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三国凌華伝 ーあなたがくれた、もうひとつの時ー  作者: 隆月 アン
番外編 それでも続いていく
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番外編 三部作 第一部 なぜか陸議さんの機嫌が悪い


赤壁を越えてから、以前より凌華へ声をかける兵が増えた。


本人もそのことには気づいていたものの、特に深く考えてはいなかった。


戦場で顔を覚えられたからなのだろう。


孫策の娘として知られるようになったからかもしれない。


あるいは、ただ単に以前より軍営を歩き回ることが増えたからか。


凌華にとっては、その程度の認識だった。


その日も廊下を歩いていると、向こうから若い兵がこちらへ近づいてきた。


「凌華様」


「あ、お疲れさまです」


凌華がいつものように笑うと、兵は少し緊張したように姿勢を正した。


「先日の戦では、ありがとうございました」


「え?」


「負傷した仲間を運ぶのを手伝っていただいたと聞きまして」


凌華は少し考えた後、思い当たる顔を探した。


「ああ。あの時の人?」


「はい。もう歩けるようになりました」


「よかった」


素直に安心して笑う。


兵は何か言いたそうに口を開きかけたが、その時、少し離れた場所から聞き慣れた声がした。


「凌華」


振り返る。


「あ、陸議さん」


陸議がこちらへ歩いてくる。


「探しました」


「私を?」


「周瑜殿が呼んでいます」


「あ、そうなんだ」


凌華はそれだけで兵との会話を切り上げると、何の迷いもなく陸議の隣へ移った。


「じゃあ行こ」


「ええ」


二人で歩き出そうとしてから、凌華はふと思い出して振り返る。


「ごめん、何か言いかけてた?」


兵は一瞬だけ陸議を見た。


それから、慌てたように首を振る。


「い、いえ! 大丈夫です!」


「そう?」


「はい!」


「じゃあまたね」


凌華が軽く手を振る。


兵も深く頭を下げた。


そのまま陸議の隣へ戻って歩き始めると、凌華は何気なく横顔を見上げた。


「陸議さん」


「何です?」


「……機嫌悪い?」


「悪くありません」


答えは早かった。


けれど、どことなく声が硬い。


凌華は少し首を傾げた。


「ほんと?」


「本当です」


その言い方を聞いた瞬間。


胸の奥に、妙な引っかかりが生まれた。


以前にも、同じようなことがあった気がする。


「…………」


「どうしました?」


「いや」


凌華は少し考える。


「なんか前にもあったなって」


「何がです?」


「陸議さんが、機嫌悪いのに悪くないって言ってたこと」


「覚えていません」


「絶対あったよ」


そう言いながら記憶を探しているうちに、一つの場面が浮かび上がってきた。


赤壁より前。


まだ孫策が生きていた頃。


あの時も。


理由は分からなかったけれど、陸議は妙に機嫌が悪かった。


◇ ◇ ◇


その日の朝、凌華は陸議を探して廊下を歩いていた。


前日に周瑜から渡された書簡の中に、どうしても意味の取りにくい部分があったからだ。


周瑜本人にもう一度聞いてもよかったのだが、一度説明してもらったことをそのまま聞き返すのは少し気まずい。


それなら陸議に聞こう。


そう思っただけだった。


廊下を曲がったところで、ちょうど向こうから陸議が歩いてくる。


「あ、陸議さん!」


陸議が顔を上げた。


「いた!」


「……いましたが」


「探した」


凌華は手にしていた書簡を軽く上げる。


「ちょっと分かんないところある」


「周瑜殿から渡されたものですか?」


「うん」


「見せてください」


凌華が書簡を渡そうとしたところで、背後から声がした。


「凌華様」


振り返ると、若い兵が一人立っていた。


昨日も廊下ですれ違った顔だった。


「あ、昨日の人」


「覚えていてくださったのですか?」


兵の顔が少し明るくなる。


「昨日会ったばっかりだもん。覚えてるよ」


「ありがとうございます」


「何でお礼?」


凌華が本気で不思議そうにすると、兵は少し困ったように笑った。


「いえ、その……」


会話が途切れたところで、隣から陸議の声が入る。


「何か凌華に御用ですか?」


声音そのものは穏やかだった。


兵が陸議へ頭を下げる。


「あ、陸議殿。いえ、昨日お見かけしたので、ご挨拶をと思いまして」


「そうですか」


「はい」


「では、もう済みましたね」


「……はい!」


兵はなぜか急に背筋を伸ばし、そのまま足早に去っていった。


凌華はその背中を見送る。


「何だったんだろ」


「さあ」


「なんか慌ててたね」


「そうですね」


やけに短い返事が返ってくる。


けれど、凌華はまだそれを深く気にしなかった。


「そういえばさ」


「何です?」


「呂蒙さんが、私、軍で結構人気あるらしいって言ってた」


陸議の動きが僅かに止まる。


「……そうですか」


「うん」


凌華の反応は、それだけだった。


「理由は聞かなかったのですか?」


「聞いてない」


「興味は?」


「別に」


あまりにもあっさりした返事に、陸議が凌華を見る。


「ないのですか?」


「ないよ」


凌華は本当にどうでもよさそうだった。


「人気あるって言われても、へえって感じ」


「……そうですか」


「うん」


そこで一度話が終わりかけたが、凌華がふと思い出したように続ける。


「でも昨日、可愛いって言ってた人がいたらしい」


「…………誰がです?」


「知らない」


「知らないのですか?」


「呂蒙さんが聞いたって言ってた」


「そうですか」


また短い。


凌華はようやく陸議の顔を見た。


「陸議さん?」


「何です?」


「変」


「何がです?」


「いや……」


何となく引っかかる。


凌華は少し考えた後、昨日から頭の片隅にあった疑問をそのまま口にした。


「でも、何で可愛いって思うんだろうね」


陸議が凌華を見る。


「何を言っているんですか」


「いや、だから」


「そう思う者がいても不思議ではないでしょう」


あまりにも普通のことのように言われ、凌華は少し目を瞬いた。


「そう?」


「そうです」


「ふーん」


凌華はそれ以上考えなかった。


どうして自分が人気なのかにも、誰が自分を可愛いと言ったのかにも、それほど興味はないらしい。


陸議はその横顔を見ながら、胸の奥に残る妙なざらつきを持て余していた。


兵が凌華へ話しかける。


凌華が笑う。


それだけのことなのに、どうにも落ち着かない。


けれど、その理由を考えても答えは出なかった。


◇ ◇ ◇


午後になっても、陸議の様子はどこか変だった。


少なくとも凌華にはそう見えた。


「陸議さん」


「何です?」


「ここ」


「先ほど説明しました」


「もう一回」


「聞いていましたか?」


「聞いてたけど、分かんなかった」


「……そうですか」


凌華は書簡から顔を上げ、陸議をじっと見る。


「陸議さん」


「何です?」


「怒ってる?」


「怒っていません」


「でもなんか機嫌悪い」


「悪くありません」


「ほんと?」


「本当です」


凌華はますます怪しそうな顔をした。


「私、何かした?」


「していません」


「じゃあ何?」


「何でもありません」


「絶対何かある」


凌華は書簡を置くと、向かい側から陸議の顔を覗き込んだ。


距離が近い。


陸議が少しだけ身を引く。


「近いです」


「だって顔見たいんだもん」


「見ても何も分かりません」


「分かるかもしれないじゃん」


「分かりません」


しばらく見つめていた凌華は、やがて小さく首を傾げた。


「やっぱり変」


「……あなたにだけは言われたくありません」


「何で!」


「そのままの意味です」


「ひどい」


そんなやり取りをしているうちに、先ほどまで陸議の中に残っていた妙な苛立ちは、いつの間にか少し薄れていた。


理由は分からない。


凌華といつも通り話しているだけなのに。


◇ ◇ ◇


その日の夕刻。


凌華は孫尚香と庭を歩いていた。


「ねえ凌華」


「何?」


「最近、男の人に声かけられること増えたよね」


「そう?」


「増えたよ」


凌華は少し考えた。


「言われてみればそうかも」


「気づいてなかったの?」


「別に数えてないし」


孫尚香が呆れたように笑う。


「軍で人気なんでしょ?」


「あー、呂蒙さんが言ってた」


「何でそんな他人事なの」


「だって私に聞かれても分かんないもん」


「理由とか気にならない?」


「ならない」


即答だった。


「なんで?」


「なんでって……」


凌華は本気で考え込む。


「別に知らなくても困らなくない?」


孫尚香はしばらく凌華を見た後、とうとう笑った。


「凌華らしい」


「何それ」


そんな話をしていると、少し離れたところから陸議が歩いてくるのが見えた。


「あ、陸議さん!」


凌華がすぐに手を上げる。


陸議もこちらに気づく。


その時だった。


先ほどすれ違った兵が、何かを思い出したように戻ってきた。


「凌華様」


「ん?」


「先ほどはありがとうございました」


「何が?」


「お声をかけていただいて」


凌華は少し困った顔をした。


「挨拶しただけだけど」


「それでも嬉しかったです」


「そ、そう?」


そこへ陸議がやって来た。


「何をしているのです?」


いつもと変わらない声音だった。


けれど、孫尚香は少しだけ目を細めた。


兵が陸議へ頭を下げる。


「陸議殿」


「どうも」


短い。


凌華はまったく気づいていない。


「陸議さん、今からどこ行くの?」


「孫策殿のところです」


「私も行く」


「なぜです?」


「暇だから」


「理由になっていません」


「いいじゃん」


凌華は何の迷いもなく陸議の隣へ並んだ。


「尚香、またね」


「うん」


兵にも軽く手を振る。


「じゃあね」


「はい!」


歩き出した陸議の歩調が、ほんの僅かに速くなる。


「陸議さん、ちょっと待って」


凌華が慌てて追いかける。


二人の後ろ姿を見送りながら、孫尚香は何となく事情を察した。


「……なるほどね」


◇ ◇ ◇


その夜。


「陸議、最近ちょっと変じゃない?」


孫尚香の一言に、孫策が顔を上げた。


「陸議が?」


「うん」


呂蒙も思い当たるものがあったらしく頷く。


「まあ、少しな」


周瑜は書簡から顔を上げずに言った。


「放っておけ」


「周瑜さん、何か知ってる?」


「何も」


「その言い方、絶対何か分かってる」


孫尚香が笑う。


孫策も楽しそうに腕を組んだ。


「凌華絡みか?」


「たぶん」


「またあいつ何かやったのか」


「凌華は何もしてないよ」


「じゃあ何だ?」


孫尚香は少し考えてから、軍の中で凌華へ声をかける兵が増えていることを話した。


呂蒙が「ああ」と声を漏らす。


孫策も少し考えた後、何となく察したような顔をした。


「なるほどな」


「でしょ?」


周瑜は小さく息を吐いた。


「本人たちが何も分かっていないのなら、余計なことを言うな」


「はーい」


孫尚香は素直に返事をしたものの、明らかに面白そうな顔をしていた。


◇ ◇ ◇


翌日。


凌華はいつものように陸議のところへやって来た。


「陸議さん」


「何です?」


「今日、機嫌悪い?」


「悪くありません」


凌華は少し考えるように陸議の顔を見た。


「昨日よりは普通かも」


「そうですか」


「何だったの?」


「知りません」


「自分のことなのに?」


「ええ」


凌華はしばらく不思議そうにしていたが、すぐに諦めた。


「まあいいや」


そして当たり前のように陸議の隣へ座り、持ってきた書簡を広げた。


「これ教えて」


「またですか」


「またです」


「周瑜殿に聞けばいいでしょう」


「周瑜さんの説明、一回分かんなくなるとずっと分かんない」


「それを周瑜殿に言ってはいけませんよ」


「言わないよ」


「ならいいですが」


凌華は書簡を指差す。


「ここ」


「これは――」


「違う、こっち」


「近いです」


「見えないんだもん」


「書簡をそちらへ動かします」


「陸議さんが持ってて」


「……分かりました」


肩が触れそうな距離で、凌華は何事もなかったように書簡を覗き込んでいる。


陸議は小さく息を吐きながら説明を続けた。


前の日まで感じていた妙な苛立ちは、いつの間にかほとんど消えていた。


なぜなのか。


この頃の陸議には、まだ分からない。


少し離れた廊下の角から、孫尚香と呂蒙が二人を覗いていた。


「機嫌直ってるね」


「ああ」


「何でだろうね」


「お前、分かってて言ってるだろ」


二人が小声で話していると、陸議がふと顔を上げた。


目が合う。


孫尚香と呂蒙はほとんど同時に角の向こうへ姿を消した。


凌華が不思議そうに振り返る。


「何?」


「……何でもありません」


「誰かいた?」


「いません」


「そう?」


凌華はすぐに書簡へ視線を戻した。


陸議は廊下の角を一度だけ睨んでから、何事もなかったように説明を再開した。


◇ ◇ ◇


そこで、凌華の意識は現在へ戻った。


隣には赤壁を越えた今の陸議がいる。


先ほど兵と話していただけなのに、昔と同じように返事が少し短くなっていた。


「……やっぱり」


凌華が小さく笑う。


「何です?」


「昔もあった」


「何がです?」


「陸議さんが理由も分からないのに機嫌悪くなってたやつ」


陸議の表情がほんの僅かに固まった。


「覚えていません」


「絶対覚えてる」


「覚えていません」


「ほら、それも同じ」


凌華が笑う。


腰の長剣から、聞き慣れた声が響いた。


『懐かしいな』


その声を聞いた瞬間、凌華の笑みがほんの少しだけ柔らかくなった。


あの頃は、生身の孫策がまだそこにいた。


孫尚香も呂蒙も周瑜もいて、皆が陸議の妙な不機嫌を面白がっていた。


今は同じ形では戻らない時間だけれど、その記憶まで消えたわけではない。


凌華は腰の剣へ一度だけ視線を落とし、それから隣の陸議を見る。


「昔から変わんないね」


「何がです?」


「陸議さん」


「あなたに言われたくありません」


「何で!」


すぐに返ってきた言葉に、凌華は声を上げて笑った。


陸議も困ったように息を吐いたが、その表情は先ほどより少しだけ柔らかくなっていた。

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