第二十八話 孫策の娘として
孫策の葬送が行われたのは、赤壁の戦いから数日後のことだった。
江上に残っていた焦げた匂いは、まだ完全には消えていなかった。川辺では傷んだ船の修繕が始まり、陣には各地からの報告が届き続けている。曹操軍を退けた後も、兵を休ませ、傷ついた者を送り、次の動きに備えなければならなかった。
その慌ただしさの中で、孫策を送る時間だけが静かに流れていた。
凌華は白い衣を身につけ、列の中を歩いていた。
髪は飾らず、簡素にまとめている。腰には陸議からもらった二振りの短剣があり、背には、あの長剣を負っていた。
歩くたびに、慣れた重みが背中へ伝わる。
そこには孫策がいる。
けれど、少し前を進む棺の中にも、孫策がいた。
剣の声が聞こえることは救いだった。それでも、もう頭を撫でてくれない手の代わりにはならない。目の前の棺を見つめていると、声が聞こえる方の孫策まで失うことが怖くなり、凌華はそっと負い紐へ指を添えた。
「……父上」
棺へ向けて零れた呼びかけに、返事はなかった。
剣の孫策も、黙っていた。
今、誰を呼んでいるのか、分かってくれているのだろう。その静けさに支えられながら、凌華は前を向いた。
棺の近くには孫権がいた。
その傍らを歩く尚香は、唇を固く結び、一度も後ろを振り返らなかった。
知らせを受けて駆けつけたとき、尚香は凌華の顔を見るなり足を止めた。何かを尋ねようとして、それでも声が出ず、ただ彼女の腕を掴んだ。
凌華も、何も言えなかった。
無事に帰ってくるはずだった人が帰らない。そのことを、どんな言葉で伝え直せばいいのか分からなかった。
今も尚香の横顔には、眠れていない疲れが残っていた。
その少し後ろに、周瑜、呂蒙、陸議が続いている。
凌華は時折、周瑜の横顔へ目を向けた。
必要なことには答え、誰かが困れば静かに指示を出す。いつもと変わらない仕草なのに、棺へ向ける眼差しだけが、遠いところを見ているようだった。
自分の知らない孫策を、この人は知っている。
凌華がこの時代へ来るずっと前から、二人で笑った日も、言い争った日もあったはずだ。
その時間の長さを思うと、凌華は何も声をかけられなかった。
やがて、孫権が前へ出た。
棺を見つめる時間が、少しだけ続いた。それから彼は顔を上げ、集まった者たちへ語りかけた。
「兄上は、常に前を走る人だった。周囲を巻き込み、時には我々を困らせながら、振り向いては、早く来いと笑う人だった」
呂蒙が僅かに俯いた。
凌華も、泣きそうなまま口元を緩めた。
本当に、そのとおりだった。
皆がまだ考えているうちに動き出し、止められれば不満そうに振り向く。けれど、誰かが追いつけずにいれば、当たり前のように手を伸ばしてくれた。
「その背を追ったからこそ、我々はここまで来た。兄上が築いたものを受け継ぎ、これからは、我々が先へ進まねばならない」
孫権の言葉が一度止まった。
視線が尚香へ、そして凌華へ向けられる。
「兄上が大切にしていた者たちと、ともに」
凌華は俯いた。
今日は泣かずに送ろうと思っていた。
最後まで顔を上げていようと、自分に言い聞かせてきた。それなのに、目の奥が熱くなり、瞬きをするほど視界が歪んでいった。
『無理すんな』
長剣から、静かな声が届いた。
凌華は小さく首を振った。
ここで泣き始めたら、また止まらなくなる。
そう思って唇を噛んでいると、隣から指先に触れるものがあった。
尚香だった。
いつの間にか傍へ来ていた彼女が、前を向いたまま、凌華の手を握っていた。
その手も震えていた。
凌華は握り返した。
頬を伝った涙を、今度は拭わなかった。
*
葬送の後、凌華は人の輪から少し離れた。
誰かに話しかけられれば答えられる。礼を言うことも、頭を下げることもできる。
けれど、それを続けていると、自分がどんな顔をしているのか分からなくなりそうだった。
「凌華」
振り向くと、尚香が立っていた。
彼女は近くまで歩いてきて、少し迷うように足を止めた。
「一人になりたい?」
「……少しだけ」
「そっか」
尚香は頷いた。
けれど、すぐには戻らなかった。何か言いたそうに凌華を見つめ、やがて視線を下げた。
「兄上、最後に何か言ってた?」
凌華の胸が詰まった。
あのときの声も、頬に触れた手も、まだ身体に残っている。思い出すだけで喉が痛くなり、すぐには答えられなかった。
尚香は黙って待っていた。
「助けてくれて、ありがとうって。少し長く生きられたって……」
そこまで言うと、尚香が目を閉じた。
「……兄上らしいね」
「私は、もっと生きてほしかった」
「私も」
短い返事だった。
尚香は袖の端を握り締めた。
「帰ってきたら、文句を言うつもりだったの。勝手に無茶してないでしょうねって。そうしたら、うるさくなったなって言われるんだと思ってた」
凌華には、その場面が見えた気がした。
尚香が怒り、孫策が笑っている。横から孫権も口を出して、結局、周瑜に止められる。
もう見られない、何でもないやり取りだった。
「私、まだ怒ってる」
尚香の声が掠れた。
「帰ってくると思ってたのに」
凌華は一歩近づき、今度は自分から彼女の手を取った。
二人とも、しばらく何も言えなかった。
やがて尚香が袖で目元を拭い、無理に笑おうとして、途中でやめた。
「落ち着いたら戻ってきて。一緒に何か飲もう」
「……うん」
「遠くには行かないでね」
凌華が頷くと、尚香はゆっくりと手を離した。
その姿を見送ってから、凌華は陣の近くの木立へ向かった。
*
大きな木の根元へ腰を下ろすと、思っていたより深く息が漏れた。
凌華は長剣を背中から下ろし、隣へ置いた。葉の間から射す光が、白い袖の上で細かく揺れている。
「……終わっちゃった」
『ああ』
「まだ、どこかから出てきそうなんだけど」
『……そうだな』
「何してるんだって、呼ばれそう」
膝を抱えると、衣の裾に土がついた。
払おうとして、手を止めた。
今はそれくらい、どうでもよかった。
「孫策を助けたとき、すごく嬉しかったの」
剣の孫策は、黙って聞いていた。
「私の知ってる歴史では、孫策は赤壁を見ない。だから、ここまで来たら……もう大丈夫なのかもって、思いたかった」
凌華は落ちていた小枝へ指を伸ばした。
乾いた枝が、土の上に細い線を引いた。
「先のことは分からないって、分かったつもりだったのに」
『分からねえから、願うんだろ』
凌華は手を止めた。
『生きててほしいと思ったことまで、間違いにすんな』
「……うん」
風が吹き、頭上で葉が擦れ合った。
凌華はしばらく、その音を聞いていた。
「助けた時間は消えないって、分かってる。孫策も喜んでくれたって。でも、また同じこと考えちゃう」
『何度でも戻るだろ、そりゃ』
「何度も同じ話、してもいい?」
『聞いてるよ』
凌華は長剣の柄へ指を添えた。
答えを出せなくても、話していていい。
そう思うと、少しだけ肩の力が抜けた。
「……娘になれて、嬉しかった」
『ああ』
「もっと、ちゃんと言えばよかった」
不満なら、いくらでも言えた。
三歳しか違わないと笑い、髪を乱されれば怒り、無茶をすれば叱った。それも全部、本当の気持ちだった。
けれど、嬉しかったことも、伝わっていてほしかった。
『言葉だけじゃねえだろ』
「え?」
『怖かったとき、あいつの服を掴んだろ。あいつが戻ってくりゃ、お前、顔を上げてた。そういうのも、見てたと思うぞ』
凌華は目を伏せた。
帰還した朝、孫策の衣を掴んで離せなかったことを思い出した。
何も説明できない自分へ、孫策は理由を尋ねず、頭に手を置いてくれた。
「……そっか」
柄へ触れた指に、少しだけ力を込めた。
嬉しかったことまで、届かなかったと決めつけなくてもいいのかもしれなかった。
*
「こちらでしたか」
声がして、凌華は顔を上げた。
陸議が木立の入り口に立っていた。
「……どうして分かったの」
「尚香様に、こちらへ歩いていったと伺いました」
「そっか」
「お隣、よろしいですか」
凌華が頷くと、陸議は少し間を空けて腰を下ろした。
近すぎず、離れすぎてもいない。
凌華は膝を抱えたまま、その距離にほっとした。
「大丈夫ですか」
「……大丈夫じゃない」
「はい」
「普通、そこは慰めない?」
「大丈夫ではないのに、大丈夫だと仰る必要はありません」
凌華は少し驚いて、それから目を伏せた。
「……そうかも」
二人の間に、静かな時間が流れた。
陸議は無理に話題を探さず、凌華も何か話さなければとは思わなかった。風に動く葉の影を見ているうちに、少しずつ呼吸が落ち着いてきた。
「陸議さん」
「はい」
「孫策が最後に、私を頼むって言ったでしょ」
陸議の表情が僅かに引き締まった。
「ええ」
「……困った?」
「いいえ」
あまりに早い返事に、凌華は顔を向けた。
「即答なんだ」
「困る理由がありません」
「でも、父親に娘を頼むって言われたんだよ。重くない?」
陸議は少し考えた。
「重いです」
凌華の胸がちくりとした。
けれど、俯く前に彼の言葉が続いた。
「ですから、軽く受け取るつもりはありません。孫策様が最後に私へ頼んだことです。忘れるつもりもありません」
陸議の目は真剣だった。
「ただ、それを理由に、あなたの意思まで決めてよいとは思っていません」
「……私、守られるだけじゃないよ」
「分かっています」
「戦えるし」
「知っています」
「一人でも――」
「危ないと思ったら、止めます」
「そこは止めるんだ」
「もちろんです」
真顔で返され、凌華は小さく息を漏らした。
「大変だよ。私、頑固だし」
「十分承知しています」
「面倒なことも言うし」
「今に始まったことではありません」
「……それ、慰めてる?」
陸議の口元が、ほんの少し緩んだ。
「あなたの話を聞くつもりだと申し上げています」
凌華は何か言い返そうとして、やめた。
膝へ視線を落とすと、白い衣の上で組んだ自分の指が見えた。
「孫策に頼まれたから?」
「それもあります」
陸議は静かに続けた。
「ですが、心配しているのは私です」
凌華は彼を見た。
陸議は目を逸らさなかった。
胸が詰まったが、今度は悲しみだけではなかった。
「……ありがとう」
ようやくそれだけ言うと、彼は頷いた。
しばらくして、木立の向こうから人の声が聞こえてきた。凌華はそちらを見て、ゆっくりと膝をほどいた。
「尚香と、何か飲む約束してるんだった」
「では、戻りましょう」
陸議は先に立ち上がり、手を差し出した。
凌華は長剣を抱え、その手を借りた。
*
その後の数日は、慌ただしく過ぎていった。
孫権が兄の跡を継ぐことが各地へ伝えられ、軍の指揮も、留守を預かる者たちとの連絡も、新たな主の下で整えられていった。
兄の死後に、弟が立つ。
その形は、凌華が知っている歴史と重なっていた。
けれど、目の前の孫権は、兄とともに赤壁を経験した人だった。軍議で意見を交わし、ときには孫策を止め、自分の考えで動く時間を得ていた。
同じ出来事の名前だけでは、ここにあるものを言い表せない。
凌華は書簡を前に考え込む孫権の横顔を見ながら、少しずつそう思うようになった。
その日も、張昭をはじめとする臣下たちが集まり、今後のことが話し合われていた。
凌華は必要な報告を終え、皆とともに退出しようとしたところで呼び止められた。
「凌華。少し残ってくれ」
張昭たちが去り、幕舎には彼女の素性を知る者たちだけが残った。
孫権は書簡を脇へ置き、凌華へ向き直った。
「ここにいたいと、お前が言ってくれたことは覚えている。その上で、これからどう過ごしたいかを聞いておきたい」
「どう過ごすか、ですか」
「ああ。兄上の娘だからと、無理に軍務を担う必要はない。しばらく休みたいなら、そうしてよい」
凌華は瞬きをした。
自分に何ができるかを、聞かれるのだと思っていた。
「元いた時代について調べたいなら、その望みも話せ。ここにいることと、故郷を思うことは、どちらか一つを選ばねばならぬものではない」
不意に、現代の景色が胸へ浮かんだ。
大学へ向かう道。見慣れた部屋。友人と交わしていた、何でもない会話。
忘れたわけではなかった。
ただ、思い出すたびに、資料展で起きたことも一緒についてくる。自分はあそこで命を落としたのだと思っている。帰りたいと願っても、どこへ、どう帰れるのか分からなかった。
凌華は少し考えてから、顔を上げた。
「元の時代のことは、今も気になります。家族も、友達もいるから」
孫権は黙って頷いた。
「でも、今はここにいたいです。孫策の娘として……それだけじゃなくて、私が、ここにいたい」
口にすると、その気持ちがはっきりした。
尚香と、まだ話したいことがある。
孫権や周瑜の力になれることがあるなら、したい。
呂蒙に教わりたいことも、陸議と過ごしたい時間も残っている。
「もう少し休ませてもらうことは、あると思います。でも、出来ることは続けたいです。ここに、守りたい人たちがいるから」
孫権は静かに頷いた。
「分かった。なら、無理をせず、出来ることから始めてくれ」
「はい」
凌華が頭を下げると、孫権は少しだけ表情を和らげた。
「これからも、よろしく頼む」
その笑い方に、一瞬だけ兄の面影が重なった。
凌華は胸の痛みを感じながら、それでも顔を上げて頷いた。
*
幕舎を出ると、呂蒙が歩調を緩めて待っていた。
「守りたい人たち、か。俺も入ってるんだろうな」
「入ってますよ」
「なら、また稽古をつけてやらんとな。守ってもらう前に、お前に倒れられちゃ困る」
凌華は少しだけ眉を寄せた。
「厳しそう」
「今さら何を言ってる」
呂蒙の口元が緩んだ。
けれど、すぐに稽古へ連れ出そうとはしなかった。
「身体が戻ってからでいい。それまでは食って寝ろ」
「……はい」
大きな背中を見送っていると、後から出てきた陸議が隣へ並んだ。
「残ってくださって、良かったと思います」
凌華は顔を向けた。
「……陸議さんも?」
「ええ」
「私、また迷惑かけるかもよ」
「そのときは、何に困っているのか教えてください」
凌華は少し笑った。
「そういう答えなんだ」
「他の方がよろしかったですか」
「ううん」
首を振ると、陸議も僅かに微笑んだ。
「私も、あなたがここにいてくれるのは嬉しいです」
凌華は返事に詰まった。
彼は大げさなことを言った様子もなく、そのまま歩き始める。
凌華は慌てて歩調を合わせた。
「……私も、ここにいていいって言ってもらえて嬉しい」
少し遅れて答えると、陸議は静かに頷いた。
背中の長剣からは、何も聞こえなかった。
凌華はその静けさを、ありがたく思った。
*
その夜、凌華は長剣の手入れをしていた。
柄の隙間へ残った細かな土を払い、刃の汚れを丁寧に拭っていく。灯に照らされた金属の表面を見ていると、資料展の明かりの中で見た剣が、不意に思い出された。
「ねえ。この剣、現代で見たとき、こんな感じだったかな」
『じっくり見てたんじゃねえのか』
「見たけど……あんなことになったから、細かいところまでは覚えてない」
凌華は布を持つ手を止めた。
この剣が、確かにあの場所にあった。
今は自分の手の中にあり、触れれば冷たく、持ち上げれば重みがある。その確かさと、千年以上も隔たった時代で見た記憶が、上手く結びつかなかった。
「誰が、この剣を私の時代まで残したんだろうね」
『……誰だろうな』
「孫策にも、分からない?」
『どうやってあそこへ辿り着いたのか、今、確かなことは言えねえ』
凌華は頷いた。
彼が前の自分を知っていることと、この剣に関わるすべてを知っていることは、同じではない。
分からないと言われたことを、勝手に答えで埋めたくはなかった。
「前の私が持っていた剣を、今の私が資料展で見て……それを持って、ここに来た」
確かめるように呟いてから、首を傾げた。
「でも、今ここにあるからって、また同じように残るとは限らないんだよね」
『今の先は、まだ分からねえよ』
「……うん」
刃に映った灯が、僅かに揺れた。
前の自分が生きた時間と、今の自分が歩いている時間。その間を、この剣がどう渡ってきたのか。
考えるほど分からなくなったが、今すぐ一つの答えに決める気にはならなかった。
「いつか、ちゃんと知りたいな」
『何を』
「あなたがどうしてこの剣にいるのか。私がどうして、もう一度ここへ来たのか。この剣が、どうやって私の時代まで残ったのか」
孫策は少し黙っていた。
やがて、静かに答えた。
『ああ。俺も知りてえ』
凌華は目を上げた。
彼もまた、同じ分からなさの中にいる。
そう思うと、謎が消えたわけでもないのに、少しだけ心強かった。
「じゃあ、何か分かったら教えてね」
『お前もな』
「うん」
手入れを終え、凌華は長剣をいつもの場所へ置いた。
そのとき、外で足音が止まった。
「凌華、起きてる?」
尚香の声だった。
「起きてるよ」
返事をすると、垂れ布の向こうから顔が覗いた。
「明日の朝、一緒に食べない?」
「……うん。食べる」
「じゃあ、迎えに来る。寝坊しないでよ」
「尚香こそ」
言い返すと、尚香はほんの少し笑った。
凌華も口元を緩めた。
尚香はすぐには立ち去らず、入り口に手をかけたまま、長剣へ目を向けた。それから凌華を見て、小さく頷いた。
「おやすみ」
「おやすみ、尚香」
足音が遠ざかり、幕舎には再び静けさが下りた。
凌華は灯を見つめ、そっと息を吐いた。
孫策を失った痛みは消えていない。
明日の朝も、目が覚めた瞬間に思い出して、動けなくなるかもしれない。それでも、朝食を一緒に取る約束ができた。
迎えに来てくれる人がいる。
自分にも、会いに行きたい人がいる。
凌華は長剣の柄へ指先を添えた。
「孫策。これからも、よろしくね」
『おう』
いつもの声が返ってきた。
凌華は小さく頷いた。
それから、誰もいない入り口の方へ目を向けた。
「……おやすみ、父上」
今度は、返事がなかった。
凌華は少しの間そのままでいたが、やがて明日の衣を枕元へ整え、静かに灯を落とした。
――第二十八話・了




