番外編 陸議さんの心の中
始まりは、何でもない朝だった。
「おはよう、陸議さん」
返事を待つより先に戸を開けると、陸議はすでに机へ向かい、朝から届いたらしい書簡に目を通していた。
最近では、凌華がこうして何の用もなく部屋へ現れることも珍しくない。陸議の方もいちいち理由を尋ねなくなり、凌華も「暇だから」とだけ言って勝手に壁際へ座る。
「おはようございます、凌華」
いつもの返事が返ってきた。
その直後だった。
『今日も来た』
「…………」
戸口で凌華の足が止まった。
今、何か聞こえた。
しかも声には聞き覚えがある。
「凌華?」
書簡から顔を上げた陸議は、戸口で固まっている凌華を不思議そうに見ている。
「……今、何か言った?」
「おはようございます、と」
「その後」
「その後?」
「今日も何とかって」
「何も言っていませんが」
陸議は本当に心当たりがないらしい。
凌華はしばらく彼を見つめたものの、聞き間違いだったのかもしれないと思い直し、首を傾げながらいつもの壁際へ向かった。
「ここ座っていい?」
「どうぞ」
腰を下ろした、その直後。
『どうせ少ししたら寝るのでしょう』
「寝ないけど!?」
陸議の筆が止まった。
凌華も止まった。
部屋に妙な沈黙が落ちる。
「……何の話です?」
「…………」
今度は間違いない。
はっきり聞こえた。
「今、私が寝るって言ったよね?」
「言っていません」
「言った」
「言っていません」
「聞こえたもん」
「私は何も――」
『今日は朝から妙ですね』
「妙って何!」
陸議が完全に黙った。
凌華も口を閉じる。
けれど、その沈黙の中でも、先ほどと同じ陸議の声が確かに聞こえてきた。
『熱でもあるのでしょうか』
「ないよ!」
「…………」
今度こそ、陸議の眉間に皺が寄った。
「なぜ今、熱の話を?」
「だって陸議さんが――」
そこまで言って、凌華はようやく気づいた。
聞こえてくる声そのものは、確かに陸議だ。
けれど、そのたびに彼の口元は一度も動いていない。
凌華は少しずつ目を見開いた。
「……まさか」
「何がです?」
「陸議さん」
「はい」
「ちょっと何か考えてみて」
「……?」
「何でもいいから」
「なぜです」
「いいから!」
陸議はますます怪訝そうな顔をした。
『何を考えればよいのでしょう』
「……聞こえた」
「何がです?」
凌華は慌てて口を閉じた。
どうやら、本当に聞こえている。
陸議が口にしていない言葉が。
『今度は黙りましたね。本当にどうしたのでしょう』
やはり聞こえる。
間違いない。
凌華は前日のことを思い返した。
町へ出た時、露店の片隅に珍しい模様の刻まれた古い飾りが置かれていた。店主に勧められて手に取り、少し眺めただけで結局買わなかったものだ。
あの時はただの古い細工物だと思っていたが、この時代へ来てからというもの、時折どう考えても理屈では説明できないことに巻き込まれている。
妖術。
そう考えてしまえば、むしろ納得できる自分が少し嫌だった。
『また妙なことに巻き込まれていなければよいのですが』
「…………」
凌華は陸議を見た。
「何です?」
「何でもない」
『怪しい』
凌華はすぐに視線を逸らした。
とりあえず、もう少しだけ黙っていよう。
せっかくなら。
少しくらい、この状況を確かめてみてもいい。
◇ ◇ ◇
最初のうちは、純粋に面白かった。
「陸議さん」
「はい」
凌華が机の横まで近づく。
「今日忙しい?」
「少し」
『近いですね』
「手伝おうか?」
「大丈夫です」
『近い』
凌華は思わず陸議を見た。
「何です?」
「いや……」
邪魔なのかと思って、一歩だけ離れてみる。
するとすぐに、
『……なぜ離れたのでしょう』
と聞こえた。
凌華の眉が寄る。
「どっちなの」
「何がです?」
「……何でもない」
近ければ近いと思う。
離れれば、なぜ離れたと思う。
自分でも意味が分からなくなってきて、凌華はしばらく陸議を見つめた。
「陸議さんって、面倒くさいね」
「突然何です?」
『何の話です?』
「何でもない」
けれど、段々と楽しくなってきた。
凌華はさっき離れた分だけ、もう一度近づいてみる。
『また近づいた』
さらに一歩。
『……今日はどうしたのでしょう』
凌華の口元が少しずつ緩む。
「陸議さん」
「はい」
「私、邪魔?」
「いいえ」
『邪魔ではありません』
「じゃあ、ここにいていい?」
「構いませんよ」
『むしろ――』
そこで声が途切れた。
凌華は待った。
続きが聞こえてくると思ったのだが、何もない。
思わず口が先に動いた。
「……むしろ何?」
陸議の動きが止まる。
「何の話です?」
凌華も固まった。
「あ」
しまった。
「いや、何でもない!」
「今、むしろ何、と言いましたね」
「言ってない!」
「言いました」
「忘れて!」
『今のは偶然でしょうか』
凌華は慌てて机から離れた。
『やはり妙ですね』
危ない。
いくら面白くても、このままではすぐにばれる。
そう思いながらも、普段はほとんど表へ出てこない陸議の思考が聞こえるという状況は、やはり新鮮だった。
陸議は普段から必要以上のことをあまり口にしない。
黙って書簡を読んでいる時など、本当に何も考えていないように見えることすらある。
けれど実際には、
『筆先が少し割れてきましたね』
『この書簡は周瑜殿へ先に回した方がよいか』
『凌華は今日は寝ないのでしょうか』
と、途切れることなく色々なことを考えている。
最後の一つが妙に気になって、凌華は思わず口を挟んだ。
「今日は寝ないよ」
陸議が顔を上げる。
「?」
「あ」
またやった。
「……何でもない」
陸議は明らかに怪しんでいたが、凌華は誤魔化すように壁際へ戻った。
それにしても。
なぜそんなに、自分が寝るかどうかを気にしているのだろう。
◇ ◇ ◇
昼過ぎ。
訓練場で呂蒙との打ち合いを終えた凌華は、息を整えながら長剣を下ろした。
「今日はここまでだ」
「ありがとうございました」
額の汗を袖で拭い、剣を持ち直した時、右の掌に小さな痛みが走った。
「……っ」
見れば、握り続けた場所の皮が少し裂けている。
血もほとんど出ていない。
この程度なら放っておいても問題ないだろうと、そのまま手を閉じた。
「凌華」
呼ばれて振り返る。
少し離れたところに陸議が立っていた。
「何?」
「右手を見せてください」
「え?」
「先ほどから握り方がおかしい」
凌華は自分の手を見る。
そこまで見ていたのか。
「平気だよ」
『また隠しましたね』
凌華の表情が僅かに固まる。
「凌華」
「本当に大したことないから」
「あなたの大したことないは、あまり信用していません」
『痛いのでしょう』
「痛くない」
『嘘ですね』
「嘘じゃない」
陸議が黙った。
凌華も遅れて気づく。
「……私はまだ何も言っていませんが」
「あ」
横で見ていた呂蒙が二人を交互に見た。
「さっきから何の話してんだ?」
「何でもないです!」
「凌華が朝から妙なのです」
「陸議さん!」
「事実でしょう」
結局、逃げ切れずに傷を見せることになった。
陸議は凌華の手を取り、裂けた部分を確かめる。
「これくらいなら平気でしょ?」
「傷そのものは小さいですね」
「ほら」
「ですが、手当てはします」
「しなくても――」
「します」
『放っておけば、そのまままた剣を握るでしょう』
凌華は何も言えなくなった。
陸議は布で掌についた汚れを拭い、薬を塗っていく。
「ちょっと沁みる」
「我慢してください」
「これくらい平気」
『平気なら、今なぜ指が動いたのです』
凌華は黙った。
自分では痛みを隠せているつもりだった。
声にも出していない。
顔にも出さなかったつもりだ。
けれど陸議は、何も言われなくても気づいていた。
『もう少し、自分を大事にしてくれればいいのに』
凌華の表情が止まった。
今度は、反射的に返事をしそうになって、それを飲み込んだ。
「凌華?」
陸議が顔を上げる。
「……何?」
「痛みますか?」
「ううん」
「では、なぜそのような顔を?」
「何でもない」
凌華は手当てをする陸議の手元へ視線を落とした。
口にしている言葉だけなら、いつもの陸議だ。
無理をするな。
傷は手当てしろ。
何度も言われている。
けれど、その言葉の奥では、自分が思っていた以上に細かく凌華のことを見ているらしい。
そのことが分かると、胸の奥に何とも言えない感覚が残った。
「はい。終わりました」
「ありがとう」
「今日はもう、その手で無理をしないでください」
「分かった」
『本当に分かったのでしょうか』
「分かってるよ」
「…………」
凌華は自分で口を押さえた。
またやった。
陸議の目が細くなる。
「凌華」
「はい」
「やはり、朝から何かおかしいですね」
「気のせい!」
そう言い残して、凌華は逃げるようにその場を離れた。
◇ ◇ ◇
午後。
凌華は再び陸議の部屋へ顔を出した。
「陸議さん」
「何です?」
「町行かない?」
「何をしに?」
「ちょっと買いたいものがある」
「一人では行けないのですか?」
「行けるけど」
凌華は少しだけ考えた。
「一緒に行こうよ」
陸議が一瞬黙る。
その表情だけなら、いつもと変わらない。
けれど。
『行きたい』
凌華が瞬きをした。
「……構いません」
表に出た返事は、それだけだった。
凌華は陸議をじっと見る。
「何です?」
「行きたいんだ」
陸議の目が僅かに細くなる。
「凌華」
「あ」
言ってから気づいた。
「なぜ今、その言葉が出たのです?」
「…………」
「私は『構いません』と言いました」
逃げ道がない。
『まさか』
陸議の思考が、明らかにこちらへ向いた。
『朝からの妙な反応は――』
凌華は一歩後退した。
「陸議さん」
「はい」
「町行こう」
「話を逸らさないでください」
「早く行かないと店閉まるよ!」
「まだ昼です」
「いいから行こう!」
凌華は逃げるように部屋を出た。
◇ ◇ ◇
町へ向かう途中。
陸議はほとんど喋らなかった。
いや。
正確には、口に出していないだけではない。
あれほど聞こえていた心の声まで、突然静かになっていた。
凌華は隣を歩きながら、何度も横目で様子を見る。
何も聞こえない。
「陸議さん」
「何です?」
「何か考えてる?」
「考えています」
「……聞こえない」
陸議の足が止まった。
凌華もつられて立ち止まる。
「やはり」
「…………」
「聞こえているのですね」
逃げられなかった。
「私が考えていることが」
凌華は観念して、小さく頷いた。
「……はい」
陸議は目を閉じ、長く息を吐いた。
「いつからです?」
「朝」
「最初から?」
「うん」
しばらく沈黙が続く。
「ごめん」
「……あなたが望んでしたことではないのでしょう」
「うん」
「なら、それは仕方ありません」
怒られると思っていた凌華は、少しだけ安堵した。
けれど、それから完全に何も聞こえなくなった。
「……陸議さん」
「何です?」
「何も聞こえない」
「聞かせないようにしています」
「そんなことできるの!?」
「できるようですね」
「どうやって!?」
「余計なことを考えなければいいだけです」
「余計なことって何!?」
「聞かれたくないことです」
「それが気になるんだけど!」
「知りません」
腰の長剣から感心したような声が飛ぶ。
『やるな、陸議』
「孫策が感心してる」
「ありがとうございます、と伝えてください」
「余裕だな!」
二人は再び歩き始めた。
けれど、今度は凌華の方が落ち着かない。
「陸議さん」
「何です?」
「今日、一緒に町行きたかった?」
「今、一緒に歩いているでしょう」
「そうじゃなくて」
「では何です?」
「誘われて嬉しかった?」
陸議は黙った。
心の中も、静かなままだ。
「ずるい」
「何がです?」
「心閉じてる」
「当然です」
「朝は聞こえてたのに」
「朝は聞かれていると知りませんでしたから」
「じゃあ、油断したらまた聞こえる?」
「…………」
「ねえ」
「凌華」
「何?」
「楽しんでいませんか?」
「ちょっと」
陸議が小さく息を吐く。
その瞬間。
『困った人だ』
「聞こえた!」
陸議が止まった。
「今聞こえた!」
「忘れてください」
「『困った人だ』って!」
「凌華」
「やっぱり完全には止められないんだ」
「…………」
陸議は心底困ったような顔をした。
凌華は思わず笑った。
少し歩いてから。
「でも」
「何です?」
「一緒に来てくれてありがとう」
「……いえ」
ほんの僅かな間を置いて。
『私も来たかったので』
凌華は黙った。
今度は、聞こえたことを言わなかった。
ただ、少しだけ口元を緩めて、そのまま隣を歩いた。
◇ ◇ ◇
帰り道には、町が夕陽に染まっていた。
凌華は隣を歩く陸議を何度か横目で見た。
そのたびに陸議も気づいているらしく、とうとう向こうから尋ねてくる。
「先ほどから何度も見ていますが、何です?」
「何でもない」
「そうは見えません」
凌華は少し迷った後、前を向いたまま口を開いた。
「陸議さんって、結構いろんなこと考えてるんだね」
「誰でもそうでしょう」
「そうなんだけど」
凌華は今日一日のことを思い返した。
「私が怪我したとか」
「はい」
「寝そうとか」
「はい」
「近いとか」
陸議が黙る。
凌華はその反応がおかしくて、少し笑った。
「思ってたより、私のことよく見てるんだなって」
『それを本人が言うのですか』
「ほら」
陸議の表情が固まる。
「何がです?」
「また聞こえた」
「…………」
「今、私が言うのかって思ったでしょ」
陸議はしばらく黙った末、視線を前へ戻した。
「知りません」
「何で?」
「教えません」
「気になる」
「あなたも大概ですよ」
「何が?」
陸議は答えなかった。
けれど、一瞬だけ。
『あなたも、私のことを随分見ているでしょう』
という声が聞こえた。
凌華の足が僅かに遅れる。
それ以上の言葉は続かなかった。
陸議も何事もなかったように歩いている。
凌華はすぐに追いつき、もう一度その横顔を見た。
「……そうかな」
「何がです?」
「何でもない」
今度は聞かなかった。
◇ ◇ ◇
夜。
二人が陸議の部屋へ戻る頃には、朝から続いていた妙な感覚も随分弱くなっていた。
「まだ聞こえますか?」
「ちょっと待って」
凌華は陸議を見る。
「何か考えてみて」
「またですか」
「確認だって」
陸議は呆れたようにしながらも、しばらく黙った。
何も聞こえない。
「……どうです?」
「聞こえない」
「そうですか」
「終わったみたい」
凌華は自分の耳へ触れながら、少しだけ不思議な顔をした。
「何です?」
「いや」
「残念そうですね」
「ちょっと」
「なぜです?」
「急に静かになったから」
「それが普通です」
「分かってるけど、朝からずっと聞こえてたから変な感じ」
陸議は小さく息を吐いた。
「私はようやく安心しました」
「そんなに嫌だった?」
「嫌というより、考えていることをすべて知られるというのは、落ち着かないものです」
凌華もさすがにそれは理解できる。
「……まあ、そうだよね」
「分かっていただけましたか」
「うん。ごめん」
「あなたが望んでしたことではないでしょう」
「でも途中から面白がってた」
「それは知っています」
凌華が目を丸くする。
「バレてた?」
「顔に出ていました」
「…………」
思わず笑ってしまう。
それから少しだけ迷って。
「陸議さん」
「はい」
「今日一日聞いてて思ったんだけど」
陸議の表情が僅かに警戒した。
「……何でしょう」
「陸議さんって、口に出してるより優しいね」
陸議が黙る。
「あと、思ってたより私のこと見てる」
「それはあなたが分かりやすいだけです」
「またそれ」
「事実です」
「でもさ」
凌華は少し笑った。
「怪我とか、歩き方とか、寝そうとか。私が何も言ってないのに分かってたでしょ」
「普段から見ていれば分かります」
何でもないことのように返される。
けれど、今日一日その言葉の裏側まで聞いてしまった凌華には、以前とは少し違って聞こえた。
「……ありがと」
陸議の目が僅かに揺れた。
今、何を考えたのだろう。
ほんの少し気になった。
けれど、もう聞こえない。
それでいいのだと思う。
「じゃあ帰るね」
「はい」
凌華が長剣を持ったところで、孫策の声が響いた。
『おい』
「何?」
『お前が言うな』
「何が?」
『陸議がお前をよく見てるって話だ』
凌華は眉を寄せる。
「だって本当じゃん」
『お前も相当見てるぞ』
「見てない」
『見てる』
「見てない!」
『じゃあ、あいつが機嫌悪い時に何で分かるんだよ』
凌華の動きが止まる。
『仕事してる時の顔も、疲れてる時も、説明しようとしてる時も、だいたい分かるだろ』
「…………」
『どっちもどっちだ』
「うるさい」
陸議がこちらを見る。
「孫策殿は何と?」
「言わない」
「なぜです?」
「絶対言わない」
「気になりますね」
「駄目」
「今日一日、私が考えていることを聞いていた人が言いますか?」
「それは妖術!」
「途中から楽しんでいたのでしょう?」
「…………」
「凌華?」
「帰る!」
凌華は逃げるように戸へ向かった。
『図星か』
「孫策!」
勢いよく戸を開け、振り返る。
「おやすみ、陸議さん!」
「はい。おやすみなさい」
戸が閉じた。
廊下を遠ざかっていく足音が、やがて聞こえなくなる。
静かになった部屋で、陸議はしばらく閉じた戸を見ていた。
それから小さく息を吐き、机へ視線を戻す。
もう、何を考えても凌華には聞こえない。
そのことに安心したはずなのに、妙に静かになった気もする。
そして誰にも聞かれることのない心の中に、ふと一つだけ言葉が浮かんだ。
――明日も来るでしょうか。
当然。
その声を凌華が聞くことはなかった。
◇ ◇ ◇
翌朝。
「おはよう、陸議さん」
昨日と何も変わらない声とともに戸が開いた。
陸議が顔を上げる。
「おはようございます、凌華」
凌華は部屋へ入るなり、じっと陸議を見つめた。
「……何です?」
「本当にもう聞こえない」
「当然です」
「何か考えてみて」
「嫌です」
「いいじゃん」
「昨日で十分でしょう」
「ちょっとだけ」
「嫌です」
「けち」
「何とでも言ってください」
凌華は不満そうな顔をしながら、いつもの壁際へ向かった。
腰を下ろし。
しばらく陸議の仕事を眺め。
やがてそのまま身体を横にする。
陸議は書簡から顔を上げた。
「凌華」
「何?」
「寝るのですか?」
「うん」
「…………」
凌華が薄く目を開ける。
「何?」
「いえ」
「今、何考えた?」
「教えません」
「気になる!」
「昨日まで聞けたのですから、もう十分でしょう」
「昨日は勝手に聞こえただけだもん!」
「同じことです」
『諦めろ』
「孫策はどっちの味方なの!」
陸議は書簡へ視線を戻した。
凌華は不満そうにしながらも、すぐに目を閉じる。
「おやすみ」
「はい」
しばらくすると、本当に寝息が聞こえ始めた。
陸議は筆を動かしながら、少しだけ顔を上げる。
いつもの場所で。
いつものように。
無防備に眠っている凌華がいる。
昨日なら。
今浮かんだ言葉も、きっと聞かれていたのだろう。
けれど今日は、もう聞こえない。
だから陸議は安心して書簡へ視線を戻しながら、心の中だけで呟いた。
――やはり、今日も寝るのですね。
その口元には、ほんの僅かに笑みが浮かんでいた。
ーー了




