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第003話 光が芽吹く土地

朝、窓を開けると、北の森はまだ、こちらを見ているようだった。


昨夜ひときわ大きく渦を巻いた黒い霧は、今は森の輪郭に薄くわだかまるだけに収まっている。それでも、肌の奥のざわつきは昨日までとは何かが違った。膨らんだ闇が元の濃さに戻ってなお、こちらの気配を確かに覚えている――そんな、ねばつく視線を、森の奥から感じる。


「閣下、夜番の報告では、森の瘴気だまりが夜半に大きく膨らんだそうで。濃さこそ今朝方には戻りましたが、見張りの者が、闇の奥で何かが一晩じゅう(うごめ)いていた、と」


食堂に降りると、ヨナス様がそう告げているところだった。クラウス様は黙って肉を切り分けながら、視線だけをこちらへ向ける。


「森は、後回しだ」


短く言い切られて、わたしは少し驚いた。


「けれど、昨夜のあの気配は……わたしを、待っているような」


「だろうな」


肉を切る手が、止まった。


「あれは、来る者を試す闇だ。本物か、そうでないか――森のほうが先に、値踏みをしてくる。気配だけで飛び込む場所じゃない。あそこは死地だ。お前をまだ、そこへは連れていかん」


言葉こそ素っ気なかったが、その口調には、昨夜からずっと張りつめていたものが滲んでいた。まるで、あの森が何を試すのかを、彼自身がどこかで知っているかのように。わたしを守るための順番を、彼はもう決めてしまっているらしい。


そう思うと、不思議と胸のあたりが温かくなった。誰かに守られる順番があるということを、わたしはまだうまく飲み込めずにいる。



食事を終えると、村の井戸へ案内された。館を出て坂道を下るにつれ、家々の壁はいっそう煤け、道端の草も丈が低く縮んでいる。滑車の軋む音とともに上がってきた水は、墨を溶いたように黒く濁っている。


「三年前から、これだ」


井戸端で待っていた村長格の老人――ギュンターと名乗ったその人は、皺だらけの手で桶を示した。


「飲めば腹を壊す。獣にすら飲ませられん。仕方なく、川まで汲みに通っておる」


わたしは井戸のふちに手をかけ、水面へ祈りを差し向けた。指先から伸びた光が、黒い水にそっと触れる。


墨のような濁りが、端からほどけていく。まるで夜が明けていくように、水はゆっくりと透きとおっていった。


「……澄んだ」


誰かが呟いた声を合図に、集まっていた村人たちがどよめいた。桶を落として駆け寄る者、両手で水をすくって顔を洗う者。歓声が井戸端いっぱいに広がっていく。


三年、遠い川まで水を汲みに通いつづけた人たちだ。当たり前のことが、ここではずっと当たり前ではなかった。その重さが、桶を抱える背中から静かに伝わってくる。



午後は、畑へ向かった。


ひび割れた土がどこまでも続き、作物の影ひとつない。踏みしめるたび、乾いた土埃が舞い上がり、鼻の奥にかすかな苦みを残した。


「ここも、瘴気に染みられてるんだな」


わたしは膝をつき、両手を土に押し当てた。地中に沈んだ黒いものが、指先を伝ってのぼってくる。井戸のときとは、手応えがまるで違った。井戸の濁りが「溜まった水」なら、この土の淀みは、もっと奥から――脈打つように、絶え間なく流れ込んできている。


指先で辿(たど)っていくと、その黒い流れの向かう先が、はっきりと分かった。北。あの、森だ。


土に染みた淀みは、この畑で生まれたのではない。あの瘴気の森から、地の底の水脈を伝って、村じゅうの土へ静かに染み出している。井戸も、畑も――村を蝕む黒さの根はひとつ、あの森に繋がっている。


胸の奥が、ひやりとした。あの森を鎮めないかぎり、ここをいくら祓っても、淀みはまた奥から満ちてくる。それでも、いまできることをする。


祈りを注ぐ。光が土の奥へ、ゆっくりと沈んでいく。


すぐには変わらなかった。けれど半刻(はんとき)ほど経ったころ、ひび割れの隙間から、小さな緑の芽が一つ、顔をのぞかせた。


「……出た」


見ていた農夫が、掠れた声を上げる。


「十年、何も生えなかった土に……!」


土はひとつでは終わらなかった。芽は隣へ、また隣へと連鎖するように顔を出していく。灰色だった畑に、点々と緑が散っていく光景を、わたしは膝をついたまま見つめていた。


胸の奥が、じんと熱くなる。王都では、祓った瘴気の跡に何が生まれるのか、見届けたことなど一度もなかった。ただ祓って、それで終わりだった。


けれど、ここでは違う。祓ったあとに、命が芽吹く。その芽吹きを、笑って見ている人たちがいる。


――わたしの力が、誰かを笑顔にしている。


十五年、当たり前に消費されてきた祈りが、初めて、目に見える形で誰かの喜びになった。


気づけば、日はもう傾きかけていた。畑の端から、クラウス様がずっとこちらを眺めていたことに、わたしはそのときようやく気がついた。剣を握るときの鋭さとは違う、じっと動かない静かな眼差しだった。



「手が、荒れている」


夕暮れ、館へ戻ると、クラウス様がぶっきらぼうに言って、わたしの手元へ目をやった。土と祈りで荒れた指先を、灯りの下で眉をひそめて見つめている。


「土仕事の慣れた民の手じゃない。無理をしすぎだ」


「これしきのことは、なんでもありません」


「なんでもなくはない」


そう言うと、彼は黙って部屋を出ていき、しばらくして分厚い革の手袋を持って戻ってきた。明らかに、女の手には大きすぎる代物だ。


寸法も測らず、贈り物の作法も知らない。それでも、こんなにも急いで誰かのために動く人を、わたしは知らなかった。


「明日からは、これをつけろ」


「……閣下の、手袋ですか」


「俺のじゃない。お前用に、(あつら)えさせた」


言い終わるが早いか、彼はさっさと背を向けてしまう。大きな手が、首の後ろをぐいと掻いていた。ヨナス様が横で、こらえきれないという顔で咳払いをしていた。


「閣下は昨夜のうちに、鞣革(なめしがわ)屋を叩き起こしておられましたよ。手が荒れると聞いてもいないのに、な」


「ヨナス」


低い声に、ヨナス様は肩をすくめて口をつぐんだ。それでも、口の端はまだ笑ったままだった。



夜、村の広場で、小さな祝いの席が開かれた。井戸の水が戻り、畑に芽が出た。それだけで、この土地の人々には十分な祝い事らしい。


たき火を囲み、誰かが古い笛を吹く。子どもたちが駆け回り、老人たちが手拍子を打つ。豪華な料理も飾りもない、ただの焚き火と歌だったけれど、王都の祝賀の儀式よりも、よほど眩しく見えた。


炎の爆ぜる音に混じって、井戸が澄んだ話、畑の芽の話が、あちこちで繰り返し語られている。同じ話を何度も聞くたび、村人たちの顔がほころんでいくのが分かった。


「聖女さま、こちらへ」


老女に手招きされ、わたしはたき火のそばに腰を下ろした。少し離れた木箱に、クラウス様が腰かけている。何も言わず、こちらを見ていた。


目が合うと、彼は気まずそうに視線を逸らし、それから思い出したように、温めた葡萄酒の椀をひとつ差し出してきた。


「冷える。飲んでおけ」


「……ありがとうございます」


椀を受け取ると、指先にじんわりと温もりが伝わる。彼はまた何も言わず、ただ隣に腰を下ろした。会話はなかった。それでも、寒くはなかった。


たき火の火影が、彼の頬の古い刀傷を赤く揺らしている。十年、瘴気の最前線に立ちつづけてきた男が、こんな小さな祝いの席で、こんなにも穏やかな顔をするのだと、わたしは初めて知った。



祝いの席が終わりかけたころ、村の入り口が急に騒がしくなった。


「行商のバルトだ! バルトが来たぞ!」


荷馬車を引いて現れたのは、恰幅(かっぷく)のいい中年の商人だった。年に数度、南から品を運んでくる行商人らしい。村人たちが我先にと荷を覗きに集まっていく。


「おお、これは閣下。今宵は賑やかですな」


バルトはクラウス様に気づくと、揉み手をしながら近づいてきた。それから、たき火のそばに座るわたしへ目を留め、驚いたように瞬きをする。


「ほう……噂は、本当だったか」


「噂?」


わたしが問い返すと、バルトは声をひそめた。


「辺境に、本物の聖女さまが来られたと。南の街道筋で、もっぱらの評判ですよ。井戸が澄んだ、畑に芽が出た、とね」


村人たちが誇らしげに頷いている。わたしは少し戸惑いながら、それでも悪い気はしなかった。


「王都のほうは、どうだ」


クラウス様が、ふと問いを差し挟んだ。バルトの顔から、すっと笑みが消える。


「それが……妙な話を、耳にしましてな」


声が、いっそう低くなった。


「王都の外れ――貧民街のあたりに、黒い霧が出たそうです。神殿は『よくあること』と取り合わないそうですが、この十日と経たぬうちに、もう二度も、三度も。街の連中は、気味悪がっておりますよ」


火の粉が、ぱちりと爆ぜた。


わたしは、椀の中の葡萄酒をじっと見つめた。王都の外れに、黒い霧。誰も気づいていないだけで、あの都はもう、綻びはじめている。


「猊下は、まだご存じないのでしょうね」


「さあ、それは。……ですが聖女さま、あなたが発たれてから、まだ十日と経ちませんでしょう」


バルトが、ぽつりと付け足した。


「これから先、いったいどうなることやら」


隣で、クラウス様が短く息を吐いた。灰色の瞳が、南――王都のある方角を、じっと見つめている。


「言ったはずだ。聖女を失った都は、じきに黒く沈むと」


その声に、喜びも憐れみもなかった。ただ、当然の帰結を告げる、乾いた響きだけがあった。


胸の奥は、静かなままだった。都のことを思い出しても、もう痛みは走らない。


ただ、十五年あの結界を内側から支えてきたわたしには、手に取るように分かってしまう。貧民街の次は、外郭の古い井戸。それから水路をのぼって、市場へ、大路へ。綻びは水の流れる道筋を辿って、確かな順序で、都の芯へ食い込んでいく。


猊下はきっと、これからも「よくあること」と言い続けるのだろう。誰ひとり祓えぬまま、黒い霧だけが、一つ、また一つと数を増やしていく。それを止められる手は、もう、あの都のどこにも残っていないのだから。


わたしは椀を握りしめ、たき火の向こうの闇を見つめた。


辺境の畑に、緑が芽吹いている。


そのすぐ隣で、王都には、黒い霧が芽吹きはじめていた。


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