番外編 三部作 第三部 何も言わないから
最初のうちは、本人もそれほど気にしていなかった。
戦場で顔を覚えられたからだろう。孫策の娘として知られていることもあるし、実際に兵たちと同じ戦場へ立ったことで、以前より距離が近くなったのかもしれない。
凌華にとっては、その程度のことだった。
だから廊下ですれ違った兵に声をかけられても普通に足を止めたし、褒められれば礼を言った。
「凌華様」
「はい?」
「今日もお美しいですね」
「……ありがとうございます」
別の日には、
「その髪飾り、とてもお似合いです」
「そう? ありがと」
また別の日には、
「先日の訓練、見ていました。剣を振るう姿も素敵でした」
「え、そうなんだ」
そのたびに凌華は笑って答えた。
嫌なわけではない。
むしろ、好意的に接してもらえること自体はありがたい。
ただ、何度も続くと少し疲れる。
相手が悪いわけではないから、邪険にはしたくない。せっかく声をかけてくれたのだから、笑った方がいいし、褒めてもらったなら礼も言う。
凌華は、そういうところでは妙に律儀だった。
◇ ◇ ◇
その日も、庭を抜けようとしたところで声をかけられた。
「凌華様!」
振り返ると、若い兵が二人こちらへ駆けてくる。
「あ、お疲れさまです」
「先日の訓練でお見かけしました」
「そうなんだ」
「凌華様、本当に剣がお上手ですね」
「いや、まだまだだよ。呂蒙さんとか陸議さんに普通に怒られるし」
「そんなことはありません!」
勢いよく否定され、凌華は少しだけ目を瞬いた。
「そ、そう?」
「はい。それに……」
兵の一人が何か言いかける。
もう一人も、少し緊張した顔をしていた。
凌華は何となく、話がもう少し長くなりそうだと察した。
それでも顔には出さない。
「うん?」
「……今日も、とてもお綺麗です」
「……ありがとうございます」
笑って答える。
それから少し話し、二人が満足したように去っていったあと、凌華はその場に立ったまま大きく息を吐いた。
「……疲れた」
腰の長剣から声がした。
『随分人気者だな』
「そういうのいいから」
『褒められてんだろ』
「分かってるよ」
凌華は歩き出した。
「だからちゃんと返してるじゃん」
『ならいいだろ』
「いいんだけど……」
少し考えてから、曖昧に続ける。
「なんか疲れる」
孫策はしばらく黙っていた。
『じゃあ部屋戻ればいいんじゃねえか』
「戻る途中でまた捕まりそう」
『尚香んとこは?』
「尚香いないし」
『呂蒙は?』
「絶対何か言われる」
『周瑜』
「もっと嫌」
『即答かよ』
「暇そうにしてるの見つかったら何かやらされるもん」
そう言ってから、凌華の足が自然に止まった。
少し考える。
それから、何でもないことのように進む方向を変えた。
「……陸議さんのところ行こ」
『最初からそこ行く気だったろ』
「違うし」
『へえ』
「違うって」
そう言いながら、もう足は陸議の部屋へ向かっていた。
◇ ◇ ◇
陸議が書簡を読んでいると、戸を叩く音がした。
「どうぞ」
返事をすると、戸がほんの少しだけ開く。
そこから黒い髪が覗いた。
「陸議さん」
陸議は顔を上げる。
「……何をしているのです?」
「いる?」
「見れば分かるでしょう」
「いるね」
そう言うと、凌華は勝手に戸を開けて中へ入ってきた。
「今日は何です?」
「別に」
「別に?」
「うん」
「何か分からないことがあるのでは?」
「ない」
「書簡は?」
「持ってない」
「迷子ですか?」
「違う」
「何か困ったことでも?」
「ないよ」
陸議は怪訝そうに凌華を見る。
これだけ何もないと言われると、本当に何のために来たのか分からない。
けれど凌華は気にした様子もなく、部屋の端へ歩いていくと、そのまま壁際へ座り込んだ。
「何をしているのです?」
「暇」
「……暇」
「うん」
「それだけですか?」
「それだけ」
陸議はしばらく凌華を見ていた。
「ご自分の部屋へ戻ればいいでしょう」
「今はいい」
「なぜです?」
凌華は壁へ背を預けながら、少しだけ考えるように視線を上げた。
「……陸議さん、何も言わないから」
陸議の眉が僅かに動く。
「何も言わない?」
「うん」
「先ほどから色々言っていますが」
「そういう意味じゃなくて」
凌華は少し笑った。
「変に褒めたりしないし、何か返せって感じもしないし」
陸議は黙る。
凌華は続けた。
「何も話さなくてもいいし」
「……そうですか」
「うん。楽」
それだけ言うと、凌華はもう説明する気をなくしたらしい。
窓の外へ視線を向ける。
陸議はしばらく彼女を見ていたが、それ以上は聞かなかった。
「好きにしてください」
「うん」
部屋には、また紙をめくる音だけが続いた。
◇ ◇ ◇
しばらくして、凌華が口を開いた。
「陸議さん」
「何です?」
「今日も色んな人に声かけられた」
陸議は書簡へ視線を落としたまま答える。
「そうですか」
「褒められたり」
「そうですか」
「綺麗とか、剣がどうとか」
筆が僅かに止まる。
けれど陸議は何も言わない。
凌華も気づかず続けた。
「別に嫌じゃないんだけどね」
「では問題ないのでは?」
「うん。でも疲れた」
陸議が顔を上げる。
「疲れた?」
「なんか、ちゃんと返さなきゃって思うじゃん」
「無理に返す必要はないでしょう」
「でも感じ悪いの嫌だし」
「あなたはそういうところで気を遣いますね」
「そう?」
「ええ」
凌華は少し考えた後、肩を竦めた。
「ここだと使わないけど」
「それはどういう意味です?」
「そのまま」
「随分と雑ですね」
「でもほんとだもん」
凌華は笑う。
「陸議さん相手だと、別に何も返さなくていいかなって」
「……ひどい言い方ですね」
「悪い意味じゃないよ」
「分かっています」
陸議はそこで少しだけ黙った。
外では、相手の言葉を受け取り、笑って、礼を言い、求められた反応を返す。
ここでは。
理由も言わずに入ってきて、何もせずに座る。
話したくなれば話し、黙りたければ黙る。
そういうことなのだろう。
陸議はようやく、凌華がここへ来た理由を少しだけ理解した。
けれど、それを口にすることはしなかった。
◇ ◇ ◇
それからまた静かな時間が続いた。
凌華は壁に背を預けたまま窓の外を見ていたが、やがて瞼がゆっくり重くなっていった。
最初のうちは何度か瞬きをして耐えていたものの、次第に頭が少しずつ傾き始める。
陸議は書簡を読みながら、それに気づいていた。
「凌華」
返事はない。
もう一度名前を呼ぶ。
「凌華」
それでも動かない。
完全に眠っている。
陸議は小さく息を吐いた。
「……なぜここで寝るのです」
当然、返事はなかった。
起こそうかとも思った。
自分の部屋へ戻った方が、よほど楽に眠れる。
けれど、先ほどまでの会話を思い出す。
ここでは何も返さなくていい。
そのことが、凌華には楽なのだろう。
陸議は静かに立ち上がった。
近くに置いてあった薄い掛け物を取り、眠っている凌華の肩へそっと掛ける。
凌華が少しだけ身じろぎした。
その瞬間だけ手を止めたが、目を覚ます気配はない。
また静かな寝息が続く。
陸議は少しだけ困ったように、その寝顔を見た。
昼間、兵たちは凌華を見て色々なことを言う。
綺麗だとか。
可愛いだとか。
本人は、そのたびにどう返せばいいのか困っている。
陸議はほんの僅かに目を伏せる。
「……言わないだけです」
誰に聞かせるでもなく、小さく呟いた。
もちろん凌華は眠ったままだった。
◇ ◇ ◇
それから数日後。
また戸が開く。
「陸議さん」
陸議は書簡から顔を上げる。
「今日は何です?」
「暇」
「またですか」
「うん」
凌華は慣れた様子で部屋へ入り、前と同じ壁際へ座った。
「ご自分の部屋は?」
「今日はいい」
「尚香殿のところは?」
「いなかった」
「呂蒙殿は?」
「何か仕事してた」
「周瑜殿は?」
「絶対行かない」
あまりにも早い返事に、陸議は僅かに口元を緩めた。
「周瑜殿が聞いたら怒りますよ」
「言わなきゃ分かんない」
「私は言いませんが」
「さすが陸議さん」
「何がです?」
「何でもない」
凌華はそれ以上説明せず、壁へ背を預けた。
陸議も聞き返さなかった。
もう、何となく分かるようになっていた。
◇ ◇ ◇
その日、呂蒙が陸議の部屋を訪ねてきた。
「陸議、いるか」
「はい」
中へ入った呂蒙が、部屋の端を見て足を止める。
凌華が寝ている。
しかも掛け物まで掛かっている。
呂蒙はしばらくその光景を眺めた後、陸議を見る。
「……何だこれ」
「静かにしてください」
「何で凌華がいるんだ」
「暇だそうです」
「暇?」
「ええ」
「それでお前の部屋で寝てんのか?」
「私に聞かないでください」
呂蒙は凌華と陸議を交互に見る。
それから、何となく察したような顔をした。
「なるほどな」
陸議が眉を寄せる。
「何です?」
「いや」
「何ですか」
「別に」
「気になります」
「用件先に済ませるか」
呂蒙は少し笑いながら声を落とし、持ってきた書簡を差し出した。
その時、紙が擦れる音に反応したのか、凌華が小さく身じろぎする。
二人とも同時に黙った。
「ん……」
凌華の目がゆっくり開く。
ぼんやり周囲を見回したあと、呂蒙に気づいた。
「あ……呂蒙さん」
「おう」
「何してるの?」
「仕事だよ」
「そっか」
眠そうに身体を起こした瞬間、肩に掛けられていたものが滑り落ちる。
凌華はそれを見て首を傾げた。
「……これ」
それから陸議を見る。
「陸議さん?」
「風邪をひかれても困りますので」
凌華は少しだけ目を丸くした。
「掛けてくれたの?」
「ええ」
「ありがとう」
素直に笑う。
それから掛け物を畳み、横へ置いた。
「やっぱりここいいな」
呂蒙の眉が少し上がる。
陸議は凌華を見る。
「何がです?」
「何か落ち着く」
「そうですか」
「うん」
それ以上、凌華は何も言わなかった。
なぜ落ち着くのか。
どうして自分の部屋ではなく、わざわざここへ来るのか。
その理由を、陸議に詳しく説明する気はないらしい。
けれど、陸議にはもう大体分かっていた。
だからこそ、何も聞かなかった。
◇ ◇ ◇
それからも、凌華は時々やって来た。
戸を少しだけ開ける。
「陸議さん、いる?」
「います」
その返事を聞くと、凌華は中へ入る。
「暇」
それだけ言って座る。
何も話さない日もあった。
書簡を眺めている日もあった。
途中で少し話して、そのまま眠ってしまう日もあった。
陸議はもう、理由を聞かなくなった。
凌華も説明しなかった。
それでよかった。
外では、誰かが凌華へ声をかける。
褒める。
笑ってほしそうにする。
何かを返してほしそうにする。
ここでは、凌華は何もしなくていい。
陸議が何かを求めることもない。
話さなくてもいい。
眠ってもいい。
変なことを言っても、少し呆れた顔をされるだけで、それ以上は何もない。
だからなのか。
凌華は疲れた時ほど、自然とここへ来るようになった。
けれど、その理由を本人が口にすることはなかった。
◇ ◇ ◇
ある日。
いつものように部屋へ入ってきた凌華が、何となく陸議を見た。
「陸議さん」
「何です?」
凌華は少しだけ考えるように彼の顔を見た後、ふっと笑った。
「……やっぱり陸議さんだよねー」
陸議の眉が寄る。
「何を言っているんですか」
「別に」
「意味が分かりません」
「分かんなくていい」
それだけ言って、凌華はいつもの場所へ座った。
陸議はしばらく彼女を見ていたが、それ以上は聞かなかった。
少しして。
案の定、凌華の瞼はゆっくり閉じていく。
やがて静かな寝息が聞こえ始めた。
陸議は書簡へ視線を落としながら、その気配だけを感じていた。
外では今日も、きっと誰かが凌華を見て何かを言うのだろう。
けれどここでは、少なくとも今だけは。
誰にも何も返さなくていい。
凌華がそれを言葉にしなくても。
陸議には、もう何となく分かっていた。
だからこそ。
誰にも言わない。
凌華にも言わない。
軍の者たちが遠くから眺めて憧れている「孫家の姫君」が。
自分の部屋では髪を少し乱し、壁にもたれて眠っている。
そんな姿を知っていることに。
ほんの少しだけ優越感を覚えていることも。
もちろん。
凌華には絶対に言わなかった。




