第二十三話 炎の向こう側
曹操軍後方に上がった火は、風に煽られながらも、同じ場所で燃え続けていた。
建物から隣の建物へ燃え移っている様子はなく、大きな炎が一つ、岸辺の暗がりを照らしている。川面に伸びた赤い光が波に砕かれるたび、その向こうにあるものまで揺らいで見えた。
凌華は船縁を掴み、目を凝らした。
「……誘ってるみたい」
隣にいた陸議も、同じ方角を見つめていた。
「私も、そう思います」
「やっぱり?」
「ええ。火が上がってから、周囲へ広がる様子がありません」
呂蒙が前方を睨み、低く舌打ちした。
「気に食わねえな。俺たちが裏を取ろうとしてるのを読まれてるみてえだ」
「こちらの進路まで知られているとは限りません。ですが、後方を狙う敵への備えはあると考えるべきでしょう」
陸議は後続の船を確かめ、その場を保つよう改めて合図を送った。
櫂が水を押し返し、流れに運ばれかけた船の向きが戻る。進んでいた時には気にならなかった水音が、急に近く聞こえた。
凌華は片手を背中へ回し、長剣の鞘に触れた。
「……ねえ。さっき、何かいるって言ったよね」
『ああ』
「人なの?」
『……分からねえ。姿が見えたわけじゃねえんだ。あの辺りから、嫌な感じがする』
凌華の指先が止まった。
孫策の声には、いつものからかうような響きがなかった。何かを警戒していることは分かるのに、それが炎のせいなのか、岸に潜む敵のせいなのか、凌華には判断できない。
「前の赤壁にも、同じようなことがあった?」
『いや。この感じは、前の赤壁を思い出して言ってるんじゃねえ』
「じゃあ、今あそこにある何かに……?」
『多分な。だが、確かめようとして勝手に近づくなよ。今は戦場だ』
凌華は口を閉じ、岸へ視線を戻した。
以前の出来事を尋ねれば答えが得られるとは限らない。孫策も、今ここで起きている異変を前にしているのだ。
「……分かった」
短く答え、凌華は鞘から手を離した。
◇
「戻るか?」
呂蒙に問われても、陸議はすぐには答えなかった。
炎の位置と、その左右に続く暗い岸を見比べている。やがて後ろへ手を伸ばし、兵から受け取った地図を船板の上に広げた。
「当初の進路は捨てます。二手に分かれましょう」
呂蒙が傍らへ膝をついた。
「どう分ける」
「一隊は火の見える岸へ近づき、敵の反応を確かめます。ただし、岸へ深くは入りません。もう一隊は、さらに外側へ回って倉の側面を探る」
「火の方へ行く奴は囮か?」
「それも役目の一つです。敵が待ち伏せているなら、こちらの全軍が火に引かれたと思わせたい。ですが、伏兵を誘い出せれば、その位置を確かめることもできます」
呂蒙は地図を一瞥し、口の端を上げた。
「んじゃ、俺が火の方に行く」
「呂蒙殿」
「こういう役は俺の方が向いてる」
「確かに」
「即答すんな」
呂蒙が呆れたように言うと、凌華は思わず笑った。
その間にも陸議は地図の上を指し、退く際の合図と合流する場所を確かめていく。呂蒙も笑みを収め、短く頷いていた。
「じゃあ、私たちは外側へ回るんだね」
凌華が言うと、陸議は地図から顔を上げた。
「私はそうします。凌華は、呂蒙殿の隊に残ってください」
「……え?」
呂蒙も陸議を見た。
「何で?」
「呂蒙殿の隊は船を離れず、退路を保ったまま敵を探ります。こちらは、場合によっては少人数で上陸することになりますから」
「でも、囮になるんでしょ?」
「危険がないとは言いません。ただ、今の段階では、見えない岸の奥へ入るより退きやすい」
凌華は地図へ目を落とした。
陸議の説明は分かった。自分を遠ざけたいだけで、適当な理由をつけているわけではない。それでも、彼が進む先を指で示された途端、そこで何が起きるのか分からないことが、急に耐え難くなった。
「じゃあ、陸議さんはその退きにくい方へ行くんだ」
「それが私の役目です」
「私もそっちへ行く」
「凌華」
「今まで一緒に戦ってきたじゃん。私、足手まとい?」
「違います」
間を置かずに返された言葉に、凌華は口を閉じた。
陸議は一度だけ視線を落とし、それから静かに続けた。
「あなたが戦えることは知っています。ですが、先の見えない場所へ連れていくことを、簡単には決められません。私は、あなたに無事でいてほしい」
川風が二人の間を通り抜けた。
凌華は返事をしようとして、うまく声が出なかった。叱られるなら言い返せたかもしれない。けれど、そんなふうにまっすぐ願われると、自分も同じことを思っているだけに、胸の奥が詰まった。
「……それ、ずるい」
「何がです?」
「そうやって言われたら、言い返しづらい」
「では、呂蒙殿と――」
「でも、私も陸議さんに無事でいてほしい」
陸議の言葉が止まった。
凌華はその目を見返したまま、小さく息を吸った。
「心配だからってだけで、ついていくなって言われるのは分かる。でも、戦うためにここまで来たんだよ。見えないところへ行っちゃうのを、ただ待ってるだけにはしたくない」
呂蒙が二人を見比べ、低い声を挟んだ。
「お前ら、話は分かったが、長くは待てねえぞ」
「……うん」
凌華が頷いた時、背中から声がした。
『行くなら、陸議の指示を聞け。お前が勝手に動きゃ、あいつの手も止まる』
凌華は鞘へ手を添えた。
『俺も気づいたことは知らせる。だが、それだけを当てにすんなよ』
さっきの異変が何か分からない以上、孫策にも無事を約束することはできないのだろう。
それでも、傍にいると伝えてくれているのは分かった。
凌華は陸議へ向き直った。
「指示は聞く。退くって言われたら退くし、勝手に先へは行かない。だから、一緒に行かせて」
陸議はしばらく凌華を見つめていた。
やがて地図を畳み、兵へ渡す。
「……私から離れないこと。前へ出る時も、必ず声をかけてください」
「うん」
「返事だけでは困ります」
「分かってる」
陸議がまだ何か言いたそうにしたので、凌華は今度こそ真剣に頷いた。
呂蒙は二人の様子を見届け、隣へ寄せられた船へ立ち上がった。
「じゃあ決まりだ。こっちは引き受けた。無茶して、帰り道までなくすなよ」
「呂蒙殿も、お気をつけて」
「誰に言ってやがる」
そう返した呂蒙の背中を、凌華は船縁に手を置いたまま見送った。
◇
二手に分かれた船団は、それぞれの進路へ散っていった。
呂蒙の隊が火のある岸へ向かう一方で、凌華たちの船はその光から離れ、暗い水面を大きく回り込んだ。
風が強くなっていた。
波を越えるたび船底が持ち上がり、凌華は膝で揺れを受け止めた。闇の中では岸までの距離が掴めず、背後の炎だけが、どれほど進んだのかを教えてくれる。
「怖いですか」
陸議の声に、凌華は顔を向けた。
「少し」
「少しですか」
「……かなり」
「正直ですね」
「陸議さんに嘘ついても、だいたいばれるから」
「そうですね」
「否定してよ」
陸議がわずかに笑った。
その横顔を見ていると、凌華は先ほど言った言葉を思い出した。
無事でいてほしい。
今夜だけのことではなかった。これから先も、この人には傷ついてほしくない。けれど、自分の知っている未来では、彼は多くのものを背負い、その果てに苦しい最期を迎える。
それを今ここで伝えることが、彼を守ることになるのかは分からなかった。
「……陸議さん。未来にすごく辛いことが待ってるって分かったら、避けたい?」
陸議は岸の方を見たまま、少し考えた。
「内容によります」
「それじゃ、質問の意味ないじゃん」
「では、避けるべきものなら避けます」
「避けられないなら?」
「向き合うことになるでしょうね」
「怖くない?」
「怖いでしょう」
凌華が思わず見上げると、陸議もこちらを向いた。
「陸議さんでも怖いんだ」
「私を何だと思っているのです」
「完璧超人」
「違います」
「でも、そう見える時ある」
「それは買いかぶりです」
陸議は前方へ目を戻した。
「怖いことと、動けないことは別です。凌華も、出る前にそう言っていたでしょう」
怖いけれど、動ける。
あの時は、ただ自分の状態を伝えただけだった。けれど陸議も同じように、怖さを抱えたまま前を見ているのだと知ると、少しだけ肩の力が抜けた。
凌華は船の揺れに合わせて足を置き直し、暗い岸へ目を向けた。
◇
倉と思われる建物の輪郭が、ようやく見えてきた。
回り込んだことで、先ほどの火も横から見えるようになっていた。炎の根元は建物から離れており、その周囲を兵が動いている。
凌華は目を凝らした。
一人が長い棒で火の中を押し、別の兵が何かを抱えて近づいていく。放り込まれたものが崩れると、火の粉が大きく舞い上がった。
「……あれ、薪?」
陸議が頷いた。
「倉が燃えているのではありません。積み上げた薪を燃やしている。敵兵が火を保っています」
「じゃあ、わざと?」
「ええ。少なくとも、こちらから見えることは承知のうえでしょう」
呂蒙の隊が近づく方角へ、火のそばにいた兵が顔を向けた。続いて、明かりの届かない物陰から幾つもの人影が動く。
陸議の目が細くなった。
「火で注意を引き、近づいた相手を伏兵で迎える。後方へ回る敵に備えていたのでしょう」
凌華は遠くの炎を見つめた。
あの火は、まだ知らない誰かが歴史の外から放ったものではなかった。曹操軍の兵が薪を運び、火をつけ、こちらの動きを待っていたのだ。
正体が分かったからといって、安心できるわけではない。むしろ、炎のそばに見えなかった人数を思うと、別の冷たさが胸へ広がった。
「こっちも、待たれてるかもしれないね」
「そのつもりで動きます」
こちら側の岸には、わずかな警備兵しか見えなかった。
陸議は兵を先へ出し、上陸できる場所と、船へ戻る道を確かめさせた。船を残す者にも指示を与え、合図があればすぐ離岸できるよう備えさせる。
「上がるの?」
「少人数で、倉の外側まで。兵糧があるかを確かめ、無理なら戻ります」
凌華は頷き、腰の短剣へ手を添えた。
「私も」
「約束は?」
「離れない。勝手に前へ出ない」
陸議は凌華の顔を確かめてから、岸へ視線を戻した。
「行きましょう」
◇
土へ足を下ろすと、船上とは違う冷たさが靴底から伝わってきた。
草が湿っている。風に流された煙が低く漂い、息を吸うと喉の奥に焦げた匂いが残った。
遠くで兵の声が上がった。
呂蒙の隊が接触したのだろう。陸議はそちらを一度だけ確かめると、兵へ身を低くするよう合図した。
「呂蒙殿が敵の注意を引いています。今のうちに、倉の側面を見ます」
凌華も二振りの短剣を抜き、陸議の後ろへ続いた。
建物の陰へ入ると、川からの風が遮られた。その分、遠くの喧騒と、近くの小さな音が妙にはっきり聞こえる。
金属が擦れる音がした。
凌華は足を止めた。
「……何か、聞こえない?」
陸議も動きを止め、右手の建物へ目を向けた。
閉じられた扉のそばに鎖が垂れていた。その向こうで、もう一度、かすかな音がする。
同時に、背中の長剣が震えた。
『凌華。右だ』
凌華は肩越しに視線を動かしたが、声には出さなかった。
『さっきの感じが強くなってる。あの建物の方だ』
「陸議さん。剣の声が、右の建物に何かあるって」
陸議の視線が、凌華の背中をかすめた。
「どのようなものかは?」
「分からないみたい。でも、川にいた時から感じてたものが、近くなったって」
陸議は扉だけでなく、建物の端と、その先の暗がりを確かめた。それから兵に周囲を見張らせ、凌華へ小さく頷いた。
「警戒しているということですね。なら、そこに何かあるものとして動きます」
「信じるの?」
「あなたが聞いたことを、疑ってはいません。ただし、安全だという意味には取りません」
凌華は頷いた。
剣の声を信じてくれることと、状況を確かめることを、陸議は一つにしていなかった。その落ち着きが、今は頼もしかった。
扉に閂は掛かっていなかった。
兵が左右を確かめ、少しずつ押し開ける。暗い倉の中には荷が疎らに置かれ、奥にもう一つ、外へ通じる戸口が見えた。
凌華が入口の手前まで進むと、背中の震えが強くなった。
『止まれ。それ以上、奥へ行くな』
凌華は足を止めた。
「剣が、これ以上近づくなって」
陸議は即座に兵を制し、倉の外へ目を向けた。
「下がります」
「……いいの?」
「危険を確かめるために来たのであって、危険の中へ入り込むためではありません」
凌華も後ろへ足を引いた。
その時、建物の反対側で笛が鳴った。
見張りに残していた兵が、声を上げる。
「敵です!」
倉の奥の戸口が開き、外の通路にも次々と人影が現れた。静かだった建物の周囲が、一瞬で鎧の擦れる音と足音に満たされる。
陸議が剣を抜いた。
「入口から離れろ! 岸へ戻る道を保て!」
凌華は身体の向きを変え、彼の横へついた。
敵は倉の中だけにいたのではなかった。隣の建物や荷の陰にも潜み、こちらが奥へ入るのを待っていたのだ。
「……完全に待たれてたね」
「ええ。ですが、まだ退けます」
陸議の視線はすでに、兵の動きと敵の間隔を追っていた。
凌華は短剣を構え、迫ってくる槍先へ目を据えた。
◇
最初の突きを、凌華は身体を捻って避けた。
頬のすぐ横を穂先が通り抜ける。その柄を左の短剣で外へ押し、踏み込みながら右手の柄頭を敵の手首へ叩きつけた。
槍を握る指が緩む。
そこへ背後から別の影が迫り、凌華が振り向くより先に、陸議の剣が敵の刃を受け止めた。
「下がって!」
凌華はすぐに足を戻し、陸議の脇へ入り直した。
「ありがとう!」
「離れないでください!」
「離れてない!」
「今、三歩ありました!」
「三歩くらい!」
「多い!」
言い返す間にも、陸議は次の刃を弾いていた。
凌華も、口を開いたままではいられなかった。横から伸びる槍をかわし、兵の間へ割り込もうとする敵を止める。
足元の土が滑った。踏み直した足に重さを乗せ、短剣を握る指へ力を込めた。
陸議の声が近くにある。
そのことを確かめる余裕が、辛うじて呼吸を繋いでいた。
けれど、通路の奥から現れる敵は減らなかった。
「陸議さん、これ、まずくない!?」
「かなり!」
「そこは否定して!」
「退くために、右を空けてください!」
凌華は返事をして、右手から迫る敵へ向き直った。味方の兵がその隙間へ入り、岸へ戻る道を広げようとする。
その時、敵の後方から制止の声が飛んだ。
先頭の兵が踏み込みを止め、槍先を揃える。その間を通って、倉の奥から一人の男が出てきた。
曹操軍の指揮を執る者らしかった。
男は細長い包みを手にしていた。古い布で覆われたそれを、凌華へ見せるように持ち上げる。
背中の長剣が、これまでより強く震えた。
凌華は息を詰めた。
男が布を解くと、中から一本の鞘が現れた。
剣は収まっていない。
火明かりを受けても鈍くしか光らない、黒い鞘だった。古びた表面と、口金の形が目に入った瞬間、凌華は姿絵の中に描かれていた長剣を思い出した。
今、自分が背負っているものとは違う鞘。
あの絵の中で、以前の自分が携えていたものに似ていた。
『……これか』
孫策の声が、低く落ちた。
『さっきから感じてたのは、こいつだ』
凌華は唇をわずかに動かした。
「……知ってるの?」
『ああ。この剣の鞘だ』
その答えを聞きながら、凌華は倉の奥へ目を向けた。
あの男は、鞘を持ってそこで待っていたのだ。川の上で孫策が感じた異変も、近づくほど強くなった震えも、この黒い鞘へ繋がっていた。
男が凌華を見据えた。
「その剣を返していただこう」
陸議が、凌華の前へ半歩出た。
「曹操の命か」
「そうだ」
凌華は短剣を握り直した。
「誰に返すの」
「本来の持ち主へ」
竹簡と同じ言葉だった。
凌華の胸に、苛立ちが込み上げた。
「だから、それは誰?」
男は少しだけ間を置いて答えた。
「孫伯符」
陸議の視線が、一瞬、凌華の背中へ向いた。
凌華は黒い鞘を見つめたまま動けなかった。
「……孫策?」
「この剣にまつわる話には、その名がある」
「だったら、孫策本人に聞けばいい。孫策は生きてる。今も、私たちの陣にいるんだから」
男は答えず、鞘を持つ手をわずかに動かした。
「この鞘は、以前から曹操様がお持ちだった。お前の剣と引き合わせよとの命を受けている」
「引き合わせて、どうするつもり?」
「剣を渡せば分かる」
凌華は一歩も動かなかった。
相手がどこまで知っているのか分からない。語られたことが事実なのか、剣を奪うための言葉なのかも判断できなかった。
けれど、背中から伝わる震えは本物だった。
『凌華。あの鞘へ、この剣を近づけるな』
孫策の声が聞こえ、凌華はごく小さく息を吸った。
「……どうして?」
『今は離れろ。頼む』
最後の一言に、凌華は目を見開いた。
理由を聞きたかった。剣と鞘が揃えば何が起きるのか、どうして孫策がこれほど警戒しているのか、分からないままにしたくなかった。
それでも、その声を聞いて前へ進むことはできなかった。
凌華は陸議の方へわずかに顔を向けた。
「陸議さん。あの鞘に、剣を近づけるなって」
陸議は問い返さず、敵へ向けた剣を握り直した。
「分かりました。渡すつもりはありません」
その言葉に、凌華も頷いた。
◇
川の方で、ひときわ大きな叫びが上がった。
続いて、倉の壁が赤く照らされた。
黄蓋の船団が向かった方角で、火が広がっていた。先ほどまで別々に見えていた炎が重なり、その上を風に押された火の粉が流れていく。
敵兵の幾人かが、思わず振り返った。
陸議がその隙を捉え、味方へ短く合図を送る。凌華も彼に続こうと足を引いたが、風に運ばれてきた煙が目に入り、思わず瞬きをした。
炎の照り返しが、閉じた瞼の裏に残った。
その赤い明かりの中を、血に濡れた誰かの手がよぎった。
凌華は息を止めた。
顔も、その人がどこにいるのかも分からない。ただ、伸ばしかけた指先が見えた気がして、目を開けたあとも、そこから視線を離せなかった。
次の瞬間、胸元に硬いものを抱きしめる感触があった。
長剣だった。
今は背中にあるはずなのに、両腕で強く抱え込んでいるように感じられた。離すまいと力を込める腕の痛みと、喉を塞ぐほどの悲しさが、何の前触れもなく押し寄せてくる。
誰かを呼ぼうとした。
けれど、その名前も、呼んだはずの声も掴めないまま、見えかけた光景は崩れた。
「……っ」
右手から短剣が滑り落ちた。
土を打つ音に気づいても、拾おうと身体を動かせなかった。目の前には倉の壁があり、槍を構えた敵がいる。それなのに、胸の内だけが別の場所へ置き去りにされたようだった。
「凌華!」
腕を掴まれ、身体が後ろへ引き戻された。
陸議の声だった。
肩を支えられる感覚と、すぐ近くで刃がぶつかる音が届く。敵兵が動き始め、味方が二人の前へ出ていた。
凌華は震える息を吐いた。
「……今の、何……?」
誰に尋ねたのか、自分でも分からなかった。
思い出そうとすると、血に濡れた手も、抱えていた剣も遠ざかってしまう。つい今しがた感じたはずの腕の痛みさえ薄れていくのに、誰かを失いたくないという思いだけが、胸に残って離れなかった。
『凌華、こっちの声を聞け。今いる場所を見ろ』
孫策の声がした。
凌華は息を詰め、必死に目を開いた。
『陸議がいるだろ。今は、あいつと戻れ』
腕を支える手に、力がこもった。
凌華はその感触を辿るように顔を上げた。陸議がすぐ傍にいる。彼の肩越しには味方の兵が見え、その向こうで敵の槍先が火を映していた。
「……陸議さん」
「ここにいます。立てますか」
凌華は小さく頷き、足へ力を入れた。
陸議は一瞬だけその顔を確かめると、すぐに敵へ向き直った。近くの兵が落ちた短剣を拾い、凌華へ差し出す。
受け取った柄は、土でざらついていた。
凌華はその手触りを確かめるように、指を一本ずつ握り直した。胸の苦しさは消えていなかったが、今、自分の手にあるものは分かった。
黒い鞘は、まだ敵の男が持っていた。
それを目にしても、先ほどの光景が再び浮かぶことはなかった。なぜあんなものが見えたのか、何を感じたのか、考えようとするたびに、目の前の戦いの音が思考を遮った。
陸議が凌華を支え直した。
「退きます。足を動かして」
「……うん」
凌華は答え、彼の動きに合わせて身体を向けた。
川の炎が、倉の壁を明るく照らしていた。敵と味方の影がその上で交わり、誰かの叫びが風の中を走っていく。
凌華は陸議の傍を離れず、震える足を一歩、後ろへ引いた。
背中には、長剣の重さがあった。
その重さを確かめながら、凌華はもう一度、短剣を握る手に力を込めた。
――第二十三話・了




