第009話 迫る黒い手
刈り跡の残る畑に、その朝は薄く霜が降りていた。
神殿の一行が坂を下って、三日。白い僧衣も、掲げられていた旗も、坂の上にはもう影ひとつ残っていない。村は、いつもの静けさを取り戻しつつあった。
取り戻せずにいるのは、クラウス様だけだった。
鎧こそ脱いでいるが、剣だけは朝から腰にある。畑へ向かう村人たちに短く声をかけながら、その視線だけが、幾度となく坂の下へ滑っていく。
朝の見回りから戻ったヨナス様が、険しい顔で報告に来る。
「閣下。あの黒外套の男、ここいらの猟師が見覚えがあると申しております。ひと月ほど前にも、村の外れをうろついていたと」
「ひと月前、だと」
クラウス様の眉が寄る。
「使者が来るより、ずっと前からか」
「猟師の見立てでは、腰に提げていたのが黒い羽根を模した徽章だったと。神殿の紋とは違う、見慣れぬ意匠だったそうです」
その徽章に心当たりはあるかと問われて、ヨナス様は首を振った。それでも、正体の輪郭が少しずつ像を結び始めているのを、わたしは感じていた。
十五年、王都の結界に仕えてきた鼻が、あの残り香を忘れるはずがない。あの男は、坂の下をたまたま通りかかった旅の者などではない。
その夜は、月のない闇だった。
寝所の窓辺に立っていたわたしは、ふと肌が粟立つのを感じた。祈りを注ぐたびに覚えてきた、あの瘴気の気配――だが、いつもとは何かが違う。
濃い。まるで、ひとところに押し固められたかのような、禍々しい密度だった。
「――来る」
思わず声に出したとき、外で犬が激しく吠え始めた。続けて、見張りの兵の叫び声が響く。
「敵襲! 村の裏手に、瘴気の獣が――!」
村の裏手といえば、ミアの一家が暮らす小屋のすぐ近くだった。血の気が引く。
わたしは寝間着の上から外套を引っかけ、部屋を飛び出した。
廊下でクラウス様と鉢合わせた。既に鎧を纏い、剣を提げている。
「部屋にいろ」
「嫌です」
即座に返すと、クラウス様は一瞬だけ怯んだような顔をした。それから、短く息を吐く。
「……なら、俺の後ろを離れるな」
反論を諦めたその声に、わずかな信頼の色を聞き取った気がした。
村の裏手、井戸端の広場に、黒い塊がわだかまっていた。獣の形を象ってはいるが、輪郭が絶えず溶けて崩れ、まるで瘴気そのものが無理やり型に押し込められているようだった。
その傍らに、外套を纏った人影が立っている。頭巾の下から覗く目が、闇の中でもわかるほど昏く据わっていた。
「――お前は」
クラウス様の声に、殺気が滲んだ。
黒外套の男は答えず、ただ片手を掲げた。それを合図に、瘴気の獣が咆哮し、こちらへ躍りかかってくる。
崩れかけた柵の向こう、ミアの母親の悲鳴が上がった。腕に抱えたミアが、逃げ遅れて泣きじゃくっている。獣の進む先に、ちょうど二人がいた。
クラウス様が前へ躍り出て、剣を一閃させた。刃が獣の脇腹を裂くが、傷口からどろりと滲み出た瘴気が、すぐに傷を塞いでいく。
「――斬るだけでは、足りません!」
わたしは叫びながら前へ出た。
「あれは、天然のものではありません。誰かが、無理に凝らせて作った塊です!」
自然に湧いた瘴気なら、もっと淡く、輪郭も緩い。これは違う。まるで、無理やり押し固めた泥の塊のようだった。
「ミアたちの方には、行かせません」
母子を庇うように回り込みながら、獣とクラウス様の間へ身を割り込ませる。
「なら、どうする」
「わたしが緩めます。その隙に――」
言い終わる前に、クラウス様は頷いていた。多くを語らずとも、通じるものがあった。
わたしは両手を掲げ、獣の中心へ光を送り込んだ。凝り固まった瘴気が、内側からじわりとほどけていく。その形が揺らぎ、獣の動きが一瞬、鈍った。
「今だ」
クラウス様の剣が、その隙を逃さず獣の核へ突き込まれる。断末魔のような唸り声とともに、黒い塊は霧のように掻き消えた。残ったのは、焦げたような瘴気の残滓だけだった。
柵の陰で、ミアの母親がへたり込みながらも、娘をきつく抱きしめているのが見えた。ミアの泣き声が、恐怖のものから、安らいだものへと変わっていく。それを横目に、詰めていた息を短く吐いた。
安堵する間もなく、黒外套の男が抜き身の短剣を手に、闇に紛れてわたしへ迫っていた。
「セラフィーナ!」
クラウス様が叫ぶと同時に、男の刃がわたしの喉元へ迫る。
けれど、それより早く、クラウス様の剣の柄がわたしと男の間に割り込んでいた。鈍い音とともに、男の腕が弾かれる。短剣が地に落ちた。
クラウス様はそのまま男の腕を捻り上げ、地面に組み伏せた。
「……ここまで、か」
頭巾がずれ、覗いた顔には、右の眉を斜めに裂く古傷が走っていた。抵抗する気力も失せたのか、男は乾いた笑いを漏らした。
「あの方の望みを、叶えられなんだか」
「あの方、とは」
クラウス様が低く問う。男は答える代わりに、喉の奥で笑い続けた。
「聞くだけ、無駄だ……我らは、名すら持たぬ影よ。名のない者が、名のない主に仕える。それだけのことだ」
それきり、男は口を閉ざした。何をどう問おうと、二度と開かないという顔だった。
ヨナス様が駆けつけ、男の懐を検める。取り出されたのは、黒い羽根を象った小さな徽章だった。裏には、見慣れぬ紋様が刻まれている。
「これは……」
ヨナス様の顔が険しくなった。
「閣下、これは神殿の正式な紋ではございません。……ですが、この裏の紋様のほうには、覚えがございます。神殿の奥には、紋を持たぬ影働きの組が古くからあるとか。誰の下につくかまでは、外の者には知れませぬが」
「証を残さぬはずの影が、なぜ出所の知れる徽章など持ち歩く」
クラウス様の問いに、ヨナス様は徽章を布で包みながら首を振った。
「影同士が互いを見分ける、唯一の証だそうで。任を果たして戻るにも、これが要るとか。死ねば骸から仲間の手で回収される掟が――生け捕りで、狂ったのでしょう」
「……神殿の、奥か」
クラウス様の声が、低く沈んだ。
わたしを罪人と断じ、死地へ追いやったその同じ手が、今度は刃を使って、わたしを消しにきた。
すり替えは、偶然でも、思いつきでもなかった。最初から、わたしを消すことまで、あの人は見据えていたのだ。
証はない。徽章も、あの男の口も、神殿の奥までしか指してはくれない。それでも、その奥に誰が座っているのかを、わたしは十五年、御前で頭を垂れながら見上げてきた。
膝から力が抜けそうになったところを、クラウス様の腕が支えた。
「大丈夫か」
低い声に、頷くことしかできなかった。
「怖い思いを、させた」
「いいえ」
首を振る。
「守っていただきました。それだけで、十分です」
クラウス様の腕に、力がこもった。
「二度と、こんな真似はさせん」
その声には、これまでにない硬い決意が滲んでいた。
連行されていく男は、最後に一度だけ振り返り、笑みとも呼べない笑みを浮かべた。
「一つ、教えてやろう。……次は、もっと確かな手を使う、とな」
その言葉を残して、男は闇の中へ引き立てられていった。
冷たい夜風が、焦げ臭い瘴気の残り香を攫っていく。
ひと月も前から、あの男はこの村を窺っていた。ひと月前――わたしが大聖堂の床に膝をつき、罪を告げられた、まさにその頃だ。
いや、と胸の内で数え直す。
わたしを運んだ護送の馬車は、都からここまで五日かかった。休みなく駆ける早馬でも三日はかかると聞く。ならば、あの男が村の外れに立っていたとき、わたしはまだ都の大聖堂にいたことになる。
裁きが下るより前に、あの男は、もうこの土地で待っていたのだ。
絵図は、抜かりなく描かれていた。祭壇の上であの方が「慈悲」と口にするより先に、この土地には、もう死が用意されていた。
穏やかだったはずの日々の風景までもが、少し違って見えた。
騒ぎを聞きつけた村人たちが、恐る恐る戸口から顔を覗かせ始めていた。ミアが母親の手を離れ、こちらへ駆け寄ってくる。
「聖女さま、お怪我は」
「ええ、大丈夫よ」
わたしを支えていたクラウス様の腕がふっと緩み、代わりにミアの小さな体を抱き留めさせてくれた。震えがまだ収まっていないのがわかり、その頭を、そっと撫でる。
やがて母親に呼ばれ、ミアは何度も振り返りながら駆けていった。
その背を見送ったとたん、張り詰めていた糸が切れたように、足もとがふらついた。
倒れるより先に、腕が回っていた。さっき、闇の中で刃とわたしの間に割り込んだのと、同じ腕だった。
「……掴まっていろ」
「はい」
答えたきり、しばらく動けなかった。動きたくなかった、というほうが正しい。
胸当ての鉄は夜気に冷えきっているのに、外套越しに回されたその腕からだけは、熱が伝わってくる。ゆっくりと、確かに。浅く速いままだった息が、その確かさに引かれるように、少しずつ深くなっていった。
東の空が、うっすらと白み始めていた。焼け残った瘴気の匂いの向こうに、いつもと変わらない朝が、少しずつ滲み出てくる。
井戸の釣瓶が鳴る音がした。誰かが折れた柵を起こしにかかる音も。村が、また動き出していく。
「朝が、来ますね」
「……ああ」
答える声が、すぐ耳の上で低く響いた。
わたしは目を閉じて、その腕の熱を、もう少しだけ借りていた。




