番外編 陸議の部下、二日目です
二度目に陸議の仕事を手伝うことになったのは、少なくとも凌華の意思ではなかった。
朝、廊下を歩いていた凌華は、少し離れたところから陸議に名を呼ばれた瞬間、振り返るより先に嫌な予感を覚えた。
「嫌だよ」
「まだ何も言っていません」
足を止めて振り返ると、案の定、陸議はこちらへ向かって歩いてきている。
「その顔は知ってる」
「どの顔です?」
「私に何か頼もうとしてる顔」
「随分と具体的ですね」
陸議は困ったように笑ったが、否定はしなかった。
それが余計に怪しい。
凌華は先回りするように腕を組んだ。
「今日は訓練あるから」
「午後からでしょう」
「…………」
「午前は空いていると聞きました」
凌華の眉がぴくりと動く。
「誰から!?」
「呂蒙殿です」
「呂蒙さん――!」
今度会ったら絶対に文句を言おう。
そう心に決めたところで、腰の長剣から呆れたような声が響いた。
『諦めろ』
「孫策は黙って」
「まだ何も頼んでいないのですが」
「絶対仕事でしょ」
「少しだけ手伝っていただけないかと」
「嫌」
「昼までで構いません」
「嫌」
間髪を入れずに断った凌華に、陸議は少し考えるような間を置いてから続けた。
「以前あなたが考えた方法は、今も使っています」
「それは知ってる」
「ですから、前回ほど大変ではありません」
その言葉に、凌華の返事が僅かに遅れた。
確かに、それは少し気になる。
あのとき凌華が半ば勢いで作った分類を、陸議がその後どう使っているのか。最初の形をそのまま使っているのか、それとも実際の仕事に合わせて変えているのか。
一度気になってしまうと、確認してみたい気持ちがむくむくと湧いてくる。
『顔に出てるぞ』
「出てない」
「何がです?」
「何でもない」
陸議は明らかに怪しんでいたが、追及はせず、代わりに静かに念を押した。
「昼までです」
「…………」
「訓練には間に合わせます」
凌華はしばらく陸議の顔を見つめた。
「……本当に?」
「約束します」
その言い方が妙に真面目だったため、凌華はとうとう大きく息を吐いた。
『落ちたな』
「うるさい」
それから陸議へ指を向ける。
「昼までだからね」
「ありがとうございます」
「絶対だからね!」
「はい」
満足そうに笑った陸議を見た瞬間、凌華はなぜかものすごく負けたような気がした。
◇ ◇ ◇
陸議の部屋へ入った凌華は、机を見た途端に足を止めた。
前回は書簡の山を見ただけで帰りたくなった場所だったが、今日は様子がまるで違う。
「……え」
「どうしました?」
「ちゃんと続いてる」
机の上には、前回凌華が決めた分類に沿って書簡が分けられていた。
急ぎのもの、本日中に処理するもの、返答や確認を待っているもの、他の者へ回してよいもの、後でも構わないもの。
ほんの一日手伝うために決めたつもりだった仕組みが、きちんと残されている。
「当然でしょう」
陸議は何でもないことのように言ったが、凌華にはそれだけでも少し意外だった。
しかも、よく見ると前回にはなかったものまで増えている。
「……これ何?」
凌華が小さな木札を一つ取る。
「完了した案件です」
「じゃあ、こっちは?」
「返答を待っているものです」
「これは?」
「私が確認した後、別の者へ渡すものですね」
凌華は木札と書簡の並びを見比べた。
「増えてるじゃん」
「使っているうちに必要になりましたので」
単純に真似をしているだけではない。
自分で使いながら、不便なところを見つけ、少しずつ陸議の仕事に合う形へ変えている。
凌華は素直に感心した。
「陸議さん、こういうの好きでしょ」
「好きというのは?」
「整理するの」
「効率が上がるのであれば取り入れるだけです」
「それを好きって言うんじゃない?」
「違うと思います」
『似たようなもんだろ』
「私もそう思う」
陸議が凌華を見る。
「孫策殿と意見が一致しましたか」
「うん」
「では、おそらく間違っていますね」
『おい』
剣から即座に不満の声が飛ぶ。
凌華は思わず笑った。
「孫策が怒ってる」
「でしょうね」
陸議は平然と答えた。
声そのものは聞こえないはずなのに、今では凌華の返事や表情だけで、孫策が何を言っているのか何となく察するようになっている。
そのことに気づいて、凌華は少しおかしくなった。
いつの間にか陸議まで、この奇妙な三人での会話にすっかり馴染んでいる。
◇ ◇ ◇
「じゃあ始めよっか」
「お願いします」
一度経験しているうえに、仕組みそのものも整っている。
前回のように、何がどこにあるのか分からず右往左往することはなかった。
凌華は書簡を一つ手に取る。
「これ急ぎ?」
「はい」
「じゃあ先」
すぐに陸議の手元へ置き、次を見る。
「こっちは?」
「返答待ちです」
「なら今は触らない」
別の場所へ戻す。
「次の人、いつ?」
「あと四半刻ほどです」
「何の件?」
「城外の倉についてです」
凌華はすでに関連する書簡を探し始めていた。
「これいる?」
「……ええ」
「こっちも?」
「使います」
「じゃあ置いとく」
必要なものを陸議の右手側へ揃えてから、また次の仕事へ移る。
「これは陸議さんじゃなくてもいいよね」
「ええ」
「じゃあ回すよ」
「お願いします」
前回と違うのは、凌華が仕事の流れを覚えていることだけではなかった。
陸議の方もまた、凌華がどう動くのかを知っている。
「凌華」
「はい」
「昨日届いた――」
「西のやつ?」
「はい」
「ここ」
凌華が迷わず差し出す。
「ありがとうございます」
「次これ見るでしょ?」
「……ええ」
「じゃあ置いとく」
言葉がどんどん短くなっていく。
それでも、困ることはなかった。
むしろ説明を省いても相手が理解してくれることが心地よく、凌華は前回よりもずっと軽い気持ちで仕事を進めていた。
しばらくして、ふとそのことに気づく。
凌華は机の上を見回した。
「……前よりめちゃくちゃ楽」
「私もです」
「だよね」
陸議も同じことを感じていたらしい。
二人は何となく顔を見合わせた。
前回は互いに説明しながら探っていたものが、今日は最初から噛み合っている。
だから凌華は、本当に何の意味もなく口にした。
「相性いいね」
陸議の動きが止まった。
ほんの一瞬だったが、はっきり分かるほどに手が止まったため、凌華は不思議そうに首を傾げる。
「陸議さん?」
「……仕事の話ですよね」
「他に何があるの?」
あまりにも当然のように返され、陸議は僅かに視線を逸らした。
「そうですね」
腰の長剣から笑い声が聞こえる。
『ははっ』
「孫策、何?」
『何でもねえよ』
「最近それ多くない?」
『気のせいだ』
どうにも二人の反応が変だと思いながらも、凌華は深く考えず、また書簡へ手を伸ばした。
自分が今口にした言葉が、陸議にとってどれほど別の意味を持ち得るのかなど、考えもしなかった。
◇ ◇ ◇
しばらくして、部屋の入口から落ち着いた声が聞こえた。
「随分と順調そうだな」
凌華はその声だけで、何となく嫌な予感を覚えた。
ゆっくり振り返る。
そこには周瑜が立っていた。
「周瑜さん」
「何だ、その顔は」
「嫌な予感がする」
「失礼な」
そう言いながら入ってきた周瑜の手には、見覚えのありすぎる物が抱えられていた。
書簡の束だった。
凌華はそれを見た後、ゆっくり陸議へ目を向ける。
陸議もまた、同じように周瑜の手元を見ていた。
「周瑜殿」
「何だ」
「それは?」
「仕事だ」
「見れば分かる!」
凌華は思わず立ち上がった。
「何で持ってきたの!?」
「少し確認してもらいたい」
「誰に!?」
「お前に」
「私!?」
長剣から盛大な笑い声が響く。
『ははははっ!』
「孫策笑うな!」
周瑜は何も聞こえていないまま、当然のように書簡を机へ置いた。
「未来の仕事のやり方というものに興味が湧いてな」
「周瑜さん、自分でもう導入してるじゃん!」
「だからこそだ」
「だからこそ、じゃない!」
周瑜は凌華の抗議をまるで気にせず、一番上の書簡を手に取った。
「こちらはどう分類する?」
「知らないよ!」
「見れば分かるだろう」
「周瑜さんの仕事まで知らない!」
「では説明しよう」
「そういう問題じゃない!」
とうとう凌華は助けを求めるように陸議を見る。
「陸議さん!」
「はい」
「私、陸議さんの部下だよね!?」
「今日だけですが」
「そこじゃない!」
陸議の口元が僅かに緩んだ。
凌華は見逃さない。
「笑った!」
「笑っていません」
「今絶対笑った!」
「気のせいです」
「絶対笑ったって!」
その横から、周瑜が平然と書簡を差し出してくる。
「凌華、これは?」
「知らない!」
「まず読め」
「人使い荒いなあ!」
文句を言いながらも、差し出されたものを受け取ってしまうあたり、凌華も結局は放っておけない。
陸議はそんな凌華を見て、また少し笑っていた。
◇ ◇ ◇
周瑜の仕事まで増えたことで一時はどうなることかと思ったが、内容さえ分かれば、やること自体は同じだった。
凌華は一枚の書簡に目を通し、少し考えてから机へ置いた。
「……これは急ぎ」
「なぜだ?」
「ここ。明後日までに返事が必要なんでしょ?」
「そうだ」
「だったら今日中には内容を確認しないと駄目じゃん」
「なるほど」
次の書簡へ移る。
「これは?」
「急ぎではない」
「じゃあ後」
別の束へ置き、さらに二枚を並べる。
「これは同じ件?」
「そうだ」
「じゃあまとめる」
重ねて一か所へ寄せる。
もう一つを見る。
「これは周瑜さんじゃなくてもいいでしょ」
「ほう」
「何?」
「もう分かるのか」
「だって確認だけじゃん」
「その通りだ」
「じゃあ他の人へ」
「分かった」
そこで凌華の手が止まった。
何となく引っかかるものを感じ、じっと周瑜を見る。
「周瑜さん」
「何だ」
「私で遊んでない?」
「まさか」
「本当に?」
「有能な者へ仕事を頼んでいるだけだ」
いかにも正論らしい言い方だった。
『うまく乗せられてんな』
「孫策は黙って」
隣を見ると、陸議はすでに自分の仕事へ戻っている。
「陸議さん」
「何です?」
「助けてよ」
「何をです?」
「周瑜さん」
「無理です」
あまりにも早い返事だった。
「即答!?」
「私にも無理なものはあります」
「そこ諦めるんだ!?」
周瑜の口元に僅かな笑みが浮かぶ。
凌華は完全に一人だけ損をしている気がしてならなかった。
◇ ◇ ◇
それから一刻ほど経った頃には、部屋の中の流れそのものが変わっていた。
「陸議さん、これ確認」
「はい」
「周瑜さん、これは返答待ち」
「分かった」
「これ誰に回せばいい?」
「私が預かろう」
「じゃあお願い」
陸議が顔を上げる。
「凌華、先ほどの件ですが」
「右から二番目」
「ありがとうございます」
今度は周瑜の書簡を見る。
「周瑜さん、これ同じところから来てるけど」
「まとめて構わない」
「じゃあ一緒」
いつの間にか、凌華が二人の間で仕事を回していた。
陸議の案件と周瑜の案件を混ぜないように分けながら、それぞれに必要なものだけを渡していく。
訪ねてくる者がいれば用件を聞き、本人へすぐ通す必要がないものなら必要事項だけを確認しておく。
「陸議さん、次の人来た」
「どの件です?」
「南の倉」
「では先ほどの――」
「もう置いてる」
「……ありがとうございます」
「周瑜さんは?」
「何だ」
「この人、周瑜さんにも用があるって」
「後で行く」
凌華はそのまま使者へ向き直る。
「だって」
「承知しました」
使者が部屋を出ていき、凌華は自然に次の書簡へ手を伸ばした。
そこで初めて、妙に静かなことに気づいた。
顔を上げる。
陸議がこちらを見ている。
その向こうでは、周瑜も同じように凌華を見ていた。
「……何?」
先に口を開いたのは周瑜だった。
「いや。少し驚いている」
「何が?」
「お前は、指示を待たないのだな」
「え?」
言われて初めて、凌華は自分がしていたことを振り返った。
「必要なことを自分で見つけて動いている。誰に教わった?」
「誰って……」
凌華は少し考えた。
意識したことはなかった。
「叔父さんかなあ」
「厳しい人だったのか?」
「うーん……」
現代にいた頃のことを思い出す。
最初から何でもできたわけではない。
むしろ慣れない頃には、散々失敗した。
「最初の頃、よく言われたんだよね」
「何と?」
「『次に何が必要か考えろ』って」
凌華は話しながら、手元の書簡の端を揃えた。
「言われたことだけやってても仕事は終わらないから、その人が今何してるか見て、次に必要そうなものを用意して。予定見て、人が来るなら資料出して……そういうの」
周瑜は口を挟まずに聞いている。
「最初はめちゃくちゃ怒られたけどね」
すると陸議が意外そうに顔を上げた。
「それは意外ですね」
「何が?」
「あなたは最初から器用にこなしていたのかと思いました」
「全然」
凌華は思わず笑った。
「失敗しまくったよ。違う書類持っていったり、予定間違えたり、電話の相手の名前忘れたり」
「以前話していた、遠くの者と話す道具ですね」
「そう、それ。向こうだと仕事でも普通に使ってたから、誰から掛かってきたかちゃんと覚えて伝えないといけなくて」
「なるほど」
「最初の頃は、それすらよく失敗してた。でも、何回もやってるうちに覚えた」
話しながら、凌華は目の前の書簡へ視線を落とした。
未来では、紙ではなく別の道具を使うことも多かった。
連絡の速さも違う。
予定を確認する方法も違う。
それでも、誰かが考え、誰かへ伝え、その受け取った者が次の仕事をするという部分は変わらない。
「だから最初ここ来た時も全然分かんなかったけど……やっぱり仕事って、時代が違ってもそんなに変わらないのかもね」
周瑜が微かに笑った。
「人がするものだからな」
凌華は顔を上げた。
「……あ。それ、なんかいいね」
「何がだ」
「人がするものだからって」
「そうか?」
「うん」
未来と、この時代。
何もかも違うと思っていた。
けれど、こういう小さなところでは不思議なほど同じものが残っている。
そのことが、凌華には少し嬉しかった。
未来から切り離され、この時代へ一人で落ちてきた頃には想像もしなかった。
自分が向こうで普通に過ごしていた時間が、こうしてこちら側の生活へ繋がっていくことを。
◇ ◇ ◇
「凌華」
呼ばれて顔を上げる。
「ん?」
陸議は窓の外を一度見てから言った。
「そろそろ昼です」
その言葉を理解した瞬間、凌華は勢いよく窓へ顔を向けた。
太陽の位置を見る。
そして陸議を見る。
「昼!?」
「はい」
「訓練!」
慌てて立ち上がる。
「行かなきゃ!」
「間に合います」
「本当に!?」
「約束しましたから」
陸議が落ち着いて答えたため、凌華はようやく胸を撫で下ろした。
「よかった……!」
急いで長剣を背負い直す。
「じゃあ行ってくる!」
部屋を出ようとしたところで、陸議から呼び止められた。
「凌華」
「何?」
振り返ると、陸議がこちらを見ていた。
「ありがとうございました」
凌華は少しだけ目を瞬いた。
仕事を手伝ったのだから礼を言われるのは当然なのに、真正面から言われると少し照れくさい。
「……どういたしまして」
それから周瑜を見る。
「周瑜さん」
「何だ」
「次から自分の仕事は自分でやってね」
「考えておこう」
「考えないで!」
腰の長剣から笑い声が聞こえる。
『ははっ』
「孫策も笑わない!」
凌華はそのまま、今度こそ部屋を飛び出していった。
◇ ◇ ◇
その日の夕方。
訓練を終えた凌華が戻ってくると、陸議の部屋にはまだ灯りが残っていた。
昼までには確かに仕事を終えていたはずなのに、と足が止まる。
『気になるなら見てこいよ』
腰から声がした。
「別に気になってない」
『じゃあ帰れ』
凌華は黙った。
『ほらな』
「うるさい」
結局、足は陸議の部屋へ向かっていた。
自分でも何をしているのだろうと思いながら、入口から中を覗く。
「陸議さん」
机に向かっていた陸議が顔を上げた。
「凌華」
「まだ仕事してるじゃん」
「少し追加がありましたので」
凌華は部屋へ入り、そのまま机へ近づいた。
「これ?」
「はい」
昼にはなかった書簡が何通か増えている。
「どれくらいかかる?」
「一刻もあれば」
「一刻……」
「先に帰って構いませんよ」
そう言われ、凌華は机を見る。
次に陸議を見る。
それからまた書簡へ視線を戻した。
昼までという約束は守ってもらった。
午後には自分の訓練も終えた。
だからもう、凌華には何の義理もない。
それなのに。
「そこ詰めて」
「……何をするのです?」
「手伝う」
陸議が驚いたように凌華を見る。
「ですが」
「二人なら早く終わるんでしょ?」
「それは……そうですが」
「じゃあ早く帰ろ」
凌華は当然のように陸議の隣へ座った。
自分でも、それが随分自然になっていることには気づいていなかった。
「これ急ぎ?」
「……はい」
「じゃあこれから」
すぐに仕事を始めようとする凌華へ、陸議が少し心配そうに声を掛ける。
「凌華」
「何?」
「訓練の後でしょう。疲れていませんか」
凌華は一瞬だけ言葉を止めた。
以前、疲れているのに大丈夫だと言い張って周囲を心配させたこともある。それを陸議も覚えているのだろう。
「大丈夫」
「その言葉は信用していいのですか?」
凌華は陸議を見る。
陸議も、冗談ではなくこちらを見ている。
だから今度は適当に答えず、自分の身体の感覚を確かめた。
「……今日は本当に大丈夫」
「なら」
陸議はようやく表情を緩めた。
「お願いします」
「任せて」
『結局やってんじゃねえか』
「孫策」
『何だよ』
「黙って」
『へいへい』
凌華は少しむっとしながらも、すでに次の書簡を取っていた。
窓の外が夕暮れから夜へ変わっていく頃、二人の前から最後の書簡がなくなった。
◇ ◇ ◇
「終わった」
凌華が嬉しそうに息を吐く。
「終わりましたね」
「帰ろ」
「はい」
二人で部屋を出る。
昼間の賑わいが嘘のように、廊下は静かだった。
並んで歩いていると、陸議がふと口を開いた。
「凌華」
「ん?」
「一つ聞いてもいいですか」
「何?」
陸議は少し迷ったようだった。
「以前、あなたは剣を振っている方が楽だと言いましたね」
凌華はすぐに思い出した。
前回、明日も手伝ってほしいと頼まれ、即座に断ったときのことだ。
「言ったね」
「今もそう思いますか?」
「うーん……」
凌華は歩きながら少し考えた。
仕事よりも剣を振る方が気楽かと聞かれれば、やはりその答えは変わらない。
「剣の方が楽」
「そうですか」
陸議の返事はいつも通り穏やかだった。
けれど、ほんの少しだけ残念そうに聞こえた気がして、凌華は続けた。
「でも」
「?」
「陸議さんの仕事手伝うのは、そんなに嫌いじゃないかも」
深い意味などなかった。
今日一日を振り返れば、思っていたより楽しかった。
陸議の考えていることが少しずつ分かり、言葉にされるより先に必要なものを渡せたときは気持ちがよかったし、二人でやれば仕事も早く終わる。
ただ、それだけだった。
だから凌華は何でもないことのように言い、そのまま歩き続けた。
隣から足音が消えたことに気づいたのは、数歩進んでからだった。
「陸議さん?」
振り返る。
陸議はほんの少し後ろに立っていた。
「……今行きます」
すぐに歩き出したものの、その表情はどこか困ったようにも見える。
腰の長剣から、今度は陸議へ向けるような声が聞こえた。
『お前も大変だな』
「何?」
凌華が反応すると、孫策はすぐに誤魔化した。
『何でもねえよ』
「またそれ?」
『いいから歩け』
「変なの」
凌華は首を傾げながら、追いついてきた陸議の隣へ戻った。
二人の肩が並ぶと、それ以上は何も気にせず歩き出す。
凌華にとっては、それがすでに自然なことだった。
翌朝。
陸議の机の隣には、一人分の空間がきれいに空けられていた。
書簡を分類する場所でも、物を一時的に置く場所でもない。
昨日までなら何かしら置かれていたはずのその場所を、陸議はいつの間にか片づけていた。
誰のためなのかは、本人が一番よく分かっている。
ただし、そのことを凌華へ伝えるつもりは、まだなかった。




