第二十六話 それでも、運命は
赤壁の勝利を告げる声は、夜になっても陣のあちこちに残っていた。
長江を覆っていた炎は遠のき、川面には焼け落ちた船の残骸が流れている。曹操軍は退き始めていたが、散り散りになった兵の動きはまだ掴みきれていなかった。帰還する部隊を迎える声に、追撃へ向かう兵の足音が重なり、陣は眠る気配を見せなかった。
凌華は孫策とともに高台から戻り、新たな報告の入った幕舎へ足を運んだ。
先ほどまで髪に触れていた、大きな手の感触が残っている。
助けて良かったかと聞かれて、後悔しないと答えた。
その気持ちは、今も変わらなかった。
孫策は生きている。隣を歩き、ときどき兵へ声をかけながら、いつものように笑っている。
先が分からなくても、こうして一緒に考えていけばいい。
凌華は、ようやくそう思い始めていた。
*
「曹操軍の一部が南へ向かっています!」
伝令の報告に、周瑜が地図へ視線を落とした。
「本隊とはぐれた兵か、こちらを引きつけるための動きか。まず探らせろ。追うにしても、深追いはするな」
「俺が出ようか」
孫策が言うと、孫権がすぐに顔を上げた。
「兄上は、ここにいてください」
「少し見てくるだけだ」
「その少しが、少しで済んだことがありますか」
「仲謀、お前最近うるさくなったな」
「兄上が聞かないからです」
孫策は口を尖らせ、凌華へ振り向いた。
「娘からも何か言ってやれ」
「孫権さんが正しい」
「即答かよ!」
「だって、まだ敵がどこにいるか分からないんでしょ。見てくるだけって言って、そのまま追いかけそうだもん」
「信用がねえな」
「今日は大人しくしてて。お願いだから」
凌華が言うと、孫策はほんの一瞬だけ黙った。
それから、軽く肩をすくめた。
「……分かったよ」
「え。素直」
「お前な。娘に頼まれたら聞くくらいする!」
「じゃあ、頼んだよ」
凌華が念を押すように見つめると、孫策は分かったと言う代わりに、彼女の頭を軽く小突いた。
孫権が小さく息を吐き、周瑜はすでに伝令へ次の指示を与えていた。
いつもと変わらないやり取りだった。
凌華も笑いながら、乱された髪を手で直した。
*
次の伝令が飛び込んできたのは、それから間もなくだった。
「周瑜様! 北西の岸辺で、不審な一隊を確認しました!」
「数は」
「多くはありません。ただ、呉の旗を掲げているにもかかわらず、呼びかけに応じず移動を続けています」
周瑜の指が、地図の上で止まった。
「旗を奪ったか」
陸議が低く言った。
周瑜は即座に顔を上げた。
「近くの部隊へ知らせろ。旗だけで味方と判断するな。帰還する兵の確認も徹底させろ」
伝令が駆け出すと同時に、幕舎の外で短い叫び声が上がった。
続いて、何かが倒れる音がした。
「敵襲!」
その声に、全員が立ち上がった。
呂蒙が入り口へ向かい、垂れ布の隙間から外を確かめた。
「帰還した兵の中に紛れていたらしい。外の兵が押さえているが、何人か入り込んでるぞ」
敵の旗が確認された場所からでは、早すぎる。
凌華がそう思ったのと同時に、陸議が傍へ来た。
「別に潜り込んでいた者がいるのでしょう。凌華、私の傍を離れないでください」
「うん」
外では警戒の声が次々に伝えられていた。盾を持った兵が幕舎の前に集まり、周瑜が短く退避の指示を出す。
凌華は長剣の負い紐を確かめ、陸議の後へ続いた。
煙の匂いが、さっきよりも近かった。
*
敵は多くなかった。
けれど、負傷した味方を装い、帰還する兵に混じっていたために、近づかれるまで見分けがつかなかったのだろう。入り口に近い場所では、倒れた兵を庇いながら、味方が敵を押し返していた。
荷車の一つから火が上がり、その明かりが入り乱れる人影を照らしていた。
「仲謀、奥へ行け!」
孫策の声に、孫権が振り向く。
「兄上も!」
「行く。先に動け!」
周瑜が兵へ合図を送り、孫権を護衛の内側へ下がらせた。
「凌華も陸議とともに退け。剣を狙っている可能性がある!」
その言葉に、凌華の背中が強張った。
黒い鞘を手にしていた敵将。長剣を返せと書かれた手紙。
終わったわけではなかった。
陸議に促されて歩き出した、その瞬間だった。
『凌華、伏せろ!』
鋭い声と同時に、肩へ強い力がかかった。
身体が横へ押し倒され、凌華は地面へ手をついた。掌に痛みが走るより先に、すぐ傍の支柱へ矢が突き立った。
「……っ!」
顔を上げると、孫策が彼女の前に立っていた。
「無事か!」
「う、うん……!」
「なら立て。陸議と下がれ!」
陸議が凌華の腕を取り、引き起こした。
次の矢に気づいた兵が盾を上げ、鈍い音が響く。孫策は飛び込んできた敵兵を退けながら、退路を塞がせないよう前へ出た。
「孫策も、一緒に!」
「分かってる。先に行け!」
『右の荷車の陰だ。弓を持った奴がいる!』
凌華は息を吸い、声を張った。
「右の荷車! 弓兵がいる!」
近くの兵が盾を向け、陸議もそちらへ視線を走らせた。
孫策が敵を押し返し、一歩下がる。
凌華はその袖へ手を伸ばしかけたが、彼は短く首を振った。
「掴むな。動けなくなる」
「じゃあ、ちゃんと一緒に来て」
「ああ」
その返事を聞いて、凌華はようやく足を動かした。
置いていくためではない。
皆で退くために。
*
「剣を奪え!」
敵の声が、混乱の中ではっきりと聞こえた。
凌華へ向かっていた兵の一人が、背中の長剣へ手を伸ばそうとする。陸議がその間へ入り、刃を打ち払った。
「下がって!」
凌華は短剣を抜き、迫ってきた別の敵を牽制しながら後退した。
その脇を、槍の穂先が走った。
陸議は正面の敵を受けている。凌華は声を上げながら身体を向けた。
「陸議さん!」
孫策が割って入り、槍を横から弾いた。
金属のぶつかる音が響いた。
敵の体勢が崩れる。陸議がそちらへ剣を返す。
凌華には、その向こうで動いた人影が見えた。
荷車の陰から位置を変えた弓兵が、弦を引き絞っていた。
『伯符!』
「孫策、避けて!」
叫びに振り向いた孫策の身体が、僅かに揺れた。
胸元に、見慣れないものがあった。
矢だった。
何が起きたのか理解するより早く、二本目が肩口を捉えた。孫策は踏みとどまろうとしたが、その膝が地面へ落ちた。
「孫策!」
凌華は駆け寄り、倒れかかる身体を受け止めた。
重かった。
いつも軽々と自分を引き上げてくれる人の身体が、腕の中へそのまま預けられてきた。
陸議の叫ぶ声が聞こえた。盾を寄せる兵の足音も、敵を追い払う呂蒙の声も聞こえていたはずなのに、凌華にはひどく遠かった。
「……嘘」
胸に刺さった矢の周りから、血が広がっていた。
凌華は震える手を伸ばした。どう触れればいいのか分からないまま、衣の赤く染まっていく場所へ指を押し当てる。
「嘘だよ。ねえ、孫策……」
「……うるせえな」
苦しそうに息を吐きながら、それでも孫策は笑った。
「何で笑うの!」
「お前が、すげえ顔してるから」
「喋らないで!」
凌華の声が裏返った。
「陸議さん、医師を! 早く!」
「呼んでいます!」
陸議が傍へ膝をつき、孫策の身体を支えた。
呂蒙と兵たちが周囲を固め、その内側へ周瑜と孫権が駆けてきた。周瑜は孫策の傷を見た瞬間、息を止めたが、すぐに担架と医師を急がせるよう命じた。
「兄上」
孫権の呼びかけに、孫策の目が僅かに動いた。
「……仲謀。無事だな」
「私は何ともありません。兄上、今、医師が来ますから」
孫権の声を聞きながら、凌華は何度も頷いた。
「そうだよ。大丈夫。前も助かったもん。今回も、絶対……」
言い続けていなければ、目の前のことが本当になってしまいそうだった。
医師が駆けつけ、凌華たちの間へ身を屈めた。
傷を確かめる手元を、凌華は食い入るように見つめた。布が当てられ、短い指示が交わされる。その間にも、孫策の呼吸は浅くなっていた。
「……凌華」
「喋らないで。今、手当てしてるから」
「聞け」
「嫌」
返事は、考えるより先に出た。
孫策が何を言おうとしているのか、分かりたくなかった。
「助けるから。今度も助けるから、そんな顔しないで」
頬へ、指が触れた。
血に濡れた孫策の手だった。
「お前、俺を一回、助けてくれただろ」
「一回じゃ足りない! 何回でも助ける!」
「……欲張りだな」
「そうだよ。娘だから、親に似たんだよ。だから……死なないで」
最後の言葉は、声になりきらなかった。
孫策の口元が、僅かに緩んだ。
「それ、俺のせいかよ」
凌華は泣きながら頷いた。
「そうだよ。だから責任取って、生きてよ」
孫策は彼女を見つめていた。
やがて、その視線が傍らへ動いた。
「公瑾……仲謀を」
「分かっている」
周瑜はすぐに答えた。
その声だけは崩さなかったが、孫策の傍へついた手には強く力が入っていた。
「伯符。今は喋るな」
孫策は薄く笑い、孫権を見た。
「一人で……抱えんなよ」
「兄上こそ、勝手に任せないでください」
孫権は孫策の腕へ手を添えた。
いつもなら言い返してくるはずの兄は、今度は何も言わなかった。
孫策の目が、陸議へ向いた。
「陸議。こいつ、頼む」
「……はい」
陸議の声も震えていた。
凌華は激しく首を振った。
「やめてよ。そういうの、いらないから。孫策、ねえ……!」
孫策はもう一度、彼女を見た。
「俺さ……お前が娘になって、結構、楽しかった」
「過去形にしないで。これからもあるから。三歳差で、ずっと親子ごっこするんでしょ……!」
「ごっこじゃねえよ」
弱い声だった。
それでも、その言葉だけははっきり届いた。
「俺は、ちゃんと……お前の親父だ」
凌華の顔が歪んだ。
「なら、親なら、娘置いてかないでよ」
孫策の指が、頬の涙を拭おうとした。
けれど、その動きにはもう、いつもの力がなかった。
「……ごめんな」
「謝らないで。お願い、孫策。まだ、私、何も返してない」
「十分だ」
「十分じゃない!」
凌華はその手を掴んだ。
離れないように、自分の頬へ押し当てた。
「……凌華」
「何?」
孫策の目は、いつものように彼女を見ていた。
「助けてくれて、ありがとな」
凌華は息を詰めた。
「俺、本当なら……もっと前に死んでたんだろ。なら、得したな。お前のおかげで、少し長く……生きられた」
「違う。私は、ずっと生きてほしかった」
「……知ってる」
孫策は小さく笑った。
その瞼が、ゆっくりと下りた。
*
凌華の声が、遠くなった。
消えたわけではなかった。名前を呼ぶ声も、頬へ落ちる涙の感触も、まだどこかに残っている。
けれど、孫策はふと、自分が立っていることに気づいた。
足元には土も水もなく、辺りを見回しても、陣の明かりは見えなかった。傷の痛みも、息苦しさも、いつの間にか遠のいている。
少し離れたところに、一人の男が立っていた。
見覚えのある顔だった。
自分と同じ顔をして、ひどく険しい表情でこちらを見ている。
「……お前が、剣の方か」
『ああ』
男の返事に、孫策は短く息を吐いた。
「ようやく、直接話せたな」
剣の孫策は笑わなかった。
目の前の相手を確かめるように見つめてから、低い声を絞り出した。
『戻れねえのか』
「……どうだろうな」
『あいつ、呼んでるぞ』
「聞こえてる」
答えると、相手の顔が歪んだ。
自分がこんな顔をするのかと、孫策はぼんやり思った。
しばらく、二人とも黙っていた。
沈黙の向こうで、凌華がまた名前を呼んだ。
孫策はそちらへ目を向けた。
「あいつさ。今朝、お前まで親父に数えてただろ」
『勝手に決めやがったんだよ』
「俺にも、似たようなこと言ってたな」
孫策は少し笑った。
「口では三歳差だの何だの言うくせに、変なとこで律儀なんだよな」
『……ああ』
「お前にはお前で、頼ってるんだろ」
剣の孫策は答えなかった。
その沈黙を見て、孫策は静かに頷いた。
「俺には聞こえなかったけどな。あいつがお前と話してるときの顔は、見てた」
誰もいない方へ文句を言い、怒ったかと思えば、急に笑う。
その後に少しだけ落ち着いた顔をして、また皆のところへ戻ってくる。
自分の知らないところで、この男と凌華が積み重ねた時間があった。
『お前といるときも、よく笑ってたぞ』
今度は、剣の孫策が言った。
『お前が頭に手ぇ置くだけで、安心した顔してた』
「……そうか」
孫策は目を伏せた。
掌に、凌華の髪の柔らかさが残っている気がした。
「お前がいても、俺がいなくなりゃ泣くんだな」
『当たり前だろ』
返事はすぐに返ってきた。
『俺は、お前があいつと過ごした時間の代わりにはなれねえよ』
孫策は、もう笑わなかった。
同じ顔をした男の向こうから、自分を呼ぶ声が聞こえている。
その声は確かに、ここにいる自分を求めていた。
「……だな」
ゆっくりと顔を上げた。
「お前は、お前のまま傍にいてやってくれ」
『言われなくても、そのつもりだ』
「なら、いい」
『よくねえよ』
剣の孫策の声が揺れた。
『あいつは、お前にもいてほしいんだ』
「……分かってる」
孫策は静かに答えた。
遠くの声へ振り向く。
帰れるものなら、帰りたかった。
けれど、先ほどまでとは違うものが、自分の輪郭から少しずつほどけていくのを感じていた。
「最後まで、聞いてくる」
そう言って歩き出そうとしたとき、背後から呼び止められた。
『おい』
振り向くと、剣の孫策がこちらを見ていた。
『凌華を守ってくれて、ありがとな』
孫策は目を見開いた。
それから、いつものように笑った。
「俺の娘だぞ」
『……俺の娘でもある』
「知ってるよ」
二人の間に、ほんの短い笑みが交わされた。
次の瞬間、孫策の耳に、凌華の声が戻ってきた。
*
「孫策。ねえ、目、開けて……」
頬へ押し当てられた手が、僅かに動いた。
凌華は顔を上げた。
孫策の瞼が薄く開き、その目が彼女を捉えた。
「……ありがとう」
吐息に混じるほどの声だった。
凌華は何度も頷いた。
「うん。だから、もう喋らなくていい。今は……」
頬に触れていた指から、力が抜けた。
凌華はその手を握り直した。
「孫策?」
返事がなかった。
胸が動くのを待った。
いつものように、うるせえなと笑うのを待った。
「孫策。ねえ、起きて」
医師が身を寄せた。
凌華はその手元と孫策の顔を交互に見た。誰も何も言わない時間が続き、それが怖くて、もう一度呼びかけた。
「……父上」
その呼び方にも、返事はなかった。
孫権が兄の腕を握り締めたまま、顔を伏せた。
周瑜は動かなかった。
何か言おうとした唇が、言葉を作れないまま閉じられた。
凌華は孫策の手を、自分の頬へ押し当て続けていた。
*
襲撃してきた敵は、呂蒙たちによってすでに退けられていた。
それでも周囲には、負傷者を呼ぶ声や、火を消すために走る足音が残っていた。戦はまだ、人々を動かし続けている。
凌華の中だけが、その流れから取り残されていた。
「……嘘」
小さく呟いた。
「だって、助けたもん。一回、助けたのに……」
孫策の顔を見た。
少し前まで、ここで笑っていた。
大人しくしていてほしいと頼んだら、珍しく素直に頷いてくれた。高台では、先のことは一緒に考えると言ってくれた。
その続きを、どうして話せないのだろう。
「歴史、変えたのに……何で」
答えは返ってこなかった。
凌華は孫策の身体へ覆いかぶさるようにして、強く抱き締めた。
陸議が傍へ膝をついた。
「凌華」
「触らないで」
声は弱かった。
陸議の手が止まる。
凌華は顔を上げられないまま、唇を噛んだ。
「……ごめん。今は、ちょっと……」
「はい」
陸議はそれ以上、手を伸ばさなかった。
ただ、隣にいた。
やがて、背中から声が届いた。
『凌華』
凌華の肩が震えた。
さっきまで目の前で聞いていた声と、同じ声だった。
けれど、腕の中の人は動かない。
「……孫策」
『ああ』
「助けられなかった」
言った途端、喉が潰れるように痛んだ。
「私、そこにいたのに。矢が見えたのに……」
『俺も見てた』
剣の孫策の声は、いつものようには響かなかった。
『お前も、陸議も、あいつを助けようとしてた。俺も、助けたかった』
「じゃあ、何で……」
その問いに、彼は答えなかった。
凌華も、答えがないことは分かっていた。
分かっていても、聞かずにはいられなかった。
「あなたがいてくれるの、嬉しいよ」
声が震えた。
「でも、だから大丈夫って、思えない。孫策がここにいるから、もう一人いなくなってもいいなんて……思えないよ」
『思わなくていい』
静かな返事だった。
『あいつは、あいつだ。お前とここで暮らして、お前の親父になった孫策だ』
凌華は、握ったままの手を見つめた。
大きな手だった。
頭を撫でてくれた手。肩を掴んで、力が強すぎると叱られた手。何度も、当たり前のように自分へ差し出された手だった。
『俺がいても、あいつに会いてえと思っていい。泣いていいんだよ、凌華』
凌華は顔を伏せた。
息を吸おうとしても、上手く吸えなかった。胸の奥からこみ上げてくるものが、何度も呼吸を塞いだ。
「……会いたい」
まだ腕の中にいる人へ、そう言った。
「もう、会いたいよ……」
剣の孫策は何も言わなかった。
凌華も返事を求めず、孫策の衣を掴んだまま泣いた。
*
兵たちが、孫策を運ぶために近づいてきた。
凌華は身体を強張らせたが、陸議がすぐ傍から声をかけた。
「一緒に行きましょう」
置いていけとは言わなかった。
その言葉に、凌華はようやく僅かに頷いた。
孫権も兄から手を離し、立ち上がろうとした。その肩を周瑜が支える。孫権は何か言いかけたが、結局、唇を引き結んだまま兄の傍へ戻った。
担架が運び込まれ、孫策の身体が慎重に移された。
凌華は手を離した瞬間、急に寒くなった。
陸議が立ち上がるのを待っている。彼を見上げたところで、足に力が入らないことに気づいた。
「……陸議さん」
「はい」
「私、助けたかっただけなのに」
陸議は黙って聞いていた。
「孫策を助けたことは、後悔しないって言った。でも、今……何を信じたらいいか、分からない」
陸議は一度、担架の上の孫策へ目を向けた。
「孫策様が最後に何と仰ったか、私は聞いていました」
凌華の目から、また涙が落ちた。
「あなたが助けたから、孫策様には、その先の時間がありました。私たちと過ごした日々も、あなたと親子になったことも、孫策様は喜んでおられた」
「……でも、もっと……」
「はい」
陸議の声が僅かに掠れた。
「私も、もっと生きていてほしかった」
凌華は彼を見た。
陸議もまた、孫策を失った人の顔をしていた。
凌華を支えようとしてくれているその人も、平気でいるわけではなかった。
「ですから今は、無理に答えを出さなくていいと思います」
差し出された手を、今度は拒まなかった。
凌華は陸議に支えられて立ち上がった。けれど、一歩踏み出す前に身体が揺れ、その肩へ額を預けた。
陸議は何も言わず、彼女が倒れないよう支えていた。
少しして、凌華は自分から顔を上げた。
まだ歩ける気はしなかった。
それでも、孫策を一人で行かせたくなかった。
*
幕舎へ運ばれた孫策の傍には、誰もすぐには座れなかった。
横になった姿が、ただ休んでいるようにも見えた。呼べば目を開けて、皆が黙っていることを不思議がりそうだった。
呂蒙が入り口で足を止めた。
手にしていた武器を兵へ預け、何も言わずに頭を垂れた。その肩が一度だけ大きく上下した。
孫権は兄の傍へ座った。
周瑜はその隣に立ち、長い間、孫策の顔を見つめていた。
凌華は反対側へ膝をついた。
戦に勝ったのだという声が、遠くから聞こえた。
その声を責める気持ちにはなれなかった。喜んでいる人たちにも、帰ってきた大切な人がいるのかもしれない。
けれど、今の自分には、そこへ戻っていくことができなかった。
未来を知っていれば助けられると、いつも信じ切れていたわけではない。
それでも、一度救えたこの人だけは、もう失わずに済むのではないかと、どこかで願っていた。
その願いが叶わなかったことを、今はまだ受け止められなかった。
凌華は孫策の手を取った。
さっきまであった温かさが、少しずつ遠ざかっている。
「……ありがとう」
返事がないことを知りながら、声をかけた。
「私の父上になってくれて」
涙が手の甲へ落ちた。
拭おうとして、けれど、手を離せなくて、そのまま握り続けた。
背中の長剣は静かだった。
剣の孫策は、凌華を呼ばなかった。
今、彼女が握っている手も、返事を待ち続けている相手も、自分ではない。その悲しみの傍にいることしか、今の彼にはできなかった。
凌華がもう一度、父上と呼んだ。
その声を聞きながら、剣の孫策もまた、同じ顔をした男へ別れを告げていた。
――第二十六話・了




