第二十一話 知っているはずの赤壁
長江を渡ってくる風には、肌を刺すような冬の冷たさが混じっていた。
凌華は船縁に立ち、風に煽られる黒髪を片手で押さえながら、遥か向こうに広がる曹操軍の船団を見つめていた。
霞の向こうまで続く水面には、数えることさえ諦めてしまうほどの軍船が黒々と並んでいる。その一角では、先ほど偵察から報告があった通り、兵たちが船と船との間を行き来しながら、何隻もの軍船を繋ぐ作業を進めていた。
遠く離れたここからでは人の姿など小さな点にしか見えない。それでも、船が一つの巨大な塊へと姿を変えていく様子だけは、はっきりと分かった。
凌華は冷たい風を吸い込みながら、ほとんど独り言のように呟いた。
「……これが、赤壁なんだ」
現代にいた頃、何度この名前を目にしただろう。
大学の講義でも聞いたし、卒業論文のために何冊もの資料を読んだ。三国志特別資料展へ足を運んだのも、遠い過去に生きた人々について、少しでも多く知りたいと思ったからだった。
曹操の大軍が南下し、孫氏と劉備の陣営が長江で迎え撃つ。そして周瑜らの火計によって曹操軍が大きな損害を受け、天下の行方を左右する転機となった戦い――。
現代にいた頃なら、それだけの文章で説明することができた。
けれど今、凌華の目の前に広がっている赤壁は、資料の中に並んでいた文字とはまるで違う。
向こうに見える一隻一隻の船には、人が乗っている。
武器を握っている兵だけではないだろう。船を操る者もいれば、食事や水を運ぶ者もいる。昨日の戦で傷を負いながら、それでも命令に従って船へ戻った者だっているかもしれない。
あまりにも遠く、顔までは見えない。
けれど凌華はもう知ってしまった。
後世には「曹操軍」と一括りにされる大軍の中にも、一人一人違う人間がいて、それぞれに名前があり、故郷があり、帰りを待つ誰かがいるのだということを。
そのことを知ってしまった今では、「赤壁ではこちらが勝つ」と知っているだけで安心することなどできなかった。
「……全然、安心できない」
背中に固定した長剣から、聞き慣れた男の声が返ってきた。
『当たり前だろ。お前が知ってんのは、後の世に残った話だ。今ここで何が起きるかまで知ってるわけじゃねえ』
「分かってるよ」
『だったら、そんな顔すんな』
「どんな顔?」
『今にも腹壊しそうな顔』
あまりにも雰囲気を無視した言葉に、凌華は眉を寄せた。
「……最低」
『ほら、元気出ただろ』
「出てない」
そう言い返したものの、さっきまで強張っていた口元がほんの少しだけ緩んでいることに、凌華自身も気づいていた。
いつもと変わらないやり取りだった。
けれど、今はこの声を以前とまったく同じように聞くことができない。
凌華は肩越しに背中の長剣へ視線を向けると、無意識に鞘へ指先を触れさせた。
この男は知っていた。
凌華が以前にもこの時代へ来ていたことを。その時もこの長剣と共に生きていたことを、ずっと黙っていた。
そして何より――以前の凌華が死ぬところまで知っている。
『最後までな』
先ほど聞いたその一言を思い出しただけで、胸の奥に冷たいものが広がった。
『……何だよ』
長剣から訝しむような声が聞こえ、凌華は触れていた指を僅かに動かした。
「別に」
『言いてえことあんなら言え』
「……いっぱいあるよ」
聞きたいことなら、いくらでもあった。
以前の自分は、どこで暮らしていたのか。何をして、誰と出会い、どんな毎日を送っていたのか。
どうして自分にはその記憶が一つもないのか。
曹操が持っていた姿絵は、いつ描かれたものなのか。
そして、以前の自分は――どうやって死んだのか。
そこまで考えたところで、凌華の指先から力が抜けた。
まだ聞けない。
曹操の使者が持ってきた姿絵の中にいた、自分より少し年上に見える女。自分と同じ顔を持ち、同じ長剣を携えていた彼女が確かに自分であり、すでにこの世にはいないのだと知ったばかりだった。
死に方まで知ってしまったら、今度こそ自分が何を感じるのか分からない。
それでも、一つだけ。
どうしても確かめておきたいことがあった。
「……ねえ」
『何だ』
「一個だけ、聞いていい?」
『さっきから聞いてんだろ』
「そういうことじゃなくて」
いつものように返してくる声を聞きながら、凌華は船縁へ置いた自分の手へ視線を落とした。
「前の私って……」
言葉にした途端、不思議な感覚に襲われる。
前の自分。
記憶の中には存在しないのに、確かにこの時代を生きていたもう一人の自分。
凌華は冷たい風をゆっくり吸い込み、迷った末に尋ねた。
「……幸せだった?」
長剣から返事はなかった。
凌華は振り返らず、長江を見つめたまま待った。風が頬を撫で、黒髪を後ろへ流していく。
「最後がどうだったのかは、まだ怖くて聞けない。でも……ここに来て、ちゃんと生きてたんでしょ?」
しばらくして、孫策が低く答えた。
『……ああ』
「だったら、その間は……ちゃんと笑えてた?」
また沈黙が落ちた。
先ほどより長く感じられるその時間に、凌華の胸へじわじわと不安が広がっていく。
「……そんなに考えないと答えられない?」
『違えよ』
「じゃあ何?」
少しの間を置いて返ってきた声は、いつもの乱暴な調子よりもずっと穏やかだった。
『幸せだったよ。よく笑ってた』
凌華は僅かに目を見開いた。
たったそれだけの言葉だったのに、胸の奥に張りついていた冷たいものが、ゆっくりとほどけていく。
「……そっか」
思っていた以上に、その答えが嬉しかった。
以前の自分が死んだという事実は変わらない。
けれど、その人生のすべてが死へ向かうだけの時間だったわけではなかった。
笑った日があり、楽しかった時間があり、後から振り返った誰かが「幸せだった」と言ってくれる人生を、以前の自分は確かに生きていたのだ。
「……よかった。それだけでも聞けて、ほんとによかった」
凌華は安堵したように息を吐いた。
「私、死んだって聞いてから、そのことしか考えられなくなってたから」
少しだけ心に余裕が戻ると、今度は別のことが気になった。
凌華はしばらく迷った末、遠くの水面を眺めながら尋ねる。
「……大切な人もいた?」
今度は、明らかに沈黙が長かった。
その分かりやすい反応に、凌華は思わず振り返りそうになる。
「……いたんだ」
『何でそうなる』
「その間で分かるよ。誰?」
『言わねえ』
「何で?」
『まだ言わねえ』
「じゃあ、いたこと自体は否定しないんだ」
孫策が答えなくなったことで、凌華は小さく笑った。
「やっぱり、いたんじゃん」
『……うるせえな』
ようやくいつもの調子が戻ってきたことがおかしくて、凌華の表情も少し柔らかくなった。
誰なのかは分からない。
どんな人で、どんな関係だったのかも知らない。
それでも以前の自分には、心から大切だと思える誰かがいたらしい。
「……その人も、私のこと大切にしてくれてた?」
今度の問いに、孫策はしばらく答えなかった。
けれど、やがて返ってきた声には迷いがなかった。
『……ああ。大事にしてたよ』
「そっか……」
胸の奥に、小さな温かさが広がった。
その時だった。
「凌華」
背後から聞き慣れた声が届き、凌華は反射的に振り返った。
少し離れた場所から、陸議がこちらへ歩いてきている。
「陸議さん」
冷たい風の中を、いつもの落ち着いた足取りで近づいてくる姿を見た瞬間、なぜか先ほど聞いた孫策の言葉が頭の中をよぎった。
――大事にしてたよ。
もちろん、以前の自分が大切にしていた相手が誰なのか、凌華には分からない。
今こちらへ歩いてくる陸議とは、何の関係もないかもしれない。
だから凌華も、それ以上深く考えることはなかった。
ただ、背中の長剣から何の声も聞こえてこなくなったことだけが、少し不思議だった。
◇
「また、その剣と話していましたね」
傍まで来た陸議が、凌華の背中にある長剣へ一度だけ視線を向けた。
「……分かった?」
「今はもう、独り言だとは思っていませんから」
「あ、そっか」
凌華は思わず笑った。
以前なら、誰かに声を聞かれるたびに独り言だと言って誤魔化していた。それをしなくてもいいと思うだけで、妙に気が楽になる。
「少しは落ち着きましたか?」
陸議に尋ねられ、凌華はすぐには答えず、もう一度長江へ視線を戻した。
「さっきよりは、だいぶ」
「そうですか」
「前の私、幸せだったって」
その言葉に、陸議が凌華を見る。
「剣の声が、そう言ったのですか?」
「うん。よく笑ってたって。大切な人もいたみたいで、その人からもちゃんと大事にされてたって」
口にしながら、凌華は先ほどより自然に笑うことができた。
「何かね。死んだって聞いた時は、そこしか考えられなくなってたの。でも、その前にちゃんと人生があったんだって思ったら……少しだけ怖くなくなった」
陸議は凌華の言葉を急かすことなく聞き終えると、穏やかに頷いた。
「それならば、今はそれで十分でしょう。知ることが怖いのなら、すべてを一度に聞く必要もないと思います」
「自分のことなのに?」
「自分のことだからこそ、ではありませんか」
その返事がいかにも陸議らしくて、凌華は小さく笑った。
この人は、根拠もなく「大丈夫だ」と言ったりはしない。
無理に元気づけようともしない。
それなのに、不思議と傍にいるだけで気持ちが落ち着いていく。
最初に出会った頃、陸議はもっと遠い人だった。
賊に襲われた村で、血のついた長剣を握ったまま立ち尽くしていた凌華を見つけ、何が起きたのかも、自分がどこから来たのかも説明できない彼女を放っておかなかった。
人を斬った感触が手から消えず、剣を握ることさえ怖くなっていた凌華に、今度は自分の意思で扱えるようにと二振りの短剣を渡してくれたのも陸議だった。
知らない時代に突然放り出され、帰る場所さえ分からなかった凌華にとって、彼はこの世界で最初に自分の居場所を作ってくれた人でもある。
だからなのだろうか。
戦場へ出れば、気づけば陸議の姿を探している。
すぐ近くから声が聞こえれば安心するし、戦いの最中に姿が見えなくなれば、無事なのかと気になってしまう。
今だって、自分がこの時代ですでに一度死んでいたという、あまりにも現実味のない事実を突きつけられたあとで、いつもと変わらない陸議の顔を見ただけで、張り詰めていた身体から少し力が抜けていた。
そんなことを考えているうちに、凌華はいつの間にか陸議の横顔をじっと見つめていた。
「……どうしました?」
突然こちらを向かれ、凌華の肩が小さく跳ねる。
「何でもない!」
思っていた以上に大きな声が出てしまい、今度は陸議が僅かに目を瞬かせた。
「そうですか」
「うん。何でもない」
凌華は慌てて長江へ顔を戻した。
どうして慌てたのか、自分でもよく分からない。ただ、じっと見ていたことに気づかれたのが妙に恥ずかしかった。
すると、それまで黙っていた孫策が、背中から何の前触れもなく言った。
『お前、惚れてんじゃねえの?』
「はあ!?」
凌華は思わず大きな声を上げた。
あまりにも唐突だったせいで、一瞬何を言われたのか理解できず、意味が頭に入った途端、勢いよく首を横へ振る。
「そんなわけないでしょ!」
「……何がです?」
当然、孫策の声が聞こえていない陸議には、凌華が突然何かを全力で否定し始めたようにしか見えない。
「あ……違う! 剣の人が変なこと言ったの!」
「変なこと?」
「うん。ものすごく変なこと!」
『何が変なんだよ。さっきからあいつの顔ばっか見てんじゃねえか』
「見てないって!」
『見てただろ』
「ちょっと考え事してただけ!」
『戦の時だって陸議さん、陸議さんって気にしてんじゃねえか』
「それは心配だからでしょ!」
凌華は当然のことを説明するように言い返した。
「陸議さんは、この時代に来て最初に助けてくれた人なの。ずっと一緒にいるし、剣も教えてくれたし、危ないところだって何回も助けてもらってるんだから、心配するのは普通でしょ?」
『……まあ、お前がそう思うんならいいけどよ』
「何、その言い方」
『別に』
「絶対納得してないじゃん」
孫策は答えず、代わりに小さく笑った。
凌華には、その笑いの意味がまったく分からなかった。
確かに陸議は大切な人だ。
戦場では無事でいてほしいし、危険な目に遭えば心配する。近くにいると安心するのも事実だった。
けれど凌華の中では、それと恋愛感情はまったく結びついていない。
この時代に来たばかりの自分を助けてくれた人だから。
ずっと傍にいてくれた人だから。
信頼しているから。
それだけのことだと、本気で思っている。
ふと横を見ると、陸議が何とも言えない表情で凌華を見ていた。
「……何?」
「いえ。私には凌華の声しか聞こえていませんので、何の話なのかと思っただけです」
凌華は口を閉じた。
孫策への反論に気を取られ、陸議本人の前で、どれほど彼を気にかけているかを一方的に並べ立ててしまった。遅れてそのことに気づくと、冷たい風の中にいるのに頬が熱くなった。
「……何て言われたかは聞かないで」
「言いたくないのであれば、聞きません」
「うん。絶対言わない」
「分かりました」
陸議は本当にそれ以上聞こうとしなかった。
凌華もそれ以上説明すれば余計なことまで言いそうで、船縁へ視線を落とした。落ち着こうと息を吐いたところへ、孫策の声が滑り込んでくる。
『鈍いなぁ、お前』
「何が?」
『何でもねえよ』
「今日それ多くない?」
凌華が不満そうに長剣へ手を伸ばすと、孫策はそれ以上何も言わなかった。
◇
二人でしばらく長江を眺めていると、対岸から細い煙が立ち上るのが見えた。炊事の煙なのか、それとも作業に使う火なのか、ここからでは分からない。
凌華はそれを目で追いながら、船縁に置いた手を握り直した。
笑っている間は遠ざかっていたものが、静かになるとまた胸の内へ戻ってくる。
「……でも、やっぱり怖い」
陸議が静かに凌華を見る。
「以前のあなたのことですか?」
「うん。幸せだったって聞けたのは嬉しかった。でも……最後は死んだんだよね」
現代でも一度死んだ。
資料展で爆発に巻き込まれた時のことは、思い出そうとしても途中で途切れてしまう。何が起きたのか理解するより先にすべてが失われ、次に目を開けた時には、もう知らない場所にいた。
それだけでも十分に受け止めきれないのに、自分には記憶のない人生まであり、そこでも最期を迎えているのだという。
どの出来事がどう繋がっているのかさえ、まだ分からなかった。
「前の私が死んだなら、今回も同じように死ぬのかなって思う」
陸議は凌華を安心させるためだけの言葉を選ぶことなく、少し考えてから答えた。
「分かりません」
「そこも否定してくれないんだ」
「分からないことを、分かるとは言えませんから」
陸議は長江の向こうへ視線を移した。
「ですが、以前と今が同じではないことなら、すでに分かっています」
凌華も彼の視線を追いながら、その言葉の意味を考えた。
そしてすぐ、一人の男の顔が浮かぶ。
「……孫策が生きてる」
「はい。本来なら、この戦を見ることすらなかったのでしょう?」
「うん」
「以前のあなたが、どのような赤壁を見たのかは、まだ分かりません。ですが、書物に残った結末が必ず訪れるわけではないことは、今ここにいる孫策様が示しています。凌華自身も、以前とまったく同じ選択をするとは限らないでしょう」
凌華は黙って水面を見つめた。
知っているはずの未来から離れていくことを、ずっと怖いと思っていた。何が起こるか分からなくなれば、助けられるはずの人まで助けられなくなる気がしたからだ。
けれど、同じ結末へ辿り着くと決まっていないのなら、自分が恐れていることも、まだ変わる余地があるのかもしれない。
「私ね、孫策を助けたかった」
「はい」
「だから助けた。それは今も後悔してない」
今も孫策は、孫権と言葉を交わし、周瑜と言い合い、呂蒙と笑っている。凌華を見つけると遠慮なく呼びつけ、時には面倒くさいほど父親の顔をする。
あの人がここにいることを、間違いだったとは思えなかった。
「でも、孫策が生きてることで、みんなの人生が変わるんだよね。孫権様が本来歩くはずだった道も変わるし、周瑜さんや呂蒙さんだってそう。たぶん……陸議さんも」
凌華は隣にいる陸議へ一度だけ視線を向けた。
「私が一人助けたことで、別の誰かが本来とは違う人生になって、それが悪い方に行ったらどうしようって……最近、ずっと考える」
言葉にしてしまうと、恐れていたものの輪郭がはっきりした。
誰かを助けられた喜びのすぐ後ろに、別の誰かを不幸にしたかもしれないという不安がついてくる。まだ何も起きていないのに、先の見えない道へ皆を押し出してしまったような気がしていた。
「未来を変えた責任を、すべて凌華一人が負う必要はありません」
「でも……」
「孫策様を救ったのは凌華です。ですが、その後をどう生きるかまで凌華が決めたわけではないでしょう」
凌華は黙って彼を見る。
「孫権様も、周瑜殿も、呂蒙殿も、自分で考え、自分で選びます。そして、それは私も同じです」
陸議はそこまで言うと、真っ直ぐに凌華を見た。
「あなたが未来を変えたからといって、私たちの人生まであなたの責任になるわけではありません」
陸議の声は穏やかだったが、最後の言葉にははっきりとした意志があった。
凌華はすぐには返事ができなかった。
救ったのだから、その後も守らなければならない。未来を知っているのだから、間違えてはいけない。誰に言われたわけでもないのに、いつの間にかそう考えていた。
けれど、目の前にいる陸議は、自分が進む道を自分で選ぶと言っている。
凌華がすべてを見通していなくても、この人たちは立ち止まらないのだ。
この人は時々、自分が一番欲しかった言葉を、特別なことでもないように口にする。
胸に詰まっていた息を、少しずつ吐いた。何か答えようとしたのに、出てきたのは別の言葉だった。
「……ずるい」
「何がです?」
「何でもない」
凌華は少しだけ笑った。
「ありがとう」
陸議は少し不思議そうにしたあと、静かに頷いた。
その顔を見ているうちに、凌華もようやく、小さく笑うことができた。
◇
軍議へ戻る頃には、曹操軍の船を繋ぐ作業について、さらに詳しい報告が届いていた。
中央に広げられた長江周辺の地図には、敵船の位置を示す駒が並び、偵察で確認された配置が書き加えられている。周瑜を中心に孫策、孫権、呂蒙が集まり、劉備側から加わっている諸葛亮も地図を覗き込んでいた。
陸議に続いて輪の中へ入った凌華は、見慣れてきたはずの顔ぶれを前に、思わず背筋を伸ばした。
少し前まで、彼らの名は資料の中にあった。それが今は同じ地図を囲み、自分の言葉を聞こうとしている。
慣れたと思う頃に、その事実へ気づき直してしまう。
「凌華」
突然周瑜に呼ばれ、凌華は反射的に背筋を伸ばした。
「はい!」
あまりにも勢いよく返事をしたせいか、周瑜が僅かに眉を上げる。
「そこまで緊張しなくてもよいでしょう」
「いや……無理です」
すると横にいた孫策が呆れたように笑った。
「お前、もう何回軍議に出てんだよ。いい加減慣れろ」
「回数の問題じゃないの!」
呂蒙が声を上げて笑い、孫権は地図から目を離して小さく息を吐いた。隣の陸議まで口元を緩めているのが見え、凌華は少しだけ眉を寄せた。
この顔ぶれを現代の自分が見たら、卒業論文どころではなくなる。
そんなことを説明しても、きっと伝わらないだろう。
周瑜は地図の上へ指を置き、場の空気を戻した。
「では、改めて確認しましょう。凌華が知る赤壁では、水上戦に不慣れな北方の兵を安定させるため、曹操軍は軍船を繋いだと伝わっているのですね」
「はい。少なくとも、私が知ってる話ではそうです」
「そして、その繋がれた船団へ火を放つ」
「……はい」
凌華は盤面に並べられた船の駒へ視線を落とした。
黄蓋の偽降伏も、火を積んだ船も、風を受けて炎が広がる光景も、知識としては頭にある。けれど、ここに置かれた駒を動かすように、現実の船が思いどおりに進むわけではない。
「ただ、今回も同じになるとは思わない方がいいです」
周瑜が凌華を見る。
「理由は?」
「孫策が生きてるから」
すぐ横から「俺かよ」と声が上がったが、凌華は当然のように頷いた。
「だって一番大きいもん。本来の赤壁では、もう孫策はいなかった。でも今はいる。だったら曹操から見えてる江東そのものが、私の知ってる歴史とは違うはずです」
凌華は盤面の船を指先で示した。
「曹操が同じ判断をするとは限らないし、船を繋いだ理由だって、私が知ってるものと全部同じなのかは分からない」
それまで黙って聞いていた諸葛亮が、静かに頷いた。
「これまでの戦を見る限り、曹操軍に水上戦へ不慣れな兵が多いことは確かでしょう。船を繋ぐことで揺れを抑え、兵を動きやすくする利点も考えられます」
諸葛亮は盤面へ視線を落としたまま続ける。
「ですが、曹操ほどの人物が、船を繋ぐことで生じる危険をまったく考えないとも思えません」
凌華はすぐに意味を理解した。
「……火への備えをしてるかもしれない?」
「その可能性は考えるべきでしょう」
呂蒙が腕を組みながら、低く唸った。
「だったら、火船を突っ込ませりゃ終わりってほど簡単じゃねえな」
「ええ。敵が愚かであることを前提に策を立てるべきではありません」
周瑜の指が、敵船の配置から水路へと移った。
凌華はその動きを見つめながら、船縁で眺めた光景を思い出していた。あの船の上でも、今こうしている自分たちと同じように、考え、備え、相手の出方を読もうとしている者がいる。
知っている結末だけを見ていたら、目の前で変わっていくものを見落としてしまう。
そもそも凌華は、自分が以前にもこの時代を生きていたことさえ、つい先ほどまで知らなかったのだ。
「凌華」
周瑜に呼ばれ、顔を上げた。
「知識は、今の戦況を考えるうえで重要です。知っていることはすべて話してください。ただし、それをそのまま再現する必要はありません。その情報をどう使うかは、今ここにいる我々が考えます」
凌華は地図を囲む人々を見回した。
自分に求められているのは、一人で赤壁を勝利へ導くことではない。知っていることを伝え、この人たちと共に考えることなのだ。
「……はい」
頷くと、孫策が横から身を乗り出した。
「だから、お前は知ってること全部吐け。使えるかどうかは俺らで決める。全部一人で背負おうとすんな」
凌華は孫策を見上げた。先ほど陸議から聞いた言葉と重なったせいか、すぐに返事をすると声がおかしくなりそうだった。
代わりに、少しだけ口元を緩めた。
「……父親らしいこと言った」
「俺は父親だ!」
あまりに即座に返ってきたので、凌華はこらえきれずに笑った。呂蒙の豪快な笑い声も重なり、地図の上に張り詰めていた空気がわずかに緩む。
その輪の中に立ちながら、凌華は一人一人の顔を見た。
この人たちと、生きて帰りたい。
歴史に名前が残っているからではない。
今ここで同じ地図を囲み、同じ戦いについて考え、こんな状況でも一緒に笑っている人たちだから。
その気持ちだけは、もう迷う必要がなかった。
その願いを言葉にする代わりに、凌華は地図へ向き直った。覚えていることと、曖昧なことを取り違えないように、一つずつ確かめながら話し始めた。
◇
夜になっても、凌華はなかなか眠れなかった。
目を閉じると、曹操の使者が持ってきた姿絵が浮かんでくる。自分より少し年上に見えた女の顔と、携えていた長剣。そして、今とは違う鞘の形が、暗がりの中で妙にはっきりと思い出された。
けれど昼間とは違い、その姿の先に死だけがあるわけではなかった。
よく笑っていたのだと、孫策は言った。
誰かを大切にし、その相手からも大切にされていたという。
どんな顔で笑っていたのだろうと考えてみても、思い浮かぶのは姿絵の表情ばかりだった。それがもどかしくて何度も寝返りを打った末、凌華は眠ることを諦めて身体を起こした。
外へ出ると、冷たい夜風が火照った頬を撫でた。
長江の向こうには曹操軍の灯りが無数に浮かび、水面の揺れに合わせて小さく瞬いている。
昼間には巨大な船団としてしか見えなかった場所で、今も大勢の人間が夜を過ごしている。
明日なのか、数日後なのかは分からない。
それでも、いずれ自分たちはあそこにいる人々と…。
現代の資料なら、その結果は数行で終わる。
けれど、その数行の中で死ぬ一人一人にも名前があり、家族がいて、帰りたい場所があるのだと、今の凌華は知っていた。
「……戦争って、嫌だな」
『今さらだな』
「今だから思うの」
しばらく間があったあと、孫策が珍しく茶化さずに答えた。
『……そうだな』
凌華は遠くに浮かぶ灯りを眺めながら、昼間から胸の中に残っていた問いを口にした。
「ねえ。前の私も……赤壁にいた?」
長剣からすぐには答えが返ってこなかった。
その沈黙だけで、凌華には何となく分かってしまった。
「……いたんだ」
『ああ』
凌華は背中の鞘へ、そっと指を触れさせた。
「孫策は、その時の私も知ってるんだね」
『……ああ。知ってる』
「前の赤壁は、私が知ってる歴史と同じだった?」
風が上衣の裾を揺らした。孫策の答えは、少し遅れて届いた。
『同じだったところもある。違ったところもある』
凌華は唇を結んだ。
詳しく聞けば、何か役に立つことが分かるかもしれない。そう思う一方で、今ここで以前の自分が辿った道を聞き始めたら、まだ知る覚悟のないところまで触れてしまいそうだった。
「……戦のことで、今のみんなに伝えた方がいいことがあったら、教えてね。私のことは、まだ少しずつにしたい」
孫策は短く応じた。
『分かった』
それ以上急かされなかったことに安堵して、凌華は鞘から手を離した。
沈黙の中で思い出したのは、昼間、隣に立っていた陸議の顔だった。
「……陸議さんもね」
『何だよ』
「私が知ってる未来だと、この先……すごく辛いことがある」
孫策が黙る。
凌華は長江を見つめたまま続けた。
「陸議さんの最期も、私は知ってる」
口にすると、急にその未来が近づいてくる気がした。
現代で書物を読んでいた頃にも、嫌な結末だと思った。けれど、その時に感じた悲しさと、今胸を締めつけるものは違っていた。
凌華が思い浮かべているのは、歴史の中の名前ではない。
言葉に詰まる自分を待ち、分からないことは分からないと答え、それでも一人で責任を負う必要はないと伝えてくれた人だった。困らせるつもりはなかったのに大声を出してしまい、不思議そうな顔をさせた、その日のやり取りまで鮮明に思い出せる。
あの人が、いつか自分の知っている結末へ向かう。
そう考えると、寒さとは違うものが背筋を通った。
「それも……変えていいのかな」
孫策は少しも迷わなかった。
『変えたきゃ変えりゃいいだろ』
あまりにも簡単に返され、凌華は思わず瞬きをする。
「そんな簡単に言う?」
『じゃあ何て言ってほしいんだよ。お前、俺ん時だって同じだっただろ』
言われてみれば、その通りだった。
許貢のことを思い出した時、自分が何をしたのか、凌華は覚えている。
考えがまとまるのを待つこともできず、孫策を止めようとした。歴史が変わったらどうなるかより、そのまま行かせてはいけないという思いの方が先にあった。
『歴史がどうとか未来がどうとか、お前は考えすぎなんだよ。陸議に死んでほしくねえんだろ?』
凌華はその問いに迷うことなく頷いた。
「うん。死んでほしくない」
『じゃあ、それでいいだろ』
「……それだけ?」
『それだけだ』
凌華は対岸へ目を戻した。
先のことを考えなくてよくなったわけではない。一人を助けたことで何が変わるのか、分からない怖さも消えていなかった。
それでも、誰かに生きていてほしいと願うたびに、自分にはその資格があるのかと立ち止まらなくてもよいのかもしれない。
その後をどう生きるかは、私たちが選ぶ。
昼間の陸議の声が、思い出の中で静かに続いた。
「……そっか」
肩から力が抜けたところで、孫策がわざとらしく息を漏らした。
『ま、陸議のこととなると必死だな』
凌華は目を細めた。
「……また昼間の話に持っていこうとしてる?」
『まだ何も言ってねえだろ』
「言い方で分かるの。大切なのは本当だけど、恋愛とかじゃないから」
『はいはい』
「その言い方やめて!」
文句を言っても、孫策は笑うばかりだった。
「最初に助けてくれた人で、ずっとお世話になってて、剣も教えてくれて、一緒にいることが多くて……だから大切なのは当たり前じゃん!」
孫策は凌華の必死な説明を黙って聞いたあと、妙に気の抜けた声を返した。
『ふーん』
「何、その反応」
『別に』
「絶対納得してないでしょ!」
『俺は何も言ってねえよ』
「言い方がそうなの!」
孫策が楽しそうに笑っているのが分かり、凌華は不満そうに頬を膨らませた。
確かに陸議には死んでほしくない。
戦場にいれば無事なのか気になるし、近くにいると安心する。今日だって、姿を見ただけで少し気持ちが落ち着いた。
けれど、それはこの時代へ来たばかりの自分を最初に助けてくれた人だからだ。
何も分からなかった自分を守り、居場所を作ってくれて、ここまでずっと傍にいてくれた。
信頼している。
大切な人だとも思う。
けれど、それが恋愛だと言われても、凌華にはまったく実感がなかった。
「……恋愛とかじゃないし」
自分で確かめるように呟くと、孫策から『はいはい』と、明らかに信じていない返事が返ってくる。
「その言い方やめて!」
『分かった分かった』
「絶対分かってない!」
凌華はしばらく長剣へ文句を言っていたが、やがて諦めたように息を吐いた。
昼間と同じ説明をもう一度するつもりはない。何より、陸議を大切に思っていることまで否定したいわけではなかった。
陣へ戻ろうと向きを変えたところで、ふと足が止まった。
「……前の私の大切な人って、どんな人だったの?」
何となく尋ねてみたが、孫策はまた黙り込んだ。
「何でそれも言わないの?」
『まだいい』
「そればっかり」
『そのうち分かる』
「自分のことなのに?」
『だからだよ』
相変わらず意味は分からなかったが、今は何を聞いても答えるつもりがないのだろう。
無理に聞き出したところで、孫策が話してくれるとも思えなかった。
もう一度、長江の向こうを見る。
灯りの一つが、人影に遮られたのか、ふっと見えなくなった。少ししてまた現れ、水面に細い光を落とした。
以前の自分が何を選び、誰と生きたのかは、まだ知らない。
けれど今の自分には、帰れば顔を合わせられる人たちがいる。孫策も、周瑜も、呂蒙も、孫権もいる。陸議も、明日になればきっと、いつもの声で自分を呼ぶだろう。
その明日が続いてほしかった。
凌華は腰の二振りの短剣へ手を添えた。触れ慣れた柄の形を確かめると、遠くの船団へ向けていた視線を、ゆっくりと陣へ戻した。
知っている赤壁では、やがてあの水面を炎が照らす。
けれど、これから目にする光景が記憶の中の知識と同じになるかは分からない。その先で誰が帰り、どんな声で互いを呼ぶのかも、書物の結末だけでは決められなかった。
凌華が一歩踏み出すと、夜風が背中を押すように吹いた。
陣の灯りの近くでは、見張りの兵が槍を持ち直していた。軽く会釈を返しながらその傍を通り、凌華は仲間たちのいる方へ歩いていった。
――第二十一話・了




