番外編 陸議の部下になりました
その日の朝、凌華は自分がどれほど面倒なことを引き受けたのか、まだ何も分かっていなかった。
赤壁を越え、戦の緊張がいくらか薄れたとはいえ、孫家の中が暇になったわけではない。戦後の処理や各地から届く報告、兵糧や人員の手配、諸将からの連絡など、むしろ今だからこそ片づけなければならない仕事が積み上がっている。
そんな事情を深く考えもせず、凌華は軽い気持ちで陸議の仕事を手伝うことになった。
「今日だけでしょう?」
「ええ」
陸議はいつもと変わらない穏やかな顔で答えた。
「書簡を整理したり、必要なもの持ってきたり?」
「概ね、その認識で構いません」
「じゃあ余裕」
凌華が笑うと、陸議は一瞬だけ何かを言いたそうに視線を止めたものの、結局そのまま口を閉じた。
その僅かな間が気になって、凌華は首を傾げる。
「……何?」
「いえ」
「何よ。今、絶対何か言おうとしたでしょ」
「後ほど分かります」
「?」
そのときは意味が分からなかったが、凌華が陸議の言葉の意味を理解するまで、半刻もかからなかった。
◇ ◇ ◇
部屋へ入ってしばらくした頃、凌華は机の前で完全に動きを止めていた。
机の上には書簡や竹簡、各地から届いた報告、記録がいくつもの山を作っている。しかも、それで終わりではない。横にもある。棚にもある。部屋の奥にも、まだ手を付けていないらしい束が積まれていた。
それだけでも十分だったが、さらに問題なのは、それらが静かに積まれて待ってくれるわけではないということだった。
「陸議殿、こちらを」
「置いてください」
一人が出ていけば、すぐに別の者がやって来る。
「先日の件ですが」
「そちらは後ほど確認します」
また扉が開く。
「陸議殿」
「はい」
「こちらも確認をお願いします」
「少々お待ちを」
凌華は部屋の端に立ったまま、その光景をしばらく眺めていた。
陸議はまったく慌てない。
誰が何を持ってきても、それが何の件なのかをすぐに理解しているらしく、必要な指示だけを出して次へ移っていく。机の上へ書簡が一つ増えても、どこに何が置かれたのかまで把握しているようだった。
けれど、それを見ている凌華の方は、だんだん不安になってきた。
「……陸議さん」
「何です?」
「これ、全部今日やるの?」
「全部ではありません」
その返事を聞いて、凌華は少しだけ肩の力を抜いた。
「よかった」
「こちらもあります」
陸議が何気なく別の場所を示したため、凌華はそちらを見る。
そして、しばらく黙った。
そこには、今見ていたものと同じくらいの量の書簡が積まれていた。
「……帰っていい?」
「駄目です」
間髪を入れずに返され、凌華は眉を寄せた。
「さっき余裕って言ったの取り消す」
「まだ何もしていませんよ」
「見ただけで疲れた」
腰に下げた長剣から、楽しそうな笑い声が聞こえてくる。
『ははっ。威勢はどこ行った』
「孫策うるさい」
凌華が小声で返すと、陸議が顔を上げた。
「孫策殿ですか」
「うん。笑われた」
「それは仕方ありませんね」
「陸議さんまで!?」
「余裕、と言ったのはあなたでしょう」
「こんなの聞いてない!」
「説明しようとしました」
「してないよ」
「後ほど分かります、と」
「それ説明じゃないから!」
いくら文句を言ったところで、机の上の書簡は一枚も減らない。
しかも手伝うと言ったのは自分だ。ここで逃げるのも何となく悔しくて、凌華は大きく息を吐くと、仕方なく陸議の横へ腰を下ろした。
◇ ◇ ◇
最初のうちは、何をしても思うように進まなかった。
「これ、どこ?」
「右奥です」
「右奥のどれ?」
「上から三つ目」
凌華が一つ取って見せる。
「これ?」
「その下です」
「じゃあこれ?」
「それです」
「最初から四つ目って言ってよ!」
「積み方が少し崩れましたので」
「知らないよ!」
陸議の説明は間違ってはいない。むしろ正確なのだろう。
ただし、彼の頭の中で整理されている順序と、何も知らない凌華から見た順序はまったく違う。
しばらくして、凌華はまた一枚の書簡を手に取った。
「陸議さん」
「はい」
「この人の名前、何て読むの?」
「それは――」
「あ、待って。分かった。こっちか」
少しずつ文字には慣れてきているとはいえ、人の名や土地の名にはまだ迷うことがある。さらに厄介なのは、書かれている内容が理解できても、それが何の案件と繋がっているのかまでは分からないことだった。
「これ、さっきのと同じ話?」
「関連していますが、別件です」
凌華は二つの書簡を並べて眺めた。
「じゃあ一緒に置いちゃ駄目?」
「今までは分けています」
「なんで?」
「別の者から届いた書簡ですから」
「でも内容、かなり近いよね?」
「厳密には――」
「ああもう!」
とうとう凌華は頭を抱えた。
「分かりにくい!」
『お前が慣れてねえだけだろ』
「それはそうなんだけど!」
孫策の言うことは正しい。
文字が読めないわけではない。書簡に何が書いてあるかも、以前よりずっと分かるようになった。
問題は、その先だ。
誰が持ってきたのか。その書簡は何の件に関係しているのか。どこまで話が進んでいて、誰の返事を待っているのか。いつまでに処理しなければならないのか。
一つひとつなら理解できても、それらを一つの流れとして見ることが、凌華にはまだできていなかった。
しかも陸議は、それをほとんど全部覚えているらしい。
「陸議さん」
「はい」
「昨日届いた書簡とか覚えてる?」
「どの件です?」
「北の屯田のやつ」
「三通あります」
「三通!?」
凌華が驚いて顔を上げると、陸議は何でもないことのように続けた。
「最初が五日前、次が三日前、最後が昨日です」
「どこ?」
「そちらの下から二段目、左から――」
「待って待って待って」
凌華は両手を上げて止めた。
「何で覚えてるの?」
陸議は少し不思議そうに凌華を見る。
「必要ですから」
「いやいやいや……」
そこで、凌華の動きが止まった。
机の上を見る。
積み上がった書簡の束、届いたばかりの報告、これからやって来る人間、返事が必要なもの、確認だけでいいもの、誰かに回せるもの、期限が決まっているもの。
さっきまでは、ただ煩雑にしか見えなかった。
けれど、その一つひとつを眺めているうちに、胸の奥へ妙な既視感が浮かび始めた。
形は違う。
文字も違う。
使っている道具も、当然違う。
それでも、人から人へ仕事が流れていく仕組みそのものには、見覚えがある。
「……これ」
「何です?」
「叔父さんのところと一緒じゃん」
陸議が僅かに首を傾げる。
「叔父上?」
「うん」
凌華は机へ少し身を乗り出した。
「私、向こうにいた頃、親戚のおじさんのところでバイトしてたの」
「ばいと……以前聞いた、仕事のことですね」
「そうそう。大学行きながらね」
未来の話そのものには、陸議ももう慣れている。
凌華が大学という場所へ通っていたことも、未来では女性も普通に学問を修めたり仕事をしたりすることも知っていた。
「どのような仕事を?」
「色々。予定を確認したり、必要な書類を揃えたり、人が来る前に準備したり、連絡を取り次いだり」
そこで凌華は少し考えた。
「今考えたら、秘書みたいなことしてたんだよね」
「ひしょ?」
「あー……」
どう説明するか考えた末に、凌華は簡単な言葉へ置き換えた。
「その人が仕事しやすいように、次に何が必要か考えて、先に色々整えておく人」
「なるほど」
陸議が静かに頷く。
凌華はもう一度、机の上へ目を落とした。
さっきまでただ面倒にしか見えなかった書簡の山が、少し違って見える。
「……これ、やってること一緒だ」
道具は違っても、仕事の流れそのものは変わらない。
今すぐやること。
待たなければ進まないこと。
誰かへ渡してもいいこと。
同じ案件としてまとめた方が分かりやすいこと。
それらが頭の中で少しずつ繋がっていくにつれて、凌華の表情も変わっていった。
陸議はまだ、その変化の意味までは分かっていなかった。
◇ ◇ ◇
「陸議さん」
「はい」
「これ、動かしていい?」
「何をです?」
「全部」
陸議の手が止まった。
「……全部?」
「全部」
彼は机の上を見てから凌華へ目を戻した。
「何をするつもりです?」
「整理する」
「整理されていますが」
「されてない」
「されています」
「少なくとも私には、されてるように見えない」
言い切る凌華に、陸議はしばらく黙っていた。
けれど凌華が引く気配はない。
「いい?」
少し考えた末、陸議が頷く。
「……分かりました」
「よし」
許可が出ると、凌華はすぐに書簡を一つずつ広げ始めた。
「これは?」
「本日中に返答が必要です」
「こっちは?」
「確認だけで構いません」
「これは?」
「私でなくても処理できます」
凌華は顔を上げた。
「じゃあ、なんで陸議さんのところにあるの?」
「最終的な確認を――」
「だったら最後でいい」
陸議が少し黙る。
凌華は構わず、それを横へ移した。
「これは?」
「急ぎです」
「じゃあこっち」
「これは?」
「返答待ちです」
「今見ても進まないなら別」
さらにもう一つ。
「これは?」
「明日でも構いません」
「じゃあ後ろ」
最初のうち、陸議は凌華の手元を確認するように見ていた。
けれど、しばらくすると口を挟まなくなった。
やがて机の上には、用途ごとに五つのまとまりができていた。
凌華は一つ目を指す。
「これは今すぐ」
次に、二つ目。
「これは今日中」
三つ目には、返事や確認を待っている書簡をまとめる。
「今こっちで何かしても進まないやつ」
四つ目は、他の者でも処理できるもの。
最後に、今日やらなくても問題のないものをまとめた。
「これでいこう」
「…………」
「何?」
「いえ」
「問題ある?」
「ありませんが」
「じゃあ次」
凌華がすぐ次の書簡へ手を伸ばすと、陸議が少し呆れたように言った。
「もう始めるのですか」
「仕事減らしたいんでしょ?」
「……ええ」
「じゃあやる」
腰の長剣から声がする。
『急に人が変わったな』
「仕事だから」
『さっき帰りてえって言ってた奴が?』
「それは今も帰りたい」
凌華が小声で返していると、陸議がこちらを見た。
「聞こえませんが、何となく会話の内容が分かりますね」
「分からなくていい!」
陸議の口元が、ほんの僅かに緩んだ。
◇ ◇ ◇
凌華は、やり方を理解してから一気に速くなった。
「陸議さん、これ」
「はい」
陸議が一つを処理している間に、凌華は次に必要になるものを探す。
「次これ」
「はい」
「その次こっち」
「凌華」
「何?」
「少し待ってください」
「何で?」
「あなたが次々出すので、こちらが追いつきません」
「あ、ごめん」
言われると素直に手を止めた。
「じゃあ、それ終わるまで待つ」
「お願いします」
ただ待つだけでは退屈なので、その間に別の書簡へ目を通す。
「……これ、さっきの屯田の件じゃない?」
「ええ」
「じゃあ三通まとめるね」
「お願いします」
凌華は三通を並べながら確認していく。
「これが最初?」
「はい」
「次がこれ」
「そうです」
「最後が昨日のこれ」
順番通りに並べ終えると、凌華は満足そうにそれを眺めた。
「ほら。こうした方が流れ分かりやすくない?」
陸議が目を通す。
確かに、一通ずつ別々の場所へ置かれていたときよりも、一つの案件として流れを追いやすい。
「……確かに」
「でしょ?」
凌華は少し得意げに笑った。
その表情へ陸議の視線が一瞬だけ止まったが、凌華は気づかない。
「じゃあ次」
「楽しんでいませんか?」
「ちょっとだけ」
「先ほどまで帰りたがっていた人とは思えませんね」
「分かるようになったら面白くなってきた」
そう言いながら次の書簡へ手を伸ばしたところで、部屋へ使者がやって来た。
「陸議殿。先日の件ですが――」
「あ、それならこれ?」
陸議が口を開くより先に、凌華が一通の書簡を取り出す。
使者が目を瞬かせ、陸議も僅かに動きを止めた。
「……凌華」
「何?」
「なぜそれを?」
「この人、さっき名前聞いた人でしょ?」
「そうですが」
「だったら、この件じゃない?」
「……その通りです」
「ほら」
凌華は何でもないことのように書簡を差し出した。
「どうぞ」
「あ、ああ……」
使者は少し戸惑いながら受け取ると、確認するように陸議へ目を向けた。
陸議もまた、何とも言えない顔で凌華を見ていた。
ほんの少し前まで書簡の置き場所すら分からなかった人間が、もう自分より先に必要なものを取り出している。
それは単に覚えが早いというだけではなかった。
凌華は人の動きや会話の流れを見て、次に何が必要になるかを考えている。
陸議は何も言わなかったものの、その横顔を少しだけ長く見つめていた。
◇ ◇ ◇
昼を少し過ぎた頃、聞き慣れた声が部屋の外から聞こえた。
「陸議」
「周瑜殿」
凌華も顔を上げる。
「周瑜さん」
様子を見に来たらしい周瑜は、部屋へ入った途端に足を止めた。
机を見て、陸議を見る。
次に凌華へ目を向け、もう一度机の上へ視線を戻した。
「……何があった」
「何が?」
凌華が首を傾げる。
「随分と片付いている」
「ああ。それ?」
「それ、ではない」
周瑜は机へ近づいた。
書簡は用途ごとに分けられ、同じ案件に関わるものは一か所へまとめられている。処理済みのものは別の場所へ移され、今やる必要があるものだけが手元に残されていた。
「凌華が?」
「うん」
周瑜が陸議を見る。
「……随分と静かだな」
「私が探す前に出てきますので」
「…………」
「必要なものを言おうとすると、すでに横に置かれています」
凌華がすぐ口を挟む。
「勝手にやってるわけじゃないよ。ちゃんと聞いてるからね」
「ええ。聞かれています」
「ならいいでしょ」
周瑜は再び凌華へ視線を向けた。
「未来では、皆このように仕事をするのか?」
「いや?」
「違うのか」
「私が慣れてるだけ」
「慣れている?」
凌華は、先ほど陸議へした説明をもう一度繰り返した。
親戚の仕事を手伝い、予定を確認したり、必要な書類を準備したり、人が来る前に必要なものを揃えたりしていたこと。
「最初はこっちのやり方が全然分からなかったんだけど、分かってきたら同じだった」
「何がだ?」
「仕事の流れ」
凌華は机を指した。
「急ぐものからやる。今こっちで何かしても進まないものは待つ。陸議さんじゃなくてもできる仕事は他の人にお願いする。同じ話はまとめる。それで、次に必要になりそうなものを先に出しておく」
周瑜はしばらく机を眺めていた。
やがて、少し考えるように言う。
「未来の道具が優れているから、ではないのだな」
「道具?」
「以前話していただろう。遠くの者と話したり、文字をすぐに送ったりするものだ」
「ああ、電話とか」
「それらがなくとも、お前は同じように動ける」
凌華は少し考えた後、肩を竦める。
「まあ……やってること自体は一緒だからね」
周瑜の視線が僅かに変わった。
「なるほど。お前は道具ではなく、仕事の順序そのものを整理しているのか」
「……そう言われると、そうかも」
「面白いな」
周瑜は机から陸議へ目を移す。
「良い部下を持ったな」
「今日だけだからね」
凌華が即座に割って入った。
「今日だけ」
その言葉に陸議がほんの僅かに黙る。
周瑜はその間を見逃さなかったらしく、薄く笑った。
「残念だったな」
「周瑜殿」
「何だ」
「楽しんでいませんか」
「少しな」
「周瑜さん!」
凌華が睨むと、周瑜はとうとう声を立てて笑った。
その笑いの理由を、凌華だけがまだ分かっていなかった。
◇ ◇ ◇
午後になる頃には、凌華と陸議のやり取りは朝よりずっと短くなっていた。
「次の人、いつ来る?」
「半刻ほど後です」
「何の話?」
「南の輸送路についてです」
「じゃあ、これとこれ使う?」
凌華が二つの書簡を差し出す。
「……ええ」
「置いとくね。その前に、今すぐの二つ終わらせよう」
「はい」
「こっちから?」
「いえ。そちらより、こちらを先に」
凌華は一度だけ目を通し、すぐ理由に気づいた。
「あ、そっちと繋がってるんだ」
「ええ」
「了解」
自分が決めた順番に固執することはない。
陸議が理由を説明すれば、その場ですぐ組み替える。
そして陸議の方も、凌華へ何から何まで説明しなくなっていった。
「凌華、北の件を」
「これ?」
「はい」
「次は?」
「昨日の報告を」
「こっちね」
「お願いします」
朝には一つずつ指示されていたのに、今はそれだけで通じる。
周囲で仕事をしていた者たちも、いつの間にか二人のやり取りを不思議そうに見なくなっていた。
陸議が書簡から目を上げる。
「凌華、先ほどの――」
最後まで言う前に、一通の書簡が差し出された。
「これでしょ?」
「……まだ何も言っていませんが」
「次これだと思って」
「なぜ分かったのです」
「さっきから何回もそっち見てるから」
「…………」
「違った?」
「いえ。合っています」
「じゃあどうぞ」
陸議は差し出された書簡を受け取った。
指先が僅かに触れたが、凌華は何も気にせずすぐ次の仕事へ目を向けている。
陸議だけが一瞬視線を落とし、その後で静かに書簡を開いた。
しばらくして、ふと口を開く。
「凌華」
「何?」
「あなた、本当に今日だけですか」
「今日だけ」
「…………」
「嫌だよ?」
「まだ何も言っていません」
「顔に書いてある」
腰の長剣から、堪えきれないような笑い声が響いた。
『はははっ!』
「孫策笑うな!」
「何と言っているのです?」
「陸議さん、断られてるって笑ってる」
「まだ頼んでいません」
『頼む気だっただろ』
「頼む気だっただろって」
陸議が僅かに眉を寄せた。
「孫策殿」
『何だよ』
当然、陸議にはその返事は聞こえない。
それでも凌華の表情を見れば、余計なことを言われているのだろうということくらいは察したらしい。
「聞こえませんが、少し黙っていてください」
『お前も普通に俺と会話するようになったな』
凌華は思わず吹き出した。
「それはちょっと分かる」
「何と言いました?」
「秘密」
「なぜです」
「なんとなく」
陸議は納得していない顔をしていたが、凌華はそれ以上教えなかった。
◇ ◇ ◇
夕刻になり、陸議が最後の書簡を机へ置いた。
紙の擦れる音が止まり、凌華もようやく顔を上げる。
「終わった?」
陸議は机の上を一度見回した。
「……終わりました」
「本当に?」
「はい」
その瞬間、凌華は嬉しそうに大きく伸びをした。
「やった! 帰ろ」
陸議はすぐには立ち上がらず、静かになった机を眺めていた。
いつもなら、この時間になっても何かしら残っている。
今日中に終わらせなくてもよいのに、気になって確認してしまうもの。自分でなくても処理できるのに、念のため目を通していたもの。返事を待つしかないのに、何となく手元へ残していたもの。
今日は、それらがない。
必要なものだけが残り、終わったものはきちんと別へ移されている。
「……凌華」
「ん?」
「明日も来ませんか」
「嫌だよ」
あまりにも早い返事に、陸議が黙る。
腰の長剣から大きな笑い声がした。
『ははははっ!』
「孫策うるさい!」
「一日だけでも」
「嫌」
「午前だけ」
「嫌」
「では――」
「陸議さん」
「はい」
「私、剣振ってる方が楽」
陸議はしばらく凌華を見た後、諦めたように息を吐いた。
「……そうですか」
「うん。今日分かった」
「残念です」
本当に残念そうな顔をされ、凌華の方が困ってしまう。
「そんな顔しないでよ!」
その日は珍しく、まだ空に明るさが残っているうちに二人で部屋を出た。
凌華にとっては仕事が終わったというだけのことだったが、陸議にとっては、普段ならまだ机へ向かっている時間だった。
◇ ◇ ◇
翌日、凌華は陸議の部屋の前を通りかかった。
特に用があったわけではない。
ただ何となく中を覗いただけだった。
ところが、机の上を見た瞬間に足が止まった。
書簡が分けられている。
昨日と同じように、急ぎのもの、本日中に処理するもの、確認待ちのもの、他へ回せるもの、後でよいもの。
凌華はゆっくり陸議へ目を向けた。
「使ってるじゃん」
陸議が顔を上げる。
「何をです?」
「昨日の」
「ああ」
「ああ、じゃないよ」
「合理的でしたので」
「…………」
「何か問題が?」
「ないけど」
ない。
むしろ、自分が考えたやり方をそのまま使ってくれていることが、少しだけ嬉しい。
けれどそれを素直に言うのも何となく照れくさくて、凌華は机を眺めながら曖昧に返した。
「ふーん」
「何です?」
「別に」
『嬉しそうじゃねえか』
「嬉しくない」
陸議がこちらを見る。
「孫策殿ですか?」
「違う」
『嘘つけ』
「うるさい」
凌華はそれ以上何も言わず、少しだけ足早に部屋を出た。
それから数日後。
今度は周瑜の部屋へ入った凌華が、またしても足を止めた。
机の上には、どこかで見たような形で書簡が分けられている。
「……周瑜さん」
「何だ」
「これ」
「何がだ」
「これ!」
凌華が机を指差した。
「真似したでしょ!」
「真似とは人聞きが悪い」
「絶対私のやつじゃん!」
「合理的なものを取り入れただけだ」
「周瑜さんまで!?」
「良いものを使わない理由があるか?」
「ないけど!」
「なら問題なかろう」
周瑜は涼しい顔のまま一通の書簡を取った。
凌華は納得できないように頬を膨らませる。
「なんか悔しい」
すると周瑜は、書簡へ目を落としたまま言った。
「それに、陸議の仕事が以前より早く終わるようになった」
凌華の表情が少し変わる。
「本人も余計なものを抱え込まなくなったようだ」
「…………」
「なら、お前が一日働いた意味はあったのではないか?」
凌華はしばらく黙っていたが、やがて小さく笑った。
「……まあ。それなら、よかったけど」
自分がこの時代へ持ってきたものは、歴史の知識や未来の話だけではない。
何でもない日常の中で覚えたことも、こうして誰かの役に立つ。
そのことが凌華には、思っていた以上に嬉しかった。
◇ ◇ ◇
その日の夕方。
凌華が陸議の部屋の前を通ると、いつもならまだ灯りが残っているはずの時間なのに、部屋の中はすでに静かだった。
不思議に思って足を止めたところで、廊下の向こうから陸議が歩いてくる。
「あれ? もう終わったの?」
「ええ」
「早いじゃん」
凌華が驚くと、陸議は少しだけ笑った。
「誰かのおかげで」
何気ない言葉だったのに、凌華は一瞬だけ返事に困った。
自分が一日手伝ったことで、陸議の仕事の仕方が少し変わった。それは周瑜からも聞いていたし、自分の目でも確かめた。
けれど本人から改めて言われると、思ったより胸の奥がくすぐったい。
「帰るところです」
「そっか」
「凌華は?」
「私も」
「では、途中まで一緒に行きましょう」
「うん」
凌華は何の迷いもなく隣へ並んだ。
外へ出ると、傾いた陽が建物の影を長く伸ばしている。戦の最中には感じる余裕もなかった穏やかな風が頬を撫で、二人は同じ歩調で夕暮れの道を歩いていった。
考えてみれば、凌華は特別なことをしたわけではない。
未来から珍しい道具を持ち込んだわけでもなければ、これから起こる歴史を利用したわけでもない。
大学へ通っていた頃、親戚の叔父のところで働きながら身につけた、ほんの些細な仕事の仕方を思い出しただけだった。
それでも、その何でもない経験が、この時代で誰かの役に立った。
陸議の机が少し片づき、周瑜までその方法を取り入れ、そして毎日のように遅くまで仕事をしていた陸議が、こうしてまだ空の明るいうちに帰れるようになった。
そう考えると、凌華は素直に嬉しかった。
なぜ陸議が早く帰れることを、これほど嬉しく感じるのか。そこまではまだ考えない。
ただ、自分がこの時代でできることは、剣を振るうことや未来を知っていることだけではないのだと思えた。
『で? 明日は手伝わねえのか?』
腰の長剣から声がして、凌華はすぐに顔をしかめた。
「絶対やだ」
隣を歩いていた陸議がこちらを見る。
「孫策殿ですか?」
「うん」
「何と?」
「明日も手伝えって」
それを聞いた陸議は、少しも迷わず頷いた。
「それは良い提案ですね」
「陸議さん!?」
『意見が合ったな』
「そこで意気投合しないで!」
凌華の声が夕暮れの道に響き、その隣で陸議が堪えきれないように笑った。
凌華は「もう」と頬を膨らませながらも、陸議の隣から離れようとはしなかった。
本人はまだ気づいていない。
仕事をしているときも、こうして帰るときも、いつの間にか陸議の隣へ立つことを自然に選ぶようになっていることに。
そして陸議の方もまた、そこに凌華がいることを少しずつ当たり前のものとして受け入れ始めていた。
このとき凌華は、もう一日部下など絶対にやるものかと思っていた。
けれど結局、もう一度陸議の机の隣へ座ることになる。
それは、もう少しだけ先の話だった。




