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三国凌華伝 ーあなたがくれた、もうひとつの時ー  作者: 隆月 アン
番外編 それでも続いていく
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番外編 弓の先にあるもの――後編


「陸議さん!」


勢いよく戸が開いた。


机へ向かっていた陸議が顔を上げる。


長剣を抱えた凌華は、そのまま真っ直ぐ机の前まで駆け寄ると、両手をついて身を乗り出した。


「私、結婚させられるかも?!」


陸議の手が止まった。


「……誰とです?」


陸議の声がいつもより低い。


あまりにすぐ返ってきた言葉に、今度は凌華の方が少しだけ目を瞬いた。


「分かんない!」


「分からない?」


「知らない人!」


陸議の眉が寄る。


「誰かから、そのような話をされたのですか?」


「されてない!」


「…………」


今度こそ、はっきりと沈黙が落ちた。


陸議が凌華を見る。


凌華も陸議を見る。


腰の長剣から、堪えきれないような声が響いた。


『ははっ』


「笑わないで!」


陸議の視線が長剣へ向く。


「……孫策殿ですか?」


「うん」


『いや、だってよ。結婚させられるかもって飛び込んできて、何も決まってねえんだろ?』


「うるさい!」


「何と?」


「何も決まってないのに慌てすぎだって」


陸議は一度だけ目を閉じた。


「……まず事情を説明してください」


「だから結婚!」


「そこは聞きました」


「知らない人と!」


「そこも聞きました」


「嫌なの!」


「それも分かりました」


「じゃあ分かってるじゃん!」


「分かっていないから聞いているのです」


淡々と返され、凌華は少しだけ勢いを削がれた。


「……座ってください」


「うん」


いつものように部屋の端へ向かいかける。


けれど二歩ほど進んだところで止まり、すぐに引き返した。


「今日はこっち」


陸議の正面へ座る。


長剣もその横へ置いた。


「それで?」


「今日、尚香と弓やってたの」


「そこからですか」


「そこからなの!」


凌華は順番に話し始めた。


孫尚香に気分転換だと言われ、弓場へ連れていかれたこと。


相変わらず矢がほとんど的へ当たらず散々笑われたこと。


そのあと尚香が、幼い頃から弓や馬、礼儀、孫家の娘として必要なことを色々教えられてきたと話したこと。


そして。


「嫁ぐ時に困らないようにっていうのもあるって言ったの」


「なるほど」


「それで聞こうとしたら孫策が昔の尚香の弓がどうとか言うから」


『俺のせいにすんな』


「孫策のせいで話が逸れて!」


「孫策殿が?」


「うん。それで……」


凌華の声が少しだけ落ち着いた。


「尚香に、孫策のこと話した」


陸議の表情が僅かに変わる。


「剣の中にいることを?」


「うん」


「そうですか」


「誰にも言わないって約束してくれた」


「ならよいでしょう」


陸議はそれ以上そこを深く聞かなかった。


凌華が自分で話すと決めたのなら、それでいい。


「で、そのあと婚姻の話に戻って」


凌華は再び身を乗り出した。


「尚香が、孫家の娘だったら本人の気持ちだけで相手を決められないこともあるって」


「ええ」


「知らない人でもあるかもしれないって」


「可能性としてはあります」


凌華の顔が固まる。


「やっぱりあるの?」


「可能性の話です」


「尚香も同じこと言った」


「事実ですから」


「でも私も孫家の娘じゃん」


「そうですね」


「じゃあ私にも来るかもしれないんでしょ?」


陸議は少し考えてから答えた。


「孫策殿の養女として正式に迎えられていますから、あなたの婚姻に何らかの意味を見出す者が現れる可能性は否定できません」


「嫌」


即答だった。


「まだそのような話があるわけではありません」


「でも嫌」


「凌華」


「知らない人と結婚とか絶対嫌」


『知ってる』


「孫策は黙ってて」


『今日何回目だよ、それ』


凌華は長剣を睨んだ。


陸議はそんな様子を見ながら、少し間を置いて口を開いた。


「……知らない相手だから嫌なのですか?」


「うん」


「では」


陸議は凌華を見る。


「知らない人でなければ、よいのですか?」


「え?」


凌華の顔が上がった。


「あなたは先ほどから、知らない人とは嫌だと仰っています」


「うん」


「ならば、知っている相手であれば?」


凌華は少し考えた。


知っている人。


呂蒙さん。


周瑜さん。


孫権。


軍の中にも、顔も名前も知っている者はたくさんいる。


けれど。


「……嫌」


陸議の指先が、机の上で僅かに止まった。


「知ってるだけじゃ嫌だよ」


「では、どのような相手なら?」


「え?」


そこまで聞かれるとは思っていなかった。


凌華は少しだけ目を瞬いた。


けれど、答え自体は考えるまでもなかった。


「好きな人」


陸議が黙る。


剣の孫策も、今度は何も言わない。


凌華はそのまま続けた。


「好きじゃなきゃ嫌」


「……そうですか」


「だって結婚でしょ?」


「ええ」


「一緒に暮らすんでしょ?」


「そうですね」


「ずっと一緒にいるかもしれないんでしょ?」


「ええ」


「だったら好きな人がいい」


凌華にとっては、当たり前のことだった。


この時代では、それだけで婚姻が決まるわけではないことも分かっている。


それでも、自分が結婚するなら。


「ちゃんと自分で好きになって、この人と一緒にいたいって思った人じゃないと嫌」


陸議は、しばらく何も言わずに凌華を見ていた。


その考え方自体が、意外だったわけではない。


凌華なら、そう言うだろうと思える。


何かを決める時、自分が納得できるかどうかを大切にする人だということは、これまでにも何度も見てきた。


けれど。


婚姻について、本人の言葉でこうして聞くのは初めてだった。


知っている相手だからでもない。


立場が合うからでもない。


自分が好きになって、一緒にいたいと思った相手がいい。


凌華は、婚姻というものをそう考えている。


「……そうですか」


陸議は静かに答えた。


それ以上、何かを尋ねることはしなかった。


ただ、今聞いた言葉だけが、妙にはっきりと胸の内に残った。


「何か変?」


凌華が首を傾げる。


「いいえ」


「ほんと?」


「ええ」


陸議は少しだけ表情を緩めた。


「あなたらしいと思っただけです」


「そう?」


「はい」


『…………へえ』


突然、孫策が妙な声を出した。


凌華が長剣を見る。


「何?」


『いや?』


「その言い方何」


『何でもねえよ』


「絶対何か言いたいじゃん」


陸議が長剣を見る。


「孫策殿は?」


「何か『へえ』って」


「……そうですか」


『陸議も分かりやすいけどな』


「何て?」


凌華が聞く。


少しだけ間を置いてから、孫策の言葉をそのまま伝えずに済ませた。


「何でもないって」


『おい』


「うるさい」


陸議の眉が僅かに上がる。


「今、意図的に省きましたね?」


「気のせい」


「そうですか」


『似た者同士だな、お前ら』


「孫策は黙って!」


「またですか」


「もう放っておいて!」


陸議はそれ以上聞かなかった。


◇ ◇ ◇


「じゃあ」


凌華は再び机へ身を乗り出した。


「もし本当に婚姻の話が来たら、どうしたらいい?」


「まず話を聞いてください」


「嫌って言っていい?」


「相手も事情も分からないうちから拒絶するのは感心しませんが」


「でも好きじゃない」


「まだ相手すらいません」


「じゃあ知らない人じゃん」


「……そういう意味ではありません」


『陸議、苦労してんな』


「孫策が陸議さん苦労してるって」


「誰のせいでしょうね」


「何で私見るの?」


「他に誰がいるのです?」


「孫策」


『俺!?』


「孫策だって」


「私には声が聞こえませんので」


『ずりいぞ、それ』


凌華が吹き出した。


「ずるいって」


陸議の口元にも僅かに笑みが浮かぶ。


「ともかく」


陸議は話を戻した。


「今のところ、あなたの婚姻について具体的な話は聞いていません」


「本当?」


「はい」


「絶対?」


「私が知る限りでは」


凌華の肩から目に見えて力が抜けた。


「……よかったぁ」


そのまま机へ突っ伏す。


「最初にそれ言ってよ」


「あなたが事情を説明する前に、どうやって判断するのです?」


「確かに」


『勢いだけで来たからな』


「だって焦ったんだもん」


凌華は机へ伏せたまま、顔だけを上げた。


「でも、もし何か聞いたら教えてね」


「私が?」


「うん」


「なぜです?」


凌華は逆に不思議そうな顔をした。


「だって陸議さんなら教えてくれるでしょ?」


「…………」


「違う?」


「……いいえ」


陸議は僅かに目を伏せた。


「分かりました」


「ありがとう」


凌華は安心したように笑った。


何かあれば自分へ聞きに来る。


困ったことがあれば、こうして迷いなく部屋へ飛び込んでくる。


そのことが、陸議には少しだけ嬉しかった。


けれど、それを顔へ出すつもりはなかった。


◇ ◇ ◇


話が終わっても、凌華は帰らなかった。


陸議が書簡へ戻ると、凌華は立ち上がり、今度こそいつもの部屋の端へ向かう。


壁へ背中を預けて座り、長剣を自分の横へ置いた。


陸議が顔を上げる。


「……何をしているのです?」


「休憩」


「先ほどまで弓をしていたのでしょう?」


「だから疲れた」


「自室へ戻っては?」


「ここがいい」


陸議の筆が一瞬だけ止まる。


けれど凌華は気づかない。


『結局寝るのか』


「寝ないよ」


『毎回言ってんな』


「今日は寝ない」


「孫策殿ですか?」


「うん。寝るのかって」


「寝るのでしょう?」


「陸議さんまで!」


「これまでの実績から判断しています」


「今日は本当に寝ないから」


十分後。


部屋は静かになった。


陸議が書簡から顔を上げる。


凌華は眠っていた。


壁へ身体を預け、膝を抱えたまま、少し俯いた顔へ黒い髪が落ちている。


長剣は、そのすぐ隣に立てかけられていた。


陸議は小さく息を吐く。


「やはり寝ましたね」


『だろ?』


もちろん、陸議には聞こえない。


立ち上がると、いつの間にか凌華のために置かれるようになった薄い掛け物を手に取った。


そっと肩へ掛ける。


凌華が僅かに身じろぎしたものの、目を覚ます気配はない。


陸議はすぐには机へ戻らなかった。


つい先ほど聞いた言葉が、まだ頭に残っていた。


――好きじゃなきゃ嫌。


――ちゃんと自分で好きになって、この人と一緒にいたいって思った人じゃないと嫌。


凌華なら、そう言う。


そう思えるのに。


本人の口からはっきり聞いたことで、今まで何となく分かっていたものが、初めて形を持ったような気がした。


陸議は眠っている凌華を見る。


この人は。


婚姻を、そう考える人なのだ。


「…………」


それだけのことなのに。


なぜか、いつまでも頭から離れなかった。


「……凌華」


小さく名前を呼ぶ。


当然、返事はない。


陸議は少しだけ困ったように目を伏せると、今度こそ机へ戻った。


それ以上は考えないことにした。


少なくとも今は。


◇ ◇ ◇


数日後。


「またやるの?」


弓を渡された凌華は、露骨に嫌そうな顔をした。


孫尚香はそんな凌華を見て笑っている。


「この前、一回当たったじゃん」


「端っこだったけど」


「当たりは当たり」


「一回で満足した」


「駄目」


「なんで!」


「次はもう少し真ん中!」


「無理!」


『始まったな』


「孫策は黙ってて!」


「何て?」


孫尚香がすぐに聞く。


あの日以来。


凌華が剣へ話しかけても、孫尚香はもう不思議そうな顔をしなくなった。


「始まったなって」


「始まったじゃん」


「尚香まで!」


ぶつぶつ言いながら、凌華は矢をつがえた。


孫尚香が横から姿勢を直す。


「肩上がってる」


「また?」


「また」


「これくらい?」


「もう少し力抜いて」


「無理」


「まだ何もしてない!」


凌華が弓を構える。


その横で、孫尚香が何でもないことのように口を開いた。


「で」


「何?」


「聞いたの?」


「何を?」


「婚姻のこと。陸議に」


凌華は弦を引いたまま「ああ」と答えた。


「聞いた」


「何て?」


「今のところ何もないって」


「ふうん」


「だから大丈夫みたい」


孫尚香は少し黙った。


「……それだけ?」


「それだけじゃないよ」


凌華は弓を下ろす。


「知らない人だから嫌なのかって聞かれた」


孫尚香の眉が僅かに上がる。


「それで?」


「知ってるだけじゃ嫌って言った」


「…………」


「好きな人じゃなきゃ嫌って」


孫尚香が完全に止まった。


凌華はその顔を見て首を傾げる。


「何?」


「……それ、陸議に言ったの?」


「言ったよ?」


「本人に?」


「本人に」


「…………」


「何その顔」


「いや」


孫尚香は一度だけ視線を逸らした。


「別に」


「絶対別にじゃない」


『お前、ほんっと分かってねえな』


凌華が長剣を見る。


「何が?」


『何でもねえ』


「孫策まで何なの!」


「何て?」


「分かってないって!」


孫尚香はとうとう吹き出した。


「まあ……そうだろうね」


「尚香まで!?」


「いいから弓!」


「話逸らした!」


「逸らしてない!」


「絶対逸らした!」


「ほら、構えて!」


凌華は不満そうに弓を持ち直した。


「今度こそ真ん中だからね」


「当たるかなあ」


『隣の的狙えば?』


「孫策は黙ってて!」


「何て?」


「また隣狙えって!」


孫尚香が笑う。


「それ、案外いいかも」


「よくない!」


凌華は的を睨んだ。


弦を引く。


隣では孫尚香が笑っている。


腰の長剣からは、剣の孫策の声がする。


数日前にはなかった光景だった。


凌華は一度息を吐いて、指を離した。


矢が飛ぶ。


――トッ。


「…………」


「…………」


今度は。


的の端より、ほんの少しだけ内側。


凌華の目が大きくなる。


「尚香!」


「見た!」


「前より中!」


「ちょっとだけね!」


「ちょっとでも中!」


『進歩じゃねえか』


「孫策も認めた!」


「何て?」


「進歩だって!」


孫尚香が笑う。


凌華も笑った。


婚姻のことも。


陸議に言われたことも。


孫尚香と剣の孫策が何を分かっていないと言っているのかも。


まだ凌華にはよく分からない。


けれど今は。


もう一度矢をつがえる。


「次、もっと中いくから」


「急にやる気出たね」


「今度こそ!」


『外すなよ』


「フラグ立てないで!」


「ふらぐ?」


「何でもない!」


夕暮れの弓場に、また三人分の会話が響いた。


そのうち一人の声を聞けるのは凌華だけだったけれど。


今はもう、それで十分だった。


――了



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