第二十五話 変わってしまった歴史の先で
短い眠りから覚めた頃には、長江を覆っていた炎も少しずつ勢いを失い始めていた。
それでも水面のところどころでは、焼け落ちた船の残骸がまだ赤く燻っている。黒い煙は低い空にまとわりつき、焦げた木と油の匂いが冷たい朝風に混じっていた。
凌華は味方の陣に近い岸辺に立ち、その光景を黙って見つめていた。
赤壁の戦い。
現代にいた頃なら、その名を聞いて思い浮かべるのは、教科書や資料集に並ぶ文章だった。曹操の南下、孫権と劉備の同盟、周瑜が率いる水軍。そして、火攻めによる曹操軍の大敗。
たった数行で読み終えられる歴史の中に、昨夜、自分が聞いた悲鳴も、水へ飛び込んだ人の姿も書かれてはいなかった。
勝ったのだと、帰還した兵たちは口々に言っていた。
けれど、川を見ていると、それを素直に喜ぶ気持ちだけではいられなかった。炎の向こうにいたのも、自分と同じように痛みを感じ、生きて帰りたいと願う人たちだったはずだ。
「……これが、勝つってことなんだ」
小さく呟くと、背中の長剣から声が届いた。
『戦なんてそんなもんだ』
「分かってる」
『分かってねえ顔してるぞ』
「今、分かろうとしてるの」
返した声は、自分で思っていたよりも弱かった。
歴史を変えたい。死ぬはずだった人を助けたい。
その気持ちは今も変わらない。けれど、一人を救った先にも人の暮らしが続き、その人の決断によって、さらに多くの命が動いていく。
孫策が生きていることで、すでに変わったものがある。
本来なら彼を失った後に江東を継いでいた孫権は、今も兄と並んでいる。周瑜も、呂蒙も、陸議も、自分の知る歴史とは違う状況の中で、それぞれに考えて動いていた。
その中に、自分もいる。
知っていることを伝えるだけで、その先まで見通せるわけではない。その当たり前のことが、昨夜からずっと胸に残っていた。
「また難しい顔をしていますね」
聞き慣れた声に振り返ると、陸議が立っていた。
戦装束のままだったが、夜の間に張り詰めていた表情はいくらか和らいでいる。
「……そんなに分かりやすい?」
「ええ」
「最近、みんなに言われる」
「では本当に分かりやすいのでしょう」
「慰める気ないね」
「必要ですか?」
「少しくらいは」
凌華が唇を尖らせると、陸議はほんの僅かに笑った。
その顔を見ていると、先ほどまで胸に沈んでいたものが少しだけ軽くなる。昨夜は、この人とこうして立ち話をする朝が来ることさえ、約束されてはいなかった。
「陸議さん、怪我は?」
「ありません」
「本当に?」
「ええ。あなたの傷はどうですか」
陸議の視線が、凌華の手元へ向いた。
掌の擦り傷も、腕についた小さな切り傷も、帰還してから手当てを受けている。凌華は袖口から覗く布を見下ろし、軽く指を動かしてみせた。
「大丈夫。かすっただけだから」
「後で、巻いた布を取り替えましょう」
「もう痛くないよ」
「では、傷口を確かめるだけで済みますね」
「……はい」
素直に頷くと、陸議もようやく納得したようだった。
「何かお母さんみたい」
「誰がです?」
「陸議さん」
「私は男性ですが」
「そういう意味じゃないよ」
「では父親?」
「それは間に合ってる。しかも二人いるし」
即答してから、凌華は背中の剣を意識した。
目の前で笑い、頭を撫でてくれる孫策と、いつも傍で口うるさく声をかけてくる孫策。姿も触れられるものも違うのに、いつの間にか、どちらも似たような場所に収まっている。
『俺まで数えんな』
「数えるよ」
『勝手に決めんな』
「勝手に娘扱いしてきたの、そっちじゃん」
「また剣の方と話していますね」
陸議に言われ、凌華は頷いた。
「うん。父親扱いするなって」
「……それは、今さらでは?」
『こいつまで!』
凌華は吹き出した。
陸議には聞こえなかった声を伝えると、彼も困ったように口元を緩めた。
笑いながら、凌華は一度、川へ目を向けた。
煙はまだ消えていない。それでも、その傍らで交わすこんな会話に、助けられている自分がいた。
*
昼前には、集まってきた報告によって戦況がほぼ明らかになった。
曹操軍は大きく後退し始めていた。呉軍の陣では兵たちの歓声が上がっていたが、軍議の幕舎に集まった者たちの表情は冷静だった。
敵を退けたことと、戦が終わったことは同じではない。
周瑜は地図の上に置かれた駒を動かし、確認された敵の動きを示した。
「曹操は北へ退く。問題は、どこまで追うかだ」
孫策が腕を組んだ。
「追えるだけ追いたいところだけどな」
「伯符」
「分かってるよ」
一言呼ばれただけで孫策が言い添えたので、凌華は思わず笑ってしまった。
「何だよ」
「いや、周瑜さんに呼ばれるとちゃんと止まるんだなって」
「俺だって話くらい聞く!」
「本当に?」
「娘に信用がねえ!」
「日頃の行いでは?」
孫権が静かに口を挟むと、孫策はそちらを振り向いた。
「仲謀まで!」
呂蒙が声を立てて笑った。
昨夜あれほどの戦いをくぐってきても、この人たちはこうして言葉を交わせる。凌華がその様子に目を細めていると、周瑜が地図へ指を戻した。
「凌華。お前が知る歴史では、曹操はどこを通って退く」
凌華は背筋を伸ばした。
この場にいるのは、彼女の素性を知る者たちだけだった。劉備側の状況を伝えるために加わっていた諸葛亮も、羽扇を手に、静かにこちらを見ている。
「……華容道、という名前は覚えています。でも、その後の話は、どこまで本当に史実なのか自信がありません」
「知っている範囲でよい。確かでない部分は、そのように申せ」
周瑜に促され、凌華は頷いた。
「私が知っている話では、劉備さんたちの軍が追撃します。華容道で関羽さんが曹操を見逃す、という話もあります。昔、受けた恩があったから……だったと思います」
諸葛亮が僅かに眉を上げた。
「見逃すのですか」
「ただ、それは後の時代に作られた物語で読んだ話です。実際にそうだったのかは、私には分かりません」
口にしてみると、自分の知識の曖昧さがよく分かった。
読んだときには区別しているつもりだった。それでも、強く印象に残った場面ほど、一つの確かな出来事のように思い出してしまう。
諸葛亮は羽扇を口元へ寄せた。
「なるほど。では、その道を通るかどうかも、今の敵の動きから確かめる必要がありますね」
「はい。私の知っている話に合わせて動く必要はないと思います」
凌華は地図を見つめたまま、言葉を続けた。
「昨夜の手紙には、私が未来を知っていることを分かっているような言葉がありました。でも、相手が私の知識の中身まで知っているかは分からない。だからこそ、知っている通りに進めば安全だとは思わない方がいい気がします」
周瑜は黙って先を促した。
「これからも、思い出したことは話します。確かなことと、物語で読んだだけのことも、できるだけ分けます。だから、参考にはしてほしいけど……それだけを正解にはしないでほしいです。今ここにいる人たちが、今の状況を見て決めてほしい」
言い終えてから、凌華は顔を上げた。
孫策が、どこか安心したように笑っていた。
「それでいい。最初から俺らはそうするつもりだったぞ」
「……そうなの?」
「当たり前だろ」
周瑜も口元を緩めた。
「昨夜も、お前の話を踏まえて策を組み直した。未来から来た娘が知っているからといって、それだけで軍を動かすほど私は愚かではない」
「……今さらだけど、周瑜さんが味方でよかった」
「私もだ」
「何が?」
「お前が敵でなくてよかった」
凌華は瞬きをした。
「曹操の側にお前がいたなら、少々面倒だった」
「ちょっと待って。それ褒めてる?」
「一応」
「一応なんだ……」
孫策が凌華の肩を軽く叩いた。
「良かったな。公瑾から一応認められたぞ」
「ハードル高すぎ!」
幕舎の中に小さな笑いが起こった。
やがて周瑜が追撃に出す兵と、陣に残す兵について話を戻すと、皆の視線も地図へ集まった。
凌華はそのやり取りを聞きながら、肩に入っていた力を少しずつ抜いた。
知っていることを話した後まで、すべて自分で背負わなくてもいい。
目の前にある道を選ぶ人たちは、ちゃんとここにいるのだから。
*
軍議の後、孫権は一人、地図の前に残っていた。
幕舎を出かけた凌華は、その横顔に気づいて足を止めた。
「孫権さん?」
「ああ、凌華か」
「どうしたんです?」
「少し考えていた」
孫権は地図へ目を落としたまま、静かに続けた。
「お前の知る歴史では、兄上はすでに亡くなっていて、その後は私が江東を継ぐのだったな」
「……はい」
凌華は頷いた。
孫権は驚いた様子もなく、指先で地図の端を押さえていた。
「兄上が生きたことで、私の歩く道も変わったわけだ」
その言葉に、凌華の胸が僅かに痛んだ。
「……ごめんなさい」
「なぜ謝る?」
「だって、私が孫策を助けたから……」
「凌華。兄上を助けたことを後悔しているのか?」
「してません!」
思った以上に強い声が出た。
孫権は彼女を見て、少し笑った。
「なら謝る必要はない」
「でも……」
言いかけて、凌華は口を閉じた。
孫権が垂れ布の開いた出入り口へ目を向けたからだった。
外では孫策が呂蒙と何かを話し、大きな声で笑っていた。遠慮のないその声は、幕舎の中までよく響いてくる。
「お前の知る未来では、私は兄上の跡を継ぐのだろう。だが、兄上が生きている今の私が何になるかは、これから私が決めればよい」
孫権はそう言って、凌華へ視線を戻した。
兄が生きていることを、彼は奪われた未来として受け止めてはいなかった。
凌華はその顔を見つめ、ゆっくりと頷いた。
「……そうですね」
「ああ。それに、兄上がいつまで大人しく主君をしていられるかも分からん」
「仲謀!」
外から、すぐに孫策の声が飛んできた。
「聞こえてるぞ!」
「聞こえるように言いました」
「お前!」
孫権が平然と返したので、凌華は堪えきれず笑った。
出入り口の向こうで孫策がこちらを睨み、呂蒙がその傍らで肩を揺らしている。
その姿を見ていると、先ほど口にした謝罪が、何に向けたものだったのか分からなくなった。
少なくとも、この兄弟がこうして言い合える今を、間違いだったとは思わなかった。
*
夕刻、凌華は自分の幕舎で、傷に巻いた布を取り替えてもらっていた。
「痛っ……」
「動かないでください」
「だって染みる」
「傷ですから」
「もう少し優しく」
「十分優しくしています。ご自分でなさいますか?」
「……お願いします」
凌華が大人しく腕を戻すと、陸議は傷口を確かめ、清潔な布を丁寧に巻き始めた。
じっとしていると、どうしても彼の手元へ目が向く。
長い指には、剣を握り続けてできた硬さがあった。それでも、凌華の腕を支える力は穏やかで、布を引くたびに、締めつけすぎていないか確かめてくれている。
「陸議さんって、何でも出来るね」
「そんなことはありません」
「料理は?」
「最低限なら」
「字は?」
「普通に」
「馬は?」
「乗れます」
「剣は?」
「見ているでしょう」
「やっぱり何でも出来るじゃん」
陸議は少し困ったような顔をした。
「あなたが私を高く見積もりすぎなのです」
「だって未来では――」
そこまで言って、凌華は口を閉じた。
陸議の手も、僅かに止まった。
「未来では?」
「……すごい人になるから」
「私が?」
「うん」
「どのくらい」
「かなり」
「随分曖昧ですね」
凌華は視線を泳がせた後、諦めて彼を見た。
「今は、詳しく言いたくないの」
「何故です?」
「先に答えみたいに聞かされたら、気にするかもしれないから。私が知ってる人になるために、何かを選んでほしいわけじゃないし」
陸議はしばらく彼女を見つめていたが、やがて手元へ視線を戻した。
「……なるほど」
「危ないことを思い出したら、それはちゃんと言うよ。ただ、陸議さんがどうなりたいかは、陸議さんに決めてほしい」
「では、私があなたの知る道とは違う方へ進んだら?」
凌華は少し考えた。
知っている道なら、先回りして気づけることがあるかもしれない。けれど、それを理由に、この人の行きたい方を塞ぎたくはなかった。
「私に分かることがあれば話す。でも、決めるのは陸議さんで……私は、その隣で出来ることをしたい」
言い終えてから、自分の口にした言葉が妙に耳に残った。
その隣で。
陸議も返事をしない。
凌華は彼の手元を見たまま、じわじわと頬が熱くなるのを感じた。
「いや、今のは、別にそういう意味では!」
「どのような意味です?」
「聞かないで!」
陸議の口元が、僅かに上がった。
「笑った!」
「笑っていません」
「絶対笑った!」
「気のせいです」
「最近そればっかり!」
凌華は恥ずかしさを誤魔化すように顔を逸らした。
陸議は布の端を留め、腕を動かしても痛まないことを確かめてから、そっと手を離した。
「ですが、隣にいてくれるなら、私は心強いと思います」
穏やかな声に、凌華は振り向いた。
陸議は一度だけ視線を落とし、手当てに使ったものを片づけ始めていた。
「……陸議さん。それ、無自覚?」
「何がでしょう」
「……もういい」
凌華は傷に触れないよう気をつけながら、両手で顔を覆った。
『おい。手当てが済んだんなら、礼くらいちゃんと言えよ』
「分かってるから、ちょっと黙ってて!」
陸議が眉を上げた。
「また何か?」
「ちゃんとお礼を言えって」
「お気になさらず」
「気にするよ。……ありがとう、陸議さん」
指の間から顔を覗かせて言うと、陸議は今度こそ、はっきりと微笑んだ。
「どういたしまして」
凌華は、もう一度顔を隠した。
*
陸議が退出した後、凌華は長剣を膝の上へ置いた。
幕舎の入り口から差し込む夕日が、柄の金具を淡く照らしている。腕に巻かれたばかりの布は清潔で、先ほど触れていた指の感触が、まだそこに残っている気がした。
「ねえ」
『何だ』
「前の私って、どんな人だった?」
問いかけると、孫策は少しの間、黙っていた。
凌華は柄へ指を添えたまま、返事を待った。
『今と変わんねえよ。うるせえし、無茶するし、人のことばっか気にする』
「ひどい。……否定しづらいけど」
『自分のことは後回しで、何でも救おうとする』
凌華の指が止まった。
孫策は、少しだけ声を和らげた。
『んで、よく笑ってた。よく泣いてもいたけどな』
「最後のは余計」
『事実だ』
凌華は小さく笑い、膝の上の剣を見つめた。
前の自分は幸せそうだったと、以前にも聞いている。
けれど、その人生を生きた実感はまだなかった。笑ったと聞けば、どこで、誰と笑ったのか気になる。泣いたと聞けば、何があったのか知りたくなる。
思い出せない自分の輪郭を、孫策の言葉から少しずつ拾っているようだった。
「聞けば聞くほど、もっと知りたくなるね」
『そりゃ、自分のことだからな』
「でも、聞いたら気にするんだろうな。前の私はこうしたとか、こういう人だったとか」
『お前、そういうとこは真面目だからな』
「そういうとこは、って何」
『褒めてんだよ』
「分かりにくい」
軽く言い返してから、凌華は息を吐いた。
「前と違うことを選んでも、いいんだよね」
『当たり前だろ。前のお前が選んだことは、前のお前のものだ。今どうするかは、お前が決めろ』
凌華は指先で柄の感触を確かめた。
その言葉は、今朝から何度も形を変えて受け取っているものだった。
周瑜は、今の戦況から策を決めると言った。
孫権は、これからの自分を自分で決めると言った。
自分も陸議へ、そうしてほしいと伝えたばかりだ。
それなら、自分にだけ別の決まりを課す必要はないのかもしれなかった。
「……意外とまともなこと言う」
『意外とは何だ!』
「だって、いつも適当じゃん」
『誰がだ!』
凌華は笑った。
孫策が知っているのは、前の自分が生きた日々だ。そのすべてが、この先の自分にも起こると決まったわけではない。
今朝、剣に宿った理由を尋ねたとき、彼は分からないと答えた。
何もかも見通しているわけではないのだ。この声も、自分と同じように、分からないものを抱えている。
「本当に、分からないことばっかり」
『人生なんてそんなもんだろ』
「剣が人生語らないでよ」
『元人間だぞ!』
「今は剣」
『お前な!』
また笑うと、入り口の向こうからも、大きな笑い声が聞こえてきた。
顔を上げれば、生きている孫策が呂蒙と話している姿が見えた。
凌華はその横顔をしばらく見つめ、それから膝の上の長剣へ目を戻した。
同じ名で呼んでいる二人が、それぞれに違う時間を知っている。
まだ上手く理解できなくても、今、ここにいる孫策と、剣から語りかける孫策のどちらも、自分にとって大切な存在だった。
*
その夜、赤壁の勝利を喜ぶ声が、陣のあちこちから聞こえていた。
凌華は陣に近い小高い場所に座り、遠くの長江を眺めていた。夜風にはまだ焦げた匂いが混じっていたが、昨夜のように川一面を照らす炎は、もう見えなかった。
足音がして振り向くと、孫策が歩いてきた。
彼は凌華の隣へ腰を下ろし、伸ばした脚の先で小石を転がした。
「父上」
「おう」
「普通に返事するようになったね」
「俺は親父だからな」
「三歳差」
「まだ言うか!」
凌華は笑った。
孫策も口元を緩めたが、しばらく川を眺めた後、横目で彼女を見た。
「なあ。俺を助けて良かったか?」
凌華の笑みが止まった。
「……何で聞くの」
「俺が生きたことで、先が分からなくなったんだろ。最近、それで悩んでる顔してるからな」
凌華は膝の上で手を重ねた。
孫策は答えを急かさず、静かに待っていた。
「先が分からないのは、怖いよ」
ようやく出た言葉に、彼は頷いた。
「知ってることが役に立たなくなったら、助けられたはずの人まで助けられなくなるかもしれないって、思うこともある。でも、孫策を助けたことは別」
凌華は隣を向いた。
「歴史がどう変わっても、孫策を助けたことだけは後悔しない」
孫策は少しの間、黙っていた。
それから笑い、凌華の頭へ大きな手を置いた。
「なら、それでいい」
「……そんな簡単に」
「簡単じゃねえよ」
孫策は長江へ目を戻した。
「分かってることがあるなら、備えりゃいい。だが、分からねえ先まで、お前一人でどうにかしようとするな。俺が生きてることで何か変わるなら、俺も考える」
髪に触れる掌は温かかった。
凌華はその重みを感じながら、目を伏せた。
助けた後の人生も、この人自身のものなのだ。
生きていてほしいと願った自分が、その先をすべて引き受けなければならないわけではない。孫策は今こうして、自分の足で立ち、自分の言葉で答えてくれている。
「……うん」
凌華も川へ視線を向けた。
「じゃあ、次も助ける」
「誰を?」
「秘密」
「俺には教えろよ!」
「嫌」
「親父だぞ!」
「三歳差!」
「凌華!」
二人の声に、近くを通りかかった兵が振り向いた。
凌華が慌てて口を押さえると、孫策は少しも気にせず笑った。その笑いにつられて、彼女もまた肩を揺らした。
背中の長剣から、静かな声が届いた。
『……それでいい』
凌華は笑みを残したまま、そっと柄へ手を添えた。
「何だ?」
孫策に尋ねられ、凌華は隣へ顔を向けた。
「そっちの孫策も、それでいいって」
「だろうな。俺だからな」
「そこは気が合うんだね」
「そこは、って何だよ」
凌華は答えず、笑った。
川の向こうには、まだ暗くて見えない場所が広がっている。明日どんな知らせが届くのか、この勝利が誰をどこへ運んでいくのか、今の彼女には分からなかった。
それでも隣には孫策がいて、背中からはもう一人の孫策の声がする。陣へ戻れば、陸議も、周瑜も、呂蒙も、孫権もいる。
凌華は夜風に乱れた髪を耳へかけ、遠くに残る火明かりを見つめた。
かつて誰かが書き残した歴史の先で、明日を迎えるための営みが続いていた。
――第二十五話・了




