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三国凌華伝 ーあなたがくれた、もうひとつの時ー  作者: 隆月 アン
第三章 赤壁編 ~抗えない運命~
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第二十九話 江陵へ


 赤壁の戦いから、季節がひとつ巡ろうとしていた。


 長江を赤く染めた炎も、孫策を失ったあの夜も、目の前の景色からは少しずつ遠ざかっている。けれど、凌華は今でも、ときどき夢を見た。


 胸に矢を受けた孫策を抱き止め、何度呼んでも返事がなくなる夢だった。


 目を覚ますと、衣の下に冷たい汗が滲んでいる。手を伸ばせば届く場所に長剣があることを確かめ、そこでようやく、自分が今どこにいるのかを思い出せた。


 以前のように、朝まで眠れない日ばかりではなくなった。


 それでも、平気になったわけではない。何でもない笑い声に孫策を思い出し、廊下の向こうへ無意識に目を向けてしまうこともあった。


 そんなとき、尚香が隣へ座ることがあった。呂蒙に稽古へ呼ばれることも、陸議から書簡を渡されることもあった。


 悲しみを抱えたままでも、一日は少しずつ進んでいく。


 呉もまた、止まってはいなかった。


 孫権が江東を率い、周瑜が軍を支え、将たちはそれぞれの持ち場で動いている。孫策がいた頃と同じではなかったが、彼のいない場所をただ空けておくわけにもいかなかった。


 その中に、凌華もいた。


 孫策の娘として、そして、ここで生きていくと決めた一人として、少しずつ日々の務めへ戻り始めていた。


     *


「――遅い」


 乾いた音が、朝の訓練場に響いた。


 凌華の右手から稽古用の短剣が弾かれ、地面を滑っていく。反射的に左を振るったが、その手首も押さえられ、踏み込もうとした足の前へ陸議の身体が入った。


「はい、終わりです」


「ちょっと待って!」


「待ちません」


「今のなし!」


「戦場で敵に言ってみてください」


「言わないよ!」


 凌華が顔をしかめると、陸議はようやく手を離した。


 以前よりは、動けるようになった。


 初めて剣を握ったときのように、導かれるまま身体を動かしているわけではない。相手の足を見て、間合いを測り、自分の意思で刃を出せるようになっていた。


 それでも、陸議の前では、ほんの僅かな迷いまで見逃してもらえなかった。


「陸議さんに全然勝てない」


「まだ負けるつもりはありませんので」


「そこは少しくらい褒めてくれてもよくない?」


「右を弾かれた後、左が止まらなかったのは良かったです。ただ、追いかけるように踏み込んだので、足元が空きました」


 凌華は足元を見た。


 言われると、確かに分かる。それが余計に悔しかった。


「……もう一回」


「休憩してください」


「まだできる」


「今ので二十三回目です」


「数えてたの?」


「当然でしょう」


「じゃあ、あと七回」


「何故、三十回にしようとするのです」


「キリがいいから」


「却下です」


 陸議は凌華の手から稽古用の短剣を受け取り、地面へ落ちた方も拾い上げた。


「あ、返して」


「休憩したら」


「横暴」


「何とでも」


 そう言って歩いていく背中を、凌華はむっとしながら見送った。


『お前、楽しそうだな』


 訓練場の端へ置いていた長剣から声がした。


 凌華はその傍へ腰を下ろした。


「どこが」


『顔』


「負けて悔しいんだけど」


『そうかよ』


「その言い方、腹立つ」


『さっきから怒ってばっかだな』


 笑いを含んだ声に、凌華は小さく息を吐いた。


 この声に救われることは、以前より増えていた。


 眠れない夜も、思いがけず孫策を思い出したときも、呼べば返事をしてくれる。けれど、その声を聞くたびに、生きていた孫策との時間が薄れていくわけではなかった。


 二人とも孫策で、二人とも大切だった。


 剣の孫策が知っている前の自分の人生は、まだほとんど思い出せない。それでも、今の自分がこの剣と過ごしてきた日々は、確かにここにあった。


「どうぞ」


 戻ってきた陸議が、水の入った器を差し出した。


「ありがとう」


 受け取って飲むと、ようやく喉が渇いていたことに気づいた。


 陸議は隣へ腰を下ろし、凌華が落ち着くのを待っていた。


 凌華は何となく、その横顔を見た。


「……何です?」


「いや」


「何か付いていますか」


「付いてない」


「では?」


 凌華は器へ視線を落とした。


「何でもない」


 赤壁の後、陸議と黙って過ごせる時間が増えた。


 話すことがなくても気まずくならず、気づけば隣を探している。何か言われると思って身構えることもあれば、何も言われないことで安心することもあった。


 その変化を、上手く説明できなかった。


 助けてもらったから、教わっているから。それだけでは言い表せない気がしても、ほかにどんな言葉を当てればいいのか分からない。


「凌華」


「何?」


「何か気になることがあるなら、聞きますよ」


「別に、難しいこと考えてない」


「そうですか」


「その顔やめて」


「どの顔です?」


「全部分かってます、みたいな顔」


「分かってはいませんよ」


 陸議は少しだけ笑った。


「だから、知りたいとは思っています。あなたが何を考えているのか」


 凌華は器を持ったまま止まった。


「……そういうの、急に言うのやめて」


「何故です?」


「何でも!」


 誤魔化すように水を飲むと、長剣から小さな笑い声がした。


「孫策も、笑わないで」


 陸議が長剣へ目を向けた。


「今度は、何と?」


「何も言ってない。笑っただけ」


「それは、少し気になりますね」


「気にしなくていいから」


 凌華が言うと、陸議もそれ以上は尋ねなかった。


 こんなやり取りの後で、また稽古へ戻る。


 その当たり前が少しずつ戻ってきたことを、凌華は嬉しく思っていた。


     *


 その日の午後、凌華は孫権から呼び出された。


 人を限った軍議の場には、周瑜、呂蒙、陸議の姿もあった。机へ広げられた地図を見た瞬間、凌華の足が僅かに鈍った。


「……荊州」


 孫権が顔を上げた。


「これからの動きを話す。お前の知ることも、確かめておきたい」


 凌華は頷き、地図へ近づいた。


 荊州を巡る戦いは、赤壁で終わるわけではない。


 曹操、孫権、劉備。それぞれの思惑が重なり、今は手を結んでいる者たちの関係も変わっていく。


 そして、その争いには、目の前の人たちの名が深く関わっていた。


「私が知っている歴史では、劉備さんたちが荊州で足場を固めて、その後、益州へ進みます」


 陸議の目が地図へ落ちた。


「西へ進出するのですね」


「うん。それから……呉と劉備さんたちの関係も、今のままではいられなくなります」


 呂蒙が腕を組んだ。


「敵になるのか」


「私の知っている歴史では。荊州を巡る対立が、その大きな原因の一つになります」


 凌華は、自分の声が固くなるのを感じた。


 頭には幾つもの名前が浮かんでいた。関羽、呂蒙、陸遜。そして、その先の戦い。


 それを一度に口にしようとすると、何から話せばいいのか分からなくなった。


「どのような経緯で対立する」


 周瑜に問われ、凌華は唇を引き結んだ。


「話します。ただ、かなり先の出来事までつながっていて……細かい順番や、何が直接のきっかけだったか、曖昧なところもあります」


「ならば、分かることと曖昧なことを分けろ」


 周瑜は地図の端へ指を置いた。


「覚えている出来事を、今すぐ起きることのように受け取るつもりはない。だが、知っている危険まで伏せられては、備えることもできぬ」


 凌華は顔を上げた。


 赤壁の後、自分でも言ったはずだった。


 知っていることは伝える。その上で、今の状況を見て判断してほしいと。


 怖くなったからといって、今度は自分一人で、話すべきことまで決めてしまってはいけなかった。


「……はい。上手くまとまらないかもしれませんけど」


「構わん。確かめながら聞く」


 孫権の言葉に、凌華は頷いた。


 それから、覚えている範囲を少しずつ話した。


 荊州の支配を巡って、同盟の内側にも対立が残ること。関羽が深く関わること。その対立が、やがて大きな戦へつながっていくこと。


 人の名を口にするたび、凌華の喉は強張った。


 周瑜たちは、その都度、時期や前後関係を尋ねた。分からないことには、分からないと答えた。今の配置と食い違うところがあれば、それも確かめられた。


 誰も、そのまま未来をなぞるための命令を出そうとはしなかった。


 孫権は一通り聞き終えると、地図へ視線を戻した。


「同盟があるからといって、利害まで同じとは限らぬということだな。覚えていることが増えたら、また話してくれ」


「はい」


「では、現在の状況を踏まえて進める」


 周瑜が、これからの進軍と各地の状況について説明を始めた。


 凌華もそれを聞きながら、地図を見つめた。


 荊州へ向かう。


 その言葉に、胸の奥が落ち着かなくなった。


 周瑜の声を聞くたびに、知っている最期が頭をよぎる。呂蒙が意見を述べれば、さらに先の出来事が浮かぶ。


 無意識に陸議へ目を向けると、彼は地図を見ながら、周瑜の説明を聞いていた。


 いつか陸遜として名を残す人。


 けれど今、目の前にいるのは、今朝も自分の稽古を止め、水を持ってきてくれた陸議だった。


 名前の先に知っていることがあるほど、隣にいる人の姿まで遠くなってしまいそうで、凌華は膝の上で指を握った。


     *


 軍議が終わると、周瑜が凌華を呼び止めた。


「少しいいか」


「はい」


 他の者たちが退出する。


 最後に陸議が振り返ったが、凌華が小さく頷くと、彼も外へ出ていった。


 二人になると、周瑜は畳みかけていた地図から手を離した。


「私の身に起こることで、話していないことがあるな」


 凌華の表情が強張った。


「……何で」


「荊州の話に入ってから、お前は何度も私を見ていた。軍の動き以外に、気にしていることがあるのだろう」


 凌華は唇を噛んだ。


 気づかれないようにしていたつもりだった。


 けれど、周瑜の前では、それほど上手く隠せていなかったらしい。


「私が、どう死ぬかか」


 凌華は答えられなかった。


 その沈黙を受けて、周瑜は静かに息を吐いた。


「……やはりな」


「聞きたいですか」


 凌華が尋ねると、周瑜は少し考えた。


「死ぬ日を告げられ、それを待つつもりはない。だが、備えられることがあるなら聞く」


 凌華は顔を上げた。


「お前の知る歴史で、私に何が起きた。分かる範囲でよい」


「……病で亡くなったと、私は覚えています。細かい原因までは、自信がありません。物語で読んだことと、記録で読んだことも混ざっていると思います」


 声が震えそうになり、凌華は一度息を継いだ。


「でも、まだ若かった。それだけは、覚えてます」


 周瑜は黙って聞いていた。


 凌華の知る時期も確かめた後、静かに頷いた。


「分かった。身体に異変があれば放置しない。遠征の準備にも、その点を入れておこう」


「……それだけですか」


「今の話から、ほかに確かな対策が立てられるか」


 凌華は口を閉じた。


 もっとはっきりした答えがほしかった。


 それなら助かると言ってほしかった。


 けれど、自分が渡せる情報も、まだそれほど確かなものではなかった。


「怖くないんですか」


「怖くないと言えば嘘になる」


 意外な答えに、凌華は周瑜を見た。


 彼は畳んだ地図の端を整えながら続けた。


「だが、知ったからこそ備えられることもある。恐れるだけで終わらせる必要はない」


「……はい」


「それに、お前の知る私は、伯符と赤壁を戦ってはいないのだろう」


 孫策の名を口にしたとき、その手が僅かに止まった。


「私が経験したことも、今の立場も、すでに同じではない。先まで必ず同じになると決めるには、違うものが多すぎる」


 凌華は机の端を見つめた。


 その言葉を信じたかった。


 けれど、信じて、また失うのが怖かった。


「私、孫策のときも……もう大丈夫かもしれないって、思ってたんです」


 周瑜は手を止め、凌華へ向き直った。


「分かってます。助けた時間は消えないって。皆が言ってくれたことも、孫策が喜んでくれたことも。でも、また同じことになったらと思うと……」


 言葉が詰まった。


 周瑜も呂蒙も、陸議も、今はここにいる。


 その人たちを、まだ起きていない別れの中へ置いて見てしまう自分が嫌だった。


「知っているのに、何もしないなんてできない」


「ならば、今のように話せ」


 周瑜の返事は明確だった。


「判断も、備えも、私たちにさせろ。お前が知っていることを、お前一人の責任にするな」


 凌華は顔を上げた。


「私を救うことだけを、お前の役目にする必要はない。私は私で、自分の命を守る」


「……ちゃんと、守ってくださいね」


「ああ」


 周瑜は頷いた。


 その答えに、凌華の肩が僅かに下がった。


「そして凌華。もし力が及ばぬことがあっても、自分まで失うな」


 凌華は動けなくなった。


 孫策の身体を抱いていた夜が蘇る。


 声をかけられても、手を差し出されても、どこへ戻ればいいのか分からなかった。あの場所から動くことが、孫策を置いていくことのように思えた。


「お前を失いたくない者も、ここにいる」


 周瑜は静かに言った。


 凌華はすぐには返事をできなかったが、やがて小さく頷いた。


「……はい」


     *


 外へ出ると、陸議が待っていた。


 凌華を見つけると、持っていた書簡を閉じて歩み寄ってくる。


「何を話していたのです?」


「周瑜さんのこと。……少し、先の話」


「そうですか」


「詳しく聞かないの?」


「今、話せそうですか」


 凌華は少し考えてから、首を振った。


「まだ、まとまらない」


「では、後で」


 それだけ言って、陸議は隣を歩き始めた。


 凌華も数歩進み、それから彼の袖を指先で掴んだ。


 陸議の足が止まる。


「凌華?」


「……ちょっとだけ、このまま歩いていい?」


 前を向いたまま尋ねた。


 陸議は袖を掴む手を見たが、理由は聞かなかった。


「ええ」


 歩き出すと、先ほどより少し歩調が落ちていた。


 凌華はその速さに合わせ、袖の布を指の間で確かめた。


 未来の記録にある名を、彼女は知っている。


 けれど、今、隣を歩いている人の息遣いや、書簡を持つ手の形、こちらが遅れないように調整してくれる足取りは、ここへ来てから知ったものだった。


 まだ起きていないことばかり見て、この時間を見失いたくなかった。


 凌華は袖を掴む指に、少しだけ力を込めた。


     *


 その夜、凌華は夢を見た。


 赤壁ではなかった。


 どこかの部屋に座っている。開いた窓から薄い光が入り、風に動く布の影が床を横切っていた。


 見覚えがあるような気がした。


 けれど、どこの部屋なのか思い出せない。


 誰かが傍にいた。


 顔を上げようとしても、夢の景色は上手く動かなかった。ただ、手の上へ別の手が重なり、その温かさだけがはっきりと伝わってきた。


 声がした。


 自分の名を呼ばれた気がした。


 答えようとした途端、景色が薄れた。


 凌華は暗い部屋で目を開けた。


 しばらく、天井を見つめていた。


 胸が痛いわけではない。あの夜のように息が詰まっているわけでもない。それでも、何かを置いてきたような寂しさが残っていた。


 ゆっくりと身を起こし、自分の手を見た。


 誰も触れていない。


「……孫策」


『どうした』


「夢を見た」


『怖いやつか』


「ううん。たぶん、怖くなかった」


 凌華は近くへ置いた長剣へ目を向けた。


「知らない部屋で、誰かが手を重ねてくれたの。顔は見えなかったけど……何か、安心してた」


 孫策は黙って聞いていた。


「前の私の記憶なのかな」


『それだけじゃ、俺にも分からねえ』


「……そうだよね」


『今日あったことが夢に出ることもあるだろ。無理に、どっちかに決めなくていいんじゃねえか』


 凌華は、夕方に陸議の袖を掴んだことを思い出した。


 あのときの安心が、夢の中で形を変えたのかもしれない。あるいは、本当に知らない記憶なのかもしれない。


 以前にもこの時代で生きていたことは、もう知っている。


 けれど、それを知ることと、そこで生きた日々を自分のものとして思い出すことは違っていた。


「前の私、こういう日もあったんだろうな」


『こういう日?』


「何でもない部屋で、誰かと座ってるだけの日」


『……ああ。あったよ』


 凌華は小さく頷いた。


 まだ、誰だったのかは聞かなかった。


 夢に答えを当てはめてしまうよりも、手に残っている気がする温かさを、今はそのまま覚えていたかった。


「お水、飲んでくる」


『足元、気をつけろよ』


「分かってる」


 立ち上がり、用意されていた水を飲んだ。


 冷たさが喉を通ると、夢の景色が少し遠のいた。戻って横になる前に、凌華は長剣の柄へ指を添えた。


「孫策」


『今度は何だ』


「……呼んだだけ」


『寝ろ』


 いつもの調子に、凌華は僅かに笑った。


 まだ思い出せない過去も、知っているはずなのに見通せない未来もある。


 明日になれば、荊州へ向かうための準備が待っている。荷を確かめ、足りないものを揃え、皆の話を聞かなければならない。


 凌華は横になり、布を肩まで引き上げた。


 今度、目を閉じたときには、隣を歩く陸議の足音が思い出された。


 その歩調に呼吸を合わせるようにして、彼女は静かに眠りへ戻っていった。


――第二十九話・了

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