第007話 先代の聖女
クラウス様の左腕の傷が、すっかり塞がった。あの瘴気獣との一件から、五日が過ぎた朝だった。
「もう、痛みませんか」
包帯の上から、そっと腕に触れる。
「とうに、な」
素っ気なく答えながら、クラウス様は左腕を軽く持ち上げてみせた。以前のような、こわばった動きはない。
安堵した拍子に、頬が緩む。それだけの些細なことが、こんなにも嬉しかった。
窓の外では、軒に吊るされた干し穂の束が、朝の光を受けて金色に揺れている。豊かな季節の名残が、少しずつ日常へ溶けていく朝だった。
朝食の席で、けれどわたしの目は、卓の隅に置かれたままの木片へ吸い寄せられていた。
幾筋もの線が絡み合い、枝のように広がった紋様。自分の背にある聖痕と、驚くほどよく似ている。
「まだ、気になるか」
灰色の瞳に見つめられ、隠しても仕方ないと思い直す。
「はい……眠っていても、あの紋が瞼の裏に浮かぶくらいには」
クラウス様は、しばらく黙って木片を見つめていた。それから、思いがけないことを言った。
「この地には、境を越える者すべてを記す台帳がある。神官も、商人も、旅の聖女も――誰であれ、名と日付を残す決まりだ」
「では」
思わず身を乗り出すと、クラウス様は目を伏せたまま続けた。
「調べれば、何か出てくるかもしれん」
胸の奥が、小さく高鳴った。
書庫の最奥、鍵のかかった小部屋に、古い台帳が年ごとに積まれていた。埃を払うと、羊皮紙特有の、乾いた匂いが立ちのぼる。
灯りを持って先に立ったクラウス様の背が、狭い通路に長い影を落とす。壁一面に並んだ棚には、色褪せた革表紙の台帳が、隙間なく詰め込まれていた。
「閣下、これはまた……何十年分ございますか」
呼ばれてやってきたヨナス様が、山と積まれた台帳を前に、大きく息を吐いた。
「ギュンターの話では、村がまだ森の恵みの中にあった時分――もっと昔の話だったな。だが、俺が瘴気で村を失ったのは、俺がまだ十七、ろくに剣も振れなかった時分だ」
クラウス様の声に、初めて気づいた。ギュンターの語った聖女と、クラウス様を救った聖女は、時代が違う。
「同じ御方、ではないのですね」
胸の奥で、期待が小さく萎む。けれど、クラウス様は首を横に振らなかった。
「時が合わん。だが」
クラウス様は、台帳の背表紙を指でなぞりながら続けた。
「同じ紋を持つ者が、代々この地に現れてきたのだとしたら――話は別だ」
その一言に、背筋がすっと冷えた。血筋。代々。その言葉の重みを、まだ受け止めきれずにいた。
三人で手分けして、それらしき時期の台帳を繰った。埃にまみれた頁を一枚ずつめくる音だけが、狭い部屋に響く。
指先が黒く汚れていくのも構わず、わたしも頁を追った。名だけが並ぶ無機質な記録の連なりに、目が滑りそうになる。それでも、止める気にはなれなかった。
「……ありました」
先に声を上げたのは、ヨナス様だった。震える指先で、一行を示す。
『聖女エルフリーデ、巡礼のため北方境域を通過す。年の頃二十歳前後。肩より背にかけて、幾筋にも分かれし紋様あり。関所の記録として特筆す』
古びたインクは薄れかけていたが、几帳面な筆致で、確かにそう綴られていた。
「年の頃二十歳前後、と申しましても……これは境番が目で見た、年恰好の見立てにすぎませんぞ。この手の書き付けの齢など、当てになるものではありませんからな」
ヨナス様が、慎重に断りを添える。それでも、肩から背にかけての紋様の記述だけは、目分量では書けない。
そして――日付も、記されていた。
クラウス様が、その日付を見たまま、動かなくなった。
「……この日付は」
その呟きに、部屋の空気が張り詰めた。ヨナス様も、台帳を覗き込んだまま息を詰めている。
「閣下」
ヨナス様の声が、掠れていた。
「私は覚えております。閣下のご実家の村が、瘴気に呑まれたのは――ちょうど、その週の初雪の晩でございました」
沈黙が落ちた。積み上がった台帳から立ちのぼる乾いた埃の匂いだけが、狭い部屋にひっそりと淀んでいた。
「エルフリーデ……それが、あの方の名か」
クラウス様の声は、低く、震えていた。十年探し続けた光に、初めて名前が与えられた瞬間だった。
「その御方、なのでしょうか。閣下を救ったのは」
「顔は見ていない。声と、温もりしか覚えていない。だから、断言はできん」
そう言いながらも、灰色の瞳は、確信に近いものを湛えていた。台帳を持つ手の甲に、青い筋が浮いているのが見える。
「だが、この記録の日付と、あの夜が重なるのは、偶然にしては出来すぎている」
――エルフリーデ。
その名を、わたしはもう一度、声に出さずに口の中で転がした。
とたん、胸の奥が、理由もなく疼いた。
記憶の底に眠る、母のような、あたたかい声。誰のものかもわからないその声が、この名と、繋がっている気がしてならない。
けれど、確かめる術はどこにもなかった。口に出せば、根拠のない願望になってしまう気がして、わたしはその疼きを、そっと胸の奥へ仕舞い込んだ。
「……どうした」
不意に声をかけられ、我に返る。俯いていた顔を、慌てて上げた。
「……いえ、何でも」
かろうじて、そう答える。クラウス様は、それ以上追及せず、ただじっとわたしを見つめていた。
「閣下」
台帳を閉じながら、ヨナス様が改まった声で切り出した。
「以前、聖女さまに『来なかっただけだ。来られなかった、じゃない』と仰っていましたな。あれは、この話と繋がりますか」
クラウス様は、少しの間を置いてから、頷いた。
「神殿が寄越した聖女は、これまで何人もいた。だが、深い森が、その者たちを試すように牙を剥いた。ひと冬保たず、逃げ帰った者ばかりだ」
そう語るクラウス様の指が、閉じた台帳の縁を、確かめるようにひとつ、なぞった。逃げ帰った聖女たちの名も、きっとこの分厚い記録のどこかに、埃をかぶって眠っている。
「森が、試す……」
台帳の埃を吸い込んだせいか、声が少し掠れた。
「唯一、森が静かに道を譲ったのが、このエルフリーデという御方だったと、古株の兵から聞いたことがある。俺が知る限り、ただ一人だ」
灯りの中で、クラウス様の横顔に影が落ちる。長年、胸の内だけに留めてきた話をようやく言葉にする、そんな重さが滲んでいた。
そこまで言って、クラウス様は、ふと窓の外――村外れの森の方角へ目をやった。
「お前が来て以来、森の奥が牙を収めている。外れの獣しか出さなくなった。俺の当て推量にすぎんが……あの森は今、お前を値踏みしているのかもしれん」
「わたしを」
思わず、自分の胸に手を当てていた。森という得体の知れないものに、値踏みされている感触は、正直まだ掴めない。
「エルフリーデのときと、同じように」
言葉にすれば、それはまだ、確かな形を持たない推測でしかない。けれど、胸の奥の疼きは、その推測を、静かに肯定しているようだった。
その夜、館の窓辺に立ち、わたしは暗い森の稜線を見つめていた。
木片の紋様。母のような声。試す森。そして、エルフリーデという名。ばらばらだった欠片が、少しずつ、ひとつの絵の輪郭を結び始めている。
けれど、その絵がどんな形をしているのか、まだ誰にも見えていなかった。
背後から、クラウス様の低い声がした。
「今日は、よく頑張ったな」
その一言だけで、胸の奥の疼きが、少しだけ和らいだ気がした。
「クラウス様も、十年越しに、お名前を知ることができましたね」
灯りに照らされた横顔が、ほんの少し、緩んだように見えた。
「……ああ」
短く答えたクラウス様の手が、そっとわたしの肩に触れた。労わるような、確かめるような重みだった。
十年前と同じ光を、今、隣で見ているのかもしれない。そう思うと、不思議と怖くはなかった。
静かなその時間を破ったのは、坂の下から響いてきた、荒々しい蹄の音だった。
一頭の馬が、息も絶え絶えに坂を駆け上ってくる。乗り手の外套は泥にまみれ、鞍の脇には替え馬の手綱まで結ばれていた。休みなく駆け通してきた早馬であることは、一目でわかった。
「辺境伯閣下に、火急のご報告が……!」
門前で崩れ落ちるように馬を降りたのは、まだ若い伝令だった。膝が笑い、うまく立てずにいる。肩で息をしながら、震える声を絞り出す。
「王都の……瘴気が、外郭を越えて、内郭にまで……!」
これまでの、貧民街や井戸の話とは違う。都の中枢そのものが、黒い霧に侵され始めているということだ。傍らでヨナス様が、息を呑む気配がした。
「それだけではありません。神殿から、正式な通達が――」
伝令は、懐から震える手で書状を取り出した。封蝋には、見覚えのある神殿の紋が押されている。
「罪人セラフィーナを、直ちに王都へ戻せと」
わたしを罪人と呼び、死地へ追いやったあの神殿が、今度は、その手でわたしを呼び戻そうとしている。
胸の奥で、何かが静かに軋んだ音を立てた。
クラウス様の手が、わたしの肩を、いっそう強く掴んだ。
「渡さんと言ったはずだ」
その声は、低く、これまで聞いたどんな声よりも、剣呑な響きを帯びていた。




