番外編 三部作 第二部 分かっているのに、うまくできない
凌華へ声をかける兵は以前より明らかに増えていた。
戦場で顔を覚えられたこともあるのだろう。
孫策の娘としてだけではなく、実際に同じ戦場へ立った者として見られるようになったことも、大きいのかもしれない。
けれど本人は、相変わらずそのあたりにほとんど興味がなかった。
「凌華様」
軍営を歩いていた凌華が振り返る。
「あ、お疲れさまです」
声をかけてきたのは、赤壁でも顔を見た若い兵だった。
「先日はありがとうございました」
「何が?」
「負傷した仲間を運ぶのを手伝っていただいた件です」
凌華は少し考えた後、思い当たって表情を明るくした。
「ああ! あの人どうなった?」
「もう歩けるようになりました」
「ほんと? よかった」
心から安心したように笑う。
兵も釣られるように笑った。
「凌華様は、本当にお優しいですね」
「いや、普通じゃない?」
「そういうところも含めてです」
凌華はよく分からないまま首を傾げた。
「そう?」
「はい」
そこへ、少し離れた場所から声がした。
「凌華」
聞き慣れた声に、凌華はすぐ振り返った。
「あ、陸議さん」
陸議がこちらへ歩いてくる。
凌華は何の迷いもなくその方へ身体を向けた。
「どうしたの?」
「周瑜殿が呼んでいます」
「私を?」
「ええ」
「何だろ。また何か怒られるやつかな」
「先にそれを疑うのですか」
「最近ちょっと色々やったから」
「自覚はあるのですね」
「あるよ」
そんなやり取りをしてから、凌華は先ほど話していた兵を思い出した。
「ごめん、話途中だった」
「い、いえ! 大丈夫です」
兵は慌てたように首を振る。
凌華は少し不思議そうにしたものの、それ以上は気にしなかった。
「じゃあまたね」
「はい!」
二人で歩き出す。
少し進んだところで、凌華は隣を歩く陸議を見上げた。
「陸議さん」
「何です?」
「……機嫌悪い?」
陸議の返事が僅かに遅れた。
「悪くありません」
「ほんと?」
「本当です」
その答えを聞いて、凌華は少し考える。
「なんか前にもあったよね、これ」
「何がです?」
「赤壁より前。陸議さん、なんか機嫌悪いのに悪くないって言ってた」
「覚えていません」
「絶対覚えてる」
「知りません」
返事が短い。
やはり何か変だと思いながらも、凌華はそれ以上追及しなかった。
◇ ◇ ◇
数日後。
陸議は呂蒙と軍営を歩いていた。
「――で、次の配置なんだが」
話している途中、前方に兵が数人集まっているのが見えた。
その中に、見慣れた黒髪がある。
凌華だった。
兵の一人が何か小さな木彫りを見せているらしく、凌華がそれを覗き込んでいる。
「すごい!」
「故郷ではよく作るんです」
「これ自分で作ったの?」
「はい」
「器用だねえ」
凌華が感心したように笑う。
兵も嬉しそうだった。
「よろしければ、凌華様に」
「え、いいの?」
「もちろんです」
「ほんと? ありがとう!」
凌華が素直に喜び、受け取った小さな鳥を嬉しそうに眺める。
陸議の足が僅かに止まった。
一歩先へ進んだ呂蒙が振り返る。
「どうした?」
「……いえ」
陸議は再び歩き始めた。
けれど、先ほどより少しだけ歩調が速い。
呂蒙は横目で見た。
「行かなくていいのか?」
「どこへです?」
「あそこ」
「なぜ私が?」
「知らねえよ」
呂蒙は肩を竦めた。
「凌華、楽しそうだな」
「そうですね」
「随分仲良さそうじゃねえか」
返事がない。
呂蒙はそこで、それ以上は言わなかった。
ただ、少し面白そうに口元を緩めただけだった。
◇ ◇ ◇
その日の夕方。
凌華はいつものように陸議の部屋へやって来た。
「陸議さん」
書簡を読んでいた陸議が顔を上げる。
「何です?」
「暇」
「そうですか」
凌華は少し待った。
それ以上何も続かないので、眉を寄せる。
「……終わり?」
「何を期待しているのです?」
「別に。でもいつもなら何か言うじゃん」
「今日は仕事がありますので」
明らかにいつもより冷たい。
凌華は少し戸惑った。
それでも、いつものように中へ入り、机の近くへ座る。
「何してるの?」
「報告の確認です」
「難しいやつ?」
「あなたには関係ありません」
言われた瞬間、凌華の表情が僅かに止まった。
陸議自身も、自分の声が思ったより強くなったことに気づいた。
けれど、その前に凌華が口を開く。
「……そっか」
短い返事だった。
それでもすぐ立ち去ることはせず、少しだけ机の端を見つめている。
「陸議さん」
「何です?」
「今日やっぱり機嫌悪い?」
「悪くありません」
「でも」
「悪くありません」
先ほどより強い声だった。
凌華が黙る。
部屋の空気が変わった。
陸議も気づいている。
けれど、胸の奥に残っていたざらつきが、うまく引っ込んでくれない。
「何かあった?」
「ありません」
「私、何かした?」
「していません」
「じゃあ何で――」
「凌華」
陸議の声が重なった。
凌華が止まる。
「何でもないと言っているでしょう」
強かった。
自分でも分かるほど。
凌華の目が少し見開かれる。
それから、ほんの僅かに視線が下がった。
「……ごめん」
陸議の中で、何かが冷えた。
「凌華」
「邪魔だったよね」
「違います」
「仕事中だったし」
「そうではなくて」
「もう帰る」
凌華はそれ以上聞かずに立ち上がった。
動きはいつも通りだった。
怒っているわけでもない。
何かを言い返すこともしない。
だからこそ。
陸議には、それが余計に嫌だった。
「凌華」
呼び止めたが、凌華は振り返らない。
「またね」
それだけ言って、部屋を出ていった。
扉が閉まる。
陸議はしばらく動けなかった。
◇ ◇ ◇
廊下へ出た凌華は、そのまま真っ直ぐ歩いていた。
歩調はいつもと変わらない。
けれど。
胸の奥が、思っていたより重かった。
『おい』
長剣から孫策の声がする。
凌華は返事をしなかった。
『凌華』
「……何」
『どうした』
「別に」
『別にって顔じゃねえぞ』
凌華は足を止めなかった。
「仕事中だったし」
『ああ』
「邪魔だったんだよ」
『そうか?』
「多分」
『お前、そう思ってねえだろ』
凌華の足が少しだけ遅くなった。
「……分かんない」
『何が』
しばらく黙っていたあと。
「私、迷惑だったかな」
孫策の声が止まった。
凌華は廊下の先を見たまま、ゆっくり続けた。
「私さ、結構ぐいぐい行くじゃん」
『まあな』
「周瑜さんにも怒られるし、呂蒙さんにもよくうるさいって言われるし、尚香にも勝手だって言われるし」
それはいつものことだった。
言われても気にしない。
むしろ言い返す。
そういう関係だった。
「でも、陸議さんには……」
言葉が止まる。
「何しても、大丈夫だと思ってた」
孫策は何も言わなかった。
凌華も、自分で口にして初めて気づいた。
陸議なら。
理由もなく冷たくしない。
分からなければ説明してくれる。
自分が勝手なことをしても、本当に駄目な時以外は突き放さない。
そう思っていた。
「だから、なんか……」
胸の奥が痛い。
怒られたこと自体ではない。
陸議に嫌がられたかもしれないことが。
思っていた以上に、怖かった。
『凌華』
「何」
『あいつ、そんなつもりじゃねえと思うぞ』
「でも分かんないじゃん」
『追ってくるんじゃねえか?』
「何で」
『あいつだからだよ』
凌華は少しだけ眉を寄せた。
その時。
後ろから、足音が聞こえた。
◇ ◇ ◇
「凌華!」
呼ばれて振り返る。
陸議だった。
いつもより明らかに速い足取りでこちらへ向かってくる。
凌華は少し驚いた。
「陸議さん?」
陸議は凌華の前まで来ると、珍しく僅かに息を乱していた。
「……待ってください」
「何?」
「先ほどのことです」
凌華の表情が少し固くなる。
「仕事戻らなくていいの?」
「今はいいです」
「でも」
「凌華」
今度は強くない。
むしろ、言葉を選ぶような声だった。
「先ほどは、私が悪かったです」
凌華は黙る。
「あなたが邪魔だったわけではありません」
「でも関係ないって」
「……言い方が悪かったです」
「何か私した?」
「していません」
「本当に?」
「本当です」
陸議は迷いなく答えた。
その言葉を聞いても、凌華の表情はすぐには戻らなかった。
「じゃあ何であんな怒ったの」
陸議が黙る。
説明しようとすればするほど、言葉が出てこない。
「……私の問題です」
「それ前にも言ってた」
「ええ」
「私には言えない?」
陸議は僅かに目を伏せた。
「……うまく説明できません」
凌華は少し悲しそうに笑った。
「そっか」
その顔を見て、陸議は思わず一歩近づいた。
「ですが」
凌華が顔を上げる。
「あなたに来てほしくないわけではありません」
「…………」
「邪魔だと思ったこともありません」
陸議は言葉を探す。
「むしろ」
そこで一度止まった。
何をどこまで言うべきか分からない。
けれど、これだけは伝えなければならないと思った。
「あなたが来ることを、嫌だと思ったことはありません」
凌華はしばらく陸議を見ていた。
「……ほんと?」
「本当です」
「私、迷惑じゃない?」
「違います」
「勝手に入ってきても?」
「……ほどほどにしてください」
いつもの陸議らしい返事が戻った。
凌華の表情が少しだけ緩む。
「じゃあ暇って言って来ても?」
「それも、ほどほどに」
「分かんないこと聞きに来ても?」
「それは構いません」
「何もなくても?」
陸議が一瞬黙った。
凌華は不安そうに見ている。
それを見て、陸議は静かに答えた。
「……構いません」
凌華の目が少し明るくなった。
「そっか」
ようやく。
ほんの少しだけ、いつもの凌華に戻った。
『よかったな』
腰の長剣から声がする。
凌華は小さく息を吐いた。
「孫策、うるさい」
「何と言っています?」
「よかったなって」
陸議の表情が少しだけ困ったように変わる。
「……そうですか」
『お前にも言ってんだよ』
「今、陸議さんにも言ってる」
「内容は聞かなくても分かります」
凌華が少し笑った。
◇ ◇ ◇
二人で陸議の部屋へ戻る途中。
先ほどまでとは違い、凌華はまたいつものように陸議の隣を歩いていた。
ただ。
少しだけ静かだった。
陸議が横を見る。
「凌華」
「何?」
「まだ怒っていますか」
「怒ってない」
「では」
「ちょっと怖かっただけ」
陸議の歩みが僅かに止まる。
凌華は前を向いたまま続けた。
「陸議さんにあんな言い方されると思ってなかったから」
胸の奥に重いものが落ちる。
「……すみません」
「もういいよ」
「本当に?」
「うん」
それから少しして。
凌華がぽつりと言った。
「陸議さんだけは大丈夫って思ってたから」
陸議は何も答えられなかった。
凌華はその沈黙を気にせず続ける。
「何してもいいって意味じゃないよ? でも、なんか……嫌ならちゃんと理由言ってくれると思ってた」
陸議は静かに聞いていた。
「だから理由分かんないまま冷たくされるの、ちょっと嫌だった」
「…………」
「次から言ってね」
「何をです?」
「何か嫌だったら」
陸議は少しだけ考えてから頷いた。
「……分かりました」
「ほんと?」
「ええ」
凌華は満足そうに笑った。
「じゃあ仲直り」
「いつ喧嘩になったのです?」
「なったよ」
「なっていません」
「私の中ではなってた」
「そうですか」
「そう」
二人はそのまま歩く。
先ほどまでのぎこちなさは、少しずつ消えていた。
◇ ◇ ◇
部屋へ戻ると、凌華は何事もなかったようにいつもの場所へ座った。
「何してたの?」
「報告の確認です」
「さっきの?」
「ええ」
「じゃあ続きやって」
「あなたは?」
「ここいる」
陸議が凌華を見る。
「暇なのでは?」
「暇だよ」
「なら別の場所へ行けばいいでしょう」
言ってから。
陸議は一瞬だけ止まった。
凌華も黙る。
二人の間に、ほんの僅かな間が落ちた。
「……違います」
陸議がすぐに言い直した。
凌華の口元がゆっくり上がる。
「分かってる」
「…………」
「今のはいつもの陸議さんだから」
「何ですか、それ」
「なんとなく」
凌華は笑いながら机へ頬杖をついた。
「じゃあ私ここいるね」
「好きにしてください」
「うん」
それから部屋には、紙をめくる音だけが続いた。
凌華は特に何をするでもなく、陸議が仕事をする姿をぼんやり眺めている。
陸議もまた、何も言わなかった。
けれど。
先ほどまで空いていたはずの場所に凌華が戻っていることを確かめるように、ときどき視線だけがそちらへ向いていた。
そしてそのたびに。
先ほど自分が何を言い、どんな顔をさせてしまったのかを思い出した。
同じことは、もうしない。
少なくとも。
理由も伝えずに、あんなふうに突き放すことだけは。
そう思いながら、陸議は静かに次の書簡へ目を落とした。




