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三国凌華伝 ーあなたがくれた、もうひとつの時ー  作者: 隆月 アン
第三章 赤壁編 ~抗えない運命~
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第二十六話 それでも、運命は


 赤壁の勝利を告げる声は、夜になっても陣のあちこちに残っていた。


 長江を覆っていた炎は遠のき、川面には焼け落ちた船の残骸が流れている。曹操軍は退き始めていたが、散り散りになった兵の動きはまだ掴みきれていなかった。帰還する部隊を迎える声に、追撃へ向かう兵の足音が重なり、陣は眠る気配を見せなかった。


 凌華は孫策とともに高台から戻り、新たな報告の入った幕舎へ足を運んだ。


 先ほどまで髪に触れていた、大きな手の感触が残っている。


 助けて良かったかと聞かれて、後悔しないと答えた。


 その気持ちは、今も変わらなかった。


 孫策は生きている。隣を歩き、ときどき兵へ声をかけながら、いつものように笑っている。


 先が分からなくても、こうして一緒に考えていけばいい。


 凌華は、ようやくそう思い始めていた。


     *


「曹操軍の一部が南へ向かっています!」


 伝令の報告に、周瑜が地図へ視線を落とした。


「本隊とはぐれた兵か、こちらを引きつけるための動きか。まず探らせろ。追うにしても、深追いはするな」


「俺が出ようか」


 孫策が言うと、孫権がすぐに顔を上げた。


「兄上は、ここにいてください」


「少し見てくるだけだ」


「その少しが、少しで済んだことがありますか」


「仲謀、お前最近うるさくなったな」


「兄上が聞かないからです」


 孫策は口を尖らせ、凌華へ振り向いた。


「娘からも何か言ってやれ」


「孫権さんが正しい」


「即答かよ!」


「だって、まだ敵がどこにいるか分からないんでしょ。見てくるだけって言って、そのまま追いかけそうだもん」


「信用がねえな」


「今日は大人しくしてて。お願いだから」


 凌華が言うと、孫策はほんの一瞬だけ黙った。


 それから、軽く肩をすくめた。


「……分かったよ」


「え。素直」


「お前な。娘に頼まれたら聞くくらいする!」


「じゃあ、頼んだよ」


 凌華が念を押すように見つめると、孫策は分かったと言う代わりに、彼女の頭を軽く小突いた。


 孫権が小さく息を吐き、周瑜はすでに伝令へ次の指示を与えていた。


 いつもと変わらないやり取りだった。


 凌華も笑いながら、乱された髪を手で直した。


     *


 次の伝令が飛び込んできたのは、それから間もなくだった。


「周瑜様! 北西の岸辺で、不審な一隊を確認しました!」


「数は」


「多くはありません。ただ、呉の旗を掲げているにもかかわらず、呼びかけに応じず移動を続けています」


 周瑜の指が、地図の上で止まった。


「旗を奪ったか」


 陸議が低く言った。


 周瑜は即座に顔を上げた。


「近くの部隊へ知らせろ。旗だけで味方と判断するな。帰還する兵の確認も徹底させろ」


 伝令が駆け出すと同時に、幕舎の外で短い叫び声が上がった。


 続いて、何かが倒れる音がした。


「敵襲!」


 その声に、全員が立ち上がった。


 呂蒙が入り口へ向かい、垂れ布の隙間から外を確かめた。


「帰還した兵の中に紛れていたらしい。外の兵が押さえているが、何人か入り込んでるぞ」


 敵の旗が確認された場所からでは、早すぎる。


 凌華がそう思ったのと同時に、陸議が傍へ来た。


「別に潜り込んでいた者がいるのでしょう。凌華、私の傍を離れないでください」


「うん」


 外では警戒の声が次々に伝えられていた。盾を持った兵が幕舎の前に集まり、周瑜が短く退避の指示を出す。


 凌華は長剣の負い紐を確かめ、陸議の後へ続いた。


 煙の匂いが、さっきよりも近かった。


     *


 敵は多くなかった。


 けれど、負傷した味方を装い、帰還する兵に混じっていたために、近づかれるまで見分けがつかなかったのだろう。入り口に近い場所では、倒れた兵を庇いながら、味方が敵を押し返していた。


 荷車の一つから火が上がり、その明かりが入り乱れる人影を照らしていた。


「仲謀、奥へ行け!」


 孫策の声に、孫権が振り向く。


「兄上も!」


「行く。先に動け!」


 周瑜が兵へ合図を送り、孫権を護衛の内側へ下がらせた。


「凌華も陸議とともに退け。剣を狙っている可能性がある!」


 その言葉に、凌華の背中が強張った。


 黒い鞘を手にしていた敵将。長剣を返せと書かれた手紙。


 終わったわけではなかった。


 陸議に促されて歩き出した、その瞬間だった。


『凌華、伏せろ!』


 鋭い声と同時に、肩へ強い力がかかった。


 身体が横へ押し倒され、凌華は地面へ手をついた。掌に痛みが走るより先に、すぐ傍の支柱へ矢が突き立った。


「……っ!」


 顔を上げると、孫策が彼女の前に立っていた。


「無事か!」


「う、うん……!」


「なら立て。陸議と下がれ!」


 陸議が凌華の腕を取り、引き起こした。


 次の矢に気づいた兵が盾を上げ、鈍い音が響く。孫策は飛び込んできた敵兵を退けながら、退路を塞がせないよう前へ出た。


「孫策も、一緒に!」


「分かってる。先に行け!」


『右の荷車の陰だ。弓を持った奴がいる!』


 凌華は息を吸い、声を張った。


「右の荷車! 弓兵がいる!」


 近くの兵が盾を向け、陸議もそちらへ視線を走らせた。


 孫策が敵を押し返し、一歩下がる。


 凌華はその袖へ手を伸ばしかけたが、彼は短く首を振った。


「掴むな。動けなくなる」


「じゃあ、ちゃんと一緒に来て」


「ああ」


 その返事を聞いて、凌華はようやく足を動かした。


 置いていくためではない。


 皆で退くために。


     *


「剣を奪え!」


 敵の声が、混乱の中ではっきりと聞こえた。


 凌華へ向かっていた兵の一人が、背中の長剣へ手を伸ばそうとする。陸議がその間へ入り、刃を打ち払った。


「下がって!」


 凌華は短剣を抜き、迫ってきた別の敵を牽制しながら後退した。


 その脇を、槍の穂先が走った。


 陸議は正面の敵を受けている。凌華は声を上げながら身体を向けた。


「陸議さん!」


 孫策が割って入り、槍を横から弾いた。


 金属のぶつかる音が響いた。


 敵の体勢が崩れる。陸議がそちらへ剣を返す。


 凌華には、その向こうで動いた人影が見えた。


 荷車の陰から位置を変えた弓兵が、弦を引き絞っていた。


『伯符!』


「孫策、避けて!」


 叫びに振り向いた孫策の身体が、僅かに揺れた。


 胸元に、見慣れないものがあった。


 矢だった。


 何が起きたのか理解するより早く、二本目が肩口を捉えた。孫策は踏みとどまろうとしたが、その膝が地面へ落ちた。


「孫策!」


 凌華は駆け寄り、倒れかかる身体を受け止めた。


 重かった。


 いつも軽々と自分を引き上げてくれる人の身体が、腕の中へそのまま預けられてきた。


 陸議の叫ぶ声が聞こえた。盾を寄せる兵の足音も、敵を追い払う呂蒙の声も聞こえていたはずなのに、凌華にはひどく遠かった。


「……嘘」


 胸に刺さった矢の周りから、血が広がっていた。


 凌華は震える手を伸ばした。どう触れればいいのか分からないまま、衣の赤く染まっていく場所へ指を押し当てる。


「嘘だよ。ねえ、孫策……」


「……うるせえな」


 苦しそうに息を吐きながら、それでも孫策は笑った。


「何で笑うの!」


「お前が、すげえ顔してるから」


「喋らないで!」


 凌華の声が裏返った。


「陸議さん、医師を! 早く!」


「呼んでいます!」


 陸議が傍へ膝をつき、孫策の身体を支えた。


 呂蒙と兵たちが周囲を固め、その内側へ周瑜と孫権が駆けてきた。周瑜は孫策の傷を見た瞬間、息を止めたが、すぐに担架と医師を急がせるよう命じた。


「兄上」


 孫権の呼びかけに、孫策の目が僅かに動いた。


「……仲謀。無事だな」


「私は何ともありません。兄上、今、医師が来ますから」


 孫権の声を聞きながら、凌華は何度も頷いた。


「そうだよ。大丈夫。前も助かったもん。今回も、絶対……」


 言い続けていなければ、目の前のことが本当になってしまいそうだった。


 医師が駆けつけ、凌華たちの間へ身を屈めた。


 傷を確かめる手元を、凌華は食い入るように見つめた。布が当てられ、短い指示が交わされる。その間にも、孫策の呼吸は浅くなっていた。


「……凌華」


「喋らないで。今、手当てしてるから」


「聞け」


「嫌」


 返事は、考えるより先に出た。


 孫策が何を言おうとしているのか、分かりたくなかった。


「助けるから。今度も助けるから、そんな顔しないで」


 頬へ、指が触れた。


 血に濡れた孫策の手だった。


「お前、俺を一回、助けてくれただろ」


「一回じゃ足りない! 何回でも助ける!」


「……欲張りだな」


「そうだよ。娘だから、親に似たんだよ。だから……死なないで」


 最後の言葉は、声になりきらなかった。


 孫策の口元が、僅かに緩んだ。


「それ、俺のせいかよ」


 凌華は泣きながら頷いた。


「そうだよ。だから責任取って、生きてよ」


 孫策は彼女を見つめていた。


 やがて、その視線が傍らへ動いた。


「公瑾……仲謀を」


「分かっている」


 周瑜はすぐに答えた。


 その声だけは崩さなかったが、孫策の傍へついた手には強く力が入っていた。


「伯符。今は喋るな」


 孫策は薄く笑い、孫権を見た。


「一人で……抱えんなよ」


「兄上こそ、勝手に任せないでください」


 孫権は孫策の腕へ手を添えた。


 いつもなら言い返してくるはずの兄は、今度は何も言わなかった。


 孫策の目が、陸議へ向いた。


「陸議。こいつ、頼む」


「……はい」


 陸議の声も震えていた。


 凌華は激しく首を振った。


「やめてよ。そういうの、いらないから。孫策、ねえ……!」


 孫策はもう一度、彼女を見た。


「俺さ……お前が娘になって、結構、楽しかった」


「過去形にしないで。これからもあるから。三歳差で、ずっと親子ごっこするんでしょ……!」


「ごっこじゃねえよ」


 弱い声だった。


 それでも、その言葉だけははっきり届いた。


「俺は、ちゃんと……お前の親父だ」


 凌華の顔が歪んだ。


「なら、親なら、娘置いてかないでよ」


 孫策の指が、頬の涙を拭おうとした。


 けれど、その動きにはもう、いつもの力がなかった。


「……ごめんな」


「謝らないで。お願い、孫策。まだ、私、何も返してない」


「十分だ」


「十分じゃない!」


 凌華はその手を掴んだ。


 離れないように、自分の頬へ押し当てた。


「……凌華」


「何?」


 孫策の目は、いつものように彼女を見ていた。


「助けてくれて、ありがとな」


 凌華は息を詰めた。


「俺、本当なら……もっと前に死んでたんだろ。なら、得したな。お前のおかげで、少し長く……生きられた」


「違う。私は、ずっと生きてほしかった」


「……知ってる」


 孫策は小さく笑った。


 その瞼が、ゆっくりと下りた。


     *


 凌華の声が、遠くなった。


 消えたわけではなかった。名前を呼ぶ声も、頬へ落ちる涙の感触も、まだどこかに残っている。


 けれど、孫策はふと、自分が立っていることに気づいた。


 足元には土も水もなく、辺りを見回しても、陣の明かりは見えなかった。傷の痛みも、息苦しさも、いつの間にか遠のいている。


 少し離れたところに、一人の男が立っていた。


 見覚えのある顔だった。


 自分と同じ顔をして、ひどく険しい表情でこちらを見ている。


「……お前が、剣の方か」


『ああ』


 男の返事に、孫策は短く息を吐いた。


「ようやく、直接話せたな」


 剣の孫策は笑わなかった。


 目の前の相手を確かめるように見つめてから、低い声を絞り出した。


『戻れねえのか』


「……どうだろうな」


『あいつ、呼んでるぞ』


「聞こえてる」


 答えると、相手の顔が歪んだ。


 自分がこんな顔をするのかと、孫策はぼんやり思った。


 しばらく、二人とも黙っていた。


 沈黙の向こうで、凌華がまた名前を呼んだ。


 孫策はそちらへ目を向けた。


「あいつさ。今朝、お前まで親父に数えてただろ」


『勝手に決めやがったんだよ』


「俺にも、似たようなこと言ってたな」


 孫策は少し笑った。


「口では三歳差だの何だの言うくせに、変なとこで律儀なんだよな」


『……ああ』


「お前にはお前で、頼ってるんだろ」


 剣の孫策は答えなかった。


 その沈黙を見て、孫策は静かに頷いた。


「俺には聞こえなかったけどな。あいつがお前と話してるときの顔は、見てた」


 誰もいない方へ文句を言い、怒ったかと思えば、急に笑う。


 その後に少しだけ落ち着いた顔をして、また皆のところへ戻ってくる。


 自分の知らないところで、この男と凌華が積み重ねた時間があった。


『お前といるときも、よく笑ってたぞ』


 今度は、剣の孫策が言った。


『お前が頭に手ぇ置くだけで、安心した顔してた』


「……そうか」


 孫策は目を伏せた。


 掌に、凌華の髪の柔らかさが残っている気がした。


「お前がいても、俺がいなくなりゃ泣くんだな」


『当たり前だろ』


 返事はすぐに返ってきた。


『俺は、お前があいつと過ごした時間の代わりにはなれねえよ』


 孫策は、もう笑わなかった。


 同じ顔をした男の向こうから、自分を呼ぶ声が聞こえている。


 その声は確かに、ここにいる自分を求めていた。


「……だな」


 ゆっくりと顔を上げた。


「お前は、お前のまま傍にいてやってくれ」


『言われなくても、そのつもりだ』


「なら、いい」


『よくねえよ』


 剣の孫策の声が揺れた。


『あいつは、お前にもいてほしいんだ』


「……分かってる」


 孫策は静かに答えた。


 遠くの声へ振り向く。


 帰れるものなら、帰りたかった。


 けれど、先ほどまでとは違うものが、自分の輪郭から少しずつほどけていくのを感じていた。


「最後まで、聞いてくる」


 そう言って歩き出そうとしたとき、背後から呼び止められた。


『おい』


 振り向くと、剣の孫策がこちらを見ていた。


『凌華を守ってくれて、ありがとな』


 孫策は目を見開いた。


 それから、いつものように笑った。


「俺の娘だぞ」


『……俺の娘でもある』


「知ってるよ」


 二人の間に、ほんの短い笑みが交わされた。


 次の瞬間、孫策の耳に、凌華の声が戻ってきた。


     *


「孫策。ねえ、目、開けて……」


 頬へ押し当てられた手が、僅かに動いた。


 凌華は顔を上げた。


 孫策の瞼が薄く開き、その目が彼女を捉えた。


「……ありがとう」


 吐息に混じるほどの声だった。


 凌華は何度も頷いた。


「うん。だから、もう喋らなくていい。今は……」


 頬に触れていた指から、力が抜けた。


 凌華はその手を握り直した。


「孫策?」


 返事がなかった。


 胸が動くのを待った。


 いつものように、うるせえなと笑うのを待った。


「孫策。ねえ、起きて」


 医師が身を寄せた。


 凌華はその手元と孫策の顔を交互に見た。誰も何も言わない時間が続き、それが怖くて、もう一度呼びかけた。


「……父上」


 その呼び方にも、返事はなかった。


 孫権が兄の腕を握り締めたまま、顔を伏せた。


 周瑜は動かなかった。


 何か言おうとした唇が、言葉を作れないまま閉じられた。


 凌華は孫策の手を、自分の頬へ押し当て続けていた。


     *


 襲撃してきた敵は、呂蒙たちによってすでに退けられていた。


 それでも周囲には、負傷者を呼ぶ声や、火を消すために走る足音が残っていた。戦はまだ、人々を動かし続けている。


 凌華の中だけが、その流れから取り残されていた。


「……嘘」


 小さく呟いた。


「だって、助けたもん。一回、助けたのに……」


 孫策の顔を見た。


 少し前まで、ここで笑っていた。


 大人しくしていてほしいと頼んだら、珍しく素直に頷いてくれた。高台では、先のことは一緒に考えると言ってくれた。


 その続きを、どうして話せないのだろう。


「歴史、変えたのに……何で」


 答えは返ってこなかった。


 凌華は孫策の身体へ覆いかぶさるようにして、強く抱き締めた。


 陸議が傍へ膝をついた。


「凌華」


「触らないで」


 声は弱かった。


 陸議の手が止まる。


 凌華は顔を上げられないまま、唇を噛んだ。


「……ごめん。今は、ちょっと……」


「はい」


 陸議はそれ以上、手を伸ばさなかった。


 ただ、隣にいた。


 やがて、背中から声が届いた。


『凌華』


 凌華の肩が震えた。


 さっきまで目の前で聞いていた声と、同じ声だった。


 けれど、腕の中の人は動かない。


「……孫策」


『ああ』


「助けられなかった」


 言った途端、喉が潰れるように痛んだ。


「私、そこにいたのに。矢が見えたのに……」


『俺も見てた』


 剣の孫策の声は、いつものようには響かなかった。


『お前も、陸議も、あいつを助けようとしてた。俺も、助けたかった』


「じゃあ、何で……」


 その問いに、彼は答えなかった。


 凌華も、答えがないことは分かっていた。


 分かっていても、聞かずにはいられなかった。


「あなたがいてくれるの、嬉しいよ」


 声が震えた。


「でも、だから大丈夫って、思えない。孫策がここにいるから、もう一人いなくなってもいいなんて……思えないよ」


『思わなくていい』


 静かな返事だった。


『あいつは、あいつだ。お前とここで暮らして、お前の親父になった孫策だ』


 凌華は、握ったままの手を見つめた。


 大きな手だった。


 頭を撫でてくれた手。肩を掴んで、力が強すぎると叱られた手。何度も、当たり前のように自分へ差し出された手だった。


『俺がいても、あいつに会いてえと思っていい。泣いていいんだよ、凌華』


 凌華は顔を伏せた。


 息を吸おうとしても、上手く吸えなかった。胸の奥からこみ上げてくるものが、何度も呼吸を塞いだ。


「……会いたい」


 まだ腕の中にいる人へ、そう言った。


「もう、会いたいよ……」


 剣の孫策は何も言わなかった。


 凌華も返事を求めず、孫策の衣を掴んだまま泣いた。


     *


 兵たちが、孫策を運ぶために近づいてきた。


 凌華は身体を強張らせたが、陸議がすぐ傍から声をかけた。


「一緒に行きましょう」


 置いていけとは言わなかった。


 その言葉に、凌華はようやく僅かに頷いた。


 孫権も兄から手を離し、立ち上がろうとした。その肩を周瑜が支える。孫権は何か言いかけたが、結局、唇を引き結んだまま兄の傍へ戻った。


 担架が運び込まれ、孫策の身体が慎重に移された。


 凌華は手を離した瞬間、急に寒くなった。


 陸議が立ち上がるのを待っている。彼を見上げたところで、足に力が入らないことに気づいた。


「……陸議さん」


「はい」


「私、助けたかっただけなのに」


 陸議は黙って聞いていた。


「孫策を助けたことは、後悔しないって言った。でも、今……何を信じたらいいか、分からない」


 陸議は一度、担架の上の孫策へ目を向けた。


「孫策様が最後に何と仰ったか、私は聞いていました」


 凌華の目から、また涙が落ちた。


「あなたが助けたから、孫策様には、その先の時間がありました。私たちと過ごした日々も、あなたと親子になったことも、孫策様は喜んでおられた」


「……でも、もっと……」


「はい」


 陸議の声が僅かに掠れた。


「私も、もっと生きていてほしかった」


 凌華は彼を見た。


 陸議もまた、孫策を失った人の顔をしていた。


 凌華を支えようとしてくれているその人も、平気でいるわけではなかった。


「ですから今は、無理に答えを出さなくていいと思います」


 差し出された手を、今度は拒まなかった。


 凌華は陸議に支えられて立ち上がった。けれど、一歩踏み出す前に身体が揺れ、その肩へ額を預けた。


 陸議は何も言わず、彼女が倒れないよう支えていた。


 少しして、凌華は自分から顔を上げた。


 まだ歩ける気はしなかった。


 それでも、孫策を一人で行かせたくなかった。


     *


 幕舎へ運ばれた孫策の傍には、誰もすぐには座れなかった。


 横になった姿が、ただ休んでいるようにも見えた。呼べば目を開けて、皆が黙っていることを不思議がりそうだった。


 呂蒙が入り口で足を止めた。


 手にしていた武器を兵へ預け、何も言わずに頭を垂れた。その肩が一度だけ大きく上下した。


 孫権は兄の傍へ座った。


 周瑜はその隣に立ち、長い間、孫策の顔を見つめていた。


 凌華は反対側へ膝をついた。


 戦に勝ったのだという声が、遠くから聞こえた。


 その声を責める気持ちにはなれなかった。喜んでいる人たちにも、帰ってきた大切な人がいるのかもしれない。


 けれど、今の自分には、そこへ戻っていくことができなかった。


 未来を知っていれば助けられると、いつも信じ切れていたわけではない。


 それでも、一度救えたこの人だけは、もう失わずに済むのではないかと、どこかで願っていた。


 その願いが叶わなかったことを、今はまだ受け止められなかった。


 凌華は孫策の手を取った。


 さっきまであった温かさが、少しずつ遠ざかっている。


「……ありがとう」


 返事がないことを知りながら、声をかけた。


「私の父上になってくれて」


 涙が手の甲へ落ちた。


 拭おうとして、けれど、手を離せなくて、そのまま握り続けた。


 背中の長剣は静かだった。


 剣の孫策は、凌華を呼ばなかった。


 今、彼女が握っている手も、返事を待ち続けている相手も、自分ではない。その悲しみの傍にいることしか、今の彼にはできなかった。


 凌華がもう一度、父上と呼んだ。


 その声を聞きながら、剣の孫策もまた、同じ顔をした男へ別れを告げていた。


――第二十六話・了

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