番外編 三部作IF 追いかけなかった世界線
番外編 三部作でのIFストーリーです
陸議が少しきつく当たってしまった所から
第一部から第三部まで先に読んでいただけると嬉しいです
扉が閉まったあとも、陸議はしばらく動けなかった。
机の上には読みかけの書簡が残されていて、ほんの少し前まで凌華はその向かいに座っていた。いつものように何の前触れもなく現れ、「暇」と言って勝手に椅子へ座り、仕事の邪魔になるようなことを次々と聞いてきた。普段なら少し呆れながら適当にあしらい、それでも追い返すことはなかった。
けれど、今日は違った。
兵と楽しそうに話している凌華を見てから胸の奥に残っていたものを、うまく処理できないまま本人へぶつけてしまった。
「あなたには関係ありません。何でもないと言っているでしょう」
思い返せば、自分でも嫌になるほど冷たい声だった。その言葉を受けた瞬間、凌華の表情が変わったことにも気づいていた。
「……ごめん。もう帰る」
凌華は、それ以上何も聞かなかった。
いつもなら、少しくらい強く言っても言い返してくる。「何でそんな言い方するの」と怒るかもしれないし、「絶対何かあるじゃん」と食い下がることもある。けれど、あの時は違った。ただ一歩引くようにして、それ以上こちらへ踏み込まなかった。
それが、ひどく気になった。
陸議は一度、立ち上がりかけた。今ならまだ追いつける。呼び止めて、先ほどの言い方は悪かったと謝り、あなたが邪魔だったわけではないと伝えればいい。
そこまで考えたところで、足が止まった。
では、何を説明するのか。
なぜ自分があんな態度を取ったのかと聞かれたら、自分でもどこまで言えばよいのか分からない。中途半端に追いかけて、また凌華を困らせるくらいなら、少し時間を置いた方がいい。
そう思った。
いや。
そう思うことにした。
陸議は再び椅子へ座ったが、その日、目の前にある書簡の内容はほとんど頭に入らなかった。
◇ ◇ ◇
翌日。
凌華は来なかった。
毎日必ず来るわけではない。だから陸議も、特に気にしていないふりをした。
さらに翌日も来なかった。
三日目も、やはり来ない。
その頃になってようやく、陸議は何となく落ち着かなくなっていた。それでも、自分から探しには行かなかった。
忙しいのかもしれない。
尚香殿と一緒なのかもしれない。
呂蒙殿のところで訓練をしている可能性もある。
理由はいくらでも考えられた。
ただ、以前ならそのどれかが終われば、何となく現れた。用事があってもなくても、「陸議さん」と呼んで、当然のように部屋へ入ってきた。
それがない。
ただそれだけのことなのに、妙に部屋が広く感じられた。
◇ ◇ ◇
四日目。
廊下の向こうから凌華が歩いてくるのが見え、陸議は足を止めた。
凌華もこちらに気づき、一瞬だけ目が合う。
以前なら、そのまま真っ直ぐこちらへ来ただろう。
けれど凌華は、ほんの少しだけ歩調を緩めた。
「……陸議さん」
「凌華」
声は普通だった。
表情も笑っている。
それなのに、何かが違った。
「どこ行くの?」
「周瑜殿のところです。あなたは?」
「尚香のところ」
「そうですか」
「うん。じゃあまたね」
凌華は小さく笑い、そのまま陸議の横を通り過ぎた。
追いかけてはこない。
何かを聞いてもこない。
書簡を見せて「これ分かんない」と差し出してくることもない。
陸議はその背中を見送った。呼び止めようとしたものの、結局その名は口から出なかった。
◇ ◇ ◇
それから凌華は、少しずつ変わった。
大きく変わったわけではないため、周囲から見ればほとんど分からなかっただろう。尚香とは今まで通り笑い、呂蒙には遠慮なく文句を言い、周瑜には怒られながらも何だかんだで言い返す。剣の孫策とも、相変わらず喧嘩していた。
ただ。
陸議に対してだけ、ほんの少しずつ距離ができた。
以前なら分からない書簡を持って、そのまま部屋へ入ってきた。今は戸の外で一度止まり、「陸議さん、今いい?」と聞くようになった。
空いている椅子へ勝手に座ることもなくなり、「ここ座っていい?」と確認する。
仕事中でも横から覗き込み、「これ何? こっちは?」と次々尋ねていたのに、今は一つだけ聞けば、「ありがとう。じゃあ戻るね」と言って帰っていく。
そのたびに陸議は、何かを少しずつ失っているような気がした。
◇ ◇ ◇
ある日、凌華が書簡を持ってきた。
「陸議さん、ちょっとだけ聞いていい?」
「もちろんです」
以前なら、そんな前置きなどなかった。
凌華は陸議の机へ書簡を置いた。
「ここ、意味これで合ってる?」
「ええ。ですが、この部分は――」
陸議が説明すると、凌華は静かに聞いていた。
「分かった。ありがとう」
書簡を持ち直し、そのまま離れようとする。
陸議は思わず尋ねた。
「……もういいのですか? 他には?」
「大丈夫。じゃあ仕事戻って」
その言葉に、陸議の口から反射的に声が出た。
「待ってください」
凌華が振り返る。
「何?」
陸議は一瞬、言葉に詰まった。
何を言うつもりだったのだろう。
もう少しいてください。
以前のように、何もなくても来てほしい。
そんなことを今さら言えるはずもなかった。
「……いえ。何でもありません」
「そっか。じゃあまたね」
凌華は笑って部屋を出ていった。
――またね。
その言葉が、以前よりずっと遠く聞こえた。
◇ ◇ ◇
凌華の方も、自分が変わったことには気づいていた。
けれど、それでいいと思っていた。
夜、一人で歩いていると、腰の長剣から孫策の声がした。
『お前、最近あいつんとこ行かねえな』
「行ってるよ」
『用事ある時だけだろ。前は暇でも行ってた』
凌華は少し黙った。
「……仕事の邪魔だったんだよ」
『そうは言ってねえだろ』
「でも」
あの日の声が、まだ耳に残っている。
――何でもないと言っているでしょう。
――あなたには関係ありません。
陸議は、怒る時でも理由を言う人だと思っていた。
駄目なら駄目。
危ないなら危ない。
違うなら違う。
だから理由も分からないまま冷たくされることなど、ないと思っていた。
「私さ、ちょっと甘えてたのかも」
『誰に』
「陸議さんに」
孫策は黙った。
凌華は歩きながら、少しだけ笑った。
「何しても大丈夫って思ってた。勝手に入っても、変なこと言っても、分かんないって何回聞いても……陸議さんならちゃんと受け止めてくれるって」
いつの間にか、それが当たり前になっていた。
「でも、そんなわけないよね。陸議さんにも都合あるし、嫌な日だってあるし……私が迷惑な日も、あるよ」
『お前は迷惑じゃねえだろ』
「分かんないじゃん。私はこの時代のこと、まだ全然分かんないし、距離感とかも違うのかもしれない」
『そこまで考えることか?』
「分かんない。でも、私って元々ここにいた人じゃないし」
孫策が何も言わなくなる。
「勝手に来ただけじゃん」
『勝手に来たわけじゃねえだろ』
「でも……誰にも選ばれたわけじゃないし、自分で選んだわけでもない。突然、この時代へ落ちただけ」
それでも、みんなが受け入れてくれた。
孫策が娘にしてくれて、尚香が隣にいてくれた。呂蒙が鍛え、周瑜が叱り、陸議はずっと側にいてくれた。
だからいつの間にか、最初の頃の自分を忘れていた。
「……私、一人だったんだよね」
『凌華』
「最初は」
そう言い直した。
けれど、口にした瞬間、なぜかその言葉が今のことのように聞こえた。
凌華は足を止める。
胸の奥が少し苦しくなる。
『今は違う。お前は一人じゃねえ』
「うん。分かってる」
そう答えた。
けれど、その夜はなかなか眠れなかった。
◇ ◇ ◇
そこから凌華は、少しずつ一人でできることを増やした。
文字を調べ、道を覚え、分からないことがあってもすぐには誰かへ聞かなくなった。訓練で転んでも「痛い」と言わず、「平気」「大丈夫」と答える。
最初のうちは、誰もそれを悪い変化だとは思わなかった。
呂蒙は「根性ついたな」と笑い、周瑜は「ようやく少しは自分で考えるようになったか」と受け取った。尚香も「最近しっかりしたね」と笑った。
ただ、剣の孫策だけは違った。
訓練を終え、一人になったところで声が飛んでくる。
『おい。足』
「何が」
『痛ぇだろ』
「ちょっとだけ」
『ちょっとじゃねえ。呂蒙に言え』
「もう終わったからいい」
『医者』
「そこまでじゃない」
『凌華。最近のお前、全部それだろ。痛くても平気、分かんなくても自分でやる、困ってても大丈夫。何なんだよ、それ』
凌華は黙った。
「別に。できること増えただけじゃん」
『違う。前のお前は、できねえことをできねえって言ってた。今は言わねえ』
「それが成長なんじゃない?」
『頼らなくなることがか?』
凌華は答えなかった。
しばらくして、小さく言う。
「……いつまでも何でも人に聞いてたら駄目じゃん」
『誰がそんなこと言った』
「誰も言ってないよ」
『だったら――』
「誰も言わないから、自分で分かんなきゃいけないんでしょ」
孫策が黙った。
凌華も、自分で言ってから少しだけ胸が痛んだ。
◇ ◇ ◇
その頃には、凌華を知る者も増えていた。
廊下を歩けば、兵たちの視線を感じる。
「あれが凌華様だ」
「孫策殿の娘の」
「呂蒙殿から直接教えを受けているらしい」
「周瑜殿にも目をかけられているとか」
そこに悪意はない。
むしろ羨望や尊敬、好奇心。
それだけだった。
だからこそ、凌華には余計に苦しかった。
自分は、そんな人間ではない。
剣はまだ弱い。
弓は当たらない。
料理もできない。
文字だって、まだ全部は読めない。
それなのに「孫策の娘」「特別な人」と見られる。
知らない人とすれ違うたび、無意識に背筋を伸ばして笑い、きちんと挨拶をする。そして部屋へ戻った瞬間、大きく息を吐いた。
「…………疲れた」
『何もしてねえだろ』
「何もしてないから疲れるんだよ」
『意味分かんねえ』
「私も分かんない」
そのまま寝台へ倒れ込む。
誰かに会えば「大丈夫?」と聞かれる。
尚香。
呂蒙。
時々、周瑜。
みんな自分を見ている。
心配している。
優しい。
その優しさが、今の凌華には少し苦しかった。
「……見ないでほしい」
『何を』
「私のこと」
『無理だろ』
「分かってる」
『だったら――』
「分かってるって」
凌華は腕で目を覆った。
少しだけ、静かなところへ行きたかった。
誰にも「大丈夫?」と聞かれないところ。
凌華様とも、孫策の娘とも呼ばれないところ。
ただの知らない女として歩ける場所へ。
◇ ◇ ◇
数日後。
凌華は周瑜のところへ行った。
「周瑜さん」
書簡から顔を上げた周瑜が、凌華を見る。
「何だ」
「お願いがある」
その言い方に、周瑜は手を止めた。
凌華が何かを頼む時は、たいていもっと軽い。
今日は違う。
「言ってみろ」
凌華は少し迷ってから口を開いた。
「旅行したい」
周瑜が瞬く。
「……旅行? どこへ」
「まだ決めてない」
「何日だ」
「それも決めてない」
「目的は」
「ない。だから旅行。どっか行きたい」
少しだけ、いつもの調子で笑った。
周瑜はしばらく凌華を見る。
「尚香は?」
「連れてかない」
「護衛は?」
「いらない」
「それは許可できない」
「じゃあ最低限でいい。行き先も決めてないけど、我儘なのは分かってる。でも……行きたい」
凌華は少し目を伏せた。
本来なら、許さないところだった。
行き先も期間も決めず、ましてや凌華一人。
普通なら理由を聞く。
何があった。
誰かと揉めたのか。
何から逃げようとしている。
けれど周瑜は、ここしばらくの凌華を見ていた。
笑う。
答える。
言われたことをやる。
以前より真面目になった。
以前より迷惑をかけなくなった。
そして以前よりずっと、息苦しそうだった。
一度、それとなく聞いたことがある。
「何か困っているなら言え」
その時、凌華は笑って「何もないよ」と答えた。
そこで周瑜は気づいた。
今の凌華には、こちらから投げる言葉が届かない。正しいことを言えば言うほど、凌華は「分かってる」と言って自分を追い込む。
ならばせめて、本人が初めて口にした我儘くらいは叶えてやるべきなのかもしれない。
「……三日だ」
凌華が顔を上げる。
「え?」
「まず三日。あまり遠くへは行くな。宿は人のいる場所を使え。剣を持って、無茶はするな。それから三日で戻れ」
「……いいの?」
「ああ」
凌華は少しだけ笑った。
ここ数日の中では、一番自然な笑顔だった。
周瑜は、その笑顔を見て、許可したことは間違っていなかったのだとその時は思った。
◇ ◇ ◇
出発の日。
まだ空が白む前に、凌華は一人で起きた。
荷物は少ない。
着替え。
少しの金。
食料と水。
防犯のため、双短剣は衣服の下へ隠した。
そして机の上には、長剣が置かれていた。
いつも腰にある剣。
孫策の魂が宿った剣。
『おい。何で俺置いてんだ』
「旅行だから」
『だから持ってくだろ普通』
「重い」
『お前毎日持ってんだろ』
「今日はいい」
『凌華。お前、何考えてる』
凌華の手が止まった。
「別に」
『またそれか』
「本当に」
剣を見る。
『持ってけ』
「嫌」
『何で』
凌華はしばらく黙った。
『俺に聞かれたくねえのか』
「一人になりたいの」
『俺は邪魔か』
「違う」
『じゃあ持ってけ』
「孫策がいたら、一人じゃないから」
『一人じゃなくていいだろ』
「今は嫌なの」
『何でだよ』
「分かんないよ!」
思ったより大きな声が出て、凌華は慌てて口を閉じた。
まだ皆が寝ている。
「……ごめん」
『謝んな』
「少しだけだから。何にも考えないでいたい」
孫策は何も言わなかった。
凌華は立ち上がる。
「孫策がいるとさ、ずっと心配するじゃん」
『当たり前だろ』
「それが今、ちょっと苦しい」
また、沈黙が落ちる。
「三日で帰るから」
『待て』
「大丈夫」
『その言葉で行くな。大丈夫じゃねえ時に、お前それ言うだろ』
凌華は少しだけ泣きそうな顔をした。
「……行ってきます」
『凌華!』
そのまま、部屋を出た。
◇ ◇ ◇
同じ朝。
陸議はいつもより早く目を覚ました。
昨日、呂蒙から言われた言葉が残っていた。
「凌華、最近何かあったか? 謝ってばかりいるし、体調が悪くても大丈夫だと言う」
その話を聞いてから、ようやく陸議は自分の中を整理した。
あの日、なぜ凌華にあんな態度を取ったのか。
答えは、もう分かっている。
嫉妬していた。
兵と楽しそうに話す凌華を見て、面白くなかった。その感情を、一番ぶつけてはいけない相手へ向けた。
凌華は何も悪くなかった。
むしろ甘えていたのは、自分の方だった。
多少冷たくしても、また来る。
また笑う。
また「陸議さん」と呼ぶ。
どこかで、そう思っていた。
謝らなければならない。
そして、きちんと伝えようと思った。
以前のように、何もない時でも来てほしい。
迷惑ではない。
むしろ来なくなって、寂しかった。
今日、凌華が旅へ出る前に言おう。
そう決めて、陸議は凌華の部屋へ向かった。
「凌華」
返事がない。
「起きていますか」
沈黙。
嫌な予感がした。
「入りますよ」
戸を開ける。
部屋は空だった。
最低限の荷物だけがなくなっている。
そして机の上には、長剣があった。
陸議の呼吸が止まった。
「……なぜ」
凌華がこれを置いている。
あり得ない。
それは、ただの武器ではない。
孫策だ。
凌華にとって家族であり、誰にも言えないことまで知っている存在。
それを置いていった。
その瞬間、陸議はあの日と同じことをしてはいけないと思った。
後で話せばいい。
少し時間を置けばいい。
そんなことを、二度と思ってはいけない。
陸議は長剣を掴むと、そのまま部屋を飛び出した。
◇ ◇ ◇
凌華はゆっくり歩いていた。
急ぐ理由はない。どこへ行くかも決めていない。ただ少しだけ、遠くへ離れたかった。
道を進むほど、孫家が遠くなっていく。
尚香。呂蒙。周瑜。孫権。剣の孫策。そして陸議。
みんなの顔が浮かぶたびに胸が少し痛んだ。それでも足は止めなかった。
「……ちょっとだけ。ちょっとだけだから」
誰に言うでもなく呟く。
今日は返事がない。
いつもなら何か言い返してくる声がないことに、歩き始めてから何度も気づかされていた。
無意識に腰へ手を伸ばす。
何もない。
そのたびに胸の奥へ、小さな穴が開いたような感覚が残る。それでも凌華は歩き続けた。
すると背後から、誰かが走ってくる足音が聞こえた。
最初は気のせいかと思った。
けれど、その音はだんだん近づいてくる。
そして。
「――凌華!」
身体が固まった。
聞き間違えるはずがない。
ゆっくり振り返ると、朝靄の向こうから陸議が走ってきていた。息を切らし、普段なら決して見せないほど乱れた姿で、その腰には凌華が置いてきたはずの長剣がある。
「……陸議さん?」
どうして。
そう聞こうとしたが、声がうまく出なかった。
陸議は凌華の前まで来ると、しばらく息を整え、それから真っ直ぐ凌華を見た。
「……私が悪かった。最初にあなたを突き放したのは私です。あの日、あなたが他の兵と楽しそうに話していることに、私は勝手に苛立ちました。自分でもその感情をうまく処理できず、そのままあなたへぶつけた。あなたは何も悪くありません」
凌華の表情が僅かに動いた。
「……陸議さん」
「あなたが踏み込み過ぎたわけでも、迷惑だったわけでもない。むしろ……来なくなって、寂しかった。だから――」
「違うよ」
凌華が遮った。
陸議は黙る。
「違う。陸議さんだけじゃない。最初はそうだったかもしれない。陸議さんに冷たくされて、私、迷惑だったのかなって思った。勝手に部屋入って、仕事してるのに話しかけて、分かんないって何回も聞いて」
「凌華、それは――」
「分かってる! 分かってるよ! 今は違うって! 陸議さんがそういうつもりじゃなかったって、今聞いたから分かった!」
凌華の声が初めて強くなる。
目に涙が浮かぶ。
「でも、もうそれだけじゃないの!」
陸議は何も言わなかった。
凌華は胸の前で手を握ったまま、抑えていたものを一気に吐き出すように続けた。
「私、ここでも迷惑かけてる。呂蒙さんには何回も訓練止めさせてるし、尚香には心配かける。周瑜さんにも怒られてばっかり。知らない兵まで私のこと知ってて、『あれが凌華様だ』『孫策の娘だ』って、すごい人みたいに見られて!」
首を振る。
「私、そんなんじゃない! 剣だって全然強くないし、弓なんて全然当たらない。料理もできない。孫策の娘なのに、何にもできない!」
涙が落ちる。
陸議は、ただ聞いていた。
「娘ならちゃんとしなきゃって思うのに、知らない人に見られたらちゃんと笑わなきゃって思うし、孫策の娘なんだからって……婚姻だって嫌!」
陸議の表情が僅かに変わる。
「知らない人と結婚なんかしたくない! 孫策の娘なら仕方ないとか、家のためとか、そんなの嫌! 私、そんな覚悟してここに来てない! 勝手に来ただけなのに、気づいたら孫策の娘になって、みんな優しくしてくれて、戦って、期待されて……でも私、何にもできないのに!」
陸議が一歩近づこうとした。
凌華は反射的に一歩下がる。
「来ないで! 陸議さんにも迷惑かける!」
「かけていません」
「かけてる!」
「私はそう思っていません」
「でも私は思うの!」
凌華は頭を抱えるように両手を上げる。
「もう分かんない!」
陸議は息を呑んだ。
そして。
「……帰りたい」
小さな声だった。
「何と?」
「帰りたい。元の世界に帰りたい!」
今度は、はっきりと聞こえた。
初めて凌華が、陸議の前で声を荒らげた。
「もう嫌! 知らない人に見られるのも、誰かに期待されるのも、心配されるのも、ちゃんとしなきゃって思うのも、全部嫌!」
「凌華」
「帰りたい!」
「ですが――」
「分かってるよ! 帰れないの分かってる! 私、元の世界ではもう死んでるんでしょ!」
陸議の胸が強く痛んだ。
「資料展でテロに巻き込まれて、死んで、それでここに来たんでしょ! 帰る場所なんてない!」
「凌華」
「だから……一人にしてよ!」
悲鳴のような声が道へ響いた。
静寂が落ちる。
凌華は何度も息を吸い、肩を大きく上下させていた。
「お願いだから、今だけ誰にも見られたくない。誰にも心配されたくない。何にも考えたくない。だから……一人にして」
陸議はしばらく凌華を見ていた。
それから。
「嫌です」
凌華が目を見開く。
「……え?」
「嫌です」
「何で」
「あなたを一人にはしません」
「今、一人になりたいって言ってるじゃん!」
「分かっています」
「じゃあ!」
「それでも嫌です」
「何なの!」
「勝手なのは分かっています。ですが、あなたがここを離れたいのなら、離れればいい。今すぐ戻れとは言いません。旅を続けてください」
凌華が瞬く。
「……何言ってるの」
「私も行きます」
「は?」
涙が一瞬止まった。
「何で陸議さんが」
「あなたを一人にしないためです」
「だから一人がいいって!」
「それは聞きました」
「じゃあ聞いてよ!」
「聞いた上で断っています」
「何それ!」
陸議は少しだけ、いつもの表情に戻った。
「私にも我儘を言わせてください。あなたが我儘を言って旅へ出るなら、私も我儘を言ってついて行きます」
凌華は何も言えなくなった。
その時、視線が陸議の腰元へ落ちる。
見慣れた長剣。
「……それ」
陸議も視線を落とした。
「はい」
「何で持ってきたの」
「あなたの部屋に置いてありましたから」
「置いてきたの! だから私、一人になりたかったから!」
「知っています」
「じゃあ何で!」
「これはあなたの剣でしょう」
「今はいらない!」
「孫策殿でもある」
凌華の手が止まった。
「あなたが置いていったのを見て、私はおかしいと思いました。あなたがどこへ行くにしても、これだけは持っていくと思っていたからです」
凌華は黙った。
腰の長剣から、当然のように声が飛んでくる。
『凌華! お前ふざけんなよ!』
凌華は顔をしかめた。
「……うるさい」
「何か言っていますか」
「めちゃくちゃ怒ってる」
『当たり前だろ!』
「連れてこなくてよかったのに」
「私はそう思いません」
「陸議さんには聞こえないから分かんないでしょ」
「ええ。だからこそ、連れてきました。聞こえない私でも分かることがあります。あなたにとって、これはただの剣ではない。置いていけるものではないはずです」
凌華の顔が少し歪んだ。
『その通りだ馬鹿』
「孫策うるさい」
『聞け!』
「やだ」
「かなり怒っているのですね」
「陸議さんのせいだからね」
「構いません」
陸議は剣へ軽く手を添えた。
「あなたと一緒に行くなら、孫策殿も一緒です。そして私も行きます。この剣も持って行きます。あなたが一人になりたいと言っても、今のあなたを一人にはしません」
凌華の目に、また涙が溜まった。
「……勝手。本当に勝手」
「はい。承知しています」
「私の旅行なのに」
「では、私は勝手について行くことにします」
凌華は泣きながら、少しだけ呆れたように笑った。
◇ ◇ ◇
結局、凌華は戻らなかった。
陸議も、戻れとは言わなかった。
「旅行は続けるから」
「分かりました」
それだけだった。
ただ、陸議は帰らない。剣の孫策も、陸議が持ったままだ。
「本当に勝手についてくるんだ」
「そう言ったでしょう」
「陸議さん、仕事は?」
一瞬、陸議が黙る。
凌華の目が細くなった。
「……置いてきたの?」
「最低限は片付いています」
「それ絶対片付いてないやつじゃん」
「戻れば処理します」
「戻ればって。私、三日で帰るってまだ決めてないよ」
陸議は凌華を見る。
「構いません」
『俺もな』
腰の長剣から孫策の声がする。
凌華は顔をしかめた。
「二人とも本当に面倒くさい」
『お前に言われたくねえ』
◇ ◇ ◇
夕方、小さな町へ着いた。
そこでは誰も凌華を知らず、すれ違う人々も何も言わない。孫策の娘とも、凌華様とも呼ばれず、ただ旅装の若い女が歩いているだけだった。
それだけのことが、凌華には少し楽だった。
「……ここにしよっかな。今日はここでいい?」
通り沿いの宿を指す。
「私は構いません」
二人で中へ入り、凌華が宿主へ尋ねた。
「二人、泊まれます?」
「空いてるよ」
凌華が荷物から金を出そうとした、その横で陸議が妙な動きを始めた。
懐へ手を入れ、袖を探り、腰元を確認し、また懐へ戻る。
凌華が眉を寄せる。
「何してるの」
陸議は答えない。
しばらく見て、凌華は気づいた。
「……陸議さん。もしかして、お金持ってない?」
沈黙。
『は?』
孫策の声まで重なる。
陸議は非常に言いにくそうな顔をした。
「……持っていません」
「え? 一文も?」
「……はい」
「何で?!」
「急いでいたので」
「普通、旅に出るならお金いるでしょ!」
「旅に出るつもりはありませんでした」
「じゃあ何しに来たの!」
「あなたを追いかけに」
即答だった。
凌華が止まる。
陸議も、言ってから少し黙った。
「ですから、その後のことまでは……考えていませんでした」
最後まで言わなくても十分伝わった。
凌華は何とも言えない顔をする。
その間に陸議は、身につけている小さな飾りへ手を伸ばした。
「……これなら、売れば多少にはなるでしょう。宿代くらいには」
「何してんの。やめて! 私払うから!」
凌華が慌てて陸議の手を押さえた。
「ですが」
「いいから!」
「あなたの旅なのに」
「じゃあ野宿するの?」
「私は構いません」
「私が構う!」
陸議が黙った。
凌華はため息をつき、
「二人分お願いします」
と金を払った。
宿主は二人を交互に見て、なぜか少しだけ笑った。
「一部屋でいいだろ」
「え?」
凌華が顔を上げる。
「いや、二部屋――」
「今空いてんの一部屋だけなんだ」
「さっき空いてるって」
「一部屋は空いてる」
「……」
確かに二部屋あるかとは聞かなかった。
凌華は少し考えてから肩を落とした。
「……いいよ。寝るだけでしょ」
宿主が木札を渡す。
「二階の一番奥。仲良くな」
「違います」
「違います」
陸議と凌華の声が、ほとんど同時に重なった。
宿主はただ笑っていた。
◇ ◇ ◇
部屋へ入ると、しばらく二人とも無言だった。
寝台は一つ。
床へ敷く寝具が一組。
「陸議さん床ね」
「そのつもりです」
「即答」
凌華は荷物を下ろし、衣服の下へ隠していた双短剣を確認した。
陸議が気づく。
「持っていたのですね」
「ああ。さすがに丸腰では来ないよ。一人旅するつもりだったんだから、その辺はちゃんと考えてる」
「安心しました」
陸議は部屋の隅へ、ほとんどない荷物を置いた。
凌華が改めて見る。
「……本当に何も持ってないね。着替えは?」
「ありません」
「食べ物は?」
「ありません」
「お金は」
「ありません」
「それはさっき知った」
凌華は呆然と陸議を見た。
「……本当に何も考えずに追いかけてきたの?」
陸議は少し黙った。
「正確には、考える時間がありませんでした」
凌華の表情から、少しずつからかう色が消えていく。
「あなたの部屋へ行った時、これだけが残っていました」
陸議は長剣を見る。
「あなたがこの剣を置いて出ていくとは思わなかった。それを見た瞬間、間に合わないかもしれないと思いました」
凌華の指が僅かに動く。
「何に」
「分かりません。何に間に合わないのかも。ただ、あの日と同じことをしたら駄目だと思った」
凌華は動かなかった。
「あの日、あなたが帰ると言った時、私は追いかけませんでした。追えばよかった。追って、言い過ぎたと謝って、あなたが迷惑なのではないと、その時に言えばよかった。でも今日これを見た時、また後で話せばいいとは思えなかった。だから……金のことまでは忘れていました」
凌華はしばらく何も言えなかった。
陸議が慌てる。
それ自体、ほとんど見たことがない。
何をするにも一度考え、先を読み、必要なものを揃えてから動く人だと思っていた。
その陸議が、金も着替えも何も持たず、剣一本を抱えて自分を追いかけてきた。
「……馬鹿じゃん」
ぽつりと言った。
「そうかもしれません」
「陸議さんがそんなことするとは思わなかった」
「私もです」
「自分でも?」
「ええ」
凌華は膝へ視線を落とした。
まだ戻りたいとは思わない。
孫家へ、すぐ帰れるとも思わない。
けれど陸議が、自分を迷惑だと思っていたわけではない。
それだけは、少し信じてもいい気がした。
◇ ◇ ◇
翌朝。
二人は宿の一階で朝食を取っていた。
粥と野菜、それに少しの漬物。
しばらく食べたあと、陸議が口を開いた。
「今日はどうしますか」
凌華が顔を上げる。
「今日?」
「はい」
「……何するんだろ」
「私に聞かれても」
「だよね」
陸議は少し考える。
「市があります。見に行きますか」
「……別に」
「少し離れたところに古い寺もあるそうです」
「ふうん」
「行きますか」
「……別に」
「川沿いは景色がいいと聞きました。そちらは?」
「うーん」
どれも、いまひとつ心が動かない。
陸議もそれに気づいた。
「何かしたいことはありませんか」
凌華は箸を止めた。
「したいこと?」
「せっかく旅行に来たのでしょう。あなたのしたいようにすればいい」
凌華はしばらく動かなかった。
「……したいように。何でも?」
「危険なことでなければ」
「そこは止めるんだ」
「当然です」
少しだけ笑う。
そして凌華は考えた。
何がしたい。
何を見たい。
どこへ行きたい。
何が欲しい。
けれど、何も出てこなかった。
「……分かんない」
「何がですか」
「したいこと。何も思いつかない」
自分でも驚いた。
「私、この世界で何したいんだろ」
陸議は答えなかった。
凌華も答えを求めてはいなかった。
ただ初めて考えた。
剣を習ったのは、生きるためだった。
文字を覚えたのは、ここで困らないため。
礼儀も、孫策の娘になったから必要だった。
全部、この世界で生きるために必要だからやったことだった。
「……私さ、こっち来てから必要なことしかしてないかも」
「必要なこと?」
「剣は死なないため。文字は困らないため。礼儀は孫策の娘だから。全部、私がやりたかったからじゃない」
陸議は少し考える。
「剣は嫌いですか」
「嫌いじゃないよ」
「文字は?」
「読めるようになるの嬉しい」
「なら――」
「でも、好きだから始めたわけじゃないんだよ」
そこで陸議は、ようやく凌華が言いたいことを理解したらしい。
少し間を置いて尋ねる。
「では、何が好きなのですか」
凌華が止まった。
「……私?」
「あなた以外に誰がいるのです」
「いや……」
また考える。
未来にいた頃は何をしていたっけ。
大学に通って友達笑ってくだらない話して。
授業が退屈だとか課題が多いとか文句言って。
卒業論文…。
ふと、顔を上げた。
「……三国志」
陸議が瞬く。
「何ですか」
「私、卒論、三国志だった」
「ああ。以前聞きましたね」
「何で三国志だったんだっけ」
自分で自分に問いかけながら、少しずつ思い出していく。
「……歴史が好きだった。昔から学校で歴史の授業好きだった」
「そうなのですか」
「うん」
「そうは見えませんでした」
「失礼」
凌華が少し笑う。
「全部覚えてたわけじゃないよ」
「でしょうね」
「そこは否定して」
陸議の口元も少し緩んだ。
そして凌華は、さらに考える。
三国志。
どうして、その中でも。
「……呉」
口にした瞬間、何かが繋がった。
「呉が好きだった」
孫策。
孫権。
周瑜。
呂蒙。
陸遜。
孫尚香。
未来では、全部歴史の中にいる人たちだった。
本や資料に残る名前と、わずかな記録。それを読んで、もっと知りたいと思った。
「私、呉のこともっと知りたくて三国志選んだんだ。孫策とか、周瑜さんとか、呂蒙さんとか、孫権とか、尚香とか……」
そして少しだけ間を置く。
「陸遜とか」
陸議の目が僅かに動いた。
凌華は気づかない。
「……好きだったんだ」
その言葉を口にした瞬間、孫家が急に懐かしくなった。
昨日まで、あれほど息苦しかった場所。
戻りたくなかった場所。
そこにいる人たちの顔が次々浮かぶ。
「……ちょっと、孫家懐かしいかも」
陸議は「帰りましょう」とも「戻ればいい」とも言わなかった。
ただ、
「そうですか」
とだけ答えた。
その返事が、今の凌華にはちょうどよかった。
「でもまだ帰らないよ。旅行する。私が何好きか考える」
「ええ。それがいいでしょう」
「何かあるかな」
「あると思います」
「適当」
「では今日は、何も決めずに歩きますか」
「何も決めずに?」
「何か目についたら寄る。食べたいものがあれば食べる。気になる場所があれば見る。そして何もなければ……何もしない」
凌華はしばらく陸議を見た。
「……それいいかも」
◇ ◇ ◇
その日は、本当に何も決めずに歩いた。
町へ出て、凌華が右と言えば右へ進む。
店先に並ぶ器を見つければ足を止め、「これ、この辺で作ってるんですか?」と店主へ尋ねる。
昔から同じ形なのか。
誰が作るのか。
どうやって焼くのか。
横で見ていた陸議が言う。
「楽しそうですね」
「そう?」
「ええ」
凌華は自分でも気づいていなかった。
昔から歴史が好きで、そこに生きていた人々が何を使い、何を食べ、どのように暮らしていたのかを知るのが好きだった。
遠方から来た商人を見つければ、「これどこから来たの?」と尋ねる。何月もかけて遠い土地から運んできたと聞けば、目を輝かせた。
未来では資料の中でしか見られなかったものが、今は普通の店先に並び、人の手に触れ、遠い土地から運ばれてくる。
そのことが、ただ面白かった。
「……すごい」
「何がですか」
「分かんない。でも何かすごい」
凌華は笑った。
昼になれば、露店から漂う匂いに足を止める。
「……あれ食べたい」
陸議も見る。
二人同時に止まる。
凌華が横を見た。
「……陸議さん」
「はい」
「お金」
「ありません」
凌華が吹き出した。
「まだないんだ」
「増える理由がありません」
「朝起きたら増えてるかも」
「増えません」
凌華は二人分を買った。
陸議が、
「借りにしておいてください」
と言えば、
「いいよ別に」
と答える。
「よくありません」
「じゃあ帰ったら返して」
その瞬間、二人とも少し黙った。
――帰ったら。
凌華が自然に言った。
本人も、陸議も気づいた。
けれど何も言わなかった。
◇ ◇ ◇
町の端では、古い石垣の跡を見つけた。
「これ何?」
「砦の跡ではないでしょうか」
「昔っていつ?」
「分かりません」
「分かんないの?」
「この土地に詳しいわけではありませんので」
凌華は近くにいた老人へ話を聞きに行った。
昔からそこにある砦の跡。
それより前には誰がいたのか。
どれくらいの人数がいたのか。
何を食べていたのか。
話を聞けば聞くほど、次々と疑問が浮かんでくる。
陸議が後ろから声をかけた。
「凌華」
「ん?」
「楽しそうですね」
言われて初めて気づいた。
「……私、こういうの好きなんだ」
「そのようですね」
「忘れてた。未来にいた時も、こういう場所行くとずっと説明読んでた」
「では今は、説明がありませんね」
陸議も石垣を見る。
「そうなんだよ!」
凌華が急に振り返った。
「何で説明の板ないの!」
「誰が説明するのですか」
「そうなんだけど!」
腰の長剣から孫策の声が飛ぶ。
『お前、今いる時代が説明される側だからな』
凌華が口を開けたまま止まった。
「……そっか」
「どうしました」
「孫策が正論言った」
『正論しか言ってねえよ』
「それは違う」
陸議には内容までは聞こえない。
けれど凌華が楽しそうなので、それ以上は何も言わなかった。
◇ ◇ ◇
午後。
二人は川沿いへ向かった。
船が行き交い、荷を運ぶ者がいる。漁をする者もいれば、岸では子どもたちが遊んでいる。
凌華は川岸へ腰を下ろした。
「ねえ。未来だとさ、この時代って戦のことばっかり残ってるんだよね。誰がどこで戦った、誰が誰を倒した、誰がいつ死んだって」
陸議は黙って聞いていた。
凌華も少し黙り、目の前の景色を見る。
「でも、普通の日の方が多かったんだよね」
「当然でしょう」
「うん。当たり前なのに、知らなかった」
歴史上の人々も、毎日戦っていたわけではない。
食事をし、眠り、くだらない話をして笑い、時には腹を立てながら、それでもまた次の日を迎えていた。
「……私、呉のこういうところ知らなかった」
「こういうところ?」
「普通のところ。戦じゃないところ」
陸議は少し考えたあと、静かに言った。
「それなら、これからいくらでも見られるでしょう」
凌華は、その言葉に顔を上げた。
――これから。
陸議は当たり前のように言った。
「……そうだね」
凌華は小さく答えた。
◇ ◇ ◇
夕方。
帰り道で、小さな髪飾りが目に入った。
赤い花。
凌華は手に取る。
「尚香っぽい」
買った。
次に酒を見つければ、
「呂蒙さん喜びそう」
書物を見れば、
「周瑜さん好きそう」
筆入れなら、
「孫権、使いそう」
歩くたび、誰かの顔が浮かぶ。
「孫策には何もいらないね」
『何でだよ!』
「持てないじゃん」
『気持ちの問題だろ!』
凌華は声を上げて笑った。
「何か言っていますか」
「お土産よこせって」
「では何か買えばいいでしょう」
「何買うの、剣に」
「知りません」
「無責任」
宿へ戻る頃には、凌華の手にいくつもの包みがあった。
それを見て、ふと立ち止まる。
「……私、旅行してるのに孫家の人のものばっかり買ってる」
「そうですね」
「何なんだろ」
陸議は少し考えた。
「帰りたいのではありませんか」
凌華の足が止まる。
「……そういう言い方しないでよ」
「違いましたか」
「分かんない」
「そうですか」
陸議は追及しなかった。
凌華は再び歩き始める。
「……でも、帰ったら尚香にこれあげる。呂蒙さんには酒。周瑜さんはこれで、孫権には……」
少しずつ、声が弾んでいく。
宿の前で、凌華は一度振り返った。
夕暮れの町。
知らない場所。
楽しかった。
また違う場所も見てみたい。
それでも胸の中には、昨日にはなかった感情があった。
「……帰る場所、あるんだね」
誰にも聞かせるつもりのない、小さな声だった。
けれど陸議には届いていた。
何も言わず、ただほんの少しだけ表情を緩めた。
◇ ◇ ◇
三日目の朝。
凌華は目を覚まし、しばらく天井を見ていた。
昨日までと同じ宿。
同じ部屋。
少し離れたところには、もう起きている陸議。
その傍らには、まだ長剣がある。
「……ねえ」
「起きましたか」
「うん」
少し黙る。
「今日さ……帰ろっか」
陸議はすぐには返事をしなかった。
「孫家へ?」
「うん」
凌華は少しだけ笑った。
「帰りたい」
その言葉を、今度は苦しそうにではなく、自分から口にした。
陸議は静かに頷く。
「分かりました」
◇ ◇ ◇
帰路。
凌華はやたらと喋った。
「ねえ陸議さん。昨日の砦さ、ああいうのってどこにでもあるの?」
「どこにでもというほどではありません」
「じゃあ、あそこ昔重要だったってこと?」
「可能性はあります」
「誰が作ったんだろ」
「記録があれば分かるかもしれません」
「孫家にある?」
「探せば」
「帰ったら見たい」
「では探してみましょう」
「ほんと?」
「ええ」
少し歩けば、また始まる。
「ねえ。昨日の露天にあった布って、どの道通ってくるの?」
「商人によって違いますが――」
説明が始まる。
凌華は途中で止める。
「あ、それ分かんない」
陸議が説明し直す。
さらに、
「じゃあこっちは? 何で川沿いに町が多いの?」
「物資を運びやすいからでしょう」
「じゃあ戦の時も川って重要?」
「当然です」
「赤壁とか?」
陸議が僅かに眉を寄せた。
「随分大きな話になりましたね」
「だって気になった」
「では順番に説明します」
「長い?」
「あなたが質問を増やさなければ」
「それは無理」
陸議が小さく息を吐いた。
以前なら、何でもない日常だった。
気づけば、二人の間にあった妙な遠慮はほとんどなくなっている。
「陸議さん、これ聞いていい?」
「もう聞いているでしょう」
「確かに」
「いちいち確認しなくていいですよ」
凌華の足が、ほんの少しだけ止まった。
陸議も気づく。
凌華は少しだけ笑った。
「じゃあ勝手に聞く。陸議さんって子どもの頃――」
「それは歴史ではありません」
「いいじゃん」
「何でも聞いていいとは言っていません」
「今言ったじゃん!」
「程度があります」
「えー」
腰の剣から声がした。
『戻ったな』
凌華がちらりと剣を見る。
「何」
「孫策殿ですか」
「うん」
『うるせえのが戻った』
「悪口言われた」
「誰の?」
「私の」
「それなら普段通りですね」
「陸議さんまで何なの?」
陸議の口元が、少しだけ緩んだ。
◇ ◇ ◇
昼を過ぎ、孫家の門が見えた。
凌華は少しだけ歩調を落とした。
「どうしました」
「いや……」
門を見る。
三日前。
ここから出た時は、戻ることを考えたくなかった。
今は少し緊張している。
「怒られるかな」
「誰にですか」
「みんな」
「怒られる理由はあるでしょう」
「あるんだ」
「あります」
「味方してよ」
「事実なので」
「帰るのやめよっかな」
「駄目です」
即答だった。
凌華は笑う。
「冗談」
一度、大きく息を吸う。
そして門をくぐった。
◇ ◇ ◇
最初に見つけたのは尚香だった。
「凌華!」
ものすごい勢いで走ってきて、そのまま抱きつかれる。
「うわ!」
「馬鹿! 一人で行くなんて聞いてない!」
「痛い! 旅行って言ったじゃん!」
「旅行と一人でいなくなるのは違う! 心配したんだから!」
声が少し震えている。
凌華は一瞬黙った。
以前なら、その「心配」が重かったかもしれない。
今は少し違った。
「……ごめん」
尚香が身体を離す。
「でも、行ってよかった」
尚香は少しだけ凌華を見る。
そしてまだ不満そうな顔のまま、
「ならいい」
と答えた。
そこへ孫権も来た。
「凌華」
「孫権」
「無事でよかった。何かあったらどうするつもりだった」
「短剣持ってたし」
「そういう問題ではない」
「孫権まで怒るの?」
「怒っているというより……心配した」
凌華は少しだけ胸が詰まった。
でも、今度は逃げたくはならなかった。
「……うん。ごめん」
◇ ◇ ◇
少し離れたところで、呂蒙は凌華ではなく陸議を見ていた。
「帰ったか」
「はい」
呂蒙は一度、長く息を吐いたあと、陸議の肩を軽く叩いた。
「……今度は行ったな」
陸議の表情が僅かに変わる。
「あの日は――」
「もういい」
呂蒙はそれ以上言わなかった。
凌華の方を見る。
「ちゃんと連れて帰ったなら、それでいい」
「連れて帰ったわけではありません。凌華が自分で帰ると言いました」
呂蒙はそれを聞き、少しだけ笑った。
「なら、もっといい」
◇ ◇ ◇
周瑜は少し遅れて姿を見せた。
凌華を頭から足元まで、ゆっくり確認する。
怪我はない。
顔色も悪くない。
それどころか、三日前より少しだけ表情が軽い。
周瑜はそれを確かめると、それ以上何も尋ねなかった。
「周瑜さん」
「三日だな」
凌華が瞬く。
「え?」
「約束通り、三日で戻った」
それだけだった。
怒られなかった。
問い詰められなかった。
何があったのか。
何を考えたのか。
なぜ剣を置いていったのか。
周瑜は何も聞かず、ただ戻ったことだけを確認した。
凌華には、その意味が何となく分かった。
「……ただいま」
初めて、自分から言う。
周瑜はほんの僅かに表情を緩めた。
「ああ。おかえり」
◇ ◇ ◇
その日の午後。
凌華は買ってきたものを広げた。
「尚香、これ」
赤い花の髪飾り。
尚香の顔が一気に明るくなる。
「可愛い! 私に?」
「尚香っぽかったから」
「凌華!」
また抱きつかれる。
「痛いって!」
次は呂蒙。
「呂蒙さん、酒」
「お前、分かってんじゃねえか」
呂蒙の顔が露骨に嬉しそうになる。
「顔」
「何だよ」
「嬉しそう」
「うるせえ」
周瑜には小さな書物。
「何だこれは」
「向こうの土地の話、ちょっと書いてあるらしい」
「読めたのか」
「全部は無理」
「でしょうね」
「そこ笑わないでよ」
周瑜は受け取り、静かに言った。
「ありがとう」
孫権には筆入れ。
「何で私にはこれなんだ」
「真面目そうだから」
「理由になってない」
「使えるじゃん」
「まあ……」
それでも孫権は、大事そうに受け取った。
◇ ◇ ◇
そして最後。
凌華の手元には、もう一つ小さな包みが残っていた。
陸議はもう終わったと思っていたらしく、まだ長剣を持ったまま少し離れたところに立っている。
「陸議さん」
「はい」
「これ」
包みを差し出す。
陸議が少し戸惑った。
「……私に?」
「うん」
「ですが、私は一緒に行っていたでしょう」
「知ってるよ」
「なら、いつ買ったのですか」
「陸議さんが店の人と話してた時」
凌華は少しだけ照れくさそうに言った。
「ほら。受け取って」
陸議は包みを受け取る。
中には小さな筆飾りが入っていた。
派手ではなく、落ち着いた色。
陸議が使っても違和感のないものだった。
「……」
「迎えに来てくれたお礼。それから……仲直りの印」
陸議が凌華を見る。
「仲直り」
「嫌?」
「いえ。嬉しいです」
すぐに答えた。
凌華も少し笑う。
「じゃあよかった」
「ありがとうございます」
「うん」
それから陸議は、腰元の長剣へ手を伸ばした。
三日間ずっと自分が持っていた剣。
凌華が置いていった剣。
それを凌華へ差し出す。
「これも」
凌華が剣を見る。
「……返してくれるの?」
「もう必要ありませんから」
「何が」
「私が持っている必要が。あなたが自分で持てます」
凌華はしばらく剣を見つめたあと、両手で受け取った。
『遅ぇよ』
「うるさい」
『誰が三日間陸議に持たれてたと思ってんだ』
「嫌だった?」
『別に』
「じゃあいいじゃん」
陸議が凌華を見る。
「何と言っていますか」
「陸議さんに持たれて嫌じゃなかったって」
『言い方!』
凌華が笑う。
陸議も少しだけ笑った。
長剣が凌華の手へ戻る。
ようやく、全部が戻るべきところへ戻ったような気がした。
◇ ◇ ◇
それから数日後。
陸議は自室で書簡を読んでいた。
静かな午後。
戸が開く。
「陸議さん」
顔を上げると、凌華が立っていた。
「どうしました」
「暇」
それだけだった。
陸議はしばらく凌華を見る。
「……そうですか」
「うん」
凌華は勝手に入ってくると、以前と同じ場所へ当然のように座った。
いや。
そのまま横になる。
「少し寝る」
「ここで?」
「暇だから」
「暇と寝ることに関係がありますか」
「ある」
「ありません」
「じゃあ静かに仕事してて」
「なぜ私が命令されるのですか」
「眠いから」
陸議は何か言い返そうとして、やめた。
机の横。
凌華が来なくなってから、少しずつ書簡が積まれていった場所。
そこには今、凌華がいる。
目を閉じ、もう寝るつもりらしい。
「凌華」
「何」
「邪魔です」
凌華の目が勢いよく開いた。
「ひど!」
陸議は少しだけ笑った。
「嘘です」
「…………」
凌華は一瞬、何も言わなかった。
それから。
「知ってる」
そう言って、また目を閉じた。
陸議は書簡へ視線を戻す。
少しして、静かな寝息が聞こえ始めた。
今度は追い返さない。
言葉を選びすぎて、勝手に距離を決めることもしない。
そこにいる凌華を、そのまま受け入れればいい。
今は、それでよかった。
窓から穏やかな風が入り、机の横ではいつものように凌華が眠っている。
少し前まで失ったと思っていた光景が、何事もなかったようにそこへ戻っていた。
そして今度こそ、その距離を二人とも自分から遠ざけようとはしなかった。
ーー了
実はもっともっと切ない展開で、そのまま陸議が間に合わなかったらと言う展開まで考えました。
その場合、凌華はきっとどこかで行方不明もしくは死んでる可能性もあったり、陸議はずっと探し続けたり、剣の孫策は誰にも声が届かない状況になるとってもしんどい事になります。
でも、陸議は間に合いますから大丈夫です。
そんな事は絶対おきません。




