第005話 慕われる聖女、沈む都
オットー様たちの一行が坂を下っていってから、五日が過ぎた。
慌ただしい蹄の音も、値踏みするような視線も、あの朝を境にすっかり鳴りを潜めている。それでも、オットー様が最後に呑み込んだ「王都は、いま……」という一言だけは、耳の奥に小さな棘のように残り続けていた。
けれど、その棘をそっと押しのけるくらいには、この土地の景色は変わっていた。
窓を開けると、金色の穂波が坂の下までどこまでも続いている。ほんの数日前まで、ひび割れた土しかなかった場所だ。
「今日から刈り入れだそうだ」
朝食の席で、クラウス様がぶっきらぼうに言った。
「この俺が生きているうちに、この畑で穂を見る日が来るとはな」
その声には、隠しきれない喜びが滲んでいた。
「わたしも、楽しみです」
そう答えると、クラウス様は少し驚いたような顔をして、それからふいと目をそらした。耳の先が、朝の光の中でもはっきり赤い。
坂を下ると、村じゅうの人が総出で畑に出ていた。鎌を振るう男たち、束ねた穂を運ぶ女たち、その間を駆け回る子どもたち。
つい先日まで、灰色のひび割れしかなかった土地だ。それが今は、風が渡るたびに金色の波を作り、乾いた土埃の代わりに、青々とした穂の匂いを運んでくる。荷車の軋む音さえ、どこか弾んで聞こえた。
「聖女さま! こっち、こっち!」
真っ先に駆け寄ってきたのは、ミアだった。頬に土をつけたまま、満面の笑みでわたしの手を引く。腕にはもう、黒い斑点の跡形もない。
「見て、見て。わたしが刈ったんだよ!」
小さな手が握りしめた穂を、誇らしげに掲げてみせる。その眩しさに、胸の奥がじんと熱くなった。
「まあ、上手ですね」
「聖女さまのおかげだもん」
屈託のない一言が、まっすぐに胸へ落ちてくる。王都では、感謝の言葉すら形式でしかなかった。ここでは、子どもの声ひとつが、こんなにも本物の重みを持っている。
畑の奥では、村長格のギュンターが、束にした麦を撫でながら唸っていた。
「四十年、この土地に生きてきたが……こんな豊作は、爺様の代でも聞いたことがない」
「まだ終わりではありませんよ」
わたしは水路の入り口――村の隅にひっそりと残っていた、古い水車小屋の脇に立った。ここだけは、まだ黒い澱みが薄く滲んだままだ。
指先に光を集め、水車を伝う流れへそっと差し向ける。
墨のような濁りが、糸をほどくように薄れていく。水車がひとつ軋んで、久方ぶりに軽やかに回り始めた。
「これで、村の水はすべて澄みました」
歓声が上がった。誰かが鐘を鳴らし、その音が坂の上まで響いていく。井戸から始まった浄化が、ようやくこの村の隅々にまで行き渡った。
けれど、指先に残る感触に、わたしはふと眉を寄せた。
この土地の淀みの根は、村外れの森にある。あの黒い森が奥から瘴気を送り出すかぎり、いくら祓っても水はまた濁る――辺境へ来た初めのころは、確かにそう感じていた。
それがこの数日、森からの染み出しが、嘘のように鎮まっている。まるで森のほうが息をひそめて、こちらを窺っているかのようだった。
なぜ、だろう。本物ですら試すというあの森が、どうして今は、牙を収めているのか。
十五年、王都でわたしが祓ってきたのは、いつも一枚の聖水盤――決められた分だけの祈りだった。ここでは違う。井戸も畑も、水車の軋みまでも、この手で確かめながら、少しずつ広げていける。誰かに与えられた務めではなく、自分で選び取っていく浄化だった。その違いが、じんわりと胸に染みていく。
刈り入れは、日が傾くまで続いた。
クラウス様は、辺境伯だというのに、当たり前のように鎌を握り、麦束を担いで運んでいた。額に汗を滲ませ、村人と並んで働くその姿は、館で見る険しい顔とはまるで違う。
「閣下、そのお姿は貴族らしからぬこと。まったく、聖女さまがいらしてから閣下は変わられましたな」
ヨナス様が、からかうように言った。
「うるさい」
短く返しながらも、クラウス様は麦束を運ぶ手を止めない。その背中を見つめていると、なぜだか目が離せなくなった。
夜、村の広場には、大きな篝火が焚かれた。
初めて畑に芽の出た、あの夜の小さな祝いとは、比べものにならない賑わいだった。長い机に山と積まれた収穫物、笛と太鼓の音、輪になって踊る村人たち。老いも若きも、この土地で初めて迎える豊かな夜を、心ゆくまで喜んでいた。
「聖女さま、一曲どうぞ!」
娘たちに手を引かれ、わたしは思わず輪の中へ引き込まれた。慣れない足取りで踊る様を、遠くの木箱に座ったクラウス様が、じっと見つめている。目が合うと、彼は珍しく口の端をわずかに緩めた。
十五年、こんなふうに笑って過ごした夜など、一度もなかった。
――ここが、わたしの居場所なのかもしれない。
そう思うと、胸の奥がじんわりと温かくなった。
踊りが一段落したころ、わたしはクラウス様の隣に腰を下ろした。
そういえば、と思い出す。館を出るとき、この人は何かを小脇に抱えていた。祭りの夜に、わざわざ持ち出すようなものでもないのに。
踊りの熱が引くと、夜気の冷たさが急に肌へ触れてくる。小さく身を縮めたわたしに、クラウス様は何も言わなかった。ただ、傍らに置いてあった厚手の肩掛けを取り、無造作にわたしの肩へ回した。
――あれは、これだったのか。
大聖堂で、罪人の肩へ外套を投げるように掛けたときと、同じ手つきだった。指先ひとつ触れないまま、布の重みだけが、そっと肩に降りてくる。
礼を言おうと顔を上げたときには、もう火のほうへ向き直っていた。
会話はなくとも、並んで火を見つめているだけで、それで足りていた。
「クラウス様は、どうして聖女を求めて、王都まで出向かれたのですか」
ふと、ずっと訊きそびれていたことを尋ねた。クラウス様は、しばらく火を見つめたまま黙っていた。
「……昔、一度だけ、本物の聖女に会ったことがある」
短く、静かな声だった。
「まだ若造の頃だ。瘴気にやられて、死にかけた」
「その方が、あなたを?」
「ああ」
それだけ答えて、また沈黙が落ちた。灰色の瞳が、篝火の向こうの暗闇を見つめている。何かを堪えるような、痛みに似た色だった。
「その聖女さまは、今……」
「もう、この世にはいない」
短い一言が、篝火の爆ぜる音に紛れて落ちた。
それ以上、クラウス様は何も語らなかった。ただ、火を見つめる横顔だけが、いつもより少し遠くにあるように見えた。
「閣下! そろそろ締めの踊りを!」
ヨナス様の声が割って入り、クラウス様は我に返ったように立ち上がった。差し出された広場の輪へ、村人たちが囃し立てながら彼を引っ張っていく。
わたしは、その背中を見送りながら、胸の内で問いを持て余していた。あの人は、名も知らぬ聖女に何を見て、わたしに何を重ねているのか。
けれど、それより先に、消えてくれない問いがひとつあった。
――もう、この世にはいない。
あんなにも本物の聖女を求めたクラウス様が、命を救われた恩人でありながら、その名すら口にしなかった。ならば、その聖女は、なぜ死んだのか。
十五年、たった一人で王都の結界を支えてきたわたしには、わかることがある。瘴気を祓えるほどの本物が、そう易々(やすやす)と命を落とすはずがない。
――誰かが、その人を死なせたのではないか。
篝火の向こうでは、輪になった村人たちが手を打ち鳴らしている。その明るさの中で、その問いだけが、胸の奥に小さく灯ったまま消えなかった。
祭りの片づけが始まるころ、ヨナス様が、広場の隅でクラウス様を捕まえた。
「閣下、日暮れ前の巡回のおりに、街道筋で旅人と行き会いましてな。妙な話を聞きました」
「話せ」
「王都の外郭――古い井戸のあたりにも、黒い霧が出始めたとのことです。貧民街だけの話では、もう済まなくなってきていると」
篝火の名残の熱が、急に冷えていくようだった。
「外郭まで……」
わたしは、思わず呟いた。貧民街の次は外郭の井戸。かつて自分の内側で数えた綻びの順番が、そのとおりに進んでいる。
「モンフォール侯爵家のご一同も、近ごろは表向きの余裕が消えてきたとか。なんでも黒い霧を避けて我先に郊外の別邸へ移り、屋敷には金で買い集めた聖水の壺を山と積み込んでおられるそうで。笑い話にしていたのが、笑えなくなってきたようですな」
ヨナス様が、皮肉げに付け足した。
雪の下で瘴気に呑まれて終わるがいい――そう言ってわたしを嗤った者たちが、いまは自分の屋敷から霧に追われ、金で買った聖水にすがっている。ざまあみろ、と叫びたい気持ちは、不思議と湧いてこなかった。ただ、静かに、当然のことが起きているだけだと思った。
「猊下は、まだ手を打たれないのですか」
わたしが問うと、ヨナス様は肩をすくめた。
「聖具だ祈祷だと、上っ面を取り繕っておられるようですが……根っこにあるものを見ようとしない限り、何をしても同じことでしょうな」
根っこにあるもの。それは、この土地がそうだったように、ただ一人分の祈りの重みだ。神殿も、大神官猊下も、それにまだ気づいていない。あるいは、気づいていて、なお認めたくないだけなのかもしれない。
後片づけが終わるころには、篝火はもう熾だけになっていた。
「戻るぞ」
クラウス様が短く言って、坂の上の館を顎で示した。
夜露に湿った坂道を、二人で並んで上っていく。刈り取られたばかりの畑が、月明かりの下で銀色に沈んでいた。
風が、麦の匂いを運んでくる。肩に降りた布が、歩くたびに小さく揺れた。
「……これ、お返ししなければ」
「持っていろ」
答えは短かった。
「北の夜は、これからもっと冷える」
坂の途中で、クラウス様がふと足を止め、村のほうを振り返った。
熾火のまわりには、まだ幾人かが残って笑い声を上げている。その声が、風に乗って途切れ途切れに届いた。
「……悪くない」
ぶっきらぼうな呟きだった。けれど、その横顔は、館で見るどの顔よりも柔らかい。
そのとき、クラウス様が左の肩をひとつ、無意識のような手つきで押さえたのが見えた。冷えると痛むのだろうか。訊いてよいものか迷って、結局、何も言えなかった。
王都に広がる黒い霧のことも、名を知らぬ聖女のことも、胸から消えたわけではない。
それでも、今夜だけは。
「クラウス様」
「なんだ」
「来年も、この畑を、一緒に見せてください」
一拍、間があった。この人になら、その一言が何を含んでいるか、きっと伝わってしまう。
「当たり前だ」
短く、そう返ってきた。
その一言が、肩に掛けられた布の重みと一緒に、じんわりと胸へ落ちてくる。夜風は冷たいのに、肩の上だけが、いつまでも温かかった。




