↓ ↑ページトップへ
表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
三国凌華伝 ーあなたがくれた、もうひとつの時ー  作者: 隆月 アン
第三章 赤壁編 ~抗えない運命~
50/75

第二十八話 孫策の娘として


 孫策の葬送が行われたのは、赤壁の戦いから数日後のことだった。


 江上に残っていた焦げた匂いは、まだ完全には消えていなかった。川辺では傷んだ船の修繕が始まり、陣には各地からの報告が届き続けている。曹操軍を退けた後も、兵を休ませ、傷ついた者を送り、次の動きに備えなければならなかった。


 その慌ただしさの中で、孫策を送る時間だけが静かに流れていた。


 凌華は白い衣を身につけ、列の中を歩いていた。


 髪は飾らず、簡素にまとめている。腰には陸議からもらった二振りの短剣があり、背には、あの長剣を負っていた。


 歩くたびに、慣れた重みが背中へ伝わる。


 そこには孫策がいる。


 けれど、少し前を進む棺の中にも、孫策がいた。


 剣の声が聞こえることは救いだった。それでも、もう頭を撫でてくれない手の代わりにはならない。目の前の棺を見つめていると、声が聞こえる方の孫策まで失うことが怖くなり、凌華はそっと負い紐へ指を添えた。


「……父上」


 棺へ向けて零れた呼びかけに、返事はなかった。


 剣の孫策も、黙っていた。


 今、誰を呼んでいるのか、分かってくれているのだろう。その静けさに支えられながら、凌華は前を向いた。


 棺の近くには孫権がいた。


 その傍らを歩く尚香は、唇を固く結び、一度も後ろを振り返らなかった。


 知らせを受けて駆けつけたとき、尚香は凌華の顔を見るなり足を止めた。何かを尋ねようとして、それでも声が出ず、ただ彼女の腕を掴んだ。


 凌華も、何も言えなかった。


 無事に帰ってくるはずだった人が帰らない。そのことを、どんな言葉で伝え直せばいいのか分からなかった。


 今も尚香の横顔には、眠れていない疲れが残っていた。


 その少し後ろに、周瑜、呂蒙、陸議が続いている。


 凌華は時折、周瑜の横顔へ目を向けた。


 必要なことには答え、誰かが困れば静かに指示を出す。いつもと変わらない仕草なのに、棺へ向ける眼差しだけが、遠いところを見ているようだった。


 自分の知らない孫策を、この人は知っている。


 凌華がこの時代へ来るずっと前から、二人で笑った日も、言い争った日もあったはずだ。


 その時間の長さを思うと、凌華は何も声をかけられなかった。


 やがて、孫権が前へ出た。


 棺を見つめる時間が、少しだけ続いた。それから彼は顔を上げ、集まった者たちへ語りかけた。


「兄上は、常に前を走る人だった。周囲を巻き込み、時には我々を困らせながら、振り向いては、早く来いと笑う人だった」


 呂蒙が僅かに俯いた。


 凌華も、泣きそうなまま口元を緩めた。


 本当に、そのとおりだった。


 皆がまだ考えているうちに動き出し、止められれば不満そうに振り向く。けれど、誰かが追いつけずにいれば、当たり前のように手を伸ばしてくれた。


「その背を追ったからこそ、我々はここまで来た。兄上が築いたものを受け継ぎ、これからは、我々が先へ進まねばならない」


 孫権の言葉が一度止まった。


 視線が尚香へ、そして凌華へ向けられる。


「兄上が大切にしていた者たちと、ともに」


 凌華は俯いた。


 今日は泣かずに送ろうと思っていた。


 最後まで顔を上げていようと、自分に言い聞かせてきた。それなのに、目の奥が熱くなり、瞬きをするほど視界が歪んでいった。


『無理すんな』


 長剣から、静かな声が届いた。


 凌華は小さく首を振った。


 ここで泣き始めたら、また止まらなくなる。


 そう思って唇を噛んでいると、隣から指先に触れるものがあった。


 尚香だった。


 いつの間にか傍へ来ていた彼女が、前を向いたまま、凌華の手を握っていた。


 その手も震えていた。


 凌華は握り返した。


 頬を伝った涙を、今度は拭わなかった。


     *


 葬送の後、凌華は人の輪から少し離れた。


 誰かに話しかけられれば答えられる。礼を言うことも、頭を下げることもできる。


 けれど、それを続けていると、自分がどんな顔をしているのか分からなくなりそうだった。


「凌華」


 振り向くと、尚香が立っていた。


 彼女は近くまで歩いてきて、少し迷うように足を止めた。


「一人になりたい?」


「……少しだけ」


「そっか」


 尚香は頷いた。


 けれど、すぐには戻らなかった。何か言いたそうに凌華を見つめ、やがて視線を下げた。


「兄上、最後に何か言ってた?」


 凌華の胸が詰まった。


 あのときの声も、頬に触れた手も、まだ身体に残っている。思い出すだけで喉が痛くなり、すぐには答えられなかった。


 尚香は黙って待っていた。


「助けてくれて、ありがとうって。少し長く生きられたって……」


 そこまで言うと、尚香が目を閉じた。


「……兄上らしいね」


「私は、もっと生きてほしかった」


「私も」


 短い返事だった。


 尚香は袖の端を握り締めた。


「帰ってきたら、文句を言うつもりだったの。勝手に無茶してないでしょうねって。そうしたら、うるさくなったなって言われるんだと思ってた」


 凌華には、その場面が見えた気がした。


 尚香が怒り、孫策が笑っている。横から孫権も口を出して、結局、周瑜に止められる。


 もう見られない、何でもないやり取りだった。


「私、まだ怒ってる」


 尚香の声が掠れた。


「帰ってくると思ってたのに」


 凌華は一歩近づき、今度は自分から彼女の手を取った。


 二人とも、しばらく何も言えなかった。


 やがて尚香が袖で目元を拭い、無理に笑おうとして、途中でやめた。


「落ち着いたら戻ってきて。一緒に何か飲もう」


「……うん」


「遠くには行かないでね」


 凌華が頷くと、尚香はゆっくりと手を離した。


 その姿を見送ってから、凌華は陣の近くの木立へ向かった。


     *


 大きな木の根元へ腰を下ろすと、思っていたより深く息が漏れた。


 凌華は長剣を背中から下ろし、隣へ置いた。葉の間から射す光が、白い袖の上で細かく揺れている。


「……終わっちゃった」


『ああ』


「まだ、どこかから出てきそうなんだけど」


『……そうだな』


「何してるんだって、呼ばれそう」


 膝を抱えると、衣の裾に土がついた。


 払おうとして、手を止めた。


 今はそれくらい、どうでもよかった。


「孫策を助けたとき、すごく嬉しかったの」


 剣の孫策は、黙って聞いていた。


「私の知ってる歴史では、孫策は赤壁を見ない。だから、ここまで来たら……もう大丈夫なのかもって、思いたかった」


 凌華は落ちていた小枝へ指を伸ばした。


 乾いた枝が、土の上に細い線を引いた。


「先のことは分からないって、分かったつもりだったのに」


『分からねえから、願うんだろ』


 凌華は手を止めた。


『生きててほしいと思ったことまで、間違いにすんな』


「……うん」


 風が吹き、頭上で葉が擦れ合った。


 凌華はしばらく、その音を聞いていた。


「助けた時間は消えないって、分かってる。孫策も喜んでくれたって。でも、また同じこと考えちゃう」


『何度でも戻るだろ、そりゃ』


「何度も同じ話、してもいい?」


『聞いてるよ』


 凌華は長剣の柄へ指を添えた。


 答えを出せなくても、話していていい。


 そう思うと、少しだけ肩の力が抜けた。


「……娘になれて、嬉しかった」


『ああ』


「もっと、ちゃんと言えばよかった」


 不満なら、いくらでも言えた。


 三歳しか違わないと笑い、髪を乱されれば怒り、無茶をすれば叱った。それも全部、本当の気持ちだった。


 けれど、嬉しかったことも、伝わっていてほしかった。


『言葉だけじゃねえだろ』


「え?」


『怖かったとき、あいつの服を掴んだろ。あいつが戻ってくりゃ、お前、顔を上げてた。そういうのも、見てたと思うぞ』


 凌華は目を伏せた。


 帰還した朝、孫策の衣を掴んで離せなかったことを思い出した。


 何も説明できない自分へ、孫策は理由を尋ねず、頭に手を置いてくれた。


「……そっか」


 柄へ触れた指に、少しだけ力を込めた。


 嬉しかったことまで、届かなかったと決めつけなくてもいいのかもしれなかった。


     *


「こちらでしたか」


 声がして、凌華は顔を上げた。


 陸議が木立の入り口に立っていた。


「……どうして分かったの」


「尚香様に、こちらへ歩いていったと伺いました」


「そっか」


「お隣、よろしいですか」


 凌華が頷くと、陸議は少し間を空けて腰を下ろした。


 近すぎず、離れすぎてもいない。


 凌華は膝を抱えたまま、その距離にほっとした。


「大丈夫ですか」


「……大丈夫じゃない」


「はい」


「普通、そこは慰めない?」


「大丈夫ではないのに、大丈夫だと仰る必要はありません」


 凌華は少し驚いて、それから目を伏せた。


「……そうかも」


 二人の間に、静かな時間が流れた。


 陸議は無理に話題を探さず、凌華も何か話さなければとは思わなかった。風に動く葉の影を見ているうちに、少しずつ呼吸が落ち着いてきた。


「陸議さん」


「はい」


「孫策が最後に、私を頼むって言ったでしょ」


 陸議の表情が僅かに引き締まった。


「ええ」


「……困った?」


「いいえ」


 あまりに早い返事に、凌華は顔を向けた。


「即答なんだ」


「困る理由がありません」


「でも、父親に娘を頼むって言われたんだよ。重くない?」


 陸議は少し考えた。


「重いです」


 凌華の胸がちくりとした。


 けれど、俯く前に彼の言葉が続いた。


「ですから、軽く受け取るつもりはありません。孫策様が最後に私へ頼んだことです。忘れるつもりもありません」


 陸議の目は真剣だった。


「ただ、それを理由に、あなたの意思まで決めてよいとは思っていません」


「……私、守られるだけじゃないよ」


「分かっています」


「戦えるし」


「知っています」


「一人でも――」


「危ないと思ったら、止めます」


「そこは止めるんだ」


「もちろんです」


 真顔で返され、凌華は小さく息を漏らした。


「大変だよ。私、頑固だし」


「十分承知しています」


「面倒なことも言うし」


「今に始まったことではありません」


「……それ、慰めてる?」


 陸議の口元が、ほんの少し緩んだ。


「あなたの話を聞くつもりだと申し上げています」


 凌華は何か言い返そうとして、やめた。


 膝へ視線を落とすと、白い衣の上で組んだ自分の指が見えた。


「孫策に頼まれたから?」


「それもあります」


 陸議は静かに続けた。


「ですが、心配しているのは私です」


 凌華は彼を見た。


 陸議は目を逸らさなかった。


 胸が詰まったが、今度は悲しみだけではなかった。


「……ありがとう」


 ようやくそれだけ言うと、彼は頷いた。


 しばらくして、木立の向こうから人の声が聞こえてきた。凌華はそちらを見て、ゆっくりと膝をほどいた。


「尚香と、何か飲む約束してるんだった」


「では、戻りましょう」


 陸議は先に立ち上がり、手を差し出した。


 凌華は長剣を抱え、その手を借りた。


     *


 その後の数日は、慌ただしく過ぎていった。


 孫権が兄の跡を継ぐことが各地へ伝えられ、軍の指揮も、留守を預かる者たちとの連絡も、新たな主の下で整えられていった。


 兄の死後に、弟が立つ。


 その形は、凌華が知っている歴史と重なっていた。


 けれど、目の前の孫権は、兄とともに赤壁を経験した人だった。軍議で意見を交わし、ときには孫策を止め、自分の考えで動く時間を得ていた。


 同じ出来事の名前だけでは、ここにあるものを言い表せない。


 凌華は書簡を前に考え込む孫権の横顔を見ながら、少しずつそう思うようになった。


 その日も、張昭をはじめとする臣下たちが集まり、今後のことが話し合われていた。


 凌華は必要な報告を終え、皆とともに退出しようとしたところで呼び止められた。


「凌華。少し残ってくれ」


 張昭たちが去り、幕舎には彼女の素性を知る者たちだけが残った。


 孫権は書簡を脇へ置き、凌華へ向き直った。


「ここにいたいと、お前が言ってくれたことは覚えている。その上で、これからどう過ごしたいかを聞いておきたい」


「どう過ごすか、ですか」


「ああ。兄上の娘だからと、無理に軍務を担う必要はない。しばらく休みたいなら、そうしてよい」


 凌華は瞬きをした。


 自分に何ができるかを、聞かれるのだと思っていた。


「元いた時代について調べたいなら、その望みも話せ。ここにいることと、故郷を思うことは、どちらか一つを選ばねばならぬものではない」


 不意に、現代の景色が胸へ浮かんだ。


 大学へ向かう道。見慣れた部屋。友人と交わしていた、何でもない会話。


 忘れたわけではなかった。


 ただ、思い出すたびに、資料展で起きたことも一緒についてくる。自分はあそこで命を落としたのだと思っている。帰りたいと願っても、どこへ、どう帰れるのか分からなかった。


 凌華は少し考えてから、顔を上げた。


「元の時代のことは、今も気になります。家族も、友達もいるから」


 孫権は黙って頷いた。


「でも、今はここにいたいです。孫策の娘として……それだけじゃなくて、私が、ここにいたい」


 口にすると、その気持ちがはっきりした。


 尚香と、まだ話したいことがある。


 孫権や周瑜の力になれることがあるなら、したい。


 呂蒙に教わりたいことも、陸議と過ごしたい時間も残っている。


「もう少し休ませてもらうことは、あると思います。でも、出来ることは続けたいです。ここに、守りたい人たちがいるから」


 孫権は静かに頷いた。


「分かった。なら、無理をせず、出来ることから始めてくれ」


「はい」


 凌華が頭を下げると、孫権は少しだけ表情を和らげた。


「これからも、よろしく頼む」


 その笑い方に、一瞬だけ兄の面影が重なった。


 凌華は胸の痛みを感じながら、それでも顔を上げて頷いた。


     *


 幕舎を出ると、呂蒙が歩調を緩めて待っていた。


「守りたい人たち、か。俺も入ってるんだろうな」


「入ってますよ」


「なら、また稽古をつけてやらんとな。守ってもらう前に、お前に倒れられちゃ困る」


 凌華は少しだけ眉を寄せた。


「厳しそう」


「今さら何を言ってる」


 呂蒙の口元が緩んだ。


 けれど、すぐに稽古へ連れ出そうとはしなかった。


「身体が戻ってからでいい。それまでは食って寝ろ」


「……はい」


 大きな背中を見送っていると、後から出てきた陸議が隣へ並んだ。


「残ってくださって、良かったと思います」


 凌華は顔を向けた。


「……陸議さんも?」


「ええ」


「私、また迷惑かけるかもよ」


「そのときは、何に困っているのか教えてください」


 凌華は少し笑った。


「そういう答えなんだ」


「他の方がよろしかったですか」


「ううん」


 首を振ると、陸議も僅かに微笑んだ。


「私も、あなたがここにいてくれるのは嬉しいです」


 凌華は返事に詰まった。


 彼は大げさなことを言った様子もなく、そのまま歩き始める。


 凌華は慌てて歩調を合わせた。


「……私も、ここにいていいって言ってもらえて嬉しい」


 少し遅れて答えると、陸議は静かに頷いた。


 背中の長剣からは、何も聞こえなかった。


 凌華はその静けさを、ありがたく思った。


     *


 その夜、凌華は長剣の手入れをしていた。


 柄の隙間へ残った細かな土を払い、刃の汚れを丁寧に拭っていく。灯に照らされた金属の表面を見ていると、資料展の明かりの中で見た剣が、不意に思い出された。


「ねえ。この剣、現代で見たとき、こんな感じだったかな」


『じっくり見てたんじゃねえのか』


「見たけど……あんなことになったから、細かいところまでは覚えてない」


 凌華は布を持つ手を止めた。


 この剣が、確かにあの場所にあった。


 今は自分の手の中にあり、触れれば冷たく、持ち上げれば重みがある。その確かさと、千年以上も隔たった時代で見た記憶が、上手く結びつかなかった。


「誰が、この剣を私の時代まで残したんだろうね」


『……誰だろうな』


「孫策にも、分からない?」


『どうやってあそこへ辿り着いたのか、今、確かなことは言えねえ』


 凌華は頷いた。


 彼が前の自分を知っていることと、この剣に関わるすべてを知っていることは、同じではない。


 分からないと言われたことを、勝手に答えで埋めたくはなかった。


「前の私が持っていた剣を、今の私が資料展で見て……それを持って、ここに来た」


 確かめるように呟いてから、首を傾げた。


「でも、今ここにあるからって、また同じように残るとは限らないんだよね」


『今の先は、まだ分からねえよ』


「……うん」


 刃に映った灯が、僅かに揺れた。


 前の自分が生きた時間と、今の自分が歩いている時間。その間を、この剣がどう渡ってきたのか。


 考えるほど分からなくなったが、今すぐ一つの答えに決める気にはならなかった。


「いつか、ちゃんと知りたいな」


『何を』


「あなたがどうしてこの剣にいるのか。私がどうして、もう一度ここへ来たのか。この剣が、どうやって私の時代まで残ったのか」


 孫策は少し黙っていた。


 やがて、静かに答えた。


『ああ。俺も知りてえ』


 凌華は目を上げた。


 彼もまた、同じ分からなさの中にいる。


 そう思うと、謎が消えたわけでもないのに、少しだけ心強かった。


「じゃあ、何か分かったら教えてね」


『お前もな』


「うん」


 手入れを終え、凌華は長剣をいつもの場所へ置いた。


 そのとき、外で足音が止まった。


「凌華、起きてる?」


 尚香の声だった。


「起きてるよ」


 返事をすると、垂れ布の向こうから顔が覗いた。


「明日の朝、一緒に食べない?」


「……うん。食べる」


「じゃあ、迎えに来る。寝坊しないでよ」


「尚香こそ」


 言い返すと、尚香はほんの少し笑った。


 凌華も口元を緩めた。


 尚香はすぐには立ち去らず、入り口に手をかけたまま、長剣へ目を向けた。それから凌華を見て、小さく頷いた。


「おやすみ」


「おやすみ、尚香」


 足音が遠ざかり、幕舎には再び静けさが下りた。


 凌華は灯を見つめ、そっと息を吐いた。


 孫策を失った痛みは消えていない。


 明日の朝も、目が覚めた瞬間に思い出して、動けなくなるかもしれない。それでも、朝食を一緒に取る約束ができた。


 迎えに来てくれる人がいる。


 自分にも、会いに行きたい人がいる。


 凌華は長剣の柄へ指先を添えた。


「孫策。これからも、よろしくね」


『おう』


 いつもの声が返ってきた。


 凌華は小さく頷いた。


 それから、誰もいない入り口の方へ目を向けた。


「……おやすみ、父上」


 今度は、返事がなかった。


 凌華は少しの間そのままでいたが、やがて明日の衣を枕元へ整え、静かに灯を落とした。


――第二十八話・了

評価をするにはログインしてください。
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
このエピソードに感想はまだ書かれていません。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。