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三国凌華伝 ーあなたがくれた、もうひとつの時ー  作者: 隆月 アン
番外編 それでも続いていく
64/75

番外編 凌華、ちいさくなりました①


凌華が目を覚ました時、最初に感じたのは、いつもの寝台とは思えないほどの広さだった。


身体を覆っている掛け布が妙に重い。寝返りを打とうとしても、布の向こう側まで随分と距離があるような気がする。


身体を起こしてみれば、天井もいつもよりずっと遠かった。


寝起きのぼんやりした頭では、何が違うのかすぐには分からない。


「……何か変」


そう呟きながら腕を上げたところで、ようやく違和感の正体に気づいた。


寝衣の袖が、手の先を大きく越えて垂れ下がっている。


「……何これ」


袖の中でもぞもぞと腕を動かし、ようやく手を外へ出す。


その瞬間、凌華の眠気が一気に飛んだ。


「…………え?」


小さい。


どう見ても小さい。


指も掌も、見慣れた自分の手とはまるで違う。慌てて反対側も確認するが、当然のようにそちらも小さかった。


凌華が固まっていると、壁際に立てかけていた長剣から、聞き慣れた声がした。


『おい、凌華』


「……何」


『お前、その身体どうした?』


凌華の動きが止まる。


ゆっくりと長剣を見る。


「……何が?」


『何がじゃねえよ。ちっさくなってんぞ』


「…………」


孫策には凌華の姿が見えている。


だからこそ、その一言で、まだ認めたくなかった嫌な予感が一気に現実になった。


凌華は慌てて寝台から降りようとした。


いつもの感覚で足を下ろす。


けれど、床へ届かない。


「あれ」


もう少し身体をずらしたところで、重心が崩れた。


「わっ!」


掛け布ごと床へ落ちる。


幸い、布が下敷きになったため痛みはほとんどなかった。


『おい、大丈夫か!?』


「大丈夫……」


凌華は床へ座ったまま、自分の身体を見下ろした。


長すぎる寝衣。短くなった手足。そして、いつもとは明らかに違う視線の高さ。


『完全に子供じゃねえか』


「まだ決まってない!」


『何がだよ』


「何かの間違いかもしれないじゃん!」


『その身体見てまだ言うか』


「うるさい!」


凌華は裾を引きずりながら鏡の前まで歩いた。


けれど、普段なら普通に顔まで映る鏡には、頭の上の方しか見えない。


近くにあった台を引き寄せ、何とかよじ登る。


ようやく鏡に映った自分を見て、凌華は完全に黙った。


黒い髪。黒い瞳。


顔立ちそのものは自分なのに、どう見ても幼い。


小さな少女が、鏡の中からこちらを見返していた。


『…………』


孫策も黙った。


凌華は鏡を見たまま言う。


「孫策」


『何だ』


「笑ったら斬る」


『…………』


「絶対だからね」


『いや、でもよ』


「何」


『声までちっさくなってんぞ』


「笑うなって言ってるでしょ!」


『ぶはっ……ははははは!』


「孫策!!」


とうとう耐えきれなくなった孫策の笑い声が響く。


もちろん、聞こえているのは凌華だけだ。


『いや待て、何だそれ! 昨日まで普通だったじゃねえか!』


「私が知りたいよ!」


『ちっせえ!』


「今すぐ斬る!」


凌華は長剣へ駆け寄り、柄を両手で掴んだ。


いつもなら簡単に持ち上がる。そのつもりで力を込める。


「ふんっ……!」


剣はほとんど動かなかった。


「…………」


『…………』


もう一度、今度は全身の力を込める。


「んんんっ……!」


わずかに柄が浮く。


けれど剣先は床を離れない。


『ぶははははは!』


「笑うなーー!!」


『それでどうやって俺を斬るんだよ!』


「短剣ならいける!」


凌華は意地になって双短剣の方へ向かった。


一本を掴めば、どうにか持ち上げることはできた。


けれど、普段とは比べものにならないほど重い。


「……重い」


『そりゃその身体ならな』


「中身は大人だから!」


『腕は子供だ』


「うるさい!」


その時、廊下から足音が近づいてきた。


「凌華?」


聞き慣れた声だった。


凌華が振り向くより先に戸が開く。


「先ほどから随分騒がし――」


陸議の言葉が途中で止まった。


部屋の中にいる、小さな少女。


黒い髪に黒い瞳。顔立ちには確かに見覚えがある。


けれど、どう考えても昨日までの凌華とは違う。


少女と陸議の視線が合った。


しばらく、どちらも動かなかった。


先に口を開いたのは陸議だった。


「……どちら様です?」


「私!」


陸議の眉が寄る。


「……はい?」


「凌華!」


「…………」


「凌華だって!」


陸議は少女の顔をじっと見た。


『そりゃ信じねえよな』


「孫策は黙ってて!」


その言葉を聞いた瞬間、陸議の視線が長剣へ向いた。


そして、もう一度凌華へ戻る。


「今、孫策殿と話しましたか?」


「そうだよ!」


陸議はしばらく考えた後、凌華の前へしゃがんだ。


視線の高さが、ほとんど同じになる。


「確認します」


「何?」


「昨日、私が最後にあなたへ頼んだことは?」


「周瑜さんから預かった書簡を呂蒙さんに渡しておくこと」


「その前は?」


「勝手に机の書簡触るなって怒られた」


「怒ってはいません」


「怒ってた」


「注意しただけです」


「一緒じゃん」


『本人だな』


「でしょ!?」


陸議は額へ手を当てた。


「……確かに凌華ですね」


「だから最初から言ってる!」


「なぜ、このような姿に?」


「分かんない。起きたらこうなってた」


陸議の表情が少し真面目になる。


「昨日、何か変わったことは?」


「変わったこと?」


「食べた物でも、触れた物でも」


凌華は少し考えた。


そして、視線を逸らす。


「…………」


「凌華」


「……市場で変な飾り触った」


陸議は静かに目を閉じた。


「また妙な物に触ったのですか」


「またって言わないでよ」


「市場へ行くたび、よく分からない物へ手を伸ばしているでしょう」


「珍しかったんだもん」


「それを止めてくださいと言っているんです」


市場で見慣れない物があれば触ってみる。変わった形の道具があれば手に取る。妙な装飾品が置かれていれば近づく。


それ自体は、凌華にとって珍しいことではない。


けれど身体が小さくなったことなど、今まで一度もなかった。


凌華は自分の小さな手を見る。


「……これ、妖術?」


陸議もすぐには否定しなかった。


理屈で説明できる現象ではない。


「可能性はありますね」


「こんな物理的に変な事、初めてなんだけど」


「普通は一度も巻き込まれません」


「そういう言い方やめて」


「事実です」


陸議は立ち上がる。


「とりあえず周瑜殿に相談しましょう」


「うん」


凌華も歩き出そうとした。


ところが、一歩目で長すぎる寝衣の裾を踏んだ。


「わっ!」


倒れる寸前で、陸議の手が凌華の腕を掴む。


「危ない」


「…………」


『完全に子供だな』


「孫策、聞こえてるからね」


『知ってる』


このままではまともに歩けないため、事情を詳しく伏せたまま侍女へ頼み、身体に合う小さな衣を用意してもらった。


着替えを終えた凌華は、鏡に映る自分を見て何とも言えない顔をした。


「……なんか腹立つ」


「なぜです?」


「似合ってるのが腹立つ」


陸議の口元が、ほんの僅かに緩んだ。


凌華はすぐに見逃さなかった。


「今笑った?」


「笑っていません」


『笑いそうだったぞ』


「ほら!」


「孫策殿の言葉を都合よく証拠にしないでください」


「孫策には私も陸議さんも見えてるんだから分かるもん」


『そうだぞ』


「孫策うるさい!」


陸議は小さく息を吐き、先に歩き始めた。


「行きましょう」


「うん」


凌華も後を追う。


ところが、すぐに別の問題が出た。


歩幅が違う。


陸議が普段通りに歩けば、小さくなった凌華はほとんど小走りにならなければ追いつけない。


「陸議さん、待って」


振り返った陸議が凌華の足元を見る。


「……すみません」


今度は明らかに歩調を落とした。


凌華は少し不満そうに陸議を見上げる。


「子供扱いしないで」


「していません」


「してる」


「歩幅を合わせているだけです」


「私、大人だからね」


「知っています」


廊下の段差へ差しかかる。


凌華が足を上げた瞬間、陸議の手が反射的に伸びた。


凌華がその手を見る。


「今、手出したよね?」


「転ぶかと思いました」


「子供扱いしてる!」


「先ほど実際に転びかけたでしょう」


「あれは服のせい!」


「今は着替えています」


「…………」


『負けてるぞ』


「うるさい!」


それでも歩き続けているうちに、凌華の足取りが少しずつ遅くなった。


本人は平気そうな顔をしている。


けれど陸議には分かったらしい。


ふいに足を止めた。


「凌華」


「何?」


「失礼します」


「え?」


次の瞬間、身体がふわりと浮いた。


「!? 陸議さん!?」


気づけば凌華は、陸議の腕の中にいた。


「この方が早いです」


「歩ける!」


「歩けることと、時間がかからないことは別です」


「私、大人だから!」


「身体はそうではありません」


「降ろして!」


『ははははは!』


「孫策も笑うな!」


そんな状態の時に限って、会いたくない相手ほど現れる。


「おう、陸議」


廊下の向こうから甘寧が歩いてきた。


凌華が固まり、陸議も足を止め、甘寧も止まった。


まず陸議を見る。


次に、その腕の中にいる小さな少女を見る。


そして、もう一度陸議を見る。


「……陸議」


「違います」


「俺まだ何も言ってねえぞ」


「先に否定しておきます」


「いや、お前……」


甘寧が凌華を見る。


「いつの間に子供いたんだ?」


「だから違います」


「私だから!」


甘寧の顔が止まる。


「……誰だ?」


「凌華!!」


「…………」


「凌華!」


数秒の沈黙のあと、甘寧の肩が震え始めた。


「……ぶっ」


「笑うな!!」


「ぶはははははは!!」


「甘寧!!」


「お前……っ、何だそれ! どうした!?」


「知らないよ!」


「ちっさ!」


「言うな!」


「声までちっせえ!」


「声の大きさは変わってない!」


「いや、そうじゃなくてよ!」


甘寧が腹を抱えて笑う。


「陸議! お前何で普通に抱いてんだよ!」


「歩かせるより早いので」


「降ろしてって言ってる!」


「駄目です」


「なんで!?」


「先ほど転びかけました」


「だから服のせいだって!」


その時、長剣から楽しそうな声が響いた。


『こいつ、朝の俺より笑ってんな』


「ほんとそれ!」


甘寧の笑いが一瞬止まる。


「……何が?」


「あ」


「今、誰と喋った?」


「何でもない!」


「いや、今完全に誰かに返事しただろ」


「独り言!」


「会話になってたぞ」


「気のせい!」


甘寧には、剣に宿る孫策のことは話していない。


この状況で、さらに説明することを増やすのだけは絶対に嫌だった。


「陸議」


甘寧が助けを求めるように見る。


「私を見ないでください」


「こいつ、前からたまに変だと思ってたんだけどよ」


「元々です」


「陸議さん!?」


そこへ、別の足音が近づいてきた。


「朝から何の騒ぎだ」


呂蒙だった。


こちらを見て、足を止める。


凌華は、もう説明するのも面倒になって先に言った。


「私です」


「…………」


「凌華です」


「…………本当に?」


「本当に!」


さらに、その後ろから落ち着いた声がした。


「随分と賑やかだな」


周瑜まで現れた。


周瑜は目の前の状況を順番に見た。


凌華を抱いている陸議。その腕の中にいる小さな少女。まだ笑っている甘寧。困惑している呂蒙。


そして、もう一度、小さな少女へ視線を戻す。


しばらく沈黙したあと、周瑜は凌華の前へ来た。


「凌華」


「はい」


「昨日、私がお前に頼んだ件は?」


凌華は間を置かず答えた。


「城外から届いた報告を三つに分けて、陸議さんに渡すものと呂蒙さんに渡すもの、それから周瑜さんが直接見るものに分ける」


「その通りだ」


周瑜はあっさりと立ち上がった。


「本人だな」


「それで納得すんのかよ!」


甘寧が思わず突っ込む。


「他に説明がつかん」


呂蒙も腕を組みながら凌華を眺めた。


「妖術だろうな」


「多分」


「身体だけ幼くなったのか?」


「その言い方も嫌」


「じゃあ何て言やいいんだよ」


「知らない!」


周瑜の口元が、笑いを堪えるようにほんの僅かに緩んだ。


「原因に心当たりは?」


「市場で変な物に触ったかも」


「またか」


「陸議さんと同じこと言わないで!」


「またなのだから仕方ないだろう」


正論だった。


市場で見慣れない物を見つけるたび、何の警戒もなく触ってしまうこと自体は珍しくない。


凌華は言い返せず、陸議の腕の中で少しだけ視線を逸らした。


その騒ぎを聞きつけたのか、今度は孫尚香が駆けてきた。


「何? 何かあったの?」


そう言いながら廊下を曲がり、陸議の腕の中を見た瞬間、足が止まる。


「…………」


凌華は嫌な予感しかしなかった。


「尚香」


返事がない。


「尚香?」


孫尚香が一歩近づく。


そして。


「……かわいい」


「やめて!」


「凌華!?」


「そうだよ!」


「えっ、ほんとに!?」


孫尚香は一気に距離を詰めた。


「ちょっと、よく見せて!」


「嫌!」


「かわいい!」


「だからやめてって!」


「何で!?」


「私だから!」


「凌華だからかわいいんでしょ!」


「意味分かんない!」


凌華が陸議の腕の中で逃げようとするたび、孫尚香も反対側へ回る。


その様子を見ていた甘寧が再び笑い始め、呂蒙まで肩を震わせた。


そこへ、さらに孫権まで現れた。


「何を騒いでいる」


状況を確認するように視線を巡らせ、最後に凌華へ目を止める。


凌華は即座に警戒した。


「……言わないで」


「まだ何も言っていない」


「絶対何か言おうとしてる」


孫権はしばらく凌華を見たあと、静かに言った。


「……可愛いな」


「言った!!」


甘寧がまた吹き出す。


孫尚香は「でしょ!」と嬉しそうに頷いた。


「孫権まで!」


「事実を言っただけだ」


孫権が頭へ手を伸ばそうとする。


凌華は即座に避けた。


「子供扱い禁止!」


「中身は凌華なのだったな」


「そう!」


「だが見た目は――」


「それ以上言ったら怒る!」


「すでに怒っているだろう」


長剣から楽しそうな声が響く。


『権、もっと言え』


「孫策は黙って!」


孫権の表情が僅かに変わり、長剣を見る。


「兄上が何か言ったのか?」


「余計なこと」


「そうか」


一方、甘寧だけは怪訝そうに凌華を見た。


「……やっぱ今、誰かと喋ってるだろ」


「喋ってない」


「喋ってるだろ」


「喋ってない!」


周瑜が静かに割って入った。


「甘寧。今は凌華を元へ戻す方法を探す方が先だ」


「いや、それはそうだけどよ」


「先だ」


「……分かったよ」


凌華は内心で、周瑜へ少しだけ感謝した。


けれど。


身体を元へ戻す方法が、すぐに見つかるわけではなかった。


昼になっても、凌華は小さなままだった。


周瑜が調べても、すぐに原因が分かるようなものではない。体調に異変はなく、記憶にも問題はない。ただ身体だけが幼くなっている。


そうなると、凌華は何もせず待っていることに耐えられなくなった。


だからこそ、いつも通り訓練をしようと考えた。


訓練場へ向かったところで、入口にいた陸議へ止められる。


「どこへ?」


「訓練」


「休んでください」


「なんで?」


「その身体で何をするつもりです?」


「いつも通り」


「長剣を持てなかったのでしょう」


「…………」


長剣から、すかさず孫策の声が飛んでくる。


『言われてんぞ』


「短剣なら使える」


凌華は短剣を一本持つ。


持ち上がるには持ち上がった。


ただし、両手で。


「…………」


陸議が黙って見ている。


「何?」


「何も」


「今笑いそうになった?」


「なっていません」


『なってたぞ』


「ほら!」


「孫策殿」


『何だ?』


「余計なことを言わないよう伝えてください」


「孫策、余計なこと言わないでって」


『嫌だ』


「嫌だって」


「そうですか」


陸議は淡々と答えると、凌華の手から短剣を取り上げた。


「あ!」


「今日は駄目です」


「じゃあ素手!」


「はい?」


凌華が構える。


「陸議さん、勝負!」


「しません」


「なんで!」


「危ないからです」


「私、中身はいつもの私だから!」


「身体は違います」


「私、大人だから!」


「その身体では説得力がありません」


「だったら当ててみる!」


「何を言っているのです」


凌華が踏み込んだ。


その瞬間、陸議の手が伸びる。


ぽん、と掌が凌華の額へ当たった。


「…………」


凌華は腕を伸ばした。


届かない。


もう少し伸ばす。


やっぱり届かない。


「陸議さん!!」


「危ないのでやめてください」


「卑怯!」


「何がです?」


「手離して!」


「暴れないでください」


「届かない!」


「でしょうね」


「むかつく!」


『何の勝負してんだ、お前ら』


「孫策うるさい!」


凌華は陸議の腕を掴もうとする。


届かない。


ぴょん、と跳ねる。


それでも届かない。


「…………」


もう一度。


ぴょん。


「凌華」


「何!」


「危ないです」


「あとちょっと!」


「何がです?」


「陸議さんに一発入れる!」


「目的がおかしくなっています」


とうとう陸議は凌華をひょいと抱き上げた。


「また!?」


「終了です」


「降ろして!」


「嫌です」


「なんで今日だけそんな強いの!」


「今日のあなたが危なっかしいからです」


「私、大人だから!」


「先ほどからそれしか言っていませんね」


「大人なの!」


「分かりましたから暴れないでください」


「分かってない!」


少し離れた場所では、いつの間にか来ていた孫尚香が口元を押さえて笑っている。


「尚香!」


「ごめん。でも……」


「何!」


「身体が小さくなっても、陸議だけ凌華の扱い何にも変わってなくない?」


「変わってるよ! 抱っこされてる!」


「そこじゃなくて」


孫尚香は楽しそうに笑う。


「凌華が無茶して、陸議が止めてるところ」


「違う!」


「いつも通りじゃん」


「違うって!」


凌華がさらに暴れようとしたため、陸議が抱き直す。


「暴れないでください」


「降ろして!」


「嫌です」


「またそれ!」


孫尚香の笑い声が、しばらく訓練場に響いていた。


◇


午後。


結局、訓練らしい訓練は何一つさせてもらえなかった凌華は、不満を抱えたまま陸議の部屋へ来ていた。


もっとも、自分の足で最後まで歩いてきたわけではない。


「降ろして」


「部屋に着いたら降ろします」


「もう着いてる!」


「まだ廊下です」


「戸、そこ!」


「はい」


「三歩くらいじゃん!」


「ですから、すぐです」


陸議が戸を開ける。


腕の中で凌華は頬を膨らませていたが、部屋へ入ったところでようやく床へ下ろされると、乱れた衣を自分で整えた。


「もう絶対抱っこしないでね」


「状況によります」


「しないで」


「約束はできません」


「何で!?」


『お前が大人しくしてりゃいいんじゃねえか?』


壁際へ置かれた長剣から孫策の声がする。


凌華はそちらを睨んだ。


「孫策は黙ってて」


『俺は正論を言っただけだ』


「どこが」


陸議は長剣をいつもの壁際へ立てかけると、そのまま机へ向かった。


「それで、凌華」


「何?」


「部屋へ戻らなくてよいのですか?」


「いい」


「何か聞きたいことでも?」


「ない」


「読めない文字が?」


「今日はない」


「道に迷いましたか?」


「陸議さんと一緒に来たじゃん」


「では、何をしに?」


凌華は部屋の中を見回した。


見慣れた机。


積まれた書簡。


開けた窓から差し込む午後の光。


そして、自分がいつも座っている壁際。


身体が小さくなっても、その景色だけは何も変わっていない。


「休憩」


「……またですか」


「今日、色々あったんだもん」


『お前、朝から騒いでただけじゃねえか』


「孫策うるさい」


凌華はいつもの場所へ行き、壁を背にして座った。


けれど、何となく落ち着かない。


普段ならちょうどいい壁との距離も、今は妙に広く感じる。机までの距離も、窓の高さも、全部いつもとは違って見えた。


凌華は少しずつ身体の位置を変える。


右へ。


少し前へ。


また戻る。


書簡へ目を落としていた陸議が、とうとう顔を上げた。


「何をしているのです?」


「いつもの位置探してる」


「そこでは?」


「何か違う」


「身体の大きさが違うのですから当然でしょう」


「そうなんだけどさあ」


凌華は諦めて、膝を抱えた。


陸議は再び書簡へ視線を戻す。


部屋が静かになった。


筆先が紙の上を走る音。


時折、書簡をめくる乾いた音。


窓から入る風が紙の端を僅かに揺らし、遠くから訓練場の掛け声がかすかに届く。


しばらく陸議の仕事を眺めていた凌華が口を開いた。


「陸議さん」


「はい」


「暇」


「休憩に来たのでしょう」


「休憩って暇じゃん」


「では部屋へ戻っては?」


「それは嫌」


「なぜです?」


「ここがいいから」


陸議の筆先が、ほんの一瞬だけ止まった。


けれど、凌華は気づかない。


「静かだし」


「あなたが喋っているので、それほど静かではありませんが」


「ひどい」


『正しいな』


「孫策まで!」


やがて再び静けさが戻る。


朝から身体がおかしくなり、皆に見つかるたび驚かれ、笑われ、訓練をしようとすれば止められた。


いつもと同じように動こうとするたび、身体だけがついてこない。


本人が思っている以上に、疲れていた。


凌華は膝へ顎を乗せる。


少しして、陸議が書簡から目を離さないまま尋ねた。


「眠いのですか?」


「眠くない」


返事だけは早かった。


「そうですか」


「全然眠くない」


「聞いたのは一度ですが」


「ほんとだから」


『眠そうだぞ』


「眠くないって」


「私は何も言っていません」


「あ、孫策に言った」


『俺にも言わなくていい』


凌華は壁にもたれ直した。


数分後。


小さな欠伸が出る。


慌てて口を閉じる。


陸議の筆が止まった。


凌華が睨む。


「何?」


「何も」


「今見たでしょ」


「見ていません」


「絶対見た」


「眠くないのでしょう?」


「眠くない」


「そうですか」


声が僅かに笑っている気がする。


凌華はむっとして身体を起こした。


「じゃあ寝ないから」


「別に寝ても構いませんよ」


「寝ない」


「はい」


「絶対寝ない」


「分かりました」


『これ寝る奴だな』


「寝ない!」


今度は少し大きな声になった。


それからしばらく、陸議は何も言わず仕事を続けた。


凌華も黙った。


最初は膝を抱えていた。


やがて、肩が壁へ預けられる。


さらに少し経つと、頭も壁へついた。


瞼がゆっくり落ちる。


一度開く。


また落ちる。


『凌華』


「……起きてる」


『何も聞いてねえ』


「…………」


とうとう返事がなくなった。


陸議が顔を上げる。


壁際で、小さな凌華が眠っていた。


身体は壁にもたれ、首が少し不自然な角度に傾いている。


このままでは、じきに横へ倒れる。


陸議は筆を置いた。


床へ音を立てないよう立ち上がり、凌華の前へしゃがむ。


「凌華」


反応はない。


「……寝ないのでは?」


当然、返事もなかった。


陸議はそっと凌華の背へ腕を入れた。


もう片方の腕を膝の下へ回し、小さな身体を持ち上げる。


「……軽い」


思わず漏れた声は、自分にしか聞こえないほど小さかった。


朝から何度か抱き上げている。


それでも、眠って力の抜けた凌華は、さらに軽く感じた。


寝台へ運ぼうと身体の向きを変えた、その時だった。


凌華の手が動いた。


小さな指が、陸議の衣の袖を掴む。


「…………」


陸議の足が止まった。


眠ったままの凌華は、何も分かっていない。


ただ何かを求めるように、指先に少しだけ力を込めている。


陸議は一度、その手を見た。


それから凌華の寝顔を見る。


そっと指を外そうとした。


「……ん……」


凌華の眉が寄る。


掴んだ手に、さらに力が入った。


陸議の手が止まる。


『お前、捕まったな』


壁際から孫策が笑う。


もちろん陸議には聞こえない。


陸議はしばらくそのまま立っていた。


やがて諦めたように息を吐くと、凌華を寝台へ横たえ、自分もその脇へ腰を下ろした。


袖は掴ませたまま。


反対の手で近くの書簡を取る。


紙へ目を落とし、仕事を再開する。


けれど、何度か筆を進めるたび。


視線が自然と小さな手へ落ちた。


普段の凌華なら。


疲れていても「大丈夫」と言う。


眠くても「眠くない」と言う。


何かあっても、自分で何とかしようとする。


小さくなっても、そこは何も変わらなかった。


それなのに眠ってしまえば。


こうして何の警戒もなく、自分の袖を掴んでいる。


陸議は暫くその手を見つめたあと、再び書簡へ視線を戻した。


部屋には紙をめくる音と、凌華の静かな寝息が続く。


開いた窓から入った午後の風が、寝台の端へ垂れた髪を僅かに揺らした。


日が傾くにつれて、窓から差し込む光も少しずつ色を変えていく。


それでも凌華は起きなかった。


陸議の袖を掴んだまま。


見慣れた部屋で。


安心しきった顔で眠っていた。


やがて、夕暮れが近づいた頃。


「……ん」


凌華の瞼がゆっくりと動いた。


ぼんやりした視界の中で最初に見えたのは、見慣れた陸議の衣だった。


「…………」


次に、自分の手を見る。


小さい。


そして、その小さな手が陸議の袖をしっかり掴んでいる。


「…………」


凌華は完全に目を覚ました。


そっと指を開く。


陸議が書簡から顔を上げた。


「起きましたか」


「……いつから?」


「何がです?」


凌華が今まで掴んでいた袖を指さす。


「これ」


「寝てすぐからですね」


「…………」


凌華は布団へ顔を半分埋めた。


「言わないでよ」


「誰にです?」


「みんな」


「言う必要がありません」


「絶対だからね」


「はい」


『俺は知ってるけどな』


「孫策は黙ってて!」


『起きて早々元気だな』


凌華は布団から顔を出した。


そして、何となく。


もう一度自分の手を見る。


「…………あれ?」


指を開く。


閉じる。


足を見る。


腕を見る。


「…………」


朝と何も変わっていない。


凌華は勢いよく身体を起こした。


「戻ってない!」


『見りゃ分かる』


「夕方になったら戻ると思ってた!」


『何を根拠に』


「こういうのって普通、一日で戻る感じじゃん!」


『知らねえよ』


陸議も改めて凌華を見た。


朝から、身体の大きさには何一つ変化がない。


「どうやら、すぐに戻るものではないようですね」


「えぇ……」


凌華は寝台の上で肩を落とす。


今日一日だけだと思っていた。


夜になれば元に戻る。


そう考えていたからこそ、何とか笑っていられた部分もあった。


けれど。


手も小さいまま。


足も短いまま。


部屋の景色も、相変わらず高い。


凌華は少しの間、自分の手を眺めていた。


それから壁際の長剣へ視線を向ける。


長剣は、朝と同じように。


今の凌華には到底持ち上げられそうにない大きさで、そこに立っていた。


『……まあ』


孫策の声が少しだけ穏やかになる。


『戻る方法は探しゃいいだろ』


凌華は長剣を見た。


「……うん」


『とりあえず今日はもう暴れんな』


「それは別」


『別じゃねえ』


「明日は訓練する」


「しません」


横から即座に陸議が返した。


凌華が振り向く。


「陸議さん!?」


「身体が戻っていない以上、今日と同じです」


「明日は今日より慣れてる!」


「慣れた頃が一番危険です」


「何それ!」


『正論だな』


「孫策まで!」


夕暮れの部屋に、また凌華の声が響いた。


朝から何一つ、思い通りにならない一日だった。


それでも。


陸議の机も。


壁際の長剣も。


窓の外から聞こえる屋敷の音も。


そこにいる人たちも、昨日までと変わらない。


変わってしまったのは、自分の身体だけだった。


凌華は小さな手を握りしめた。


「……絶対戻ってやる」


『おう』


陸議は書簡をまとめながら、少しだけ凌華を見る。


「その前に、今日は休んでください」


「さっき寝た」


「それとこれとは別です」


「陸議さん、それ便利に使ってない?」


「使っていません」


「絶対使ってる」


いつものように言い返しながら。


凌華はまだ気づいていなかった。


この小さな身体で過ごす日々が、一日では終わらないことも。


そして。


その間に、自分の知らないところで、とんでもない噂まで生まれることも。


ただ一つ確かなのは。


夕暮れを迎えても。


凌華はまだ――小さいままだった。


――第二話へ続く。

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