第004話 王都からの視察官
窓の外、朝靄の中に、揃った蹄の音が響いた。
村人の荷馬車の、ばらついた音とは違う。統率された、よそ行きの足並みだ。
館の窓辺に立ったわたしは、その音に思わず身をこわばらせた。
十五年、こうして誰かが訪ねてくる朝は、いつも裁きの気配とともにあった。今日もまた、何かを告げに来たのだろうか。
「神殿の紋だ」
隣に立ったクラウス様が、低く呟いた。灰色の瞳が、坂道を登ってくる一団を見据えている。
「案ずるな。ここは、お前の家だ」
その一言に、こわばっていた肩が、少しだけ緩んだ。
門前に降り立ったのは、五人ほどの一行だった。先頭に立つ男は、仕立てのよい旅装に神殿の紋章を光らせ、辺境の泥道を汚れ物でも見るような目で睨めつけている。
「アイゼンベルク辺境伯とお見受けする。神殿より参った、巡察官のオットー・ファルクと申す」
慇懃な口ぶりのわりに、目の奥には隠しきれない見下しがあった。
「用件は」
クラウス様の声は、素っ気ない。
「大神官猊下より仰せつかり、罪人セラフィーナの……」
オットーはそこで、ちらりとわたしへ目を寄越し、口の端を歪めた。
「まだ息をしているかどうかの確認に、参った次第です」
「生きているだけじゃない。しかと働いている」
「ほう。それは何より」
言葉とは裏腹に、まるで信じていない声だった。
「もっとも、ドラクロワ子爵などは、王都を発つ前にこう仰っていましたがね。『あの拾い子は、雪の下で瘴気に呑まれて終わるだろう』と。皆、笑っておられましたよ」
胸の奥が、冷たく波打つ。見えない場所で、まだそんなふうに笑われているのだと知るのは、思っていたより堪えた。
けれど、それを顔に出すつもりはなかった。
「では――ご自分の目で、確かめていただければよろしいかと」
わたしは静かに答え、一礼した。証を立てて回るつもりはない。見せればいい。それだけでいい。
坂を下り、村へ入っていく道すがら、オットーの足取りは、次第に鈍くなっていった。
最初に目を留めたのは、井戸端で水を汲む娘たちの、澄んだ笑い声だった。
次に、丈を伸ばした麦の穂が、風に揺れて金色にさざめく畑。
「これは……馬鹿な」
オットーが、初めて言葉を詰まらせた。
「つい半月ほど前、この地は灰色の死地だと報告が上がっていたはずだ。それが、もう穂を実らせているだと……?」
畦で鍬を手にしていた老爺が、顔を上げて笑った。
「聖女さまが淀みを祓ってくださってからね。土が、ひと月ぶんの実りを幾日かで駆け抜けるみたいに、ぐんぐん伸びだしたんですよ。わしらも、初めは目を疑いました」
オットーは、その麦の穂を、まじまじと見つめたまま動かない。持参したはずの、罪人を難詰する文言を、頭の中で探しあぐねているような顔だった。
「……ありえん。土が、こんな速さで実ることなど」
「ありえんことを、この娘はやってのける」
クラウス様が、素っ気なく答えた。
「セラフィーナが来るまでは、ただの死地だった。それだけのことだ」
村の広場では、子どもたちが駆け回り、老人たちが日向ぼっこをしながら世間話に興じていた。誰の顔にも、飢えや怯えの色がない。
軒先には、もぎたての野菜や、色づいた果実の籠が並んでいる。ほんの数日前まで、この村に「並べるほどの実り」など、どこにも存在しなかったはずだった。
すれ違う村人たちが、わたしを見つけると、次々に頭を下げていく。
「聖女さま」
「今日も、ご苦労さまです」
その声のひとつひとつに、屈託がなかった。
オットーは、その光景をただ黙って見つめている。旅装の裾を汚れないよう気にしていた男が、いつの間にか、その手を止めていた。
広場の隅で、一行の護衛の馬が一頭、不意に前脚を跳ね上げた。
「どうした」
御者が慌てて手綱を引くが、馬はいなないたまま、なかなか落ち着かない。厩番が首をかしげた。
「この辺りに、瘴気だまりの名残でも……いや、しかし、この村にそんな場所は」
わたしは、馬の鼻先へそっと近づいた。
「……少しだけ、匂うのですね。誰も気づかないくらいの、ごくわずかな澱が」
指先に光を集め、馬の首筋へ、そっとかざす。
大仰な儀式ではない。ただ、耳元で子守唄でも歌うような、静かな仕草だった。馬は、二度三度と鼻を鳴らしたあと、ふっと大人しくなった。
「……見えるのですか。こんな、微かなものまで」
オットーの声が、初めて震えた。
「見えるというより――」
わたしは、馬の首を撫でながら答える。
「十五年、ずっと同じことをしてきましたので。慣れているだけです」
その一言に、オットーは何かを言いかけて、けれど言葉を呑み込んだ。
畑の脇に立つクラウス様に、オットーが向き直った。
「……失礼ながら、辺境伯。この娘は、聖痕を騙った罪人だと、神殿は断じたはずです」
「断じたのは、そちらの都合だろう」
「私の一存では、どうにもなりません。あくまで、猊下の裁定が――」
「裁定に、王都の結界を保つ力があるなら結構だ」
クラウス様は、遮るように言い、わたしのほうへ半歩、体を寄せた。
「神殿がどう裁定しようと、この地で彼女は聖女だ。それ以外の呼び方は、俺が許さん」
その声に、わずかな苛立ちが滲んでいた。剣の柄に置かれた手に、力がこもるのが見える。
知らず、詰めていた息が、ほどけた。あの大聖堂では、誰も庇ってくれなかった。今は、こうして真っ先に前へ出てくれる人がいる。
少し離れた場所で控えていたヨナス様が、そっと目を伏せ、口元をゆるめているのが見えた。閣下がここまで人前で肩を持つのは珍しい、とでも言いたげな顔だった。
オットーは、気圧されたように一歩下がり、それから、取り繕うように咳払いをした。
「……失礼した。あくまで、私は見聞きしたことを、正確に持ち帰るだけの立場ゆえ」
留保のこもった、逃げ道を残した言い方だった。認めたわけではない。ただ、目の前の光景を、否定しきれなくなっただけだ。
夕刻、館での短い茶の席が設けられた。
わたしの席は、クラウス様のすぐ隣に用意されていた。いつもは向かい合わせの配置だったはずだ。何も言わず、けれど当然のように、そう手配していたらしい。
オットーは終始、落ち着かない様子だった。出された茶にも、ろくに手をつけていない。
「王都のほうは、変わりないか」
クラウス様が、ふと問いを差し挟んだ。
オットーは、湯気の立つ茶器を見つめたまま、しばらく黙っていた。
昼間に見た光景が、頭から離れないのだろう。灰色の死地が、幾日かで金色の畑に変わる――そんな力を、この娘は当たり前のように使う。
ならば、その力を失った王都は、いま、どうなっているのか。呑み込んだはずのその問いが、彼自身の中で、答えを求めて暴れているようだった。
「……変わりない、と申し上げたいところですが」
やがて、ぽつりと漏らした声には、これまでの居丈高さがなかった。
「近ごろ、鑑定の儀そのものが、以前より短くなっておりましてな。ジゼル様のご体調がすぐれぬとのことで、代役の神官が、聖具の力添えを厚くして――」
そこまで言って、オットーは、はっと自分の口を押さえた。
「……いや。これは、申し上げるべきことでは」
「体調が、すぐれない?」
わたしは、思わず問い返していた。
十五年、結界に祈りを注ぐことに、体調など関係なかった。それが揺らぐということは――祓えていない、ということだ。
「王都は、いま……」
オットーが、そこまで言いかけて、口をつぐんだ。護衛のひとりが、咎めるような目でオットーを見ている。
「なんでもない。今宵のところは、これで失礼する」
オットーは、逃げるように席を立った。振り返りもせず、供の者たちを急き立てて、館を出ていく。
窓の外、たき火の灯りに照らされた一行の背が、足早に坂を下っていくのが見えた。
「……大丈夫でしょうか、王都は」
わたしは、去っていく灯りをじっと見つめながら呟いた。
「今のあの様子では、正直に猊下へご報告なさるとも思えません」
「あの男は、告げ口はしないだろうな」
隣に立ったクラウス様が、静かに言う。
「己の失態は隠す。だが、見たものは、いずれ誰かに漏らす。人の口に戸は立てられん」
「ジゼル様の、体調がすぐれない……」
わたしは、その言葉を、もう一度口の中で転がした。
十五年、この身で支えてきた結界だ。祓う手が弱まれば、何が起きるか、誰よりも分かる。
貧民街に生まれた黒い霧は、もう外郭の井戸まで這い上がっているかもしれない。ジゼル様がまともに祈れていないのなら、その先は――
「猊下は、まだ気づいていないのでしょうか。それとも」
「気づいていて、隠しているか、だな」
クラウス様の声は、静かだった。
「どちらにせよ、遠くないうちに、隠しきれなくなる」
そう言って、クラウス様は、剣の柄にかかったままだったご自分の手から、そっと力を抜いた。わたしを不安にさせまいと、意識してほどいたような仕草だった。
「何が来ようと、俺がここにいる。それだけ、覚えておけ」
低く、ぶっきらぼうな声だった。けれど、その一言は、どんな結界よりも確かに、わたしの背を支えてくれた気がした。
わたしは、暗くなっていく空の下、まだ小さく揺れている一行の灯りを見つめた。
王都にいたころのわたしなら、こんな夜にひとりで震えていただろう。誰にも庇われず、誰にも本当のことを言われず、ただ祈るだけの日々だった。
今は、隣に立つ人がいる。事実だけを、まっすぐに見てくれる人が。
けれど、どうしても分からないことが、ひとつだけあった。
神殿は、王都の結界がわたし一人に懸かっていると承知していたはずだ。それでもなお、都ごと危うくしてまで、なぜわたしを消そうとしたのか。
いったい、何を守ろうとしているのか。
その答えだけは、いくら考えても、いまのわたしには見えなかった。
オットーが最後に呑み込んだ言葉の続きが、耳の奥に、いつまでも引っかかっている。
――王都は、いま。




