第二十二話 史実にない夜
長江のほとりから陣へ戻ったあと、凌華を待っていたのは、曹操から届いた新たな竹簡だった。
周瑜たちの前で読み上げられた言葉が、寝床へ戻ってからも耳を離れなかった。
――未来を知る者よ。お前の知る勝利が、この戦でも訪れると思うな。
そして、最後にはこう記されていた。
――長剣を、本来の主へ返せ。
凌華は寝台に横たわったまま、傍らの長剣へ目を向けた。灯火に照らされた鞘はいつもと変わらないのに、あの言葉を聞いてから、見慣れたはずの剣まで少し違って見えていた。
この剣には孫策が宿っている。
けれど、魂が宿っていることと、剣そのものの持ち主であることは同じなのだろうか。生きている孫策が近くにいるからといって、剣を渡せば何かが元に戻るとも思えない。そもそも、何をもって「本来」と呼ぶのかさえ、凌華には分からなかった。
「……ねえ」
『何だ』
「起きてた?」
『剣が寝ると思うか?』
「知らないよ。魂なんだから寝るかもしれないじゃん」
『寝ねえよ』
「便利だね」
『便利で済ますな』
いつもの調子で返ってきた声に、凌華の口元がわずかに緩んだ。けれど、胸につかえているものまでは消えてくれなかった。
身体を起こし、膝の上へ掛け布を引き寄せる。
「曹操の言う、本来の主って誰のこと?」
長剣から返事はなかった。
「孫策は、前の私と赤壁にいたんだよね。だったら、あの言葉にも何か心当たりがある?」
『前の赤壁を知ってるからって、今の曹操が何を考えてるかまで分かるわけじゃねえよ』
「……それは、そうだけど」
前にも同じ戦いがあったのなら、今起きていることにも答えがあるのではないか。
そう期待していた自分に気づき、凌華は視線を落とした。少し前には、過去をなぞる必要はないと思えたはずなのに、不安になると、すでに誰かが通った道を探してしまう。
『あいつの言葉だけで、この剣をどうするか決めんな』
「分かってる。勝手に渡したりしないよ。でも、私には知らないことが多すぎるんだもん。前の私のことも、孫策が剣にいる理由も」
『……ああ』
「少しずつでいいって思ったのに、向こうが私より知ってるみたいに言ってくるから、落ち着かない」
膝の上で、布を握る指に力が入った。
姿絵も、竹簡も、曹操の側から届いたものだった。自分には記憶さえない人生の痕跡を、向こうは手にしている。その事実が、見えないところからこちらを覗き込まれているようで恐ろしかった。
孫策はしばらく黙っていたが、やがて低い声で言った。
『前のお前がどう生きたかを話せば、お前はそれを気にするだろ』
「するよ。自分のことだもん」
『だからだよ。知ったこと全部、今のお前が背負わなきゃならねえと思うな』
凌華は握っていた布を見つめた。
以前の自分が何を願ったのか知れば、叶えなければと思うかもしれない。何かを守れなかったと聞けば、今度は自分が守らなければと考えるだろう。
そうしなくてはならないと誰かに言われる前に、自分で決めてしまう気がした。
『今のお前でいろ、凌華』
いつものように言い切った声が、最後だけ少し柔らかくなった。
凌華は長剣へ手を伸ばしかけ、その手を膝へ戻した。分かったとは、まだ言えなかった。それでも、孫策が言葉を選ぶ理由を、ただ隠したいからなのだと決めつけることもできなくなっていた。
口を開きかけた時、幕舎の外で慌ただしい足音が止まった。
「凌華様!」
「はい!」
「周瑜様がお呼びです!」
凌華は顔を上げ、すぐに寝台から降りた。
休もうとして緩めていた帯を締め直し、長剣を手に取る。問いの答えは出ないままだったが、今夜はそれを考え続ける時間も残されていないらしかった。
◇
軍議の幕舎へ入ると、中央の地図を囲んでいた者たちが顔を上げた。
孫策と孫権、呂蒙、陸議に加え、諸葛亮の姿もある。灯火が増やされた卓の上には、先ほど見た竹簡が置かれていた。その横で、敵船を示す駒の位置が変わっている。
凌華は地図へ近づいた。
「曹操軍が動いたんですか?」
「ああ。繋いだ船の一部を移し、こちらへ集めている」
周瑜の指が、水路に沿って動いた。
昼間から続いていた作業が、ただ船の揺れを抑えるためだけのものではなく、陣形そのものを作り替える動きに見えてくる。凌華は示された場所と、その周囲に置かれた駒を見比べた。
「……繋いだ船を、ここにまとめるんですね」
「偵察の報告では、そう見える」
凌華の知る赤壁にも、船を繋ぐ話はあった。その先には黄蓋の偽降伏があり、火を積んだ船があり、風に乗って燃え広がる炎がある。
けれど今は、知っている形へ近づくほど、竹簡の一文が重く感じられた。
お前の知る勝利が、この戦でも訪れると思うな。
凌華は卓の端に置かれた竹簡へ目を向けた。
「周瑜さん。昼間、曹操が火への備えをしてるかもしれないって話しましたよね」
「ああ」
「あの竹簡、私たちに『知ってる勝ち方が通じないかもしれない』って疑わせたいんでしょうか。火への備えがあると思わせて、こちらを迷わせるために」
孫策が腕を組んだまま、わずかに顎を上げた。
「こっちが、自分の策を疑うようにか」
「うん。曹操がどこまで読んでるかは分からない。でも、船を繋げば火に弱くなることは、未来を知らなくても考えられるよね」
周瑜はしばらく地図を見つめ、それから竹簡へ視線を移した。
「私も同じことを考えていた。あの文面だけで、曹操がこちらの策を知っているとは言えない。だが、我々を迷わせようとする意図は感じられる」
諸葛亮が羽扇を持つ手を止めた。
「こちらが未来の知識を頼りにしているなら、その確信を揺さぶるだけでも意味があります。策を見抜かれたと思い込み、使える手まで捨ててしまえば、相手の思う壺でしょう」
「……どっちにしても、こっちの考えを動かそうとしてるんですね」
「その可能性はあります」
凌華は背中に冷たいものを感じた。
未来の知識があれば、知らない危険を避けられると思っていた。けれど、何を知っているかを相手に悟られれば、その知識に頼るところまで読まれてしまう。
知らないことだけを警戒すればよいわけではなかった。
「でもよ、だからって火攻めを捨てるのも早くねえか?」
呂蒙が地図を覗き込みながら言った。
孫策も頷く。
「そうだな。相手が知ってるかもしれねえから使わねえ、じゃ、それこそ向こうの思う壺かもしれねえだろ」
凌華は孫策を見上げた。
「珍しく頭いい」
「珍しくって何だ!」
「いや、普段、勢いで押し切るから……」
「凌華!」
呂蒙が堪えきれずに吹き出した。周瑜は額へ手を当てたが、指の陰で口元がわずかに動いていた。
「伯符。娘にそう思われているらしいぞ」
「お前も笑うな、公瑾!」
「笑っていない」
「口元!」
凌華も思わず笑った。
曹操の言葉を思い返している時には、どこへ考えを進めても、その先で待ち構えられているような気がした。けれど、この人たちはそこから先を考えている。
凌華が怖がっている間にも、盤面には別の道が見つかり始めていた。
「周瑜さん。昼間話したことを、もう一度、今の配置と照らし合わせてもらってもいいですか。まだ説明しきれてないところもあると思うので」
周瑜は地図の前を少し空けた。
「話してくれ」
凌華は頷き、卓へ一歩近づいた。
◇
曹操軍に広がった病、水上戦への不慣れ、繋がれた船、黄蓋の降伏を装った接近。
昼間に伝えた内容を確かめながら、凌華は思い出せることを順に話した。どの出来事が先で、どこからが曖昧なのかを問われるたび、記憶の中の文章や映像を探し、確信が持てないところでは正直に首を振った。
「ただ、どこまでが史実で、どこからが演義の描写だったか、今ここで全部を区別する自信はありません。覚えてる場面が、混ざってるところもあると思います」
「演義?」
孫策に聞き返され、凌華は顔を上げた。
「あ、えっと……後世に作られる物語です」
「俺らの?」
「……はい」
「俺、格好いい?」
「そこ?」
「重要だろ」
陸議が静かに口を挟んだ。
「孫策様。今は軍議です」
「お前、最近凌華側だな!?」
「事実を申し上げただけです」
孫策は納得していない顔で陸議を見たあと、その隣に立つ凌華へ目を移した。
「……近いな」
「何がです?」
「凌華との距離」
「ちょっと! 今それ関係ないでしょ!」
凌華が声を上げると、孫策は当然のように言い返した。
「父親としては関係ある!」
「地図見てるだけ!」
「伯符も凌華も、静かにしろ」
周瑜の声が落ちると、二人は揃って口を閉じた。
凌華は何事もなかったように地図へ目を戻そうとしたが、急に隣との距離が気になり、わずかに足の位置を直した。陸議はその動きを追うこともなく、卓に置かれた駒を見つめている。
諸葛亮が羽扇を口元へ寄せたのが視界の端に入ったが、そちらは見ないことにした。
話を聞き終えると、周瑜は長い間、黙って地図を眺めていた。
外を行き交う兵の足音と、灯火の小さく爆ぜる音だけが聞こえる。やがて周瑜の指が敵船の並びをなぞり、その後方へ移った。
「面白い」
「……何がですか?」
「凌華の知る戦では、火攻めが功を奏している。だが今回は、曹操がそれを待っているかもしれない」
凌華は頷いた。
周瑜がゆっくりと顔を上げる。
「ならば今回は、火攻めへの備えがあるものとして策を立てればいい」
凌華は思わず息を止めた。
同じ不確かさを前にしているはずなのに、周瑜の目はすでに、その先へ向いていた。
「火を捨てるのですか?」
陸議の問いに、周瑜は首を振った。
「いや、使う。ただし、凌華の知る形だけには頼らない」
地図の上で、味方の駒が二手に分けられた。
孫策がその動きを追い、口の端を上げる。
「いいねえ」
凌華は二人を見比べた。
「……何か、悪い顔してる」
「褒め言葉だ」
「褒めてない」
孫策は気にした様子もなく笑い、周瑜が示した別の水路へ身を乗り出した。
◇
夜明け前、一隻の小舟が曹操軍へ向かった。
黄蓋の使者を乗せた舟だった。
川面を薄く覆う靄の中へ、舟影がゆっくりと遠ざかっていく。凌華は岸辺に立ち、櫂が水を掻く音が聞こえなくなるまで、その行方を見送っていた。
「結局、黄蓋さんの偽降は使うんだね」
隣の陸議が頷いた。
「ええ。ですが、その先の動きは変えます」
火船は用意する。それを迎え撃つために敵がどこへ兵を動かすのかを見極め、別働隊が側面から後方へ回り込む。
狙うのは、敵を支える兵糧と、後方へ通じる道だった。
周瑜から説明された筋道は理解できた。けれど、曹操もまたこちらの思惑を読もうとしているのだと考えると、どちらがどこまで予想しているのか、頭の中で絡まってしまう。
「……頭こんがらがる」
「そうですか?」
「陸議さんは平気そうだね」
「考えることは嫌いではありません」
「知ってる」
陸議がこちらを向いた。
「何故?」
「いつも、そういう顔してるから」
「どういう顔です?」
「考えてる時、話しかけていいのか迷う顔」
陸議は少し意外そうにしてから、静かに笑った。
「必要なことがあれば、話しかけてください」
「うん。たぶん、迷っても結局話しかける」
「そうでしょうね」
当然のように返され、凌華は小さく口を尖らせた。
陸議のことを知っていると言える理由が、後世の記録だけではなくなっている。それに気づいたのは、再び川面へ目を戻したあとだった。
◇
軍議のあとに短く休み、日が高くなる頃には、陣の中が出撃の準備で慌ただしくなっていた。
凌華が邪魔にならない場所へ避けていると、太い声が自分を呼んだ。
「凌華、といったな」
振り返ると、黄蓋が立っていた。
近くで向き合うと、長く戦場に立ってきた人なのだということが、自然と伝わってくる。凌華は背筋を伸ばした。
「はい」
「周瑜から聞いた。未来から来たという話は、本当なのか」
周囲に届かないよう抑えられた声に、凌華も声を落とした。
「……はい」
黄蓋はしばらく凌華を眺め、それから少し眉を上げた。
「何だ。儂の顔に何かついておるか」
「いえ!」
知っている名前の持ち主が、目の前で自分を見ている。何度経験しても慣れないまま見つめてしまったことに気づき、凌華は慌てて首を振った。
「じゃが、お主は儂のことも知っておるのだろう」
「……少しだけ」
「いつ死ぬかもか?」
凌華の喉が詰まった。
誰のことでも、何もかも知っているわけではない。けれど、どこまで知っているかを答える前に、その問いを向けられたこと自体に身体が強張ってしまった。
黄蓋はそんな凌華を見て、豪快に笑った。
「答えにくいなら言わんでよい。知ったところで、今日の儂が強くなるわけではないからな」
「……気にならないんですか?」
「気にならんと言えば嘘になる。だが、今夜やるべきことは変わらん」
黄蓋の視線が、支度を進める船の方へ向いた。兵たちが荷を運び、声を掛け合っている。その様子を確かめてから、彼は凌華へ目を戻した。
「お主は、ずいぶん重たいものを背負っておるな。誰が死ぬ、誰が生きると、顔を見るたびに考えておるのか」
凌華はすぐに否定できなかった。
普段は忘れて笑っていられる。けれど、こうして戦が近づくと、名前を知る人の顔に、読んだことのある最期が重なってしまう。
「でも、知ってるのに何もしなかったら、後悔すると思うんです」
「なら、やればよい」
あまりにもあっさりした返事に、凌華は顔を上げた。
「助けたいなら助けろ。戦いたいなら戦え。ただし、助からなかった時まで、全部自分のせいにするな」
最後の言葉だけ、声が少し強くなった。
凌華は黄蓋を見つめた。
陸議からも、自分たちの人生をすべて背負う必要はないと言われた。それでも、実際に誰かを失った時、自分がその言葉を思い出せるのかは分からなかった。
黄蓋は答えを急かさず、凌華の目を見ていた。
「お主は神ではなかろう」
「……はい」
「なら、出来ることをやれ。儂もそうする」
それだけ言うと、黄蓋は船へ向かって歩き出した。
兵に何かを尋ねる声が、すぐに聞こえてくる。凌華はしばらくその背中を見送ったあと、小さく呟いた。
「……格好いい」
『だろ』
間髪を入れずに返った声に、凌華は肩越しに長剣を見た。
「何で孫策が誇らしそうなの」
『俺んとこの将だからな』
「今の孫策、剣でしょ」
『うるせえ』
凌華は少し笑い、もう一度黄蓋の方を見た。
あの人が今夜、自分で選んで船に乗る。その覚悟まで、自分が奪ってよいわけではないのだと思った。
◇
日が沈む頃には、出撃の準備が整いつつあった。
曹操側からは、黄蓋の申し出を受け入れる返答が届いていた。降伏を信じたのか、それとも承知のうえで迎え入れるつもりなのかは分からない。
繋がれた敵船は対岸で大きな影となり、その間に灯りが点り始めている。
凌華は二振りの短剣を腰へ差し、帯の締まりを確かめた。背負った長剣の重さを感じながら肩を動かすと、後ろから声がした。
「凌華」
振り返った先に、戦装束を整えた陸議が立っていた。
昼間と同じ顔なのに、視線の置き方が違う。周囲の動きまで確かめながら近づいてくる姿に、いよいよなのだと実感した。
「準備は?」
「できてる」
「怖いですか」
凌華は自分の指先を見た。帯を確かめ終えたはずなのに、まだ手がそこから離れない。
「……怖い。でも、動ける」
顔を上げて少し笑うと、陸議も口元を緩めた。
「それで十分です。無理はしないこと」
「陸議さんも」
「私は、あなたより経験があります」
「そういう問題じゃない」
「では?」
凌華は言葉に詰まり、それから、思っていたことをそのまま口にした。
「……生きて帰ってほしいから」
陸議の動きが止まった。
その静けさに、凌華は急に落ち着かなくなった。言ってはいけないことではないはずなのに、まっすぐ見返されると、何か特別な意味に聞こえたのではないかと気になってしまう。
「いや、みんなに! みんなにそう思ってるから。別に陸議さんだけとかじゃなくて!」
「分かっています」
「本当に?」
「ええ」
陸議はそう答え、船の方へ顔を向けた。灯りが頬をかすめ、その耳が少し赤く見えたが、凌華が確かめる前に背中の声が割って入った。
『分かってねえ顔だな』
「黙って!」
「私は何も言っていませんが」
「剣!」
「……なるほど」
陸議が今度ははっきり笑った。
凌華は長剣に文句を言うのも諦めて、短剣の位置をもう一度確かめた。さっきまで冷えていた指先に、少しだけ感覚が戻っていた。
◇
夜半、黄蓋の船団が岸を離れた。
降伏を装った船が、静かな水面を曹操軍へ向かって進んでいく。闇に溶けかける船影を、凌華は乗り込みを待つ岸辺から見送った。
知っている戦いでは、この先に炎が上がる。
その光景を想像するたび、心臓が速くなった。けれど今夜、自分たちが待っているのは、記憶のとおりに火が広がる瞬間だけではなかった。
黄蓋の船団が敵へ近づくにつれ、曹操軍の灯りが動いた。迎え入れるための動きにも、待ち構えるための動きにも見える。
周瑜は報告を聞きながら、川面を見つめていた。
やがて遠くで火が上がった。
黄蓋の船団の一部に灯った炎が、風を受けて膨らんでいく。敵側にも合図が走り、火の方へ船影が動くのが見えた。
凌華は息を呑んだ。
その横で、周瑜が手を上げた。
「今だ。別働隊、進め」
合図が送られ、主力とは離れた岸辺で待っていた船が動き始めた。
「凌華、行きます」
陸議に呼ばれ、凌華は足元へ目を戻した。先に乗り込んでいた呂蒙へ続き、船へ移る。板がわずかに沈み、岸にいる時とは違う揺れが膝へ伝わった。
陸議が乗ると、すぐに船が押し出された。
岸の灯りが背後へ遠ざかり、川風が頬を打つ。凌華は船縁へ手を添え、炎の上がった方角を確かめた。
その光が、進む先ではなく、次第に横へ離れていく。
「……思ったより、大きく回るんだね」
呂蒙が低く笑った。
「正面から近づいて、裏を取りに来たと教えてやるわけにゃいかねえからな」
「地図で見た時は、もう少し近い気がした」
「暗いですから。岸と火だけを見ていると、距離も分かりにくいでしょう」
陸議が凌華の隣で、進行方向を示した。
軍議で聞いた水路を、凌華は頭の中でもう一度辿った。敵船の正面を避けて回り、後方へ通じる場所から上がる。地図の上では指先が一度動くだけだった道を、今は櫂の一漕ぎごとに進んでいた。
「曹操が火船への対応に兵を寄せれば、その間に後方へ迫れます。兵糧と、退路へ通じる道を叩く。ただし、敵の動きが想定と違えば、進み方も変えます」
凌華は頷いた。
自分の知識にある赤壁の風景は、遠くで燃えている。その光を横に見ながら、今は知らない岸へ向かっていた。
「……私が知ってる赤壁には、こんな動き、出てこなかった」
陸議は前方を見たまま答えた。
「今、我々が考えた策ですから」
その言葉を聞き、凌華は船縁から手を離した。
何が起きるか分からないことは、やはり怖い。それでも、船を進める者たちの手は迷っていなかった。周瑜が考え、孫策たちが確かめ、ここにいる陸議と呂蒙が引き受けた道なのだ。
凌華も腰の短剣へ手を添え、闇の先へ目を向けた。
「……行こう。歴史にない赤壁へ」
呂蒙が歯を見せて笑った。
「いいじゃねえか」
陸議も凌華を見たが、その表情はすぐに真面目なものへ戻った。
「ただし、上陸したら私から離れないでください」
「またそれ?」
「当然です」
「私も戦えるよ」
「知っています。ですが、戦えることと、心配しないことは別です」
凌華は返そうとした言葉を忘れた。
陸議は特別なことを言ったつもりもないように、再び岸の方へ目を向けている。凌華だけがその横顔を見て、口を開きかけたままになった。
背中から、小さく感心するような声がした。
『おー』
凌華は反射的に長剣を振り返ったが、声を上げる寸前で唇を閉じた。
それを見た呂蒙が、笑いを噛み殺すように肩を揺らした。
「お前ら、戦の前に忙しいな」
「呂蒙さんまで……」
抗議も小声になった。
陸議がこちらを見て、わずかに笑う。凌華もつられて息を緩めたが、その時、孫策の声が変わった。
『……違うな』
凌華は背中へ意識を向けた。
『こんな赤壁、俺は知らねえ』
からかう調子は、もうなかった。
凌華は遠くの火を見つめ、それから自分たちの向かう闇へ視線を戻した。
「……私も」
小さく答えた、その直後だった。
曹操軍の後方で、新たな火が上がった。
黄蓋の火船が燃える場所からは、明らかに離れていた。低い岸の向こうに赤い光が滲んだかと思うと、炎が一気に伸び、暗かった空の一角を照らした。
凌華の指が船縁を掴んだ。
あそこは、これから自分たちが向かう場所だった。
陸議が即座に身を起こした。
「進むな。間隔を保て!」
船上に指示が走り、櫂の動きが変わった。後続へも合図が送られ、船団の速度が落ちていく。
呂蒙はすでに笑みを消し、炎の上がった岸を睨んでいた。
「どうした」
「おかしい。我々は、まだ仕掛けていません」
陸議の声は抑えられていたが、それだけに凌華にも緊張が伝わった。
事故なのか、敵が何かを動かしているのか、それとも別の誰かが火を放ったのか。遠くからでは分からない。
分からないまま、その光だけが、自分たちの進むはずだった場所を照らしている。
凌華は喉の奥が乾くのを感じた。
竹簡の言葉が、頭の中で蘇った。
お前の知る勝利が、この戦でも訪れると思うな。
背中で長剣がかすかに震えた。
『凌華、気をつけろ』
凌華は声を返さず、鞘へ手を触れさせた。
孫策の次の言葉は、ほとんど押し殺したような低さだった。
『あそこに、何かいる』
凌華は顔を上げた。
岸辺にはまだ、人影さえ見えない。炎に照らされた煙が風に流され、その向こうを隠していた。
腰から二振りの短剣を抜くと、冷えた柄が掌に収まった。隣では陸議が岸と水面を交互に見ながら、次の指示を出している。呂蒙も武器を手に取り、兵たちへ身を低くするよう告げていた。
凌華は二人の傍で膝を落とし、炎の向こうを見据えた。
前の人生を知る孫策にも、後世の記録を知る自分にも、あの火の意味は分からない。
止めたはずの船を、流れがわずかに押していた。水が船腹を擦る音を聞きながら、凌華は短剣を握り直した。
――第二十二話・了




