第006話 辺境伯の傷
収穫祭から三日が過ぎた朝、村の空気はまだ祭りの余韻を引きずっていた。
軒先に干された穂束、片づけ損ねた提灯、子どもたちが口ずさむ歌の切れ端。豊かさの匂いが、まだそこかしこに残っている。
朝食の席で、ヨナス様が険しい顔で報告した。
「閣下、森の外れに、はぐれた瘴気獣が出たとのことです。羊を二頭、やられたと」
「森の奥は」
クラウス様が短く問う。
「相変わらず、静かなままです。妙に、外れの者だけが迷い出てくるようで」
森の奥がいまだ息をひそめている一方で、その縁からこぼれ出る獣だけがいる。そのちぐはぐさに、わたしは小さく眉を寄せた。
本物ですら試すというあの森が、なぜ今は奥の牙を収めたまま、外れの獣だけを寄越すのだろう。まるで、何かを避けて息をひそめているように。
思えば、この地には長いあいだ聖女が一人も居着かなかったという。その理由と、森のこの不自然な静けさは、胸の奥で同じ一点を指しているような気がした。けれど、それが何なのかは、まだわからなかった。
「俺が出る」
クラウス様は立ち上がり、壁の剣を取った。
「わたしも参ります」
「駄目だ」
即座に返ってきた声は、いつもより固かった。
「今日のお前は、村に残れ」
「けれど」
「頼む相手が、まだいるだろう。畑も、井戸も」
理由になっていないことは、二人ともわかっていた。それでも、灰色の瞳の奥には、いつもの無愛想とは違う、何かを恐れるような固さがあった。まるで、わたしを瘴気の気配へ近づけること自体を、頑なに拒んでいるかのように。
その色に気圧されて、わたしはそれ以上、言葉を継げなかった。
「……お気をつけて」
小さく告げると、クラウス様はわずかに目を細め、兵を数名連れて坂を下っていった。
その背中が森の方角へ消えるまで、わたしは館の前に立ち尽くしていた。
言われたとおり、井戸の水を確かめ、畑の様子を見て回った。それでも、視線はいつの間にか坂の下へ吸い寄せられている。何をしていても、指先が上の空だった。
空にかかる雲の形が、いくつも変わるのを見送るうちに、日が傾き始めた。
こんなふうに誰かの帰りを待つ心細さを、わたしは知らなかった。王都にいたころは、誰かの無事を祈る相手など、一人もいなかったのだから。
午後、日が傾きかけたころ、坂の下から慌ただしい足音が近づいてきた。
「聖女さま! 閣下が――」
飛び込んできたのは、供についていった若い兵だった。顔が青ざめている。
わたしは駆け出した。心臓が、嫌な速さで鳴っていた。
門の前で、クラウス様は自分の足でしっかりと立っていた。けれど、左腕を押さえたその指の間から、赤いものが滲んでいる。
「大したことはない」
「大したことがあるかないかは、わたしが決めます」
いつもより強い声が出たことに、自分でも驚いた。クラウス様は一瞬、面食らったように黙り、それから小さく、観念したように息を吐いた。
館の一室に、干した薬草の匂いがこもっていた。灯りを二つ並べ、上着を脱いだクラウス様の腕に、わたしは光を集めた指先をかざした。
瘴気獣の爪に裂かれた傷は、放っておけば毒だまりのように膿む。まず瘴気を祓って毒の回りを止めてしまえば、あとは傷そのものが塞がるのを、日をかけて待つだけだ。
指先の光が触れると、黒く滲んでいた傷口の縁から、瘴気の影がゆっくりと抜け落ちていった。どす黒かった血の色が、やがて本来の赤みを取り戻していく。
にじむ血が止まり、裂けた縁がわずかに寄り合ったところで、光を収めた。塞がりきるまでには、まだ幾日かかかるだろう。それでも毒さえ抜けてしまえば、もう命に障ることはない。見届けて、ようやく詰めていた息をゆるめた。
「――これは」
治療の途中、腕から肩にかけて走る、古い傷跡に目が留まった。まっすぐな刃の跡とは違う、焼け爛れたような、いびつな古傷だった。
「昔のものだ」
クラウス様は、包み隠す素振りも見せずに答えた。灯りの下で見る古傷は、思っていたよりずっと広く、肩の付け根近くまで達していた。
篝火の夜、言葉少なに聞いたあの話の続きが、こうして目の前の傷跡となって刻まれている。あのとき彼が語らずに呑み込んだものが、この古傷には残っているのだと思った。
「若い時分に、瘴気にやられた。村ごと、な」
淡々とした声だったが、その先を続けるまでに、少しの間があった。窓の外では、片づけ損ねた祭りの提灯が、風に揺れて小さく軋んでいる。
「あの夜のことは、あまり覚えていない。気づいたら、もう半分死にかけていた。村の連中は、ほとんどが助からなかった」
「……それを、誰が」
「聖女だ」
短い答えに、心臓が跳ねた。
「名も、覚えていない。ただ、光が近づいてきたことだけは覚えている。温かかった。あんなに温かいものに触れたのは、後にも先にもあれきりだ」
クラウス様は、遠い目で続けた。
「『案ずるな、これでもう、大丈夫だ』――そう言われた気がする。それだけを頼りに、俺は十年、聖女を探し続けてきた」
その声には、恨みも憧れもなく、ただ一つの事実として、そこにあるだけだった。
「その方は、いま……」
「もう、この世にはいない」
そこで一拍おいて、クラウス様は言葉を継いだ。
「篝火の夜はそう言い切ったが……正確には、そう伝え聞いただけだ。この目で亡骸を見たわけじゃない。ただ、あれから十年、どれだけ探しても、あの方は二度と現れなかった」
わざわざ言い方を正す、その不器用な誠実さが、かえって胸に迫った。こうして焼け爛れた傷跡を目の前にすると、篝火の夜に聞いたときとは、その言葉の重みがまるで違って感じられた。
胸の奥が、じくじくと痛んだ。目の前のこの人が、たった一人で、その痛みを十年も抱えてきたのだと思うと。
――だから、この人は。今朝、頑なにわたしを森へ行かせまいとした、あの固さの理由が、ふいに腑に落ちた。瘴気に村ごと呑まれ、聖女に救われたこの人にとって、聖女を瘴気の気配に近づけることは、何より恐ろしいことなのだ。
胸の内で渦巻く思いを、うまく言葉にできなかった。
気がつけば、わたしの指先は、彼の古い傷跡にそっと触れていた。
――思えば、自分から誰かに触れたのは、これが初めてだった。
クラウス様が、びくりと肩を揺らした。
「……何を」
「痛かったでしょう。ずっと、こんなに長い間」
指先の下で、彼の肌が強張るのがわかった。それでも、振り払われることはなかった。
しばらくして、クラウス様の大きな手が、そっとわたしの手を包み込んだ。振り払うのではなく、包み込むように。
「……もう、痛くはない」
低い声が、いつもよりずっと掠れていた。
「お前が、ここにいるからだ」
耳の先どころか、首筋まで赤くなっているのが、灯りの下でもはっきり見えた。わたしもまた、頬が焼けるように熱くなるのを感じて、そっと目を伏せた。
夕刻、灯りが橙色に館の窓を染めるころ、ギュンターが館を訪ねてきた。刈り入れの礼にと、蜂蜜酒の壺を抱えている。
「聖女さまのおかげで、この土地は生き返った。せめてもの礼です」
「ありがとうございます。けれど、そのように改まらずとも」
「いや」
ギュンターは、皺だらけの顔をほころばせながら、懐から古びた木の板を取り出した。
「これを、聖女さまに見ていただきたくて持ってまいりました」
差し出されたのは、手のひらほどの大きさの、彫刻の施された木片だった。長い年月を経て黒ずんではいるが、幾筋もの線が絡み合い、枝のように広がった紋様が、かろうじて見て取れる。
ギュンターは、火にかざすように木片を掲げてから、ゆっくりと語り始めた。
「爺様のそのまた爺様の代――この村が、まだ深い森の恵みの中にあった時分の話です。土地が瘴気に呑まれる前、一度だけこの地を訪れた聖女さまがいた、と言い伝えられておりましてな」
「……その方が」
「詳しいことは、もう誰も覚えておりません。ただ、婆様から聞いた話では、その御方の肩に、こういう紋があったのだと」
ギュンターの節くれだった指が、木片の紋をなぞる。
見た瞬間、わたしは息をのんだ。指先から、木片を取り落としそうになる。
自分の背にある聖痕と、よく似ている。いや――似ているどころではない。線の絡み合い方も、枝分かれの角度も、まるで写し取ったかのようだった。
館の中が、急に静まり返ったように感じた。
「聖女さま?」
「……いえ。何でも、ありません」
かろうじてそう答えたものの、指先が小さく震えているのを止められなかった。
クラウス様が、わたしの様子に気づき、木片へ視線を落とす。灰色の瞳が、わずかに見開かれた。
「これは……」
彼もまた、何かに気づいた顔をしていた。
ギュンターが帰ったあと、木片だけが卓の上に残された。枝を広げるような紋様が、灯りの下で静かにこちらを見つめ返しているようだった。
クラウス様も、しばらくは何も言わなかった。壁際に立ったまま、木片と、それを見つめるわたしとを、代わる代わる見ている。その沈黙が、いつもの素っ気なさとは違うことに、わたしは気づいていた。
灯りの芯が、小さく爆ぜる音だけが、部屋に響いていた。
わたしは、自分の背に、確かめるように手を回した。
物心つく前から、そこにあった痕。誰にもらったものかもわからない、この身に刻まれた紋。
――これと同じものを持つ人が、かつてこの地にいた。
わたしは何者で、どこから来たのか。物心ついてこのかた、一度も本気で問うたことのなかった問いが、木片の紋を見つめるうちに、静かに、けれど確かな重さで胸の底に沈んでいった。




