番外編 凌華、ちいさくなりました①
凌華が目を覚ました時、最初に感じたのは、いつもの寝台とは思えないほどの広さだった。
身体を覆っている掛け布が妙に重い。寝返りを打とうとしても、布の向こう側まで随分と距離があるような気がする。
身体を起こしてみれば、天井もいつもよりずっと遠かった。
寝起きのぼんやりした頭では、何が違うのかすぐには分からない。
「……何か変」
そう呟きながら腕を上げたところで、ようやく違和感の正体に気づいた。
寝衣の袖が、手の先を大きく越えて垂れ下がっている。
「……何これ」
袖の中でもぞもぞと腕を動かし、ようやく手を外へ出す。
その瞬間、凌華の眠気が一気に飛んだ。
「…………え?」
小さい。
どう見ても小さい。
指も掌も、見慣れた自分の手とはまるで違う。慌てて反対側も確認するが、当然のようにそちらも小さかった。
凌華が固まっていると、壁際に立てかけていた長剣から、聞き慣れた声がした。
『おい、凌華』
「……何」
『お前、その身体どうした?』
凌華の動きが止まる。
ゆっくりと長剣を見る。
「……何が?」
『何がじゃねえよ。ちっさくなってんぞ』
「…………」
孫策には凌華の姿が見えている。
だからこそ、その一言で、まだ認めたくなかった嫌な予感が一気に現実になった。
凌華は慌てて寝台から降りようとした。
いつもの感覚で足を下ろす。
けれど、床へ届かない。
「あれ」
もう少し身体をずらしたところで、重心が崩れた。
「わっ!」
掛け布ごと床へ落ちる。
幸い、布が下敷きになったため痛みはほとんどなかった。
『おい、大丈夫か!?』
「大丈夫……」
凌華は床へ座ったまま、自分の身体を見下ろした。
長すぎる寝衣。短くなった手足。そして、いつもとは明らかに違う視線の高さ。
『完全に子供じゃねえか』
「まだ決まってない!」
『何がだよ』
「何かの間違いかもしれないじゃん!」
『その身体見てまだ言うか』
「うるさい!」
凌華は裾を引きずりながら鏡の前まで歩いた。
けれど、普段なら普通に顔まで映る鏡には、頭の上の方しか見えない。
近くにあった台を引き寄せ、何とかよじ登る。
ようやく鏡に映った自分を見て、凌華は完全に黙った。
黒い髪。黒い瞳。
顔立ちそのものは自分なのに、どう見ても幼い。
小さな少女が、鏡の中からこちらを見返していた。
『…………』
孫策も黙った。
凌華は鏡を見たまま言う。
「孫策」
『何だ』
「笑ったら斬る」
『…………』
「絶対だからね」
『いや、でもよ』
「何」
『声までちっさくなってんぞ』
「笑うなって言ってるでしょ!」
『ぶはっ……ははははは!』
「孫策!!」
とうとう耐えきれなくなった孫策の笑い声が響く。
もちろん、聞こえているのは凌華だけだ。
『いや待て、何だそれ! 昨日まで普通だったじゃねえか!』
「私が知りたいよ!」
『ちっせえ!』
「今すぐ斬る!」
凌華は長剣へ駆け寄り、柄を両手で掴んだ。
いつもなら簡単に持ち上がる。そのつもりで力を込める。
「ふんっ……!」
剣はほとんど動かなかった。
「…………」
『…………』
もう一度、今度は全身の力を込める。
「んんんっ……!」
わずかに柄が浮く。
けれど剣先は床を離れない。
『ぶははははは!』
「笑うなーー!!」
『それでどうやって俺を斬るんだよ!』
「短剣ならいける!」
凌華は意地になって双短剣の方へ向かった。
一本を掴めば、どうにか持ち上げることはできた。
けれど、普段とは比べものにならないほど重い。
「……重い」
『そりゃその身体ならな』
「中身は大人だから!」
『腕は子供だ』
「うるさい!」
その時、廊下から足音が近づいてきた。
「凌華?」
聞き慣れた声だった。
凌華が振り向くより先に戸が開く。
「先ほどから随分騒がし――」
陸議の言葉が途中で止まった。
部屋の中にいる、小さな少女。
黒い髪に黒い瞳。顔立ちには確かに見覚えがある。
けれど、どう考えても昨日までの凌華とは違う。
少女と陸議の視線が合った。
しばらく、どちらも動かなかった。
先に口を開いたのは陸議だった。
「……どちら様です?」
「私!」
陸議の眉が寄る。
「……はい?」
「凌華!」
「…………」
「凌華だって!」
陸議は少女の顔をじっと見た。
『そりゃ信じねえよな』
「孫策は黙ってて!」
その言葉を聞いた瞬間、陸議の視線が長剣へ向いた。
そして、もう一度凌華へ戻る。
「今、孫策殿と話しましたか?」
「そうだよ!」
陸議はしばらく考えた後、凌華の前へしゃがんだ。
視線の高さが、ほとんど同じになる。
「確認します」
「何?」
「昨日、私が最後にあなたへ頼んだことは?」
「周瑜さんから預かった書簡を呂蒙さんに渡しておくこと」
「その前は?」
「勝手に机の書簡触るなって怒られた」
「怒ってはいません」
「怒ってた」
「注意しただけです」
「一緒じゃん」
『本人だな』
「でしょ!?」
陸議は額へ手を当てた。
「……確かに凌華ですね」
「だから最初から言ってる!」
「なぜ、このような姿に?」
「分かんない。起きたらこうなってた」
陸議の表情が少し真面目になる。
「昨日、何か変わったことは?」
「変わったこと?」
「食べた物でも、触れた物でも」
凌華は少し考えた。
そして、視線を逸らす。
「…………」
「凌華」
「……市場で変な飾り触った」
陸議は静かに目を閉じた。
「また妙な物に触ったのですか」
「またって言わないでよ」
「市場へ行くたび、よく分からない物へ手を伸ばしているでしょう」
「珍しかったんだもん」
「それを止めてくださいと言っているんです」
市場で見慣れない物があれば触ってみる。変わった形の道具があれば手に取る。妙な装飾品が置かれていれば近づく。
それ自体は、凌華にとって珍しいことではない。
けれど身体が小さくなったことなど、今まで一度もなかった。
凌華は自分の小さな手を見る。
「……これ、妖術?」
陸議もすぐには否定しなかった。
理屈で説明できる現象ではない。
「可能性はありますね」
「こんな物理的に変な事、初めてなんだけど」
「普通は一度も巻き込まれません」
「そういう言い方やめて」
「事実です」
陸議は立ち上がる。
「とりあえず周瑜殿に相談しましょう」
「うん」
凌華も歩き出そうとした。
ところが、一歩目で長すぎる寝衣の裾を踏んだ。
「わっ!」
倒れる寸前で、陸議の手が凌華の腕を掴む。
「危ない」
「…………」
『完全に子供だな』
「孫策、聞こえてるからね」
『知ってる』
このままではまともに歩けないため、事情を詳しく伏せたまま侍女へ頼み、身体に合う小さな衣を用意してもらった。
着替えを終えた凌華は、鏡に映る自分を見て何とも言えない顔をした。
「……なんか腹立つ」
「なぜです?」
「似合ってるのが腹立つ」
陸議の口元が、ほんの僅かに緩んだ。
凌華はすぐに見逃さなかった。
「今笑った?」
「笑っていません」
『笑いそうだったぞ』
「ほら!」
「孫策殿の言葉を都合よく証拠にしないでください」
「孫策には私も陸議さんも見えてるんだから分かるもん」
『そうだぞ』
「孫策うるさい!」
陸議は小さく息を吐き、先に歩き始めた。
「行きましょう」
「うん」
凌華も後を追う。
ところが、すぐに別の問題が出た。
歩幅が違う。
陸議が普段通りに歩けば、小さくなった凌華はほとんど小走りにならなければ追いつけない。
「陸議さん、待って」
振り返った陸議が凌華の足元を見る。
「……すみません」
今度は明らかに歩調を落とした。
凌華は少し不満そうに陸議を見上げる。
「子供扱いしないで」
「していません」
「してる」
「歩幅を合わせているだけです」
「私、大人だからね」
「知っています」
廊下の段差へ差しかかる。
凌華が足を上げた瞬間、陸議の手が反射的に伸びた。
凌華がその手を見る。
「今、手出したよね?」
「転ぶかと思いました」
「子供扱いしてる!」
「先ほど実際に転びかけたでしょう」
「あれは服のせい!」
「今は着替えています」
「…………」
『負けてるぞ』
「うるさい!」
それでも歩き続けているうちに、凌華の足取りが少しずつ遅くなった。
本人は平気そうな顔をしている。
けれど陸議には分かったらしい。
ふいに足を止めた。
「凌華」
「何?」
「失礼します」
「え?」
次の瞬間、身体がふわりと浮いた。
「!? 陸議さん!?」
気づけば凌華は、陸議の腕の中にいた。
「この方が早いです」
「歩ける!」
「歩けることと、時間がかからないことは別です」
「私、大人だから!」
「身体はそうではありません」
「降ろして!」
『ははははは!』
「孫策も笑うな!」
そんな状態の時に限って、会いたくない相手ほど現れる。
「おう、陸議」
廊下の向こうから甘寧が歩いてきた。
凌華が固まり、陸議も足を止め、甘寧も止まった。
まず陸議を見る。
次に、その腕の中にいる小さな少女を見る。
そして、もう一度陸議を見る。
「……陸議」
「違います」
「俺まだ何も言ってねえぞ」
「先に否定しておきます」
「いや、お前……」
甘寧が凌華を見る。
「いつの間に子供いたんだ?」
「だから違います」
「私だから!」
甘寧の顔が止まる。
「……誰だ?」
「凌華!!」
「…………」
「凌華!」
数秒の沈黙のあと、甘寧の肩が震え始めた。
「……ぶっ」
「笑うな!!」
「ぶはははははは!!」
「甘寧!!」
「お前……っ、何だそれ! どうした!?」
「知らないよ!」
「ちっさ!」
「言うな!」
「声までちっせえ!」
「声の大きさは変わってない!」
「いや、そうじゃなくてよ!」
甘寧が腹を抱えて笑う。
「陸議! お前何で普通に抱いてんだよ!」
「歩かせるより早いので」
「降ろしてって言ってる!」
「駄目です」
「なんで!?」
「先ほど転びかけました」
「だから服のせいだって!」
その時、長剣から楽しそうな声が響いた。
『こいつ、朝の俺より笑ってんな』
「ほんとそれ!」
甘寧の笑いが一瞬止まる。
「……何が?」
「あ」
「今、誰と喋った?」
「何でもない!」
「いや、今完全に誰かに返事しただろ」
「独り言!」
「会話になってたぞ」
「気のせい!」
甘寧には、剣に宿る孫策のことは話していない。
この状況で、さらに説明することを増やすのだけは絶対に嫌だった。
「陸議」
甘寧が助けを求めるように見る。
「私を見ないでください」
「こいつ、前からたまに変だと思ってたんだけどよ」
「元々です」
「陸議さん!?」
そこへ、別の足音が近づいてきた。
「朝から何の騒ぎだ」
呂蒙だった。
こちらを見て、足を止める。
凌華は、もう説明するのも面倒になって先に言った。
「私です」
「…………」
「凌華です」
「…………本当に?」
「本当に!」
さらに、その後ろから落ち着いた声がした。
「随分と賑やかだな」
周瑜まで現れた。
周瑜は目の前の状況を順番に見た。
凌華を抱いている陸議。その腕の中にいる小さな少女。まだ笑っている甘寧。困惑している呂蒙。
そして、もう一度、小さな少女へ視線を戻す。
しばらく沈黙したあと、周瑜は凌華の前へ来た。
「凌華」
「はい」
「昨日、私がお前に頼んだ件は?」
凌華は間を置かず答えた。
「城外から届いた報告を三つに分けて、陸議さんに渡すものと呂蒙さんに渡すもの、それから周瑜さんが直接見るものに分ける」
「その通りだ」
周瑜はあっさりと立ち上がった。
「本人だな」
「それで納得すんのかよ!」
甘寧が思わず突っ込む。
「他に説明がつかん」
呂蒙も腕を組みながら凌華を眺めた。
「妖術だろうな」
「多分」
「身体だけ幼くなったのか?」
「その言い方も嫌」
「じゃあ何て言やいいんだよ」
「知らない!」
周瑜の口元が、笑いを堪えるようにほんの僅かに緩んだ。
「原因に心当たりは?」
「市場で変な物に触ったかも」
「またか」
「陸議さんと同じこと言わないで!」
「またなのだから仕方ないだろう」
正論だった。
市場で見慣れない物を見つけるたび、何の警戒もなく触ってしまうこと自体は珍しくない。
凌華は言い返せず、陸議の腕の中で少しだけ視線を逸らした。
その騒ぎを聞きつけたのか、今度は孫尚香が駆けてきた。
「何? 何かあったの?」
そう言いながら廊下を曲がり、陸議の腕の中を見た瞬間、足が止まる。
「…………」
凌華は嫌な予感しかしなかった。
「尚香」
返事がない。
「尚香?」
孫尚香が一歩近づく。
そして。
「……かわいい」
「やめて!」
「凌華!?」
「そうだよ!」
「えっ、ほんとに!?」
孫尚香は一気に距離を詰めた。
「ちょっと、よく見せて!」
「嫌!」
「かわいい!」
「だからやめてって!」
「何で!?」
「私だから!」
「凌華だからかわいいんでしょ!」
「意味分かんない!」
凌華が陸議の腕の中で逃げようとするたび、孫尚香も反対側へ回る。
その様子を見ていた甘寧が再び笑い始め、呂蒙まで肩を震わせた。
そこへ、さらに孫権まで現れた。
「何を騒いでいる」
状況を確認するように視線を巡らせ、最後に凌華へ目を止める。
凌華は即座に警戒した。
「……言わないで」
「まだ何も言っていない」
「絶対何か言おうとしてる」
孫権はしばらく凌華を見たあと、静かに言った。
「……可愛いな」
「言った!!」
甘寧がまた吹き出す。
孫尚香は「でしょ!」と嬉しそうに頷いた。
「孫権まで!」
「事実を言っただけだ」
孫権が頭へ手を伸ばそうとする。
凌華は即座に避けた。
「子供扱い禁止!」
「中身は凌華なのだったな」
「そう!」
「だが見た目は――」
「それ以上言ったら怒る!」
「すでに怒っているだろう」
長剣から楽しそうな声が響く。
『権、もっと言え』
「孫策は黙って!」
孫権の表情が僅かに変わり、長剣を見る。
「兄上が何か言ったのか?」
「余計なこと」
「そうか」
一方、甘寧だけは怪訝そうに凌華を見た。
「……やっぱ今、誰かと喋ってるだろ」
「喋ってない」
「喋ってるだろ」
「喋ってない!」
周瑜が静かに割って入った。
「甘寧。今は凌華を元へ戻す方法を探す方が先だ」
「いや、それはそうだけどよ」
「先だ」
「……分かったよ」
凌華は内心で、周瑜へ少しだけ感謝した。
けれど。
身体を元へ戻す方法が、すぐに見つかるわけではなかった。
昼になっても、凌華は小さなままだった。
周瑜が調べても、すぐに原因が分かるようなものではない。体調に異変はなく、記憶にも問題はない。ただ身体だけが幼くなっている。
そうなると、凌華は何もせず待っていることに耐えられなくなった。
だからこそ、いつも通り訓練をしようと考えた。
訓練場へ向かったところで、入口にいた陸議へ止められる。
「どこへ?」
「訓練」
「休んでください」
「なんで?」
「その身体で何をするつもりです?」
「いつも通り」
「長剣を持てなかったのでしょう」
「…………」
長剣から、すかさず孫策の声が飛んでくる。
『言われてんぞ』
「短剣なら使える」
凌華は短剣を一本持つ。
持ち上がるには持ち上がった。
ただし、両手で。
「…………」
陸議が黙って見ている。
「何?」
「何も」
「今笑いそうになった?」
「なっていません」
『なってたぞ』
「ほら!」
「孫策殿」
『何だ?』
「余計なことを言わないよう伝えてください」
「孫策、余計なこと言わないでって」
『嫌だ』
「嫌だって」
「そうですか」
陸議は淡々と答えると、凌華の手から短剣を取り上げた。
「あ!」
「今日は駄目です」
「じゃあ素手!」
「はい?」
凌華が構える。
「陸議さん、勝負!」
「しません」
「なんで!」
「危ないからです」
「私、中身はいつもの私だから!」
「身体は違います」
「私、大人だから!」
「その身体では説得力がありません」
「だったら当ててみる!」
「何を言っているのです」
凌華が踏み込んだ。
その瞬間、陸議の手が伸びる。
ぽん、と掌が凌華の額へ当たった。
「…………」
凌華は腕を伸ばした。
届かない。
もう少し伸ばす。
やっぱり届かない。
「陸議さん!!」
「危ないのでやめてください」
「卑怯!」
「何がです?」
「手離して!」
「暴れないでください」
「届かない!」
「でしょうね」
「むかつく!」
『何の勝負してんだ、お前ら』
「孫策うるさい!」
凌華は陸議の腕を掴もうとする。
届かない。
ぴょん、と跳ねる。
それでも届かない。
「…………」
もう一度。
ぴょん。
「凌華」
「何!」
「危ないです」
「あとちょっと!」
「何がです?」
「陸議さんに一発入れる!」
「目的がおかしくなっています」
とうとう陸議は凌華をひょいと抱き上げた。
「また!?」
「終了です」
「降ろして!」
「嫌です」
「なんで今日だけそんな強いの!」
「今日のあなたが危なっかしいからです」
「私、大人だから!」
「先ほどからそれしか言っていませんね」
「大人なの!」
「分かりましたから暴れないでください」
「分かってない!」
少し離れた場所では、いつの間にか来ていた孫尚香が口元を押さえて笑っている。
「尚香!」
「ごめん。でも……」
「何!」
「身体が小さくなっても、陸議だけ凌華の扱い何にも変わってなくない?」
「変わってるよ! 抱っこされてる!」
「そこじゃなくて」
孫尚香は楽しそうに笑う。
「凌華が無茶して、陸議が止めてるところ」
「違う!」
「いつも通りじゃん」
「違うって!」
凌華がさらに暴れようとしたため、陸議が抱き直す。
「暴れないでください」
「降ろして!」
「嫌です」
「またそれ!」
孫尚香の笑い声が、しばらく訓練場に響いていた。
◇
午後。
結局、訓練らしい訓練は何一つさせてもらえなかった凌華は、不満を抱えたまま陸議の部屋へ来ていた。
もっとも、自分の足で最後まで歩いてきたわけではない。
「降ろして」
「部屋に着いたら降ろします」
「もう着いてる!」
「まだ廊下です」
「戸、そこ!」
「はい」
「三歩くらいじゃん!」
「ですから、すぐです」
陸議が戸を開ける。
腕の中で凌華は頬を膨らませていたが、部屋へ入ったところでようやく床へ下ろされると、乱れた衣を自分で整えた。
「もう絶対抱っこしないでね」
「状況によります」
「しないで」
「約束はできません」
「何で!?」
『お前が大人しくしてりゃいいんじゃねえか?』
壁際へ置かれた長剣から孫策の声がする。
凌華はそちらを睨んだ。
「孫策は黙ってて」
『俺は正論を言っただけだ』
「どこが」
陸議は長剣をいつもの壁際へ立てかけると、そのまま机へ向かった。
「それで、凌華」
「何?」
「部屋へ戻らなくてよいのですか?」
「いい」
「何か聞きたいことでも?」
「ない」
「読めない文字が?」
「今日はない」
「道に迷いましたか?」
「陸議さんと一緒に来たじゃん」
「では、何をしに?」
凌華は部屋の中を見回した。
見慣れた机。
積まれた書簡。
開けた窓から差し込む午後の光。
そして、自分がいつも座っている壁際。
身体が小さくなっても、その景色だけは何も変わっていない。
「休憩」
「……またですか」
「今日、色々あったんだもん」
『お前、朝から騒いでただけじゃねえか』
「孫策うるさい」
凌華はいつもの場所へ行き、壁を背にして座った。
けれど、何となく落ち着かない。
普段ならちょうどいい壁との距離も、今は妙に広く感じる。机までの距離も、窓の高さも、全部いつもとは違って見えた。
凌華は少しずつ身体の位置を変える。
右へ。
少し前へ。
また戻る。
書簡へ目を落としていた陸議が、とうとう顔を上げた。
「何をしているのです?」
「いつもの位置探してる」
「そこでは?」
「何か違う」
「身体の大きさが違うのですから当然でしょう」
「そうなんだけどさあ」
凌華は諦めて、膝を抱えた。
陸議は再び書簡へ視線を戻す。
部屋が静かになった。
筆先が紙の上を走る音。
時折、書簡をめくる乾いた音。
窓から入る風が紙の端を僅かに揺らし、遠くから訓練場の掛け声がかすかに届く。
しばらく陸議の仕事を眺めていた凌華が口を開いた。
「陸議さん」
「はい」
「暇」
「休憩に来たのでしょう」
「休憩って暇じゃん」
「では部屋へ戻っては?」
「それは嫌」
「なぜです?」
「ここがいいから」
陸議の筆先が、ほんの一瞬だけ止まった。
けれど、凌華は気づかない。
「静かだし」
「あなたが喋っているので、それほど静かではありませんが」
「ひどい」
『正しいな』
「孫策まで!」
やがて再び静けさが戻る。
朝から身体がおかしくなり、皆に見つかるたび驚かれ、笑われ、訓練をしようとすれば止められた。
いつもと同じように動こうとするたび、身体だけがついてこない。
本人が思っている以上に、疲れていた。
凌華は膝へ顎を乗せる。
少しして、陸議が書簡から目を離さないまま尋ねた。
「眠いのですか?」
「眠くない」
返事だけは早かった。
「そうですか」
「全然眠くない」
「聞いたのは一度ですが」
「ほんとだから」
『眠そうだぞ』
「眠くないって」
「私は何も言っていません」
「あ、孫策に言った」
『俺にも言わなくていい』
凌華は壁にもたれ直した。
数分後。
小さな欠伸が出る。
慌てて口を閉じる。
陸議の筆が止まった。
凌華が睨む。
「何?」
「何も」
「今見たでしょ」
「見ていません」
「絶対見た」
「眠くないのでしょう?」
「眠くない」
「そうですか」
声が僅かに笑っている気がする。
凌華はむっとして身体を起こした。
「じゃあ寝ないから」
「別に寝ても構いませんよ」
「寝ない」
「はい」
「絶対寝ない」
「分かりました」
『これ寝る奴だな』
「寝ない!」
今度は少し大きな声になった。
それからしばらく、陸議は何も言わず仕事を続けた。
凌華も黙った。
最初は膝を抱えていた。
やがて、肩が壁へ預けられる。
さらに少し経つと、頭も壁へついた。
瞼がゆっくり落ちる。
一度開く。
また落ちる。
『凌華』
「……起きてる」
『何も聞いてねえ』
「…………」
とうとう返事がなくなった。
陸議が顔を上げる。
壁際で、小さな凌華が眠っていた。
身体は壁にもたれ、首が少し不自然な角度に傾いている。
このままでは、じきに横へ倒れる。
陸議は筆を置いた。
床へ音を立てないよう立ち上がり、凌華の前へしゃがむ。
「凌華」
反応はない。
「……寝ないのでは?」
当然、返事もなかった。
陸議はそっと凌華の背へ腕を入れた。
もう片方の腕を膝の下へ回し、小さな身体を持ち上げる。
「……軽い」
思わず漏れた声は、自分にしか聞こえないほど小さかった。
朝から何度か抱き上げている。
それでも、眠って力の抜けた凌華は、さらに軽く感じた。
寝台へ運ぼうと身体の向きを変えた、その時だった。
凌華の手が動いた。
小さな指が、陸議の衣の袖を掴む。
「…………」
陸議の足が止まった。
眠ったままの凌華は、何も分かっていない。
ただ何かを求めるように、指先に少しだけ力を込めている。
陸議は一度、その手を見た。
それから凌華の寝顔を見る。
そっと指を外そうとした。
「……ん……」
凌華の眉が寄る。
掴んだ手に、さらに力が入った。
陸議の手が止まる。
『お前、捕まったな』
壁際から孫策が笑う。
もちろん陸議には聞こえない。
陸議はしばらくそのまま立っていた。
やがて諦めたように息を吐くと、凌華を寝台へ横たえ、自分もその脇へ腰を下ろした。
袖は掴ませたまま。
反対の手で近くの書簡を取る。
紙へ目を落とし、仕事を再開する。
けれど、何度か筆を進めるたび。
視線が自然と小さな手へ落ちた。
普段の凌華なら。
疲れていても「大丈夫」と言う。
眠くても「眠くない」と言う。
何かあっても、自分で何とかしようとする。
小さくなっても、そこは何も変わらなかった。
それなのに眠ってしまえば。
こうして何の警戒もなく、自分の袖を掴んでいる。
陸議は暫くその手を見つめたあと、再び書簡へ視線を戻した。
部屋には紙をめくる音と、凌華の静かな寝息が続く。
開いた窓から入った午後の風が、寝台の端へ垂れた髪を僅かに揺らした。
日が傾くにつれて、窓から差し込む光も少しずつ色を変えていく。
それでも凌華は起きなかった。
陸議の袖を掴んだまま。
見慣れた部屋で。
安心しきった顔で眠っていた。
やがて、夕暮れが近づいた頃。
「……ん」
凌華の瞼がゆっくりと動いた。
ぼんやりした視界の中で最初に見えたのは、見慣れた陸議の衣だった。
「…………」
次に、自分の手を見る。
小さい。
そして、その小さな手が陸議の袖をしっかり掴んでいる。
「…………」
凌華は完全に目を覚ました。
そっと指を開く。
陸議が書簡から顔を上げた。
「起きましたか」
「……いつから?」
「何がです?」
凌華が今まで掴んでいた袖を指さす。
「これ」
「寝てすぐからですね」
「…………」
凌華は布団へ顔を半分埋めた。
「言わないでよ」
「誰にです?」
「みんな」
「言う必要がありません」
「絶対だからね」
「はい」
『俺は知ってるけどな』
「孫策は黙ってて!」
『起きて早々元気だな』
凌華は布団から顔を出した。
そして、何となく。
もう一度自分の手を見る。
「…………あれ?」
指を開く。
閉じる。
足を見る。
腕を見る。
「…………」
朝と何も変わっていない。
凌華は勢いよく身体を起こした。
「戻ってない!」
『見りゃ分かる』
「夕方になったら戻ると思ってた!」
『何を根拠に』
「こういうのって普通、一日で戻る感じじゃん!」
『知らねえよ』
陸議も改めて凌華を見た。
朝から、身体の大きさには何一つ変化がない。
「どうやら、すぐに戻るものではないようですね」
「えぇ……」
凌華は寝台の上で肩を落とす。
今日一日だけだと思っていた。
夜になれば元に戻る。
そう考えていたからこそ、何とか笑っていられた部分もあった。
けれど。
手も小さいまま。
足も短いまま。
部屋の景色も、相変わらず高い。
凌華は少しの間、自分の手を眺めていた。
それから壁際の長剣へ視線を向ける。
長剣は、朝と同じように。
今の凌華には到底持ち上げられそうにない大きさで、そこに立っていた。
『……まあ』
孫策の声が少しだけ穏やかになる。
『戻る方法は探しゃいいだろ』
凌華は長剣を見た。
「……うん」
『とりあえず今日はもう暴れんな』
「それは別」
『別じゃねえ』
「明日は訓練する」
「しません」
横から即座に陸議が返した。
凌華が振り向く。
「陸議さん!?」
「身体が戻っていない以上、今日と同じです」
「明日は今日より慣れてる!」
「慣れた頃が一番危険です」
「何それ!」
『正論だな』
「孫策まで!」
夕暮れの部屋に、また凌華の声が響いた。
朝から何一つ、思い通りにならない一日だった。
それでも。
陸議の机も。
壁際の長剣も。
窓の外から聞こえる屋敷の音も。
そこにいる人たちも、昨日までと変わらない。
変わってしまったのは、自分の身体だけだった。
凌華は小さな手を握りしめた。
「……絶対戻ってやる」
『おう』
陸議は書簡をまとめながら、少しだけ凌華を見る。
「その前に、今日は休んでください」
「さっき寝た」
「それとこれとは別です」
「陸議さん、それ便利に使ってない?」
「使っていません」
「絶対使ってる」
いつものように言い返しながら。
凌華はまだ気づいていなかった。
この小さな身体で過ごす日々が、一日では終わらないことも。
そして。
その間に、自分の知らないところで、とんでもない噂まで生まれることも。
ただ一つ確かなのは。
夕暮れを迎えても。
凌華はまだ――小さいままだった。
――第二話へ続く。




