番外編 千年後の言葉
午後の陸家は、珍しく静かだった。
庭から聞こえてくるのは、風に揺れる木々の音と、時折遠くで響く兵たちの掛け声くらいだった。
凌華は廊下の端に座り、膝の上へ広げた書簡と睨み合っている。
文字の勉強を始めてから、もう随分経つ。
最初の頃に比べれば読める文字は明らかに増えた。簡単な書簡なら内容を追えるようになり、自分で短い文章を書くこともできる。
それでも、古い言い回しや見慣れない文字が続けば、途端に読む速度は落ちた。
「……これ、さっきも見た気がするんだけどなあ」
筆の先で一文字を指しながら唸っていると、背後から声がした。
「そこは昨日も間違えていたぞ」
凌華が振り返る。
「うわ、呂蒙さん」
「何だ、その反応は」
「いや、いつからいたの?」
「今来たところだ」
呂蒙は凌華の隣へ腰を下ろすと、膝の上の書簡を覗き込んだ。
「どれだ」
「これ」
凌華が指差すと、呂蒙は迷うことなく意味を説明した。
それだけではない。
前後の文章にも目を通し、その文字がここではどういう意味で使われているのかまで、順を追って話してくれる。
凌華は何度か瞬きをした。
「……呂蒙さん」
「何だ」
「前より説明めちゃくちゃ分かりやすくなってない?」
呂蒙が少し眉を上げた。
「そうか?」
「うん。前はもっとこう……『これはこういう意味だ。覚えろ』みたいな」
「そんな言い方をした覚えはないぞ」
「雰囲気、雰囲気」
凌華は笑った。
けれど、改めて考えてみれば、最近の呂蒙は以前と随分違っている。
武人としての逞しさは変わらない。鍛錬では相変わらず容赦がなく、凌華が少しでも気を抜けばすぐに叱られる。
その一方で、書簡を読んでいる姿を目にすることが増えた。
軍略の話になれば以前よりずっと深く考えるようになり、周瑜や陸議の話にも自然に加わっている。
凌華はじっと呂蒙を見た。
「何だ?」
「いやぁ……」
「だから何だ」
凌華の口元が、ゆっくり緩んだ。
「男子三日会わざれば、刮目して見よってやつだね」
呂蒙が止まった。
「……何だ、それは」
今度は凌華が止まる。
「え?」
「今、何と言った?」
「男子三日会わざれば、刮目して見よ」
「誰の言葉だ?」
凌華は数秒黙った。
それから、ゆっくり呂蒙を指差す。
「……呂蒙さん」
「俺?」
「うん」
「俺が言ったのか?」
「たぶん」
「たぶんとは何だ」
「だって私の時代では、その形で有名なんだもん」
呂蒙は腕を組んだ。
「俺はそのような言い方はしていないぞ」
「やっぱり?」
「やっぱりとは何だ」
凌華が笑う。
「千年以上経ってるから、言いやすい形に変わったのかも」
「千年以上……」
呂蒙は、自分の想像を遥かに超える時間を確かめるように呟いた。
その時、廊下の向こうから声がした。
「何の話をしている?」
周瑜だった。
その隣には陸議もいる。
凌華はすぐに手を上げた。
「ちょうどいいところに。呂蒙さんの名言の話」
「俺の名言?」
「さっきからそう言ってるじゃん」
周瑜が興味深そうにこちらへ歩いてくる。
「後世に呂蒙の言葉が残っているのか?」
「うん。かなり有名だよ」
呂蒙本人だけが、どうにも納得していない。
「だから、俺は何と言ったことになっているんだ」
「男子三日会わざれば、刮目して見よ」
もう一度聞いたところで、呂蒙は少し考え込んだ。
やがて何かを思い出したらしく、顔を上げる。
「それなら、俺が魯粛殿に言ったのは少し違うな」
凌華の目が輝いた。
「やっぱり元の言葉あるんだ!」
「士、別れて三日なれば、即ち更に刮目して相待すべし――そのような言い方だったはずだ」
一瞬。
凌華は呂蒙を見つめた。
そして。
「おお……!」
妙に感動した声を上げた。
三人が揃って凌華を見る。
「何だ」
「本物だ……!」
呂蒙が怪訝そうな顔をした。
「俺は最初から本物だ」
「そうじゃなくて!」
凌華は思わず身を乗り出した。
「私の時代では、歴史の中の言葉として見るだけなんだよ。それを本人が目の前で普通に言った!」
「本人なのだから、自分が言ったことくらい覚えているだろう」
「そうなんだけど、そうじゃないんだって!」
腰の長剣から、楽しそうな声が聞こえた。
『お前、こういう時ほんと歴史好きみてえになるな』
「だって面白いじゃん!」
周瑜が長剣へ目を向ける。
「孫策か?」
「うん。こういう時だけ歴史好きみたいになるって」
『こういう時だけとは言ってねえぞ』
「細かい!」
呂蒙が凌華を見た。
「それほど有名なのか?」
「有名だよ。私の時代だと元の言葉そのままじゃなくて、『男子三日会わざれば刮目して見よ』って形でよく知られてる」
「意味も同じなのか?」
「だいたいね。人は短い間でも成長するんだから、昔のままだと思わないでちゃんと見直せ、みたいな感じ」
陸議が少し考えるように目を伏せた。
「元の言葉とは、随分形が変わっているのですね」
「うん。でも意味はちゃんと残ってる」
「千年以上経っても、意味だけは伝わっているのですか」
「そう考えるとすごいよね」
呂蒙が腕を組む。
「俺としては、勝手に言い方を変えられたような気もするが」
「そこ気になるんだ」
「気になるだろう」
陸議が僅かに笑った。
「ですが、形が変わっても呂蒙殿の言葉として残っているのであれば、それだけ多くの人に伝わったということでしょう」
呂蒙は少し黙ったあと、まんざらでもなさそうに鼻を鳴らした。
「……そう言われると、悪くないな」
「陸議さん、いいこと言う」
「普通のことを言っただけです」
凌華は笑った。
「でも私、この言葉好きだよ」
呂蒙が凌華を見る。
「なぜだ?」
「人って変われるってことじゃん」
口にしてから、凌華は自分の膝の上にある書簡へ視線を落とした。
ここへ来たばかりの頃は、文字などほとんど読めなかった。
剣だってまともに扱えなかったし、何をどうすればこの世界で生きていけるのかも分からなかった。
今でも分からないことは山ほどある。
それでも、以前にはできなかったことが少しずつできるようになっている。
そんな凌華の視線を追い、呂蒙も書簡を見た。
「それなら、お前にも当てはまるな」
「私?」
「ああ。最初の頃は一文字読むのにも随分時間がかかっていただろう」
「う」
「剣もまともに構えられなかった」
「うう」
「体力もなかった」
「ちょっと待って。褒める流れじゃなかったの?」
呂蒙が声を立てて笑った。
「今は違うと言っている」
凌華が口を閉じる。
「……あ」
「だから、昔のお前を知っているからといって、今も同じだと思って見るべきではないということだろう」
凌華は少しだけ照れたように笑った。
「本人に言われると、なんか余計いい言葉に聞こえる」
「お前の時代でも俺の言葉なのだろう?」
「そうなんだけど、解像度が違う」
「かいぞうど?」
「あ。何でもない」
また未来の言葉を増やすところだった。
少し離れたところで聞いていた陸議が、改めて凌華へ尋ねる。
「他にもあるのですか?」
「何が?」
「この時代の人物の言葉や出来事が、あなたの時代まで残っているものです」
「いっぱいあるよ」
「例えば?」
凌華は指を折りながら考える。
「三顧の礼とか」
周瑜はすぐに分かったらしい。
「劉備殿と孔明殿か」
「そうそう。偉い立場の人が何度も足を運んで、礼を尽くして人を迎えるって意味で普通に使うよ」
呂蒙が感心したように頷く。
「出来事そのものが言葉になるのか」
「なるなる。あと――」
凌華は少し考えた。
「苦肉の策とか」
周瑜の表情が僅かに止まった。
「…………」
凌華が気づく。
「周瑜さん?」
「……それも残っているのか」
「うん。すごく有名」
「そうか」
口調はいつも通りだった。
けれど、どことなく納得していない。
凌華が首を傾げる。
「嬉しくない?」
「嬉しいという話ではないな」
周瑜は小さく息を吐いた。
「勝つために必要だったとはいえ、黄蓋殿には随分な役を負わせた。それが策の名として後世まで特に残っているというのは……」
わずかに眉を寄せる。
「少々、複雑だ」
『ははっ、気にしてんな』
凌華の口元が緩んだ。
周瑜はすぐに気づいた。
「孫策が笑っているのか?」
「うん」
『余計なこと言うなよ』
「もう分かってるから遅いよ」
「何と言っている?」
「余計なこと言うなって」
周瑜は呆れたように目を細めた。
「相変わらずだな」
『お前に言われたくねえ』
凌華は吹き出した。
「何だ?」
「いや、言わなくても分かるかなって」
「おそらく」
周瑜と凌華の反応を見比べていた呂蒙まで笑い始めた。
「でも、苦肉の策だけじゃないよ」
凌華が続ける。
「赤壁そのものもすごく有名だし、周瑜さんもちゃんと後世まで名前が残ってる」
周瑜の表情がほんの少し和らいだ。
「なら、それで十分だ」
「ちょっと安心した?」
「していない」
『してたな』
凌華は笑った。
その時だった。
『……で、俺は?』
凌華が長剣を見る。
「何?」
『俺』
「孫策がどうしたの」
『俺の名言は?』
凌華は一瞬黙った。
「…………」
『何で黙るんだよ』
「いや……」
『呂蒙の言葉が千年以上残ってんだろ? 周瑜の策も残ってる。だったら俺も何かあるだろ』
凌華の口元が引きつる。
周瑜が尋ねた。
「今度は何だ?」
「孫策、自分の名言は残ってないのかって」
呂蒙がとうとう声を上げて笑った。
周瑜も目元を緩める。
「そこが気になるのか」
『気になるだろ!』
凌華は少し考えた。
「……江東の小覇王」
『それ名言じゃねえ!』
「でもめちゃくちゃ有名だよ」
『それは異名だろ! 俺が言った格好いい言葉とかねえのか?』
「知らなーい」
『おい!』
「私に言われても困るよ!」
呂蒙が腕を組んだまま、少し得意そうに言う。
「俺は残っているらしいぞ」
『呂蒙、お前ちょっと嬉しくなってんじゃねえか!』
凌華が笑う。
「孫策が、呂蒙さんちょっと嬉しくなってるだろって」
「悪い気はしない」
呂蒙はあっさり認めた。
『認めやがった』
「だって千年以上だもんね」
「ああ」
そこで凌華はふと、陸議を見る。
「そういえば」
「何です?」
「陸議さんもあるよ」
陸議が僅かに眉を上げた。
「私にも?」
「うん」
「どのような言葉です?」
凌華は記憶を探るように少し上を向いた。
「えっと……」
そして、何気なく口にする。
「『伏して願わくは至尊、高枕して念となすことなかれ』」
陸議が止まった。
周瑜と呂蒙も、今度は陸議を見る。
凌華だけが何も気づかず続ける。
「たしか、そんな感じの――」
そこで。
陸議が静かに口を開いた。
「凌華」
「ん?」
「私は、まだそのようなことを言っていませんが」
「…………」
凌華の口が止まった。
「あ」
周瑜の目が細くなる。
呂蒙も腕を組んだ。
『やったな』
「…………」
凌華はゆっくり長剣を見る。
『未来のこと喋ったな』
「孫策、黙ってて」
陸議が凌華を見る。
「いつの話です?」
「えーっと」
「凌華」
「……未来?」
「それは分かっています」
「ですよね」
周瑜の口元が緩む。
「随分と自信のあることを言うようになるらしいな、陸議」
「周瑜殿」
呂蒙も笑った。
「至尊に安心して待てと言うのか。大したものだな」
「呂蒙殿まで」
「私は褒めているぞ」
「周瑜殿も先ほど同じことを仰っていました」
「私は本当に褒めている」
「……そうですか」
凌華は、少し居心地悪そうに三人を見比べた。
「でも、陸議さんっぽいよ」
陸議が凌華を見る。
「私らしいのですか?」
「うん」
「まだ言っていない言葉なのに?」
「……それはそうなんだけど」
『ははっ』
「孫策笑わないで!」
周瑜が小さく息を吐きながら笑う。
「未来を知る者がいると、本人より先に自分の言葉を聞かされることもあるのだな」
「それはあまり嬉しくありませんね」
陸議は静かに答えた。
「え、ごめん」
凌華が素直に謝ると、陸議の表情が少しだけ緩む。
「責めているわけではありません」
「よかった」
「ただ」
「ただ?」
「いつ、どのような状況で私がその言葉を口にするのかは、聞かないことにします」
凌華は少し驚いたあと、笑った。
「うん。それがいいと思う」
『珍しく正解だな』
凌華の眉がぴくりと動いた。
「……珍しくって何」
陸議がその反応を見て、長剣へ一度だけ視線を向ける。
「孫策殿が何か?」
「陸議さんが珍しく正解だって」
「……そうですか」
陸議は少しだけ目を細めた。
「では、聞かなかったことにしておきます」
『お、流した』
「今度は流したって」
「逐一伝えなくても結構です」
「えー」
『ははっ。聞こえねえのをいいことに』
凌華が吹き出す。
「今、孫策笑ってる」
「それは何となく分かります」
「聞こえないのに?」
「凌華の顔を見れば」
「またそれ!」
笑い声が広がる。
同じ時代を生きている者が、自分のまだ口にしていない言葉を未来から聞かされる。
考えてみれば、妙な話だった。
けれど。
呂蒙の言葉が形を変えながら千年以上残り。
周瑜の策が、本人には少々不本意な形で言葉になり。
陸議のまだ口にしていない言葉まで、その先の時代へ残っている。
そして剣の孫策だけが、自分の名言を必死に探している。
『いや、最後の言い方おかしいだろ』
「まだ何も言ってない!」
『顔に出てんだよ!』
凌華が笑った。
その日の夕方。
ようやく書簡を片づけながら、凌華は呂蒙を見上げた。
「じゃあ呂蒙さん。また三日後ね」
「なぜだ」
「三日会わなかったら成長してるんでしょ?」
「そういう意味ではない」
「じゃあ刮目して待ってる」
「お前はまず、今日教えた文字を覚えろ」
凌華の顔が固まった。
「そこ?」
「三日もあれば覚えられるだろう」
呂蒙の口元が、にやりと上がる。
「刮目して見てやる」
「自分の名言をそういう使い方する!?」
陸議が小さく笑った。
「便利ですね」
「陸議さんまで!?」
「では三日後、私も確認します」
「増えた!」
『いいじゃねえか。二人に刮目してもらえ』
「孫策まで乗っからないで!」
周瑜まで口元を緩める。
「三日後が楽しみだな」
「周瑜さんも!?」
凌華の抗議に、周囲から笑い声が上がった。
千年以上の時を越えて残った言葉は、その日だけは随分と軽い調子で本人のもとへ返ってきた。
けれど凌華は、それが少し嬉しかった。
自分がいた時代と、今いる時代。
本来なら触れ合うはずのなかった二つの時間が、一つの言葉で繋がっている。
そして、その言葉を残した本人たちが目の前にいて、笑っている。
歴史の教科書や物語の中にあった名前ではない。
呂蒙さんで。
周瑜さんで。
陸議さんで。
そして、相変わらず自分の名言を気にしている孫策だ。
『なあ、本当に俺のねえの?』
「まだ言ってる!」
最後までそこだけは諦めない孫策の声に、凌華はまた笑った。
ーー了




