番外編 弓の先にあるもの――前編
庭先から、大きな笑い声が聞こえた。
凌華は反射的に振り返った。
けれど、そこにいたのは数人の兵だけだった。
何かの話で盛り上がっているらしく、一人が大袈裟に身振りをつけるたび、また笑い声が上がる。
凌華はしばらくその姿を見ていた。
「……違うか」
小さく呟いて、再び歩き出す。
こういうことが、まだ時々あった。
誰かの笑い声が聞こえた時。
廊下の向こうを大股で歩く人影が見えた時。
呂蒙が誰かへ呆れたように声を上げている時。
ほんの一瞬だけ。
そこに孫策がいるような気がする。
振り向いて。
違うと分かる。
それだけだった。
もういないことは分かっている。
理解していないわけでも、受け入れていないわけでもない。
ただ身体のどこかが、まだ以前の日々を覚えているのだろう。
腰の長剣から声がした。
『またか』
「何が」
『今、振り返ったろ』
「別に」
『あいつかと思ったんじゃねえの?』
凌華は返事をしなかった。
剣の孫策も、それ以上は何も言わなかった。
少し先へ進んだところで、背後から声をかけられる。
「凌華様」
凌華は足を止めた。
振り返ると、若い兵が二人立っていた。
顔には見覚えがある。
どこだっただろう、と少し考えていると、向こうが先に頭を下げた。
「お疲れさまです」
「お疲れさまです」
凌華が返すと、二人はなぜか揃って姿勢を正した。
「先日は、その……ありがとうございました」
「先日?」
「傷の手当てを手伝ってくださった時です」
そこでようやく思い出した。
「ああ。あの時の」
「覚えておられるのですか?」
「顔は。名前までは……ごめん」
「いえ!」
謝ったつもりなのに、なぜか相手は嬉しそうだった。
凌華は首を傾げる。
最近、こういうことが多い。
声をかけられたり、妙に緊張されたり、何かを褒められたり。
理由は相変わらずよく分からないし、本人としては深く考える気もなかった。
「凌華様は本当にお優しいですね」
「……普通じゃない?」
「いえ。それに、その……」
一人が急に言い淀んだ。
隣の兵が小声で何か言いながら肘で小突いている。
「何?」
凌華が待っていると、意を決したように顔を上げた。
「本日も、お綺麗です」
「…………」
凌華は相手を見る。
兵の顔が見る見る赤くなっていく。
横ではもう一人が「言った」という顔をしていた。
何でそんなに緊張しているのか分からない。
凌華は少しだけ困ったあと、
「……ありがとう」
と答えた。
褒められたら、とりあえず礼を言う。
最近になって覚えた対処だった。
それ以上何を言えばいいのかは、まだ分からない。
「では!」
二人は妙に慌ただしく頭を下げ、去っていった。
凌華はその背中を見送る。
見えなくなったところで、肩から力が抜けた。
「……疲れた」
『何もしてねえじゃねえか』
「したよ。ちゃんと話した」
『話しただけだろ』
「それが疲れるんだって」
『人気者は大変だな』
「知らなーい。私に言われても」
『本人だろ』
「私、何であんな反応されてるのか知らないし」
『気にしてねえもんな』
「うん」
そこについて深く考えるほどの興味もなかった。
凌華は歩きながら、腰の長剣を軽く叩く。
『おい』
「でも孫策の娘っていうのもあるでしょ」
『だったら生きてた方の俺に言え』
凌華の足が、ほんの少しだけ止まった。
剣の孫策も黙る。
悪気がなかったことは分かっている。
それでも、まだ時々こうして思いがけないところへ触れる。
凌華は長剣の柄へ指を添えた。
「……分かってる」
『……悪い』
「別に謝らなくていいよ」
この孫策と、父になってくれた孫策は違う。
声は似ている。
考え方も、笑い方も、時々驚くほど似ている。
けれど、凌華の中では別の存在だった。
だからこそ、寂しいからといって代わりにしたくはなかった。
少しだけ沈んだ空気を振り払うように、凌華は顔を上げた。
「……陸議さんのところ行こうかな」
『またかよ』
「何」
『最近しょっちゅう行ってんじゃねえか』
「いいじゃん。静かなんだもん」
『お前、あいつの部屋を何だと思ってる?』
「休憩所」
『仕事場だろ』
「邪魔してないよ。端っこにいるだけだし」
『寝てるだろ』
「寝てない日もある」
『寝てる日はあるんだな』
「うるさいなあ」
凌華が口を尖らせた、その時だった。
「何がうるさいの?」
「え?」
廊下の角から、孫尚香が姿を現した。
その手には弓がある。
凌華はそれを見た瞬間、嫌な予感しかしなかった。
◇ ◇ ◇
「凌華、弓やろう!」
「嫌」
「早い!」
孫尚香が目を丸くする。
「まだ誘っただけじゃん!」
「だから断ったんだけど」
「暇でしょ?」
「暇だけど」
「じゃあいいじゃん」
「暇だからって苦手なことやる必要なくない?」
凌華は露骨に顔をしかめた。
「私、弓苦手なんだけど」
「知ってる」
「知ってて誘ったの!?」
「だから練習するんでしょ」
「剣でいいよ」
「今日は弓!」
「何で」
「気分転換!」
その言葉に、凌華は少しだけ黙った。
孫尚香がどこまで意識しているのかは分からない。
けれど、わざわざ引っ張り出そうとしているのは何となく分かった。
だからといって。
「もっと楽な気分転換ない?」
「例えば?」
「……陸議さんのところ行く」
「それ気分転換なの?」
「静かだよ」
「仕事してるでしょ、陸議」
「私は端っこにいるから大丈夫」
「寝るんでしょ?」
凌華が勢いよく振り向いた。
「何で知ってるの!?」
「呂蒙から聞いた」
「あの人……!」
『軍中に広まってんじゃねえのか』
「最悪」
孫尚香が首を傾げた。
「何が?」
「あ」
「さっきから誰と話してるの?」
「独り言」
「また?」
「またって何」
「凌華、前から時々やってるじゃん」
孫尚香の視線が、凌華の腰元へ落ちる。
「その剣持ってる時」
凌華は無意識に長剣の柄へ触れた。
『お、気づいてたのか』
「…………」
『尚香、こういうところ妙に鋭いんだよな』
凌華が長剣を睨む。
孫尚香がすぐに指を差した。
「ほら!」
「何」
「今、剣見た!」
「見てない」
「見た!」
「自分の剣くらい見るでしょ」
「会話の途中で?」
「見る時もある」
『苦しいぞ』
「うるさい」
「誰が?」
「…………」
またやった。
孫尚香の目が細くなる。
「やっぱり誰かと話してる?」
「話してない」
『話してるだろ』
「孫策は黙ってて」
口に出した瞬間。
空気が止まった。
凌華も止まった。
「…………」
ゆっくり目を閉じる。
『馬鹿』
「……孫策?」
孫尚香の声がした。
凌華は恐る恐る目を開いた。
「今、孫策って言った?」
「言ってない」
「言ったよ」
「気のせい」
「兄上の名前を聞き間違えるわけないでしょ!」
それはそうだ。
『もう諦めろ』
「孫策のせいだからね」
「また言った!」
「もう!」
凌華は頭を抱えた。
けれど、この時点ではまだ、それ以上話すつもりはなかった。
「とりあえず弓!」
「誤魔化した」
「誤魔化してない!」
「絶対誤魔化した!」
「いいから行くよ!」
さっきまで嫌がっていたはずの凌華が、今度は逆に孫尚香を急かす。
孫尚香は怪しそうな顔をしながらも、ひとまず追及をやめた。
◇ ◇ ◇
弓場へ着いた凌華は、並べられた的を見るなり早くも後悔した。
「……遠くない?」
「普通」
「遠いよ」
「これくらい当てられないと」
「私は近づいて斬るからいい」
「弓の意味ないじゃん」
「だから弓使ってないんだって」
孫尚香から弓を渡され、凌華は渋々受け取る。
「前に教えたの覚えてる?」
「たぶん」
「その返事やめて」
「大丈夫大丈夫」
構えた途端、孫尚香が寄ってきた。
「全然大丈夫じゃない。肩上がってる」
「こう?」
「力入りすぎ」
「力抜いたら引けない」
「全部抜くんじゃない!」
「難しい!」
孫尚香に肘と足の位置を直されながら、凌華はどうにか的へ身体を向けた。
「的を見る」
「見てる」
「真ん中だよ」
「見てるって!」
「本当に?」
「信用なさすぎ!」
凌華は的を睨んだ。
弦を引く。
剣なら、もっと自由に動ける。
相手との距離は自分で詰められるし、動かれればこちらも動けばいい。
けれど弓は、自分はここ、的はあそこ。
そこへ一本の矢を飛ばせと言われる。
それがどうにも性に合わない。
指を離す。
弦が鳴った。
矢が飛び――的のかなり右側へ突き刺さった。
「…………」
「…………」
凌華はゆっくり弓を下ろした。
「帰ろ」
「待って!」
「才能ない」
「一本で決めないで!」
「今ので分かった」
「私は最初から知ってる!」
「ひどい!」
孫尚香が笑いながら次の矢を差し出す。
二本目は左。
三本目は手前。
四本目は的の上。
五本目は、なぜか隣の的の近くへ飛んでいった。
とうとう孫尚香がその場へしゃがみ込む。
「ちょっと……凌華……!」
「笑わないで!」
「どこ狙ってるの!?」
「真ん中!」
「絶対嘘!」
「本当だって!」
『相変わらずひでえな』
「孫策まで笑わないで!」
孫尚香がぴたりと止まった。
「また孫策って言った」
「あっ」
凌華は気まずそうに視線を逸らした。
「……あとで」
「何が?」
「あとで話すかもしれない」
孫尚香の表情が少しだけ変わった。
けれど今度は追及せず、
「分かった」
とだけ答えた。
◇ ◇ ◇
「今度は尚香やって」
しばらくして、凌華は弓を差し出した。
「いいよ」
孫尚香が受け取る。
構えた瞬間。
凌華は少しだけ悔しくなった。
自分とは違う。
弓が身体に馴染んでいる。
矢をつがえる動きにも、弦を引く腕にも迷いがない。
指が離れる。
乾いた音とともに、矢が的へ真っ直ぐ突き立った。
「…………」
「どう?」
「ずるい」
「何が?」
「上手い」
「練習したもん」
「いつから?」
「小さい頃から」
孫尚香は次の矢を手に取った。
「弓だけじゃないよ。馬も、礼儀も、家のことも。孫家の娘だからって色々覚えさせられた」
「大変そう」
「まあね」
孫尚香はそれほど重く考えていない様子で、次の矢をつがえる。
「いずれ嫁ぐ時に困らないようにっていうのもあったし」
凌華の顔が上がった。
「……嫁ぐ?」
「うん」
「ちょっと待って。それって――」
『尚香、昔は弓外しまくってたけどな』
凌華が反射的に長剣を見る。
「え、そうなの?」
孫尚香の手が止まった。
「……何が?」
「あ」
『凌華』
「孫策、今それ言う!?」
孫尚香の表情が完全に止まった。
「…………孫策?」
「…………」
「今、また言ったよね」
凌華は黙る。
孫尚香の視線が長剣へ向いた。
さっきまでの軽い空気が、ほんの少し変わった。
「凌華」
「……何」
「その剣」
孫尚香は凌華の腰元を見つめる。
「誰かいるの?」
凌華は答えなかった。
『凌華』
剣の孫策の声も、先ほどまでとは違っていた。
『無理に言わなくていい』
凌華は柄を握った。
孫尚香は待っている。
兄の名前が何度も出てくれば、聞きたいに決まっている。
それでも。
今まで話してこなかったことを、ここで口にしていいのか。
少しだけ迷った。
「……尚香」
「うん」
「誰にも言わないって約束できる?」
孫尚香の顔から笑みが消えた。
「できる」
迷いのない返事だった。
凌華は長剣を外し、両手で持って膝の上へ置いた。
孫尚香も向かいへ腰を下ろす。
乾いた風が、二人の間を抜けていった。
「この剣にね」
凌華は柄へ指を添える。
「人がいる」
孫尚香は黙って待っている。
「声が聞こえるのは私だけ。私がここに来た時からずっといて、最初の頃から色々教えてくれた」
「……誰?」
凌華は一度息を吸った。
「孫策」
孫尚香の表情が止まった。
「…………」
「でも」
凌華は膝の上の長剣へ目を落とした。
「ちゃんと孫策だよ」
孫尚香の視線も、同じように剣へ落ちる。
「兄上……なの?」
凌華はすぐには答えなかった。
違う、と言ってしまうのは違う。
けれど、自分を娘にしてくれたあの孫策が、そのままこの剣の中へ入っているのかと聞かれれば、それも少し違う。
「……孫策は孫策」
凌華はゆっくりと言った。
「声も似てるし、考え方も、笑い方も。変なところで調子に乗るところも一緒」
『最後のはいらねえだろ』
「今、最後のはいらないって言ってる」
孫尚香の目が僅かに揺れた。
「じゃあ、やっぱり兄上なんじゃないの?」
「うん。そうなんだけど……」
凌華は少し考える。
どう言えばいいのか、自分でもまだうまく整理できていない。
「私を娘にしてくれた孫策と、この剣の孫策は、同じ時間を一緒に過ごしてないんだよ」
「同じ時間?」
「うん。この孫策には、この孫策が過ごしてきた時間がある。私と一緒にいた孫策には、私と一緒にいた時間がある」
孫尚香は黙って聞いている。
「だから、私の中ではどっちも孫策。でも、この剣があるから、いなくなった孫策が戻ってきたって思ってるわけじゃない」
『…………』
剣の孫策も何も言わない。
凌華は柄へ指を添えた。
「代わりじゃないんだよ。比べてるわけでもないし」
孫尚香はしばらく長剣を見つめていた。
「……難しいね」
「うん。私も説明するの難しい」
「でも」
孫尚香は少し考えてから、もう一度剣を見る。
「兄上は兄上なんだ?」
凌華も長剣を見る。
「孫策?」
少しして、声が返ってきた。
『……俺は孫策だよ』
凌華の表情が僅かに緩む。
「『俺は孫策だよ』って」
孫尚香の目が少し潤んだ。
けれど、泣きはしなかった。
「そっか」
もう一度、長剣を見る。
「じゃあ……兄上」
『…………おう』
凌華が小さく笑う。
「『おう』だって」
孫尚香の口元も、ほんの少しだけ緩んだ。
「何か変な感じ」
『俺もそう思う』
「孫策もそう思うって」
「自分で言うんだ」
凌華も笑った。
しばらくして、孫尚香が静かに口を開く。
「私も、前と全部同じだとは思わないよ」
凌華が顔を上げる。
「兄上が戻ってきた、っていうのとも違うんだよね」
「……うん」
「でも、この中にいるのも兄上なんだ」
「うん」
「それなら、それでいい」
『……そうだな』
凌華はそのまま伝えた。
「『そうだな』って」
孫尚香は頷いた。
「そっか」
それ以上は、何も言わなかった。
兄が戻ってきたわけではない。
死んだ孫策に、もう一度会えたわけでもない。
けれど、だからといって何もないわけでもなかった。
まだ名前のつけられない奇妙な距離を、今はそのまま受け入れるだけでよかった。
◇ ◇ ◇
少しして、孫尚香が立ち上がった。
「もう一回やる?」
凌華が露骨に嫌な顔をする。
「まだやるの?」
「一本くらい当てて帰ろうよ」
「今日帰れなくなるよ?」
『自覚あんじゃねえか』
「孫策うるさい」
孫尚香が笑った。
今度はもう、凌華が剣へ話しかけても不思議そうな顔はしない。
「何て?」
「自覚あるんだなって」
「あるんじゃん」
「あるよ!」
声を聞けるのは凌華だけなのに、三人で話しているような妙な感じがする。
孫尚香から弓を受け取り、凌華はもう一度的へ向かった。
「肩の力抜いて」
「はいはい」
「ちゃんと的見て」
「見てる」
『今度は隣の的狙った方が当たるんじゃねえか?』
「黙ってて!」
「何て?」
「隣狙えって」
孫尚香が吹き出す。
「それいいかも!」
「よくない!」
凌華は弓を構えた。
今度こそ真ん中を見る。
弦を引き、呼吸を整える。
孫尚香が横で見ている。
剣の孫策も、何も言わずに待っている。
凌華は息を吐き、指を離した。
矢が飛ぶ。
――トッ。
的の端へ突き立った。
「…………」
凌華の目が大きくなる。
孫尚香も固まった。
「……入った」
「入った!」
「入った!!」
凌華が弓を持ったまま跳ねた。
「尚香! 見た!?」
「見た見た!」
「孫策! 見た!?」
『見てたよ』
「入った!」
『端だけどな』
「余計なこと言わなくていい!」
孫尚香が笑う。
「何て?」
「端だけどって!」
「本当のことじゃん!」
「尚香まで!」
夕方の弓場に、二人の笑い声が広がった。
その中へ、凌華にしか聞こえない声が混じる。
孫尚香には聞こえなくても。
もう、そこに誰かがいることは分かっていた。
◇ ◇ ◇
弓を片づけたあと。
二人はしばらく弓場の端へ座っていた。
さっきまで笑っていた孫尚香も、今は少し落ち着いている。
凌華は膝を抱えながら、ぼんやり前を見た。
そして。
ふと思い出した。
「……あ」
「何?」
「さっきの話」
「さっき?」
「尚香が弓やってた理由」
「小さい頃からって話?」
「そのあと」
孫尚香が少し考える。
「ああ」
思い出したらしい。
「婚姻?」
「それ!」
凌華が勢いよく身体を向けた。
「途中で孫策が余計なこと言ったから聞けなかった!」
『俺のせいかよ』
「孫策は黙ってて!」
孫尚香が少し笑う。
「そんなに気になってたの?」
「気になるよ」
「何が?」
凌華は真顔になる。
「私も孫家の娘なんだよね」
「そうだよ」
「じゃあ私も、知らない人と結婚しろって言われることあるの?」
孫尚香は少し目を瞬いた。
「……それ気にしてたの?」
「気にするでしょ!」
「まあ、絶対ないとは言えないけど」
凌華の顔が固まった。
「…………あるの?」
「可能性の話」
「嫌なんだけど」
「まだ何も決まってないって」
「でも可能性あるんでしょ?」
「孫家の娘なら、婚姻が本人だけの話じゃなくなることはあるよ」
孫尚香は、それ自体を特別なことのようには話さなかった。
小さい頃からそういうものだと教えられてきたのだろう。
「相手を自分で決められないこともあるし」
「知らない人でも?」
「場合によっては」
「嫌」
即答だった。
孫尚香が凌華を見る。
「そんなに?」
「そんなに」
「会ってみたらいい人かもしれないよ」
「それでも嫌」
凌華は膝を抱え直した。
「好きでもない人と結婚するの嫌」
孫尚香の目が少しだけ丸くなる。
「凌華の時代は、みんな好きな人とするの?」
「絶対じゃないけど、自分で決める人の方が多いよ」
「へえ」
「だから、ある日突然『この人と結婚しろ』って言われたら困る」
『お前なら逃げそうだな』
「逃げるよ」
孫尚香が吹き出した。
「どこに?」
「え?」
「逃げるんでしょ。どこ行くの?」
凌華は口を開いた。
けれど。
そこで初めて考えた。
もし、本当にそんな話が来たら。
誰へ相談するだろう。
誰のところへ行けば。
どうしたらいいか考えてくれるだろう。
答えは、思っていたよりずっと早く浮かんだ。
「……陸議さんのところ」
孫尚香の笑いが止まった。
剣の孫策まで黙る。
凌華は二人分の沈黙に気づき、眉を寄せた。
「何?」
「……何で陸議?」
「こういうの相談できそうだから」
「ふうん」
「何その顔」
「別に」
『なるほどな』
「孫策まで何!?」
『何でもねえよ』
「絶対何かあるじゃん!」
凌華は不満そうに長剣を見る。
孫尚香はその横顔を眺めながら、何かを察したように口元を緩めた。
けれど。
何も言わなかった。
今の凌華に何か言ったところで、きっと首を傾げるだけだ。
「じゃあ聞いてくれば?」
孫尚香が言った。
「陸議に」
「……うん」
凌華は頷いた。
その時は、ただ確認すれば済む話だと思っていた。
本当にそんなことがあるのか。
もしあるなら、どういう時なのか。
それだけ聞けばいい。
そう思っていた。
けれど、弓場を離れて歩き始めてからも、さっきの言葉が頭から離れなかった。
孫家の娘なら、婚姻が本人だけの話ではなくなることがある。
相手を自分で決められないこともある。
知らない相手でも。
「…………」
凌華の歩みが少し遅くなる。
『まだ考えてんのか』
「だって」
『何も決まってねえだろ』
「でも可能性あるって尚香言ったじゃん」
『可能性の話だろ』
「そうだけど」
言いながら、胸の奥が落ち着かなくなっていく。
もし本当に。
ある日突然、知らない相手との婚姻を命じられたら。
断れるのか。
逃げられるのか。
そもそも、自分に選ぶ権利はあるのか。
考えれば考えるほど、さっきまで「可能性の話」だったものが、急に現実味を帯びてくる。
「……嫌なんだけど」
『だから何も決まってねえって』
「分かってるけど!」
少し前を歩いていた孫尚香が振り返る。
「凌華?」
「……尚香」
「何?」
「もし本当にそうなったら、断れる?」
孫尚香は少し考えた。
「相手とか状況によると思うけど」
「状況によるの!?」
「ちょっと、落ち着いて」
「落ち着けない!」
さっきまではまだ笑っていられた。
けれど、今はもう無理だった。
「やっぱり陸議さんに聞いてくる!」
「今から?」
「今!」
『おいおい』
「孫策うるさい!」
凌華はくるりと踵を返した。
「凌華!」
「尚香またね!」
「ちょっと待って!」
けれど、もう止まらない。
婚姻の可能性があるのか。
自分は断れるのか。
誰が決めるのか。
聞きたいことが一気に増えていた。
そのまま廊下を早足で進み、やがて駆け出す。
『そんな慌てなくても逃げねえだろ、陸議は』
「分かってる!」
『じゃあ走るなよ』
「今聞きたいの!」
凌華はそのまま陸議の部屋へ向かった。
頭の中では、さっきまでの話がぐるぐると回っている。
知らない相手。
婚姻。
孫家の娘。
断れないかもしれない。
そこまで考えたところで、もう落ち着いて戸を叩く余裕などなかった。
凌華は勢いよく戸を開けた。
「陸議さん!」
中にいた陸議が、驚いて顔を上げる。
凌華はそのまま机の前まで駆け寄った。
「私、結婚させられるかも?!」
――後編へ続く。




