第002話 辺境へ
馬車の窓に張った霜が、指の形にほどけて溶けていく。
肩にかけられたままの黒い外套は、まだ辺境伯の匂いがした。
大聖堂を出てから、もう三日。舗装された王都の道はとうに途切れ、車輪は轍の残る凍土を鈍く軋ませている。
窓の外を流れる景色は、日を追うごとに、色を失っていった。
木々は葉を落とし、遠くの山は雪をかぶって白く霞んでいる。里を離れるほどに、人の営みの気配が薄れていく。
「食え」
向かいの座席から、無愛想な声が飛んできた。クラウス様は、干し肉と堅焼きのパンを山のように膝に積み上げて、こちらへ差し出している。ひとりでは、とても食べきれない量だ。
「……こんなに、いただけません」
わたしが遠慮すると、クラウス様は少しだけ眉根を寄せた。断られること自体が意外だ、とでもいうような顔だった。
「残せばいい。北はまだ遠い。腹を空かせて着いても、いいことはひとつもない」
言葉は素っ気ないのに、差し出す手つきは、やけに丁寧だった。わたしが受け取るまで、目もそらさずに待っている。
罪人に食事を与える義理などない人だ。
それなのに、宿でも馬車でも、この人はいつも過剰なくらいに毛布を重ね、火鉢を運ばせ、わたしが寒くないかを確かめる。
受け取った干し肉は、ずしりと重かった。その重さが、なぜだか喉の奥をつまらせる。
「なぜ、そこまでよくしてくださるのですか」
クラウス様は、すぐには答えなかった。一度だけ窓の外へ目をやってから、短く言う。
「本物を、寒さで死なせるほど間抜けじゃない」
「……それだけ、ですか」
「それだけで、十分な理由だろう」
短く返して、それきり窓の外へ目をやってしまう。答えになっていないようで、いちばん確かな答えのようにも聞こえた。
わたしは膝の上のパンを、ひとつ、口に運んだ。硬くて、素っ気なくて――それでも、誰かに差し出されたものを食べるのは、生まれて初めてだった。
夕刻、隊列に馬を寄せてきた副官が、わたしを一瞥して眉をひそめた。四十がらみの、日に焼けた顔の兵士だった。
「閣下。その娘が、本当に聖女だと?」
「ヨナス。疑うのは勝手だが、口には出すな」
ヨナス様と呼ばれたその人は、それでも得心のいかない顔で、馬を並べてくる。わたしへ向ける目には、まだ警戒の色が濃い。無理もない。神殿が罪人と断じた娘を、閣下がじきじきに連れ帰るのだ。
「……ですが閣下、辺境に聖女など、もう何年も来ておりませんぞ」
「来なかっただけだ。来られなかった、じゃない」
その一言に、ヨナス様が口をつぐんだ。わたしにはまだ、その違いの意味が分からない。ただ、答えるクラウス様の横顔が、ほんのわずかに翳ったのだけは、はっきりと分かった。
「昔は、神殿からも巡回の聖女が来ていたのですがな」
ヨナス様が、独りごとのように呟いた。
「みな、ひと冬ももたずに逃げ帰りましたが」
それきり、続きは語られなかった。逃げ帰った、という言葉だけが、凍えた空気にぽつりと残る。
なぜ逃げ帰ったのか。そして――本当に、逃げ帰った「だけ」なのか。訊くのがためらわれる沈黙が、馬車の中に落ちた。
「アイゼンベルクまで、あと二日ですな」
そう言い残し、ヨナス様は馬首を返していく。窓の外、地平の色が、いっそう暗く沈んでいった。
二日後、辺境の地に入った。
最初に目に入ったのは、灰色に枯れた畑だった。作物の影もない、ひび割れた土。その奥に、黒い霧がゆらりと立ち上る小さな森が見える。あれが瘴気だと、教えられるまでもなく分かった。肌が、ぞわりと粟立つ。
道の脇に並んだ民家は、どれも壁が煤け、窓に板が打ちつけられている。すれ違う人々の顔は青白く、咳き込みながら足早に去っていく。
荒れ果てた光景に、これが、と言いかけて、あとの言葉が出てこなかった。
「俺の領地だ」
クラウス様の声に、初めて苦いものが混じった。灰色の瞳が、遠い森の黒い霧を睨んでいる。
「十年、削られつづけている。瘴気は森から溢れ、畑を枯らし、井戸を濁らせる。人手はいくらあっても足りん」
「……民は、どうやって耐えているのですか」
「耐えるしかない」
クラウス様は、腰の剣の柄に手を置いたまま、静かに続けた。
「俺が斬れるのは、獣に変じた瘴気だけだ。土や水に染みたものまでは、剣の届く相手じゃない」
その声には、悔しさが滲んでいた。十年戦っても届かなかったものが、いま、隣にいる。剣では祓えぬもの。けれど、わたしのこの手なら、届くもの。
村の入り口に馬車が止まったとき、悲鳴が上がった。
「ミア! ミアが!」
女の人が、ぐったりした少女を抱えて駆けてくる。少女の腕には黒い斑点が浮き、荒い息を繰り返していた。瘴気に触れた者特有の、あの色。
「瘴気だまりに落ちたんです、井戸の裏の……! お願いします、閣下、どうか……!」
クラウス様は、母親の前に膝をつき、少女の腕をひとめ見た。その顔から、みるみる血の気が引いていく。
「神殿の聖女は、もう来ん。何年も前から、そう決まっている」
「では、この子は……もう……」
母親の声が崩れる。すがりつくその手を、クラウス様は振り払わなかった。ただ、ゆっくりと顔を上げ、その視線が――馬車のわたしへと向いた。
一瞬、迷うような沈黙があった。それから、彼は静かに口を開く。伏せていた切り札を、いま切るのだと決めた顔だった。
「セラフィーナ。できるか」
「わたくしに、診せてください」
わたしはもう、馬車を飛び降りていた。
冷えきった少女の身体を抱き寄せると、腕の中で、心臓が早鐘のように打っているのが伝わってきた。生きている。まだ、間に合う。手をかざし、指先に祈りを集めた。
あたたかい光が、少女の肌へ沈んでいく。聖水盤の水を清めたときとは、まるで違う手応えだった。あのときは、ただ黒い淀みをほどくだけでよかった。
けれど、いまこの手のひらの下では、小さな身体の奥で脈が、息が、必死に生にしがみついている。その熱に、わたしの祈りがそっと寄り添っていく。
黒い斑点が、みるみる薄れていく。荒かった息が、少しずつ穏やかになる。十五年、毎朝ひとりきりで繰り返してきた祈り。誰にも気づかれなかったあの祈りを、いま初めて、目の前で、誰かが見ていた。
長いまつ毛が震えて、ゆっくりと開いた。
「……お母さん?」
「ミア! ああ、ミア……! よかった、よかった……!」
母親が娘を抱きしめ、声を上げて泣き出した。遠巻きに集まってきた村人たちが、けれど食い入るように、こちらを見ている。
「本物、なのか……」
誰かが、掠れた声で呟いた。その一言が、張りつめた静けさに小さな穴を開ける。
「聖女さまだ……本物の、聖女さまだ……!」
堰を切ったように、声が広がった。村人たちが次々に膝をつき、あるいはわたしのほうへ手を伸ばしてくる。ある者は涸れた井戸を、ある者は枯れた畑を指さして、口々に何かを訴えていた。
老いた女がわたしの手を取り、皺だらけの頬を涙で濡らして、額を押しつけてくる。
「十五年、神殿の聖女さまなど拝んだこともなかった。こんな辺境の年寄りに、もったいない……」
十五年。
その言葉が、胸の奥にことりと落ちた。わたしが王都でただ祈りつづけてきたのも、ちょうど十五年。その同じ十五年、この土地は聖女に見捨てられていたのだ。
ひとつの都が、片方の手ではわたしを独り占めにし、もう片方の手では、この辺境を切り捨てていた。
そう思うと、老女の震える手が、いっそう小さく感じられた。十五年、王都で当たり前のように使われてきた力だった。感謝の言葉なんて、ただの一度も聞いたことがなかった。ここでは、わたしの祈りは「当然」ではなく、「奇跡」だった。胸の奥が、じん、と熱くなる。
「今日はここまでだ」
クラウス様が、人垣の向こうから短く言った。
「娘は疲れている。井戸も畑も、また明日でいい。あるだけ、逃げはしない」
その横顔は、さっきまでとは違う色をしていた。何かを堪えるような、それでいて、満ち足りたような。
わたしが小さくうなずくと、村人たちの間から、笑いがこぼれた。逃げない、と言い切れる土地があること。そのことが、なぜか無性に嬉しかった。
館へ戻る道すがら、ヨナス様が馬を寄せてきた。さっきまでの警戒を、少し引っ込めた声だった。
「……閣下の言うとおり、本物のようですな。長年、辺境ではろくな聖女に当たらなかったもので。ご無礼を、お許しあれ」
「いいえ。お疑いになるのは、当然のことです」
館に着くと、案内されたのは、薄暗い牢ではなかった。暖炉の焚かれた、立派な客間だった。寝台にはすでに、新しい毛布が幾重にも重ねられている。
わたしは、思わず戸口で足を止めた。ここは、と問いかける声さえ、出てこない。
「お前の部屋だ」
クラウス様は、扉の枠にもたれて、こともなげに言う。
「罪人に、客間を?」
「客に、牢はやらん」
そう言い捨てて、彼は扉の前で足を止めた。暖炉の火が、頬の古い刀傷を赤く照らしている。その傷が、ほんの一瞬だけ緩んだ。初めて見る、笑みらしきものだった。
「ここでは、お前を罪人とは呼ばない」
「……では、なんと」
「聖女だ。それ以外の呼び方が、あるか」
言い切ってから、思い出したように付け足す。
「湯の支度も、済ませてある。使え」
「これも、閣下が」
「他に誰がいる」
素っ気なく言い捨てて、目をそらす。その耳元が、心なしか赤い。それだけを残して、大きな背中が、廊下の闇へ消えていった。
わたしは暖炉の火を見つめながら、外套の襟をそっと握りしめた。王都で失ったものより、ずっと多くのものを、この一日でもらった気がした。
盥の湯に指先を浸すと、じんわりとした温かさが、凍えていた指の先まで戻ってくる。誰かが、わたしのために火を焚き、湯を沸かした。そんな当たり前のことが、こんなにも胸を満たすなんて、王都にいたころは知らなかった。
湯浴みを終え、窓辺に寄る。遠く北の空に、瘴気の森が黒くくすぶっているのが見えた。昼に見たときよりも、闇はいっそう濃さを増しているように思える。あの森からこそ、村を蝕む黒い霧が溢れ出しているのだ。
明日、わたしはあの森へ立つ。十五年、王都の片隅でただ祈るだけだったこの力が、初めて正面から、瘴気そのものと向き合う。
けれど――と、ヨナス様の言葉が耳の奥によみがえる。巡回の聖女たちは、あの森を前に、ひと冬ももたずに逃げ帰ったという。
本物でない聖女ですら音を上げた闇の中へ、明日、わたしは踏み込んでいく。
それでも、不思議と、怖くはなかった。あの闇の分だけ、わたしにできることがある。そう思えたから。
そう決めて窓を離れようとした、そのときだった。北の空、森の奥で、黒い霧がひときわ大きく渦を巻いた。まるで、新しく来た聖女の気配を、もう嗅ぎつけたとでもいうように。




