第三十話 南郡を巡る戦い
あの夢を見た翌朝、凌華は身支度を終えても、傍らの長剣をしばらく見つめていた。
窓から差す光の中で、自分の手に誰かの手が重なっていた。目が覚めて時間が経つほど、夢の輪郭は薄れていくのに、その温もりだけが妙に胸に残っている。
以前にもこの時代で生きていたことは、もう知っている。
けれど、昨夜見たものがその時の記憶なのか、それとも今の自分が思い描いた夢なのかは分からなかった。孫策にも夢の中身は見えていない。尋ねたところで、答えが出るものではなかった。
凌華は膝の上で手を開き、小さく息を吐いた。
「……考えるの、一旦やめる」
『おう。それがいい』
「あなたも、何か分かったらちゃんと教えてね」
『分かったよ。お前も、一人で勝手に答えを決めんなよ』
「分かってる」
長剣を背負い、肩にかかる重みを確かめる。
現代でこの剣に触れたことも、今こうして孫策の声を聞いていることも、確かに自分に起きた出来事だ。それでも、その間に何があったのかまでは分からない。
分からないことを、今すべて解き明かす必要はないのだろう。
戸の向こうでは、兵たちの足音が行き交っていた。
赤壁が終わり、曹操が北へ退いても、戦は終わっていない。目の前の人々は、それぞれの今日を動き始めている。
凌華も戸を開け、その朝の中へ踏み出した。
◇
軍議の場には、以前より張り詰めた空気があった。
孫権が上座に座り、周瑜が卓上に地図を広げている。凌華は席につく時、つい、かつて孫策がいた場所へ目を向けそうになった。
そこに姿がないことには、まだ慣れない。
けれど、地図を押さえた周瑜の手が動くと、凌華もそちらへ視線を戻した。
「曹操は北へ退いたが、荊州の北部には依然として勢力を残している。特に江陵は無視できん」
指先が示した地名に、凌華の胸が小さくざわついた。
江陵。南郡。
現代で読んだ文章の断片が、目の前の地図と結びついていく。
「……曹仁」
思わずこぼれた名に、周瑜が顔を上げた。
「知っているのか」
「曹操の将ですよね」
「ああ。江陵を守っている」
凌華は地図へ目を落とした。昨日は荊州を巡る大きな流れを話したが、個々の戦いまで整理できていたわけではない。
それでも、この地名と将の名を並べると、思い出すことがあった。
「たしか、私が知っている話でも、周瑜さんが曹仁と戦います。南郡を巡って」
「勝つのか?」
呂蒙の問いに、凌華は慎重に頷いた。
「最終的には、呉が南郡を取ったはずです。ただ、簡単な戦いではなかったと思います」
「なら、取れるとしても油断はできねえな」
「はい。それと……周瑜さんが、怪我をします」
地図の上に置かれていた周瑜の指が止まった。
昨日、二人きりで話したことが凌華の胸をよぎる。若くして病で亡くなると記憶していること。その時期についても、知っている範囲で伝えた。
だが、この戦で負う傷と、その後の病がどう関わるのかは分からない。読んだ歴史と物語の記憶も混ざっていた。
そこを曖昧なまま、同じものとして話してはいけない。
「私が読んだ話では、南郡を攻める時に矢を受けるんです。どこまで実際の出来事に沿っていたのかは、自信がありません。でも、危険があることは伝えておきたくて」
周瑜は凌華の顔を見てから、地図へ視線を戻した。
「どこで、どう受けたかは分かるか」
「……そこまでは、はっきり覚えていません」
「そうか。ならば、確かな備えができるところから考える」
その返事に少しだけ息がしやすくなった。それでも、不安がなくなったわけではない。
凌華は卓へ身を寄せた。
「だから、周瑜さんは前に出すぎないでください」
「必要な時には出る」
「返事が早い!」
「自分の目で確かめねばならん場面もある」
「それは分かりますけど、もう少し警戒してって言ってるんです」
「警戒はする。護衛にも伝え、敵の射程に不用意に入らぬようにする」
「絶対?」
「ああ」
「約束してください」
周瑜が、ほんのわずかに眉を寄せた。
凌華は見逃さなかった。
「今、ちょっと面倒くさそうな顔しました」
横で呂蒙が吹き出した。
「お前、軍議でも遠慮がねえな」
「だって、死んだら嫌だから!」
言い終えた瞬間、凌華自身が息を止めた。
誰も、すぐには言葉を返さなかった。
開け放たれた戸口から風が入り、地図の端をかすかに持ち上げる。孫権がその端を押さえた手を、凌華はぼんやりと見つめた。
「……ごめんなさい」
「謝るな」
周瑜の声は静かだった。
顔を上げると、責めるような色はなかった。
「心配されることを不快だとは思わん。昨日も言ったはずだ。私も、自分の命を軽く扱うつもりはない」
「……はい」
「ただし、未来を知っているからといって、私を戦場から外すことだけを考えるな。お前の知識は、備えるために使えばいい」
凌華は唇を結び、それから頷いた。
守りたいからといって、周瑜が担っているものを見ないふりはできない。
「分かりました。でも、矢には気をつけてください」
「分かったと言っただろう」
「二回言わないと心配だから」
「凌華」
たしなめる声に肩をすくめると、隣で陸議が小さく笑った。
「陸議さんも笑わないで」
「申し訳ありません」
「絶対、思ってない」
「いえ。ただ、周瑜殿をここまで困らせる人は珍しいと思っただけです」
「それ、褒めてる?」
「どうでしょう」
「最近、意地悪になってない?」
呂蒙がまた笑い、孫権もわずかに口元を緩めた。
周瑜は一度だけ息を吐くと、地図へ指を戻した。
「話を進めるぞ」
その声に皆の視線が集まる。
胸の奥の痛みが消えたわけではない。それでも、同じ卓を囲む人々の間に、張り詰めていたものが少しほどけた気がした。
◇
軍議が終わっても、凌華は地図の前に残っていた。
荊州、江陵、南郡。
知っている地名の上を、指先でゆっくりとたどる。
孫策は、凌華が知る歴史より長く生きた。そして赤壁の戦いを越えた後で、亡くなった。
すでに違っていることがある。これからも、知識の通りに進む保証はない。
それなら、自分の知ることをどう使えば、目の前の人たちを守れるのだろう。
「難しい顔をしていますね」
背後から声がして、凌華は振り返った。
戻ってきた陸議が、戸口に立っていた。
「またそれ?」
「何を考えていたのです?」
「これからのこと。荊州を巡って、いろんな人の人生が変わるんだなって」
陸議が隣へ来る。凌華は地図を見つめたまま続けた。
「周瑜さんも、呂蒙さんも……陸議さんも」
「私も、ですか」
「うん」
「以前も言っていましたね。未来の私は、かなり大きなことをするらしいと」
「……覚えてたんだ」
「あなたが私について話す時、妙に歯切れが悪かったので」
「そんなことない」
「あります」
「ない」
陸議が黙ってこちらを見る。
凌華はその視線に耐えきれず、先に目をそらした。
「……あります」
陸議が少し笑った。
「ですが、今は、その功績を詳しく聞こうとは思いません」
「知りたくないの?」
「興味はあります。ただ、未来の私が何をしたかを聞いて、それを真似することばかり考えても仕方がないでしょう」
凌華は顔を上げた。
陸議は地図の上に目を落としている。
「私はまだ、その人ではありません。今、目の前にあることを見て、自分で考えたいのです」
静かな言葉が、凌華の胸に残った。
目の前にいるのは、歴史の中で成し遂げたことを並べれば分かった気になれる相手ではない。
今日も自分の隣で考え、迷い、選んでいる陸議だった。
「もちろん、避けられる危険があるのなら教えてください。そこまで自分で確かめたいとは言いません」
最後にそう付け加えられ、凌華は笑った。
「うん。それはちゃんと話す」
「お願いします」
「私も、今の陸議さんを見ていたい」
陸議の手が、地図の端に触れたまま止まった。
その沈黙で、凌華は数秒遅れて自分の言葉を振り返った。
「あ……違う! 今の言い方!」
「私は何も言っていませんが」
「その顔やめて!」
「どの顔でしょう」
「ちょっと嬉しそうな顔!」
「気のせいでは?」
「絶対違う!」
頬が熱くなり、凌華は行き場を失った手で地図を畳みかけた。
「もう、帰る!」
「まだその地図を使います」
「あ、ごめん」
慌てて広げ直すと、陸議がとうとう声を出して笑った。
「笑った!」
「すみません」
「もう……」
恨めしく見上げても、その笑顔を見ているうちに、自分まで口元が緩んでしまう。
窓から入る風が、二人の間に広げ直された地図を揺らした。
凌華は今度こそ、その端をそっと押さえた。
◇
数日後、呉軍は江陵方面へ向けて動き始めた。
馬上から見渡す兵の列は長く、道の先まで続いている。蹄が乾いた土を踏むたびに薄く砂埃が舞い、風にあおられた旗が頭上で音を立てた。
凌華は手綱を握る指に、知らず力を込めていた。
怖かった。
以前から、戦場が恐ろしくなかったわけではない。けれど今は、出立する人々の背中を見るだけで、戻らなかった一人の姿が重なってしまう。
昨日まで話していた相手が、明日も返事をしてくれるとは限らない。
それを、もう知っていた。
「凌華」
隣を進んでいた陸議が顔を寄せた。
「顔色が良くありません」
「……ちょっと緊張してるだけ」
「戻りますか?」
「戻らない」
即答すると、陸議は小さく息を吐いた。
「そう言うと思いました」
「じゃあ、聞かないでよ」
「確認です。つらくなった時には、言ってください」
「うん」
頷いて前を見ると、少し先に周瑜の姿があった。
その肩越しに、まだ見えもしない矢を想像してしまう。南郡での負傷と、昨日伝えた病のことが、確かなつながりもないまま胸の中で結びつこうとする。
『凌華。未来ばっか見んな。今を見ろ』
耳に届いた孫策の声に、凌華は瞬きをした。
周瑜は馬上で傍らの将と言葉を交わしていた。陸議は自分のすぐ隣にいる。後ろを振り返れば、呂蒙が兵へ何か指示を出しているのが見えた。
まだ起きていないことばかり考えて、今ここにいる人たちの表情を見落としていた。
凌華は少し俯き、孫策にだけ届くつもりで声を落とした。
「……あなたに言われるとは思わなかった」
『うるせえ』
思わず、口元が緩む。
不思議そうにこちらを見た陸議へ、凌華は顔を向けた。
「孫策に、今を見ろって言われた」
陸議は一度頷き、前方へ視線を戻した。
「では、まず道を見てください。少し先で足場が悪くなります」
「……はい」
凌華は手綱を握り直した。
馬の歩みに合わせて身体が揺れる。その感覚を確かめながら、今度はきちんと目の前の道を見た。
◇
江陵を守る曹仁との戦いは、凌華が想像していたよりも長引いた。
赤壁の勢いのまま押し切れるような相手ではなかった。攻め寄せれば堅く守られ、隙を見せれば反撃を受ける。陣へ戻る兵の疲れも、日が経つにつれて濃くなっていった。
凌華自身も、何度か戦場へ出た。
両手に握る二振りの短剣は、稽古で使うものとは重みが違った。相手の武器を受け流し、踏み込み、腕を振るう。そのたびに、手に残る感触から目をそらしたくなる。
戦いが終われば、指が震えた。
握っていた柄から、すぐには手を離せない日もあった。
それでも次の戦いでは、また短剣を取った。そばにいる人を守りたい。その思いと、自分も生きて帰りたいという願いの両方が、足を動かしていた。
ある日の戦闘で、凌華は味方の列へ戻ろうとしていた。
「凌華、横です!」
陸議の声に振り向いた時には、敵兵の槍が迫っていた。
とっさに二振りの短剣を交差させ、穂先に近い柄を受ける。腕へ重い衝撃が走り、踏ん張った足が土を滑った。
「っ……!」
『腰を落とせ! 正面から押し返すな!』
孫策の声に合わせて膝を折り、身体を斜めに開く。
刃にかかった力を横へ流すと、槍の穂先が肩の脇を抜けた。敵が突き直そうとしたところへ陸議が踏み込み、その動きを止める。
「大丈夫ですか!」
「うん!」
「列を離れないでください!」
「離れるつもりじゃ――」
言いかけたところで、近くに矢が落ちた。
陸議が凌華の腕を引き、二人は盾を構えた味方の後ろへ下がる。
「話は後です」
「……それ、絶対説教でしょ」
「後で話せるように、今は下がってください」
その声の硬さに、凌華は口を閉じて頷いた。
低い丘の裾へ回り込むと、すぐ上に周瑜の旗が見えた。周瑜は護衛とともに戦場を見渡し、伝令へ短く指示を出している。
凌華もそちらへ目を向けかけた時、敵側の動きが視界の端に引っかかった。
前へ出てきた弓兵たちが、丘の方へ弓を向けている。
胸が冷たくなった。
これが、知っている出来事なのかは分からない。
けれど、弦が引かれているのは見えた。
「周瑜さん、敵の弓兵が!」
叫びながら、丘へ続く斜面を駆け上がる。
護衛が声に反応し、盾を持ち上げた。周瑜も敵の方へ目を走らせ、すぐに身を低くする。
『右だ、凌華!』
「右から来ます!」
陸議に肩を引かれ、凌華も盾の陰へ飛び込んだ。
直後、木を打つ乾いた音が重なった。
盾の上端を越えた矢が、背後の土に突き立つ。凌華は息を詰めたまま、すぐ隣の周瑜を見た。
「周瑜さん!」
「私は無事だ。お前も頭を上げるな」
返事があった。
そのことに安堵しかけた瞬間、孫策の声が鋭く響いた。
『まだだ! 横にもいる!』
凌華は盾の脇から目を走らせた。
別の位置に回った弓兵が、こちらへ狙いをつけている。正面へ向けられた盾では、そちらを覆いきれていなかった。
「横からも! 伏せて!」
周瑜が身をひねる。
護衛が盾を回したが、飛来した一本がその縁を抜けた。
周瑜の肩口で、衣が裂けた。
「周瑜様!」
呂蒙の声がして、周りの兵が盾を寄せる。
凌華は喉が詰まったようになりながら、周瑜の腕へ手を伸ばした。けれど周瑜は、自分の足で踏みとどまっていた。
「動ける。いったん下がるぞ」
短い命令とともに、皆が丘の裏手へ移る。
凌華も陸議に促されて足を動かした。周瑜の肩を押さえる手の下に、赤いものが見えている。その色から、どうしても目を離せなかった。
矢の届かない場所まで下がると、凌華はようやく声を出した。
「周瑜さん、肩……!」
「掠っただけだ」
「でも、血が」
「手当ては受ける。だから、そういう顔をするな」
周瑜は兵へ指示を出し、傷口に布を当てた。
立っている。話している。
それでも凌華の目には、一瞬、別の人の血が重なって見えた。
膝から力が抜けそうになり、隣の陸議がそっと肘を支えた。
「凌華。息をしてください」
言われて初めて、呼吸を止めていたことに気づく。
吸い込んだ空気が喉に引っかかり、胸が震えた。
周瑜がこちらを見る。
「お前、私より顔色が悪いぞ」
「だって、この傷が……」
言いかけて、凌華は口を閉じた。
これが、自分の知っている負傷なのかは分からない。
別の場面で、また矢を受けるのかもしれない。今の傷が浅そうに見えても、それだけで先のことまで安心していいわけではなかった。
けれど、周瑜は今、目の前で息をしている。
「……よかった」
それだけが、ようやく言葉になった。
周瑜は少し表情を緩め、凌華の頭へ手を置いた。
「警戒すると約束しただろう。護衛にも伝えてあった。お前が早く気づいたおかげで、盾を上げる間もあった」
凌華は濡れた目で見上げた。
「無駄にはなっていない。だから、落ち着け」
未来が変わったのかどうかは、まだ分からない。
それでも、伝えたことを受け止めてくれた人がいた。声を上げた時に、動いてくれた人たちがいた。
自分一人で、飛んでくるすべての矢を止めなくてもよかったのだ。
凌華は目元を拭った。
「……はい。でも、次も勝手に死なないでください」
「善処しよう」
「そこは、ちゃんと約束してください」
「お前は本当にしつこいな」
「孫策の娘なので」
周瑜が一瞬、目を見開いた。
それから、困ったように笑った。
「……確かにな」
傍らで呂蒙が息を漏らし、陸議の強張っていた表情もわずかにほどける。
凌華はもう一度、周瑜がそこに立っていることを確かめた。
◇
その夜、医師の診察を受けた周瑜の傷は、深いものではないと分かった。
傷口は処置され、しばらく無理をせず、熱や腫れが出ないか様子を見ることになった。
それを聞いても凌華は落ち着かず、何か用事を見つけては周瑜の幕舎へ足を向けた。
水を持って一度。医師の言葉を確かめに、もう一度。
三度目に入口から顔をのぞかせると、周瑜は凌華を見るなり目を細めた。
「凌華」
「はい」
「もう来るな。休め」
「でも、傷は……」
「浅いと聞いただろう」
「熱は?」
「ない」
「痛みは?」
「あるに決まっている」
「やっぱり!」
「矢が掠ったんだぞ。痛みまでないわけがあるか」
幕舎の外で、呂蒙が堪えきれずに笑った。
「周瑜、お前、もう諦めろ」
「何をだ」
「娘みてえなもんが、もう一人増えたと思え」
「誰が娘ですか!」
「お前だよ。他に誰がいる」
「そういう意味じゃなくて!」
凌華が入口へ向かって抗議すると、周瑜は額を押さえた。
その口から、懐かしい名がこぼれる。
「伯符……お前の娘は、随分面倒だぞ」
凌華は言葉を止めた。
胸の奥が小さく痛んだ。けれど、周瑜の声に含まれていた呆れたような親しさが、同時に温かかった。
「……本人も面倒でしたから」
「否定できんな」
周瑜も少し笑った。
背の長剣から、むっとした声が届く。
『お前ら、言いたい放題だな』
凌華は思わず吹き出し、周瑜に視線で問われて口を押さえた。
「孫策が、言いたい放題だなって」
「事実だろうと伝えておけ」
『聞こえてるっての』
凌華は笑いながら、目元をそっと拭った。
ここにいた孫策は、もう帰ってこない。
それでも、皆の中に残っている声や仕草は、悲しい時だけよみがえるものではなかった。こんなふうに呆れたり、笑ったりする時にも、ごく自然にそばへ戻ってくる。
「凌華」
周瑜に呼ばれ、顔を上げる。
「何か変われば医師を呼ぶ。お前にも知らせる。それでいいな」
「……はい」
「なら、今日は休め」
今度は素直に頷けた。
幕舎を出ると、冷えた夜気が頬に触れた。陣のあちこちで火が燃え、見回りの兵たちの影がその前を横切っていく。
凌華は自分の手を見下ろした。
昼間、短剣を握っていた指には、まだ疲れが残っている。
今日は敵の弓に気づいた。声を上げた。その声を受けて、盾を構えてくれた人がいた。
周瑜は生きて陣へ戻り、手当てを受け、今は休もうとしている。
先の不安が消えたわけではない。それでも今夜は、その一つ一つを確かなこととして胸に置いておきたかった。
凌華は幕舎を振り返り、それから自分の寝所へ向かって歩き始めた。
その背後で、周瑜の幕舎の灯がしばらく残っていた。
卓上に広げられた地図には、江陵からさらに先へ、いくつもの道が延びている。
南郡の戦いの向こうに周瑜が思い描くものを、凌華はまだ知らなかった。
赤壁の次の時代は、すでに動き始めていた。
――第三十話・了




