番外編 未来の文字で残すもの
孫策の娘になってから、凌華は日記を書くようになった。
始めた理由を、今となってははっきりとは覚えていない。
この時代へ来てからというもの、あまりにも多くのことが起きたからかもしれない。何も残さずにいれば、嬉しかったことも、腹が立ったことも、怖かったことも、いつか自分の中から少しずつ零れ落ちてしまうような気がした。
あるいは単純に、自分だけの言葉で何かを書ける場所が欲しかったのかもしれない。
だから日記には、この時代の文字を使わなかった。
凌華が生まれ育った時代の文字。
ここにいる誰にも読めない、未来の日本語だった。
それなら何を書いてもいい。
弱音も、愚痴も、嬉しかったことも、誰にも言いたくないことも。
人の顔色を窺う必要もなければ、誰かに説明する必要もない。ただその日に思ったことを、思った通りに書けばよかった。
最初の頃の日記には、孫策の名前がよく出てきた。
【今日から孫策の娘になった。まだ全然実感ない。】
【父上って呼べって言われたけど無理。恥ずかしい。】
【今日一回だけ父上って言ったら、ものすごく嬉しそうにされた。もう言わない。】
【孫策、ほんとうるさい。】
【また頭撫でられた。子どもじゃないんだけど。】
その少しあとには、
【尚香が、これで本当に姉妹みたいだねって笑った。ちょっと嬉しかった。】
【呂蒙さんにまた姿勢怒られた。】
【周瑜さんに礼儀を直された。】
【陸議さんに文字を教えてもらった。今日も説明が分かりやすかった。】
そんな言葉が並んでいる。
名前に敬称をつけるかどうかも、その日の気分だった。
ただ孫策だけは、ほとんどが「孫策」。
ごく稀に「父上」と書いて、書いたあとに自分で恥ずかしくなり、上から線を引いたことさえあった。
そんな頁が何枚も続いている。
けれど。
あるところから、日記は途切れた。
◇ ◇ ◇
その人がいなくなってから、凌華は日記を書かなくなった。
正確には、書こうとしても筆が動かなくなった。
夜になると、いつものように寝台の脇へ置いた冊子を手に取る。
頁を開けば、少し前の自分がいる。
くだらないことで怒って、笑って、文句を言って。
その中心には、当たり前のように孫策がいる。
ある夜も、凌華は膝の上で日記を開いていた。
灯りは小さく、屋敷の中もすっかり静まり返っている。
一枚、頁をめくる。
【今日、孫策に勝手に予定決められた。ほんと嫌。】
次の頁。
【今日はみんなでご飯食べた。孫策がずっとうるさかった。】
さらに次。
【父上って言った。孫策めっちゃ笑ってた。もう二度と言わない。】
凌華の指が止まった。
しばらく、その一文を見つめる。
「……嘘つき」
誰に言ったのか、自分でも分からなかった。
昔の日記を書いた自分へなのか。
それとも、もうここにはいない孫策へなのか。
二度と言わない。
そんなことを書いた。
けれど、本当は。
もう一度くらい言う機会があると思っていた。
恥ずかしくなって、また孫策に大笑いされて、それから「やっぱりもう言わない」と怒ればいいと思っていた。
そんな日が、普通に続くと思っていた。
凌華は静かに頁を閉じた。
その時、壁際に立てかけた長剣から声がした。
『……今日は書かねえのか』
「書かない」
『そうか』
それだけだった。
剣の孫策は、理由を聞かなかった。
凌華も説明しなかった。
この孫策は、あの孫策ではない。
それを、二人とも分かっている。
だからこそ、こういう時には何も言わない。
凌華は日記を閉じたまま寝台の脇へ戻した。
そして翌日も。
その翌日も。
開いては、閉じた。
◇ ◇ ◇
凌華が以前ほど日記を開かなくなったことには、陸議も気づいていた。
内容を読んだことはない。
そもそも読めない。
以前、凌華が机へ向かっている時に何度か目にしたことがある程度だった。
細かな線と形で連なる、見覚えのない文字。
規則性はありそうなのに、この時代で使われているどの文字とも違う。
凌華が未来から来た人間だと知っている陸議には、それが彼女の時代の文字なのだろうということくらいは分かった。
だから、それ以上は聞かなかった。
ある夜。
廊下を歩いていた陸議は、縁側に座る凌華を見つけた。
膝の上には、例の日記が開かれている。
けれど筆は動いていない。
凌華はただ、同じ頁を見つめ続けていた。
少し迷ってから、陸議は声をかけた。
「凌華」
顔が上がる。
「あ、陸議さん」
「まだ起きていたのですか」
「うん」
陸議は隣へ座った。
近すぎず、離れすぎない程度のところへ。
一度だけ膝の上の日記へ目をやり、それから凌華を見る。
「今日は書かないのですか」
凌華の指が、頁の端で僅かに動いた。
「……書くことはあるよ」
「では?」
しばらく返事はなかった。
夜風が庭の木々を揺らし、葉の擦れる音だけが二人の間を通り過ぎる。
やがて凌華が、小さく口を開いた。
「書いたらさ」
「はい」
「本当に終わったみたいになるから」
陸議は何も言わなかった。
凌華は日記へ視線を落としたまま続ける。
「今までは、今日こうだったとか、孫策うるさかったとか、また何かされたとか……そういうの普通に書いてたんだけど」
少し笑おうとした。
けれど、うまく笑えなかった。
「今のことを書いたら、もう次がないんだなって分かっちゃうから」
『…………』
長剣からも声はしない。
陸議は凌華の横顔をしばらく見ていた。
それから、静かに言った。
「無理に書く必要はないと思います」
凌華が顔を上げる。
「書きたい時に書けばよいのではないですか」
「……うん」
「今は書けないのであれば、それでも」
そこで一度言葉を切り、膝の上の日記を見る。
「凌華のものなのでしょう?」
「そうだね」
「なら、凌華が決めればよいと思います」
凌華は少しだけ口元を緩めた。
「陸議さんって、こういう時ほんと何も聞かないよね」
「聞いてほしいのですか」
「……分かんない」
「では、聞きません」
「うん」
何も解決したわけではなかった。
孫策が戻ってくるわけでもない。
日記が急に書けるようになったわけでもない。
それでも。
今は書けなくてもいい。
そう言われただけで、少しだけ胸が軽くなった。
◇ ◇ ◇
翌日。
凌華は、また日記を開いた。
筆を取る。
白い頁を見つめたまま、長い間何も書かなかった。
『別に無理しなくてもいいんじゃねえか』
長剣から孫策が言う。
「分かってる」
『昨日、陸議も言ってただろ』
「うん」
「だから」
凌華は筆先を頁へ置いた。
ゆっくりと、一行だけ書く。
【今日はみんなでちゃんとご飯を食べた。】
それだけだった。
その次の日。
【尚香が笑った。】
また次の日には、
【呂蒙さんはいつも通りだった。】
【周瑜さんも普通に話してた。】
そして。
少し迷ってから。
【陸議さんは、何も聞かなかった。】
一行ずつ。
本当に、少しずつ。
日記はまた埋まり始めた。
ただ。
孫策のことだけは、まだ書けなかった。
名前を書こうとすると、筆が止まる。
剣の孫策のことなら書ける。
『今日も孫策がうるさい』と書こうと思えば、たぶん書ける。
けれど、それをすると。
どちらの孫策なのか、自分の中で分からなくなりそうな気がした。
だから、書かなかった。
◇ ◇ ◇
何日か経った夜。
凌華は以前の日記を読み返していた。
その途中で、ふと気づく。
日記のほとんどは未来の文字で書いている。
けれど、この時代へ来てから覚えた文字の中で、比較的早く覚えたものだけは、時々こちらの文字で書いていた。
人の名前だ。
孫策。
尚香。
周瑜。
呂蒙。
陸議。
未来の日本語の中へ、それらの名だけが混じっている。
特に多いのが、孫策。
何度も。
何度も出てくる。
凌華はその文字を指先でなぞった。
「……孫策」
『ん?』
「そっちじゃない」
『分かってるよ』
少しだけ間を置いて、孫策が言う。
『読めねえけど、俺の名前くらいは分かるからな』
「そっか」
剣の孫策も、この時代の文字なら認識できる。
けれど、周囲に並んでいる未来の文字までは読めない。
凌華はもう一度、日記へ目を落とした。
その時。
「その文字だけは、私にも分かります」
背後から声がして、凌華が振り返った。
「……陸議さん」
少し離れたところに陸議が立っていた。
「見た?」
「すみません。開いていたので、文字が目に入りました」
凌華は反射的に日記を閉じる。
「読めないでしょ」
「ほとんどは」
「ほとんど?」
凌華が怪訝そうに見る。
陸議の視線が、閉じられた日記へ落ちる。
「今指でなぞっていた文字は、孫策殿の名でしょう」
凌華の表情が少し止まった。
「……うん」
「他にも」
陸議は少し考える。
「尚香殿、周瑜殿、呂蒙殿。それと……私の名も、以前見かけました」
凌華の顔が変わった。
「ちょっと待って」
「はい」
「陸議さん、自分の名前分かるの?」
「自分の名ですから」
「そこじゃなくて!」
凌華は日記を胸へ抱き寄せた。
「未来の文字に混ざってても分かるの!?」
「そこだけは見慣れていますので」
「……最悪」
「なぜです?」
「だって……」
そこで言葉に詰まる。
陸議の名前は、結構書いている。
何を書いたかまでは読まれない。
それでも。
自分の名前が何度も出てくることくらいは、分かるということだ。
陸議がほんの少し目を細めた。
「私についても、随分書いてあるのですね」
「気のせい!」
「そうでしょうか」
「そう!」
「では、私の名をよく見かける気がしたのも?」
「錯覚!」
「なるほど」
全く納得していない顔だった。
『お前、分かりやすすぎだろ』
「孫策うるさい!」
陸議の視線が長剣へ向く。
「孫策殿ですか?」
「そう!」
『俺は何も悪くねえだろ』
「今は黙ってて!」
陸議は僅かに笑った。
凌華は日記を胸へ抱いたまま、ますます不満そうな顔になる。
「読めないんだからいいでしょ!」
「読もうとはしていません」
「じゃあ見ないで!」
「はい」
「ほんとに?」
「凌華が見せたくないのであれば」
その返事に。
凌華は少しだけ黙った。
さっきまで強く抱えていた日記から、僅かに力が抜ける。
「……ごめん」
「なぜ謝るのです?」
「なんか、陸議さんに当たった」
「そうですか?」
「そうなの」
凌華は小さく息を吐いた。
それから、少し迷って日記を開き直した。
白い頁が現れる。
陸議は横から覗き込まなかった。
凌華は筆を取った。
しばらく止まっていた手を、ゆっくり動かす。
【孫策がいない。】
それだけを書いた。
胸の奥が、ぎゅっと縮まる。
けれど。
今日は頁を閉じなかった。
隣にいる陸議は何も言わない。
長剣の孫策も、何も言わない。
少し待ってから。
凌華は、もう一行書いた。
【それでも今日もみんながいた。】
しばらく、その二つの文章を見つめる。
書いたからといって、何かが変わるわけではない。
孫策がいないという事実も。
明日からの日々も。
けれど。
書いてしまったあとに残ったのは、思っていたより静かな感覚だった。
「書けましたか」
陸議の声がした。
「うん」
「そうですか」
それだけだった。
内容を尋ねることもない。
凌華は筆を置き、日記を閉じた。
「陸議さん」
「はい」
「この日記ね」
「はい」
「最初は、誰にも読まれたくないから未来の文字で書いてたんだと思う」
「そうなのですか」
「うん。ここなら何書いても、誰にも分からないから」
「なるほど」
凌華は表紙を指先で撫でた。
「でも今は」
少し考える。
「忘れたくないから書いてる気がする」
陸議が凌華を見る。
「忘れないために?」
「うん」
凌華は少しだけ笑った。
「孫策がうるさかったこととか、尚香と笑ったこととか、呂蒙さんに怒られたこととか」
「私のことも?」
凌華が止まった。
「……そこ拾う?」
「気になったので」
「書いてるよ」
「そうですか」
「でも内容は教えない」
「分かっています」
「絶対?」
「はい」
少しだけ間があった。
「……ただ」
陸議が続ける。
凌華の目が警戒する。
「何?」
「私の名がよく出てくるのは、やはり少し気になります」
「もう!」
凌華の顔が一気に赤くなる。
「だから内容は内緒!」
「聞いていませんよ」
「顔が聞いてる!」
「顔は何も話しません」
『言うようになったな、陸議』
「孫策まで笑わないで!」
「何と?」
「陸議さん、言うようになったなって!」
陸議は少し困ったように笑った。
その表情を見て。
凌華も、結局笑ってしまった。
◇ ◇ ◇
その夜。
陸議が去ったあと。
凌華はもう一度日記を開いた。
今日の最後へ、少しだけ書き足す。
【陸議さんに、名前のところだけ分かるのがバレた。最悪。】
そこで筆が止まる。
少し考える。
そして続けた。
【でも、今日は書けた。】
もう一行。
【明日も書けたらいい。】
凌華は筆を置いた。
『随分書けるようになったじゃねえか』
「うん」
『よかったな』
凌華は日記を閉じようとして。
ふと、以前の頁へ戻った。
【今日一回だけ父上って言ったら、ものすごく嬉しそうにされた。もう言わない。】
その一文を見つめる。
剣の孫策は何も言わなかった。
凌華もしばらく黙っていた。
やがて。
ほんの少しだけ口元を緩める。
「……もう一回くらい、言えばよかったな」
声は小さかった。
それでも、剣の孫策には聞こえた。
しばらく返事はなかった。
そして。
『……そうだな』
短く、それだけが返ってきた。
凌華は日記へ目を落としたまま、少し笑った。
その夜は、日記を寝台の脇へ戻さなかった。
明日また書けるように。
机の上へ置いたまま、灯りを消した。
ーー了
ここからまた数日番外編続きます
孫策の死は最初から決めてました
本編を作った経緯は昔の書きかけの小説をAIで作り直したらどうなるのかって所からでした
本編は全部一度AIで完結させているのでまだまだお付き合い頂けたらと思いますm(*_ _)m
設定や呼称、関係性やストーリーなどは全部考えた上でAIに書き上げてもらう形にしています、歴史的な物や戦の流れなんかはAIに加筆してもらっています
孫策と言うキャラが好きだったしこんなに好きになると思ってなかったから時間止めたくて番外編めちゃくちゃ挟んでました
これからも凌華が陸議だけじゃなく色んなキャラとの日常をどう過ごしてきたのかを番外編で挟むので本編以上の話数になると思いますがご了承下さい
作者はこの物語が好きすぎて画像やショート動画作ったりして遊んでます
アップの方法がわからないので作って自分で見てるだけになってますがまた機会があれば…




