第二十七話 父のいない朝
赤壁の空が白み始めた頃、呉軍の陣には、勝利を告げる声と死者を悼む静けさが同居していた。
曹操軍は退き、長江を埋め尽くしていた大船団も、今はその姿を変えていた。それでも陣には次々と報告が届き、負傷者を運ぶ兵や、戻らない仲間を捜す者たちの足は止まらなかった。
幕舎の中だけは、夜から切り離されたように静かだった。
敷かれた布の上に、孫策が横たわっている。
血は拭われ、乱れていた髪も整えられていた。傷の手当てを終え、衣を直されたその姿は、遠くから見れば眠っているようにも見えた。
凌華は傍らに座ったまま、何度もその胸元へ目を向けた。
息をしていないことは分かっている。
それでも、確かめずにはいられなかった。
「……寝すぎ」
声をかけて、待った。
いつもなら、うるせえなと眉を寄せるか、もう少し寝かせろと背を向けるだろう。そんな顔が簡単に思い浮かぶのに、目の前の孫策は動かなかった。
「曹操、退いたよ。朝になっても、みんな忙しそう」
凌華は膝の上で指を握った。
「勝った後も、やることいっぱいあるんでしょ。こんなときだけ、寝てないでよ……」
声が途切れた。
起きないと分かっている相手に、何を言っているのだろう。
そう思った途端、また涙が込み上げてきた。
助けたかった。
一度助かったから、今度も助けられると思いたかった。けれど、昨夜の矢も、腕の中へ崩れてきた身体の重みも、なかったことにはならなかった。
「……もっと、出来たんじゃないかな」
凌華は俯いた。
弓兵に、もう少し早く気づけていれば。
退くときの立ち位置が違っていれば。
敵が、自分と長剣を狙っていなければ。
考えるたびに別の可能性が浮かび、その一つ一つが、今からでも選び直せる道のように胸を刺した。
『凌華』
隣へ置いていた長剣から、低い声が届いた。
「……何」
『全部、お前一人のせいにすんな』
「でも、私たちを庇った」
『ああ』
「私がいなかったら――」
『そこから先は、分からねえだろ』
凌華は口を閉じた。
外を行き交う兵の足音が、幕舎の前を通り過ぎていった。
『お前がいなきゃ、別の誰かの前に立ってたかもしれねえ。分からねえことまで、全部お前が悪かったことにすんな』
「……でも」
『俺が言うのも変だけどな。孫策って男は、自分で決めたことを人のせいにするような奴じゃねえよ』
「知ってる」
知っているから、苦しかった。
きっと孫策は、自分を助けたことを悔やまない。責めたりもしない。助かって良かったと、それだけで笑ってしまう。
凌華は孫策の顔を見た。
「親なんだから、もう少し自分を大事にしてほしかった」
剣の孫策は、すぐには答えなかった。
やがて、小さな声が届いた。
『……そうだな』
「あなたもだよ」
『ああ』
「同じことしそうだもん」
『……否定はできねえな』
凌華は唇を噛んだ。
「そういうとこ、嫌い」
『ああ』
「大嫌い」
返事は、少し間を置いて届いた。
『……聞いてるよ』
その声が優しかったから、凌華はそれ以上、何も言えなくなった。
目の前の孫策の衣へそっと触れたまま、もう一度泣いた。
*
幕舎の外では、孫権が一人で立っていた。
夜の間、何度も兄の傍へ戻った。離れたくなくて座り続け、それでも報告が来れば立ち上がった。
今も、戻ろうとしていた。
ただ、垂れ布へ手を伸ばすことができなかった。
中へ入れば、兄は横たわっている。
外でどれほど時間を過ごしても、その姿が変わるわけではない。それを、入るたびに確かめなければならなかった。
「孫権」
呼ばれても、すぐには振り向けなかった。
周瑜が隣へ並んだ。
「少し身体を休めろ」
「眠れると思うか」
「思わない。だが、座ることはできる」
孫権は返事をせず、幕舎を見つめた。
中から、凌華の泣く声が微かに聞こえた。
「兄上は、本来なら、もっと前に亡くなっていたのだな」
周瑜が視線を向けた。
「昨日、凌華と話した。兄上が生きている今の私は、これから自分で道を決めればいいと……そう言ったばかりだった」
孫権の指が、ゆっくりと握り込まれた。
昨日は兄が外にいた。
聞こえるように悪口を言えば、すぐに名前を呼び返してきた。振り向かなくても、どんな顔をしているか分かった。
「凌華が兄上を救ったから、我々には、その先の時間があったのだろう」
「……そうだな」
「感謝している」
孫権の声が僅かに揺れた。
「それでも、悔しい」
周瑜は何も言わなかった。
「もっと兄上と言い争いたかった。無茶をするなと止めて、聞かない兄上に呆れて……また同じことを言うのだと思っていた」
そこで言葉が途切れた。
孫権は顔を伏せ、呼吸を整えようとした。けれど、息を吸うたびに喉が詰まり、思うように続かなかった。
肩へ、周瑜の手が置かれた。
「今は、泣いていい」
孫権は首を振ろうとした。
だが、周瑜の顔を見た途端、その動きが止まった。
声はいつもと変わらないのに、目元には深い疲れがあった。夜から一度も眠っていないその人もまた、同じ幕舎へ目を向けていた。
孫権はとうとう顔を伏せた。
周瑜は肩に置いた手を動かさず、傍に立ち続けていた。
*
昼を過ぎる頃、凌華はようやく孫策の傍を離れた。
立ち上がった途端、膝が痺れて上手く伸ばせなかった。しばらくその場で足を動かし、長剣を抱えて入り口へ向かう。
垂れ布を持ち上げる前に、一度だけ振り返った。
孫策は、さっきと同じ場所にいた。
戻ってくるからと、心の中で言った。
外へ出ると、陸議が少し離れたところに立っていた。
「……ずっといたの?」
「少し前からです」
「声、かければよかったのに」
「もう少し、お傍にいたいかと思いましたので」
凌華は頷いた。
「ありがとう」
陸議の目が、泣き腫らした目元へ向いた。
けれど、何も尋ねなかった。
「歩けますか」
「うん」
「では、少し食べましょう」
「……いらない」
「昨夜から、ほとんど召し上がっていません」
「食欲ないの」
「分かっています。少しだけでも、温かいものを」
凌華は目を伏せた。
空腹かどうかも、よく分からなかった。口に何かを入れることを想像するだけで、億劫だった。
陸議は急かさずに待っていたが、やがて静かに言った。
「そのまま倒れたら、孫策様に怒られますよ」
凌華の足が止まった。
休めと言われたときの声が、すぐに思い出された。
立てるのと、休まなくていいのは別だ。
ついこの間のことなのに、もう返事をすることができない。
「……それ、ずるい」
「はい」
「認めるんだ」
「食べていただけるなら」
凌華は目元を拭った。
「少しだけね」
「ええ」
陸議の表情が、僅かに和らいだ。
*
差し出された粥から、細い湯気が上がっていた。
凌華は匙を取り、少しずつ口へ運んだ。
味はよく分からなかった。けれど、飲み込むと喉から胸へ温かさが下りていき、自分の身体が冷えていたことに気づいた。
向かいでは、陸議も同じように食事を取っていた。
ときどきこちらを見るが、口をつけるたびに何か言うことはなかった。凌華も、その静けさに助けられながら、匙を動かした。
「……子供じゃないんだけど」
「知っています」
「じゃあ、そんなに見なくても食べるよ」
「それなら安心です」
凌華は返事の代わりに、もう一口食べた。
半分ほど減ったところで、匙が止まった。
「陸議さん」
「はい」
「これから、どうしたらいいのかな」
陸議は器を置いた。
凌華は粥の表面を見つめたまま続けた。
「孫策が死ぬ未来を変えたと思ってた。でも、違う場所で死んじゃった。だったら、他の人も同じなのかなって……」
呂蒙も、周瑜も。
そして、目の前にいる人も。
名前を並べようとして、声が出なくなった。
「どれだけ頑張っても、結局、私の知ってる未来に戻っちゃうのかな」
陸議はすぐには答えなかった。
慰めを探しているようには見えなかった。凌華の言葉を、そのまま受け止めて考えている顔だった。
「……分かりません」
やがて、静かに答えた。
凌華は顔を上げた。
「分からない?」
「ええ。ですが、今回のことで、すべて同じになると決まったわけでもありません」
「でも、孫策は……」
「はい」
陸議は目を逸らさなかった。
「お亡くなりになりました。私にも、そのことを変える言葉はありません」
凌華は唇を引き結んだ。
陸議は少し間を置いてから、続けた。
「ただ、昨夜お話ししたことは、今も同じように思っています。孫策様があなたに感謝していたことも、皆で過ごした日々も、消えてはいません」
「……うん」
「それが、あなたの望んだ長さではなかったことも分かります。もっと生きていてほしかったという気持ちまで、捨てる必要はありません」
凌華の目から涙が落ちた。
生きられた時間があった。
だから十分だったと、今すぐ思えなくてもいいのだろうか。
ありがとうと言った後で、まだいてほしかったと泣いてもいいのだろうか。
「……私、欲張りなのかな」
「大切な人と、もっと一緒にいたいと思うことですか」
凌華は頷いた。
陸議は僅かに目を伏せた。
「それなら、私も同じです」
凌華はしばらく彼を見つめ、それから涙を拭った。
「陸議さん、ほんと、ずるい」
「またですか」
「……そういうふうに言われたら、泣く」
「我慢しなくていいと思います」
差し出された布を受け取り、凌華は目元を押さえた。
陸議は何も言わず、粥が冷めきる前に、器を彼女の手元へ少し寄せた。
凌華は落ち着くのを待ってから、もう一度匙を取った。
*
夕刻、呉の主要な者たちが再び集められた。
中央には、孫策が座っていた席があった。
誰もそこへ腰を下ろさなかった。
凌華は入り口に近い場所に座り、膝の上で手を重ねた。ふとした拍子に、外から大きな声で孫策が入ってくる気がして、足音がするたびに顔を向けそうになった。
その席の前へ、孫権が立った。
「兄上は、亡くなった」
少し硬い声だった。
誰もが知っていることなのに、言葉として聞くと、凌華の胸はまた強く痛んだ。
「曹操軍は退いたが、戦も、その後の始末も終わってはいない。今、我々が立ち止まれば、守れるものまで失う」
孫権は居並ぶ者たちを見渡した。
疲れも悲しみも消えてはいなかった。それでも、最後まで顔を上げていた。
「兄上の跡を、私が継ぐ。皆の力を貸してほしい」
周瑜が一歩進み出た。
「もとより、そのつもりだ」
呂蒙も、他の者たちも続いた。
孫権はその返事を受け止め、深く息を吸った。
周瑜が、彼にだけ確かめるような静かな声で続けた。
「伯符と同じであろうとする必要はない。お前が考え、決めろ。我々も、それを支える」
孫権は周瑜を見た。
しばらくして、ゆっくりと頷いた。
凌華はその光景を見つめていた。
孫策が死に、孫権が跡を継ぐ。
知っている歴史と重なる形に、胸が冷えるような思いがした。
けれど、目の前の孫権は、昨日まで兄と話していた人だった。赤壁をともに戦い、もっと言い争いたかったと、その別れを惜しんでいる人だった。
同じ名の出来事であっても、その中にある時間まで同じとは限らない。
凌華は、昼に陸議と交わした言葉を思い返しながら、膝の上の手を少し緩めた。
必要な報告と指示が交わされ、皆が席を立ち始めたところで、孫権が彼女を呼び止めた。
「凌華」
「はい」
「お前にも、一つ頼みたい」
凌華は顔を上げた。
「これからも、呉にいてくれ」
言葉の意味が胸へ届くまで、少し時間がかかった。
孫権は彼女を見つめたまま続けた。
「兄上は、お前を娘にした。兄上がいなくなったからといって、お前まで我が家の者でなくなるわけではない」
凌華の喉が詰まった。
居場所を失ったと思っていたわけではなかった。
ただ、孫策がいなくなった後も、自分がその娘でいていいのか、まだ考えることさえできていなかった。
「未来を知っているからでも、剣を持っているからでもない。お前は兄上の娘だ。これからも、それは変わらない」
凌華は俯いた。
涙が膝の上へ落ちた。
「……はい。ここに、いたいです」
孫権は静かに頷いた。
返事をするまで待ってくれていた皆の前で、凌華はもう一度、深く頭を下げた。
*
その夜には、孫策を送り出すための準備が進められていた。
凌華は見張りのいる陣近くの川辺へ出て、長剣を抱えて座った。
水の音が聞こえた。
昨日も一昨日も流れていた川が、今日も同じように流れている。そのことが不思議で、少し残酷に感じられた。
「……孫策」
『何だ』
返事があった。
凌華は長剣へ目を落とした。
「変な感じがする」
『何が』
「孫策を失ったのに、孫策がいてくれること」
柄へ添えた指を、ゆっくりと曲げた。
「声が聞けて、嬉しい。でも、その声を聞くと、もう返事してくれない方の孫策も思い出す。嬉しいのに、苦しい」
『……ああ』
「あなたが悪いんじゃないよ」
『分かってる』
凌華は長剣を抱え直した。
黙ってほしいわけではなかった。
この声まで聞こえなくなったらと思うと、それも怖かった。
「呼んだら、返事してね」
『してるだろ』
「うん。……これからも」
『ああ』
短い返事を聞いて、凌華は少しだけ息を吐いた。
しばらく川を眺めてから、もう一度口を開いた。
「あなたが死んだときも、前の私は、泣いた?」
孫策はすぐには答えなかった。
凌華は急かさずに待った。
『……泣いたよ』
「そっか」
まだ思い出せない自分が、少しだけ身近に感じられた。
そのときの景色も、交わした言葉も分からない。それでも、大切な人を失って泣いたのなら、その気持ちだけは、今の自分にも分かる気がした。
『でも、ずっと泣いてたわけじゃねえ。そのうち、また笑った』
「……私も、笑えるかな」
『今日、少し笑ってただろ』
凌華は顔を上げた。
陸議と食事をしたとき、ほんの少しだけ口元が緩んだことを思い出した。
「笑った後、急に寂しくなる」
『そうか』
「忘れたわけじゃないのに、今、笑ってよかったのかなって思う」
孫策は少し黙った。
それから、静かに言った。
『笑えたからって、あいつが大事じゃなくなるわけじゃねえだろ』
凌華は長剣を見つめた。
返事をしようとしたところで、背後から足音が聞こえた。
振り向くと、陸議が立っていた。
「こちらでしたか」
「……ごめん。少し、外にいたくて」
「見張りの者に聞きました」
陸議は近づくと、凌華の隣へ腰を下ろした。
すぐに戻れとは言わなかった。
二人の前を、暗い川が流れていた。
*
「陸議さん」
「はい」
「私、まだ立ち直れないと思う」
「当然でしょう」
「たぶん、また泣く」
「ええ」
「急に、何も出来なくなるかも」
「そのときは休んでください」
凌華は隣を見た。
「それでもいいの?」
陸議は彼女へ顔を向けた。
「今日、大切な人を亡くしたばかりです。何もかも普段どおりに出来る必要はありません」
「……未来を変えるって、言ったのに」
凌華は腕の中の長剣へ視線を落とした。
「孫策を守れなかった。次も、助けたいって思っていいのかな」
陸議は少しの間、黙っていた。
「一人を救えなかったら、もう誰かを助けたいと願ってはいけないのでしょうか」
凌華は首を振った。
「……違う」
「私も、そう思います」
穏やかな声だった。
「今、すぐに何かを決めなくていいのです。けれど、また助けたいと思うときが来たら、その気持ちまで否定することはありません」
「怖くても?」
「怖いことと――」
「動けないことは、別」
凌華が言葉を継ぐと、陸議は僅かに目を見開いた。
それから、静かに頷いた。
「覚えていたのですね」
「忘れないよ」
凌華は目元を拭った。
覚えている言葉があった。
孫策からも、陸議からも、周瑜や呂蒙からも、何度も言われてきたことが、自分の中に残っている。
今はそれを、上手く使えなくても。
「次に誰かが死ぬ未来を思い出したら、また抗っていい?」
「あなたがそうしたいなら。ただし、一人で抱え込まずに話してください」
凌華は隣を見た。
「……一緒に考えてくれる?」
「はい」
「助けに行くときも?」
「必要なら、私も行きます」
「ずっと?」
口にしてから、凌華は止まった。
陸議もすぐには答えなかった。
静かな間に、自分の言葉だけが残った気がして、凌華は慌てて目を逸らした。
「……今のなし」
「聞きました」
「忘れて」
「難しいですね」
「陸議さん……」
責めるように呼んだつもりだったのに、声の終わりが少しだけ笑いに変わった。
陸議の口元も、僅かに緩んだ。
それを見た途端、凌華の胸にはまた寂しさが押し寄せた。けれど今度は、笑ってしまった自分を責めずにいられた。
孫策のことは、忘れていない。
これから先、笑うたびに忘れていくわけでもない。
凌華は涙の残る目で川を見つめ、長剣を抱く腕を少し緩めた。
剣の孫策は、二人の会話を黙って聞いていた。
今の凌華が誰に何を話し、どんな返事を受け取るのか。その一つ一つは、ここで初めて交わされるものだった。
陣の方から人を呼ぶ声がした。
凌華は振り返り、立ち上がろうとして、少し足を止めた。
「……戻ったら、また会えるんだよね」
陸議は、その言葉が誰を指しているのか尋ねなかった。
「はい。まだ、お傍にいられます」
凌華は頷いた。
差し出された手を借りて立ち上がり、長剣を抱え直した。
帰れば、孫策が起きて待っているわけではない。
それでも、まだ伝えたいことがあった。孫権が、これからも家族だと言ってくれたこと。粥を少し食べたこと。陸議が、隣にいてくれたこと。
返事がなくても、話しておきたかった。
凌華は陸議と並び、灯の残る幕舎へゆっくりと歩き出した。
――第二十七話・了




