第二十九話 江陵へ
赤壁の戦いから、季節がひとつ巡ろうとしていた。
長江を赤く染めた炎も、孫策を失ったあの夜も、目の前の景色からは少しずつ遠ざかっている。けれど、凌華は今でも、ときどき夢を見た。
胸に矢を受けた孫策を抱き止め、何度呼んでも返事がなくなる夢だった。
目を覚ますと、衣の下に冷たい汗が滲んでいる。手を伸ばせば届く場所に長剣があることを確かめ、そこでようやく、自分が今どこにいるのかを思い出せた。
以前のように、朝まで眠れない日ばかりではなくなった。
それでも、平気になったわけではない。何でもない笑い声に孫策を思い出し、廊下の向こうへ無意識に目を向けてしまうこともあった。
そんなとき、尚香が隣へ座ることがあった。呂蒙に稽古へ呼ばれることも、陸議から書簡を渡されることもあった。
悲しみを抱えたままでも、一日は少しずつ進んでいく。
呉もまた、止まってはいなかった。
孫権が江東を率い、周瑜が軍を支え、将たちはそれぞれの持ち場で動いている。孫策がいた頃と同じではなかったが、彼のいない場所をただ空けておくわけにもいかなかった。
その中に、凌華もいた。
孫策の娘として、そして、ここで生きていくと決めた一人として、少しずつ日々の務めへ戻り始めていた。
*
「――遅い」
乾いた音が、朝の訓練場に響いた。
凌華の右手から稽古用の短剣が弾かれ、地面を滑っていく。反射的に左を振るったが、その手首も押さえられ、踏み込もうとした足の前へ陸議の身体が入った。
「はい、終わりです」
「ちょっと待って!」
「待ちません」
「今のなし!」
「戦場で敵に言ってみてください」
「言わないよ!」
凌華が顔をしかめると、陸議はようやく手を離した。
以前よりは、動けるようになった。
初めて剣を握ったときのように、導かれるまま身体を動かしているわけではない。相手の足を見て、間合いを測り、自分の意思で刃を出せるようになっていた。
それでも、陸議の前では、ほんの僅かな迷いまで見逃してもらえなかった。
「陸議さんに全然勝てない」
「まだ負けるつもりはありませんので」
「そこは少しくらい褒めてくれてもよくない?」
「右を弾かれた後、左が止まらなかったのは良かったです。ただ、追いかけるように踏み込んだので、足元が空きました」
凌華は足元を見た。
言われると、確かに分かる。それが余計に悔しかった。
「……もう一回」
「休憩してください」
「まだできる」
「今ので二十三回目です」
「数えてたの?」
「当然でしょう」
「じゃあ、あと七回」
「何故、三十回にしようとするのです」
「キリがいいから」
「却下です」
陸議は凌華の手から稽古用の短剣を受け取り、地面へ落ちた方も拾い上げた。
「あ、返して」
「休憩したら」
「横暴」
「何とでも」
そう言って歩いていく背中を、凌華はむっとしながら見送った。
『お前、楽しそうだな』
訓練場の端へ置いていた長剣から声がした。
凌華はその傍へ腰を下ろした。
「どこが」
『顔』
「負けて悔しいんだけど」
『そうかよ』
「その言い方、腹立つ」
『さっきから怒ってばっかだな』
笑いを含んだ声に、凌華は小さく息を吐いた。
この声に救われることは、以前より増えていた。
眠れない夜も、思いがけず孫策を思い出したときも、呼べば返事をしてくれる。けれど、その声を聞くたびに、生きていた孫策との時間が薄れていくわけではなかった。
二人とも孫策で、二人とも大切だった。
剣の孫策が知っている前の自分の人生は、まだほとんど思い出せない。それでも、今の自分がこの剣と過ごしてきた日々は、確かにここにあった。
「どうぞ」
戻ってきた陸議が、水の入った器を差し出した。
「ありがとう」
受け取って飲むと、ようやく喉が渇いていたことに気づいた。
陸議は隣へ腰を下ろし、凌華が落ち着くのを待っていた。
凌華は何となく、その横顔を見た。
「……何です?」
「いや」
「何か付いていますか」
「付いてない」
「では?」
凌華は器へ視線を落とした。
「何でもない」
赤壁の後、陸議と黙って過ごせる時間が増えた。
話すことがなくても気まずくならず、気づけば隣を探している。何か言われると思って身構えることもあれば、何も言われないことで安心することもあった。
その変化を、上手く説明できなかった。
助けてもらったから、教わっているから。それだけでは言い表せない気がしても、ほかにどんな言葉を当てればいいのか分からない。
「凌華」
「何?」
「何か気になることがあるなら、聞きますよ」
「別に、難しいこと考えてない」
「そうですか」
「その顔やめて」
「どの顔です?」
「全部分かってます、みたいな顔」
「分かってはいませんよ」
陸議は少しだけ笑った。
「だから、知りたいとは思っています。あなたが何を考えているのか」
凌華は器を持ったまま止まった。
「……そういうの、急に言うのやめて」
「何故です?」
「何でも!」
誤魔化すように水を飲むと、長剣から小さな笑い声がした。
「孫策も、笑わないで」
陸議が長剣へ目を向けた。
「今度は、何と?」
「何も言ってない。笑っただけ」
「それは、少し気になりますね」
「気にしなくていいから」
凌華が言うと、陸議もそれ以上は尋ねなかった。
こんなやり取りの後で、また稽古へ戻る。
その当たり前が少しずつ戻ってきたことを、凌華は嬉しく思っていた。
*
その日の午後、凌華は孫権から呼び出された。
人を限った軍議の場には、周瑜、呂蒙、陸議の姿もあった。机へ広げられた地図を見た瞬間、凌華の足が僅かに鈍った。
「……荊州」
孫権が顔を上げた。
「これからの動きを話す。お前の知ることも、確かめておきたい」
凌華は頷き、地図へ近づいた。
荊州を巡る戦いは、赤壁で終わるわけではない。
曹操、孫権、劉備。それぞれの思惑が重なり、今は手を結んでいる者たちの関係も変わっていく。
そして、その争いには、目の前の人たちの名が深く関わっていた。
「私が知っている歴史では、劉備さんたちが荊州で足場を固めて、その後、益州へ進みます」
陸議の目が地図へ落ちた。
「西へ進出するのですね」
「うん。それから……呉と劉備さんたちの関係も、今のままではいられなくなります」
呂蒙が腕を組んだ。
「敵になるのか」
「私の知っている歴史では。荊州を巡る対立が、その大きな原因の一つになります」
凌華は、自分の声が固くなるのを感じた。
頭には幾つもの名前が浮かんでいた。関羽、呂蒙、陸遜。そして、その先の戦い。
それを一度に口にしようとすると、何から話せばいいのか分からなくなった。
「どのような経緯で対立する」
周瑜に問われ、凌華は唇を引き結んだ。
「話します。ただ、かなり先の出来事までつながっていて……細かい順番や、何が直接のきっかけだったか、曖昧なところもあります」
「ならば、分かることと曖昧なことを分けろ」
周瑜は地図の端へ指を置いた。
「覚えている出来事を、今すぐ起きることのように受け取るつもりはない。だが、知っている危険まで伏せられては、備えることもできぬ」
凌華は顔を上げた。
赤壁の後、自分でも言ったはずだった。
知っていることは伝える。その上で、今の状況を見て判断してほしいと。
怖くなったからといって、今度は自分一人で、話すべきことまで決めてしまってはいけなかった。
「……はい。上手くまとまらないかもしれませんけど」
「構わん。確かめながら聞く」
孫権の言葉に、凌華は頷いた。
それから、覚えている範囲を少しずつ話した。
荊州の支配を巡って、同盟の内側にも対立が残ること。関羽が深く関わること。その対立が、やがて大きな戦へつながっていくこと。
人の名を口にするたび、凌華の喉は強張った。
周瑜たちは、その都度、時期や前後関係を尋ねた。分からないことには、分からないと答えた。今の配置と食い違うところがあれば、それも確かめられた。
誰も、そのまま未来をなぞるための命令を出そうとはしなかった。
孫権は一通り聞き終えると、地図へ視線を戻した。
「同盟があるからといって、利害まで同じとは限らぬということだな。覚えていることが増えたら、また話してくれ」
「はい」
「では、現在の状況を踏まえて進める」
周瑜が、これからの進軍と各地の状況について説明を始めた。
凌華もそれを聞きながら、地図を見つめた。
荊州へ向かう。
その言葉に、胸の奥が落ち着かなくなった。
周瑜の声を聞くたびに、知っている最期が頭をよぎる。呂蒙が意見を述べれば、さらに先の出来事が浮かぶ。
無意識に陸議へ目を向けると、彼は地図を見ながら、周瑜の説明を聞いていた。
いつか陸遜として名を残す人。
けれど今、目の前にいるのは、今朝も自分の稽古を止め、水を持ってきてくれた陸議だった。
名前の先に知っていることがあるほど、隣にいる人の姿まで遠くなってしまいそうで、凌華は膝の上で指を握った。
*
軍議が終わると、周瑜が凌華を呼び止めた。
「少しいいか」
「はい」
他の者たちが退出する。
最後に陸議が振り返ったが、凌華が小さく頷くと、彼も外へ出ていった。
二人になると、周瑜は畳みかけていた地図から手を離した。
「私の身に起こることで、話していないことがあるな」
凌華の表情が強張った。
「……何で」
「荊州の話に入ってから、お前は何度も私を見ていた。軍の動き以外に、気にしていることがあるのだろう」
凌華は唇を噛んだ。
気づかれないようにしていたつもりだった。
けれど、周瑜の前では、それほど上手く隠せていなかったらしい。
「私が、どう死ぬかか」
凌華は答えられなかった。
その沈黙を受けて、周瑜は静かに息を吐いた。
「……やはりな」
「聞きたいですか」
凌華が尋ねると、周瑜は少し考えた。
「死ぬ日を告げられ、それを待つつもりはない。だが、備えられることがあるなら聞く」
凌華は顔を上げた。
「お前の知る歴史で、私に何が起きた。分かる範囲でよい」
「……病で亡くなったと、私は覚えています。細かい原因までは、自信がありません。物語で読んだことと、記録で読んだことも混ざっていると思います」
声が震えそうになり、凌華は一度息を継いだ。
「でも、まだ若かった。それだけは、覚えてます」
周瑜は黙って聞いていた。
凌華の知る時期も確かめた後、静かに頷いた。
「分かった。身体に異変があれば放置しない。遠征の準備にも、その点を入れておこう」
「……それだけですか」
「今の話から、ほかに確かな対策が立てられるか」
凌華は口を閉じた。
もっとはっきりした答えがほしかった。
それなら助かると言ってほしかった。
けれど、自分が渡せる情報も、まだそれほど確かなものではなかった。
「怖くないんですか」
「怖くないと言えば嘘になる」
意外な答えに、凌華は周瑜を見た。
彼は畳んだ地図の端を整えながら続けた。
「だが、知ったからこそ備えられることもある。恐れるだけで終わらせる必要はない」
「……はい」
「それに、お前の知る私は、伯符と赤壁を戦ってはいないのだろう」
孫策の名を口にしたとき、その手が僅かに止まった。
「私が経験したことも、今の立場も、すでに同じではない。先まで必ず同じになると決めるには、違うものが多すぎる」
凌華は机の端を見つめた。
その言葉を信じたかった。
けれど、信じて、また失うのが怖かった。
「私、孫策のときも……もう大丈夫かもしれないって、思ってたんです」
周瑜は手を止め、凌華へ向き直った。
「分かってます。助けた時間は消えないって。皆が言ってくれたことも、孫策が喜んでくれたことも。でも、また同じことになったらと思うと……」
言葉が詰まった。
周瑜も呂蒙も、陸議も、今はここにいる。
その人たちを、まだ起きていない別れの中へ置いて見てしまう自分が嫌だった。
「知っているのに、何もしないなんてできない」
「ならば、今のように話せ」
周瑜の返事は明確だった。
「判断も、備えも、私たちにさせろ。お前が知っていることを、お前一人の責任にするな」
凌華は顔を上げた。
「私を救うことだけを、お前の役目にする必要はない。私は私で、自分の命を守る」
「……ちゃんと、守ってくださいね」
「ああ」
周瑜は頷いた。
その答えに、凌華の肩が僅かに下がった。
「そして凌華。もし力が及ばぬことがあっても、自分まで失うな」
凌華は動けなくなった。
孫策の身体を抱いていた夜が蘇る。
声をかけられても、手を差し出されても、どこへ戻ればいいのか分からなかった。あの場所から動くことが、孫策を置いていくことのように思えた。
「お前を失いたくない者も、ここにいる」
周瑜は静かに言った。
凌華はすぐには返事をできなかったが、やがて小さく頷いた。
「……はい」
*
外へ出ると、陸議が待っていた。
凌華を見つけると、持っていた書簡を閉じて歩み寄ってくる。
「何を話していたのです?」
「周瑜さんのこと。……少し、先の話」
「そうですか」
「詳しく聞かないの?」
「今、話せそうですか」
凌華は少し考えてから、首を振った。
「まだ、まとまらない」
「では、後で」
それだけ言って、陸議は隣を歩き始めた。
凌華も数歩進み、それから彼の袖を指先で掴んだ。
陸議の足が止まる。
「凌華?」
「……ちょっとだけ、このまま歩いていい?」
前を向いたまま尋ねた。
陸議は袖を掴む手を見たが、理由は聞かなかった。
「ええ」
歩き出すと、先ほどより少し歩調が落ちていた。
凌華はその速さに合わせ、袖の布を指の間で確かめた。
未来の記録にある名を、彼女は知っている。
けれど、今、隣を歩いている人の息遣いや、書簡を持つ手の形、こちらが遅れないように調整してくれる足取りは、ここへ来てから知ったものだった。
まだ起きていないことばかり見て、この時間を見失いたくなかった。
凌華は袖を掴む指に、少しだけ力を込めた。
*
その夜、凌華は夢を見た。
赤壁ではなかった。
どこかの部屋に座っている。開いた窓から薄い光が入り、風に動く布の影が床を横切っていた。
見覚えがあるような気がした。
けれど、どこの部屋なのか思い出せない。
誰かが傍にいた。
顔を上げようとしても、夢の景色は上手く動かなかった。ただ、手の上へ別の手が重なり、その温かさだけがはっきりと伝わってきた。
声がした。
自分の名を呼ばれた気がした。
答えようとした途端、景色が薄れた。
凌華は暗い部屋で目を開けた。
しばらく、天井を見つめていた。
胸が痛いわけではない。あの夜のように息が詰まっているわけでもない。それでも、何かを置いてきたような寂しさが残っていた。
ゆっくりと身を起こし、自分の手を見た。
誰も触れていない。
「……孫策」
『どうした』
「夢を見た」
『怖いやつか』
「ううん。たぶん、怖くなかった」
凌華は近くへ置いた長剣へ目を向けた。
「知らない部屋で、誰かが手を重ねてくれたの。顔は見えなかったけど……何か、安心してた」
孫策は黙って聞いていた。
「前の私の記憶なのかな」
『それだけじゃ、俺にも分からねえ』
「……そうだよね」
『今日あったことが夢に出ることもあるだろ。無理に、どっちかに決めなくていいんじゃねえか』
凌華は、夕方に陸議の袖を掴んだことを思い出した。
あのときの安心が、夢の中で形を変えたのかもしれない。あるいは、本当に知らない記憶なのかもしれない。
以前にもこの時代で生きていたことは、もう知っている。
けれど、それを知ることと、そこで生きた日々を自分のものとして思い出すことは違っていた。
「前の私、こういう日もあったんだろうな」
『こういう日?』
「何でもない部屋で、誰かと座ってるだけの日」
『……ああ。あったよ』
凌華は小さく頷いた。
まだ、誰だったのかは聞かなかった。
夢に答えを当てはめてしまうよりも、手に残っている気がする温かさを、今はそのまま覚えていたかった。
「お水、飲んでくる」
『足元、気をつけろよ』
「分かってる」
立ち上がり、用意されていた水を飲んだ。
冷たさが喉を通ると、夢の景色が少し遠のいた。戻って横になる前に、凌華は長剣の柄へ指を添えた。
「孫策」
『今度は何だ』
「……呼んだだけ」
『寝ろ』
いつもの調子に、凌華は僅かに笑った。
まだ思い出せない過去も、知っているはずなのに見通せない未来もある。
明日になれば、荊州へ向かうための準備が待っている。荷を確かめ、足りないものを揃え、皆の話を聞かなければならない。
凌華は横になり、布を肩まで引き上げた。
今度、目を閉じたときには、隣を歩く陸議の足音が思い出された。
その歩調に呼吸を合わせるようにして、彼女は静かに眠りへ戻っていった。
――第二十九話・了




