第008話 王都の懇願
森の外れの瘴気獣は、あれきり鳴りを潜めている。刈り入れを終えた畑は静かに眠り、朝夕の風だけが少しずつ冷たさを増していた。
それでもクラウス様は、あの早馬が駆け込んだ夜からずっと、毎朝坂の下へ目をやるようになっていた。何かを待ち構えるような、いつもより硬い横顔だった。
「聖女さま、物見から報せが」
早馬があの報せを届けてから、三日が過ぎた朝のことだった。ヨナス様が、朝餉の席に険しい顔で駆け込んできた。
「白い旗を掲げた一団が、坂を上ってきております。神殿の紋、それにモンフォール家の紋も」
クラウス様の手が、フォークの上でぴたりと止まった。皿の音さえ立てず、しばらく黙り込む。
「来たか」短く呟くと、席を立ち、壁に立てかけていた剣を無言で取った。その所作の速さに、覚悟のようなものを見た気がした。
わたしも椅子を立ち、身なりを整えて館の外へ向かった。廊下を歩くあいだ、使用人たちの緊張した気配が、そこかしこから伝わってくる。
門前に整列した一行を、わたしは館の階から見下ろした。坂の下では、畑仕事の手を止めた村人たちが、遠巻きに様子を窺っている。ミアの姿もあり、心配そうにこちらを見上げていた。
先頭に立つのは、白い僧衣に金の縁取りをした初老の神官だった。従者を三人従え、傲然と胸を張っている。
その後ろ、少し離れた馬上に、見覚えのある顔があった。ドラクロワ子爵だ。以前会ったときよりも、頬がこけ、目の下には濃い隈が浮いている。
「セラフィーナ殿。神官長ゲオルクと申します」
階の下から、よく通る声が張り上げられた。
「大神官猊下の名代として、まかり越しました」
大神官様ご本人は、いらしていないのですね。
胸の内でそう呟くと、笑いたくなるほどの得心があった。危険を悟ってなお、手だけは決して汚さない。
噂どおりの方だ、といまは思う。その用心深さこそが、この人の恐ろしさなのだと。
――もっとも、わたしは、この方の何を知っているわけでもない。十五年、御前で頭を垂れてきただけだ。あの方が本当に追い詰められたところを、わたしは一度も見たことがない。
「用件を伺いましょう」
静かに問うた。声が震えないことに、自分でも驚いていた。かつては顔を伏せることしかできなかったこの人たちの前で、今は真っすぐに立っていられる。その事実だけで、十分な答えのような気がした。
ゲオルクは咳払いを一つ挟み、恭しい手つきで書状を広げた。
「猊下におかれましては、セラフィーナ殿の罪を不問に付し、聖女としての地位への復帰をお認めになるとの由。ただちに王都へお戻りいただきたい」
「不問に付す、とは」
その言葉を、そのまま静かに返した。
「わたしが何をしたというのです。裁かれるべき罪など、初めからありませんでした」
ゲオルクの頬が、わずかに強張った。取り繕う言葉を探すように、視線が一瞬泳ぐ。
「……言葉の綾です。ともかく、王都は今、聖女さまのお力を切実に必要としております」
必要なときだけ、思い出す。十五年、当たり前のように差し出してきたものの重みを、失って初めて知る。
それが、この人たちのやり方だった。腹の底が、静かに冷えていくのを感じた。
「ジゼル様は、いかがです」
ヨナス様が、横から皮肉げに口を挟んだ。
ゲオルクの視線が、今度ははっきりと泳いだ。
「……ご体調が、すぐれぬとのことで。床に伏せっておられます」
あの方が、結界の綻び一つ祓えぬことを、わたしは誰よりもよく知っている。体調など、祓えぬことの言い訳にすぎない。
「では、誰が結界を」とヨナス様が畳みかけると、ゲオルクは言葉に詰まり、聖具の力を総動員してどうにか凌いでいるのだと、歯切れの悪い言い訳を絞り出した。
聖具で凌いでいる、という苦しい言い訳を聞きながら、わたしの胸には、三日前に台帳の頁で見た、あの名前が浮かんでいた。
名を、こちらから口にするつもりはなかった。ただ、この神殿の人が何を知っているのかだけ、確かめておきたかった。
「ひとつ、お尋ねします」
わたしは、一歩だけ前へ出た。
「先代の聖女様は、いかがなさったのです」
ゲオルクの顔から、すっと血の気が引いた。それまでの言い逃れの気まずさとは、あきらかに質の違う沈黙だった。
「……その御名は、猊下の御前では、誰も口にいたしませぬ」
絞り出すような、低い声だった。従者たちまでもが、申し合わせたように目を伏せている。それきり、ゲオルクは固く口をつぐんだ。
重ねて問うても、無駄だと悟った。けれど、その怯えようだけで、答えの代わりには十分だった。名を口にすることさえ憚られる何かが、あの神殿の奥には埋まっている。……そういえば、と、ふと思い当たった。
猊下があの座に就かれたのは、先代の聖女様が身罷られたと聞かされている、その同じ年だ。堂の古い者たちがそう話していたのを、幼い頃に耳にした覚えがある。
誰も名を口にしない先代の聖女様と、あの方の位とが、同じ年に生まれている。
そこに繋がりがあるのかどうかは、わからない。ただの巡り合わせかもしれない。それでも、その二つが同じ年に並んでいるという、それだけのことを、わたしは胸の奥へ、静かに刻みつけた。
「では、王城はどうなのです」
ヨナス様が、さらに一歩詰め寄った。逃げ場をふさぐような、静かな追及だった。ゲオルクの喉が、大きく上下した。しばらく言い淀んだのち、その声は、観念したように絞り出された。
「……霧は既に、王城の庭先にまで」
言ってしまってから、ゲオルクはしまったという顔をした。もう、取り繕う言葉は出てこない。従者たちの間にも、隠しきれない動揺が、さざ波のように広がっていく。
坂の下で見守っていた村人たちの間からも、押し殺したようなどよめきが小さく起こった。王都が沈みかけているという事実の重さが、その場に静かにのしかかっていく。
沈黙を破ったのは、馬から転がるように降りたドラクロワ子爵だった。泥のついた裾も構わず、階の下まで駆け寄ってくる。
「せ、聖女さま……いえ、セラフィーナ殿。どうか、お聞き入れください」
震える声で、地に膝までつきかねない勢いですがりついてくる。
「我がモンフォール家は、いえ、わたし自身は、初めからあなたの――」
「氏素性の知れぬ拾い子、と仰いましたね」
静かに遮ると、子爵は口をつぐんだ。
「あの日、確かに、そう仰いました」
忘れてなどいない。忘れられるはずもない言葉だった。
子爵の顔から、みるみる血の気が引いていく。
かつて王都で、わたしを氏素性も知れぬ拾い子と見下ろした、あの傲然とした面影は、もうどこにもなかった。
「あ、あれは、その、言葉のはずみで……」
言い訳を重ねるほど、その声はますます小さくなっていった。すがるように差し出された手が、行き場を失って宙をさまよい、やがて力なく垂れ落ちる。
わたしは、その手を取らなかった。
代わりに、坂の下に広がる金色の畑と、まだ幼い緑の匂いを残す風とに、ゆっくりと目をやった。
この土地で過ごした日々の温もりが、胸の内をそっと満たしていく。
「わたしは、戻りません」
短く、けれど、はっきりと告げた。かつては顔を伏せて震えることしかできなかった声が、今は坂の上から、迷いなく王都の使者へと届いていく。
「詫びも、労いも、必要としていた頃は、とうに過ぎました。今のわたしには、居場所があります」
ゲオルクが、なおも言い募ろうとした。
「聖女としての務めを、お忘れか」
「務めではなく、祈りでした。誰に強いられたものでもありません」
まっすぐに、彼を見た。
「もし本当に王都を思うなら、その霧を止める術を、あなた方自身の手で探すべきです。わたしに縋る前に」
静かな声だったが、階の下に集まった村人たちの間から、誰かの小さな拍手が起こった。それが広がっていくのを、背中で感じた。
クラウス様が、階を一段下り、わたしの前に立った。
「聞いての通りだ。答えは変わらん」
腰の剣に手をかけたまま、静かに、けれど有無を言わさぬ声で続けた。
「この地に足を踏み入れた時点で、無駄足だと知るべきだったな」
ゲオルクは、しばし睨み合うようにクラウス様を見返していたが、やがて、諦めたように書状を巻き戻した。
「……猊下には、そうお伝えいたします」
一行は、来たときと同じ隊列で、坂を下っていった。ドラクロワ子爵だけが、最後まで未練がましく振り返っていたが、その姿もやがて、木立の向こうに消えた。見送る村人たちの間から、誰からともなく、安堵の息が漏れた。
「――終わった、な」
クラウス様が、ふうと息を吐いた。強張っていた肩から、力が抜けていくのがわかった。
「はい」と頷きながら、わたしも詰めていた息をゆっくりと吐き出す。膝が、今になって小さく震えていた。
「怖かったか」と、囁くように尋ねてくる。
「少しだけ」と、正直に答えた。
素直に答えると、クラウス様の大きな手が、そっとわたしの手を包んだ。その手のひらの熱が、まだ小さく震えていたわたしの指先へ、ゆっくりと移ってくる。
夕暮れの光が坂道を橙色に染め始め、館の壁も、二人の影も、あたたかい色に溶けていく。
「なら、次は俺の後ろにいろ。今日みたいに、前へ出るな」
ぶっきらぼうな言い方の奥に、隠しきれない気遣いがにじんでいた。それでも、この人が本当にわたしを庇いきれずにいる姿を、わたしはまだ見たことがない。
小さく答えると、包まれた手の温もりに、胸の奥がじんわりと満たされていくのを感じた。この人がいる限り、何を突きつけられても怖くはないのだと、静かに思った。
誰もいなくなった坂道へ目をやりながら、わたしはふと、あの一団を見送るあいだに目に留めた、もう一つの人影を思い返していた。
門前から少し下った、街道の脇の木立。そこに一人、黒い外套の男が立っていた。顔は深く頭巾に隠れ、神官たちの隊列が横を過ぎても、その列に加わろうとも、道を譲ろうともしなかった。
ゲオルクの従者たちが緊張に汗を浮かべて坂を上ってきたあいだも、あの影は同じ場所に、まるで見物でもするような静けさで立っていた気がする。いつからそこにいたのか、まるで思い出せない。
ただ一度だけ、男は頭巾の下からこちらを見上げた。距離はあったが、頭巾の奥が確かにこちらを向いたのが、遠目にもわかった。値踏みするような、冷え切った目だった。背筋を、冷たいものが伝った。
そして、男が木立の奥へ身を引いたとき――坂を吹き上げてきた風に乗って、ほんの一瞬、微かな匂いが鼻をかすめた。祈りを注ぐたびに肌が覚えた、あの瘴気の残り香だ。
館の坂のすぐ下に、なぜそんなものを纏った者が立っているのか。気のせいだと思いたかったが、十五年、それを嗅ぎ分けてきたこの鼻が、そう囁いていた。
「ヨナス様。街道の脇の木立に、一人」
「ああ……気づいておられましたか。あれは、使者の一行の者ではございませんな。神官どもが坂を上ってくるより前から、あそこに立っておりました」
ヨナス様も、眉をひそめていた。傍らでクラウス様の表情も、いつしか険しいものに変わっている。
「調べておきましょう」と、ヨナス様は静かに請け合った。
坂の向こうへ消えていった一団を、わたしはしばらく見つめていた。拒んだのは、正しい。それでも、拭いきれない何かが、胸の底に小さな影を落としていた。
冷え始めた夕風が、坂道を吹き抜けていく。遠くの森の稜線が、いつもより黒く沈んで見えるのは、きっと気のせいではなかった。




