第001話 本物の聖女は、辺境へ捨てられました
十五年、この背の聖痕で、わたしは王都の結界を守ってきた。
その聖痕が、たったいま、偽物だと告げられた。
本物の聖女は、隣で頬を染めてうつむく、あの令嬢なのだと。
――瘴気を、ただの一度も祓ったことのない人が。
「セラフィーナ。そなたの背の紋様は、聖痕を騙った紛い物である」
白亜の大聖堂に、大神官ヴァレリウス猊下の声が鐘のように響いた。大理石の床にひざまずいたわたしを、七色の窓から落ちる光が照らしている。見上げれば祭壇の上に大神官猊下、そのかたわらに、真新しい純白の聖衣をまとった令嬢がひとり。
ジゼル・ド・モンフォール侯爵令嬢。ひと月前、突然「真の聖女」として神殿に迎えられた方だ。
「わたくしの、聖痕が……偽物?」
声が、自分でも驚くほど掠れた。わたしはセラフィーナ。物心つく前に神殿の門前に捨てられ、背に聖痕を持って生まれたという理由だけで、この白の大聖堂に引き取られた娘だ。家名はない。後ろ盾もない。あるのは、十五年のあいだ王都の結界に祈りを注ぎ、瘴気を祓いつづけてきた、この両手だけ。
瘴気――大地の底から湧き、触れた者の体を蝕み、田畑を枯らし、獣を魔物へと変えてしまう、黒い霧。それを祓えるのは、聖痕を持つ聖女ただひとり。そして王都をぐるりと囲む結界を日ごと祈りで保ってきたのは、ずっと、わたしだった。
「猊下。おそれながら」
わたしは、顔を上げた。
「わたくしの聖痕が偽りだと仰せなら、どうか証しをお示しください。この背の紋様は、生まれつきのもの。そして、この十五年、王都の結界を保ってきたのは、わたくしのこの手にございます」
「証しなら、そこにおる」
猊下は、隣のジゼル様へ、ゆったりと手を差し伸べた。
「モンフォール侯爵家に、真の聖痕を宿した令嬢が生まれた。神託が下り、鑑定の儀を経て、その聖痕は真と認められた。これは神殿の総意である」
「では――わたくしが退いたのち、王都の結界は、どなたが保たれるのですか」
わたしの問いに、猊下は憐れむように目を細めた。
「思い上がるでない、セラフィーナ。結界は、大聖堂の聖具と、歴代の聖女が積み上げてきた加護が保つもの。いまの聖女は、それに祈りを添えるにすぎぬ。ひとりの小娘の手に、都の命運が握られていたなど――ありはせぬ」
嘘だ。
結界を実際に支えていたのは、聖具でも遠い昔の加護でもない。毎朝わたしがこの手で注いできた、祈りそのものだった。それを、この大神官猊下がご存じないはずがあるだろうか。――いいえ。ご存じのはず。そのうえで、こう仰っている。
つまりこの方は、無知でわたしを切り捨てるのではない。何もかも承知のうえで、それでもわたしを消すと決めておられる。無能な相手より、承知のうえで動く相手のほうが、ずっと恐ろしかった。
「聖女の力は、尊き血筋にこそ宿るもの。門前に捨てられた、氏素性も知れぬ娘に、宿るはずがなかろう」
猊下がそう締めくくると、参列の貴族たちがいっせいにどよめいた。
「氏素性も知れぬ拾い子が、よくも十五年、我らを欺いたものだ」
そう吐き捨てたのは、モンフォール侯爵家と縁続きの、ドラクロワ子爵だった。
「侯爵令嬢さまが本物なら、何もかも道理が通る」
「ああ、恐ろしい。偽の聖女に、都を任せていたとは」
扇の陰のささやきが、さざなみのように広がっていく。侯爵家の後ろ盾、神託、鑑定の儀を経た「真の聖痕」。これだけの絵図を抜かりなく描かれてしまっては、後ろ盾のないわたしに、覆す術は何ひとつ残されていなかった。
わたしは、ジゼル様を見た。彼女はそっと目を伏せている。悲しげに。まるで、無実の娘が裁かれるのを憐れむように。
けれど――伏せたまつ毛の下で、その瞳がちらりとわたしを見て、笑った。
音のない、勝ち誇った笑み。
ああ、と思う。この方は、知っているのだ。自分が本物でないことを。そのうえで、その白い聖衣を着て、この場に立っている。
「セラフィーナ。聖痕を騙った罪は、重い。本来ならば火刑にも値しよう」
猊下の声が、慈悲深く沈んだ。
「なれど神殿は、慈悲を尊ぶ。そなたを、北の辺境――アイゼンベルク領へ送る。かの地で生涯、瘴気の祓いに身を捧げよ。それが、罪の贖いである」
アイゼンベルク領。国の北の果て。瘴気が最も濃く、聖女なきいま、魔物と黒い霧が絶えず押し寄せるという、死地。祓いに身を捧げよとは、体のいい言葉だ。要するに、あの地で野垂れ死ねということ。
聖女のいない辺境に、聖女だった娘をひとり放り込む。うまく瘴気に呑まれてくれれば、面倒な証拠は何ひとつ残らない。そこまで見越したうえでの、この慈悲。わたしは乾いた気持ちで、床の模様を見つめた。
そのとき、だった。
祭壇の脇――聖水をたたえた大盤の水面に、墨を一滴落としたような黒い淀みが生まれた。わたしにしか、見えていない。瘴気だ。この白の大聖堂の、清められた聖水の中にすら、黒い霧が滲みはじめている。
裁きのあいだ、わたしが祈りを注ぐ手を止めている。たったそれだけで、結界はもう綻びかけていた。指が、勝手に動いた。十五年、そう躾けられてきた体だ。ひざまずいたまま、そっと片手を聖水盤のほうへ向ける。
指先からあたたかい光が糸のように伸び、水面の黒い淀みへ触れた。黒はほどけ、聖水はまた澄んだ色を取り戻す。これが、最後。この都の聖女として、わたしが注ぐ最後の祈り。そう思って、清めた。
誰も、気づかない。祭壇の上のジゼル様でさえ、水面の異変に気づいてすらいなかった。本物の聖女なら、真っ先に肌が粟立つはずの、あの気配に。
わたしは静かに息を吐いた。「ひとりの小娘の手に、都の命運は握られていない」。猊下はそう仰った。その言葉が正しかったのかどうか――じきに、この都そのものが答えを出すのだろう。
「その罪人」
低い声が、大聖堂の扉のほうから響いた。ざわめきが、水を打ったように静まる。振り返ると、参列の貴族たちが波の引くように道を空けていた。その真ん中を、ひとりの男が歩いてくる。
黒い外套。褪せた色の甲冑。頬には古い刀傷。華やかな装いのなかで、その人だけが戦場の匂いをまとっていた。
クラウス・フォン・アイゼンベルク辺境伯。北の最前線で瘴気の魔物と戦いつづけ、「北の戦鬼」と呼ばれる将軍。そして――いましがた大神官猊下が、わたしを捨てると告げた、その領地の主。
「アイゼンベルクへ送るのだろう。ならば、私が連れて帰る。ちょうど、聖女の派遣を願いに参ったところだ」
「おお、辺境伯。ちょうど来ておられたか」
猊下の声が、あからさまに弾んだ。厄介払いの相手が、自分から出向いてきたのだ。無理もない。
「その娘は、聖痕を騙った罪人だ。丁重に扱う必要はない。存分に、こき使うがよい」
「そのつもりだ」
辺境伯は短くうなずき、ひざまずいたままのわたしの前まで来て、片膝をついた。間近で見る灰色の瞳が、まっすぐにわたしを射抜く。
「立て。名は」
「……セラフィーナ、と」
「セラフィーナ。いま、その聖水盤で、瘴気が湧いたな」
心臓が、跳ねた。
「そして、消えた。祓われたんだ。――俺には分かる。十年、瘴気ばかりを嗅いで戦ってきた。湧いた瘴気がかき消える瞬間なんぞ、この戦場から遠い都で感じ取れる人間は、そういない」
辺境伯は、祭壇の上のジゼル様を顎でしゃくった。
「あの聖女さまは、指一本動かしていない。動いたのは――ここにいる、お前だ」
わたしは、言葉を失った。十五年、誰にも気づかれなかった。祈っても祓っても、当たり前のように使われて消えていくだけだった。なのにこの人は、出会って一分も経たないこの人だけが、わたしの手が動いたことを見ていた。
「……なぜ、そこまでお分かりに」
問いかけて、口をつぐむ。辺境伯の瞳の奥に、一瞬だけ痛みに似た色がよぎった気がしたからだ。それは、初めて会った罪人に向ける目ではなかった。まるで――ずっと昔に、よく似た光を見たことがある、とでもいうような。
辺境伯は立ち上がり、着ていた黒い外套を無造作にわたしの肩へ掛けた。罪人の細い肩に、将軍の外套。大聖堂じゅうの視線が、その一点に集まる。
「……よろしいの、ですか。罪人に、このようなものを」
「罪人だと思う相手に、外套はやらん」
戦場の匂いのする重たい布は、驚くほど温かかった。
「行くぞ。北は寒い。そんな薄着では、根雪を越えられん」
差し出された手を、わたしは取った。十八年生きてきて、誰かに手を差し伸べられたのは、これが初めてだった。立ち上がりざま、辺境伯がわたしにだけ聞こえる声で言った。
「せいぜい、見物しておけ。お前を捨てたこの王都が、これからどうなるかをな」
その灰色の瞳が、聖水盤へ――さっきわたしが清めた、その水面へちらりと向けられる。
「聖女を失った都は、じきに黒く沈む。お前がいなくなった、その報いでだ。俺は十年、それを最前線で見てきた」
背筋が冷えた。この人は分かっている。ジゼル様が偽物だと。そして、この王都にこれから何が起きるのかを。
大聖堂を出るとき、わたしは一度だけ振り返った。祭壇の上で、偽物の聖女が勝ち誇った顔で参列者に微笑んでいる。その足もとの聖水盤に、また一滴、黒い淀みが生まれていた。
今度は――誰も、祓わない。
胸の奥で、いつか聞いた声がそっと響いた。誰の声かは、もう思い出せない。それでも、わたしが苦しいときにはいつも、母のように寄り添ってくれた、あたたかい声。
『焦らなくていい。本物は、時が証してくれる。――偽物は、時が暴くのだから』
わたしは、外套の襟を引き寄せ、前を向いた。辺境へ捨てられた、本物の聖女。けっこう。この身ひとつで祓えるものを、ありがたがりもしない都なら、こちらから願い下げだ。
これからわたしは、辺境で生きる。そして――わたしを捨てたこの王都が黒い霧に沈んでいくのを、辺境から、ゆっくりと見届けることにする。




