腕の中で、いつもより少しだけ身体を預けている。
「……ねえ」
「何でしょう」
「みんな今日ずっと笑ってない?」
「気のせいです」
「絶対嘘」
「気のせいです」
「陸議さんも何か知ってるでしょ」
「知りません」
「目見て」
「前を見ています」
「私見て」
「危ないので」
「ずるい」
『逃げてんなあ』
「孫策も知ってるんでしょ」
『知らねえ』
「嘘」
『何で分かる』
「声」
『…………』
凌華は頬を膨らませる。
「みんなして何なの」
陸議は答えない。
代わりに、腕の中で少しずり落ちかけていた凌華を抱き直した。
凌華がすぐに反応する。
「ほら!」
「何です?」
「また抱っこし直した!」
「落ちそうでしたから」
「落ちない!」
「落ちます」
「私、大人だから!」
「知っています」
「じゃあ降ろして!」
「それとこれとは別です」
「陸議さん!」
夕暮れの廊下に、凌華の声が響いた。
その声に兵たちが振り返る。
陸議に抱かれた小さな凌華を見て。
やはり何とも微笑ましそうな顔になる。
「ほらあああ! また笑った!」
「気のせいです」
「絶対違う!」
陸議はそのまま歩き続ける。
凌華はまだ何も知らない。
なぜ兵たちが自分と陸議を見て笑うのか。
なぜ呂蒙が陸議と会うたび妙に肩を叩くのか。
なぜ孫尚香が時々、自分と陸議を交互に見てにやにやしているのか。
そして。
周瑜まで陸議へ、
「しばらく大変だろうが、頑張れ」
などと言う理由も。
「何を頑張るの?」
凌華が尋ねても。
誰も答えなかった。
ただ一つだけ。
小さくなってから数日が経っても、変わらないことがあった。
凌華は凌華のまま無茶をして。
陸議はそれを誰より先に見抜いて止める。
噂を知ったあとでさえ。
凌華が危なっかしい動きをすれば、陸議の腕は迷わず伸びた。
「降ろして!」
「駄目です」
「自分で歩ける!」
「知っています」
「じゃあ何で抱っこするの!」
陸議は少しだけ凌華を見た。
「あなたが凌華だからです」
「…………何それ!」
『ははっ。そりゃどうしようもねえな』
「孫策まで笑うな!」
翌日になっても。
凌華の身体は、まだ小さいままだった。
そして本人の知らないところで生まれた妙な噂もまた――当分、消えそうになかった。
――第三話へ続く。




