第010話 本物の聖女は、辺境に
刺客の一件から、十日が過ぎていた。
あれ以来、森の瘴気は相変わらず鳴りを潜め、村には日ごとに穏やかな空気が戻りつつある。けれど、その静けさを手放しで喜ぶ気には、まだなれずにいた。
連れ去られた男が去り際に残した「次は、もっと確かな手を使う」という言葉が、今も耳の奥にこびりついている。クラウス様は館の見張りを倍に増やし、坂の下の街道にも夜どおし兵を立てたまま、警戒をひとつも解こうとはしなかった。
十日、何も起こらない。それはむしろ、次の一手を静かに研いでいる者の、不気味な間のように思えてならなかった。
それでも、坂の下に広がる景色だけは、その張り詰めた静けさの底で、以前とは違う顔を見せ始めていた。
館の門の方が、朝から妙に騒がしい。何事かと思っていると、ヨナス様が息を切らせて中庭を回ってきた。
「聖女さま、閣下。今朝もまた、新しい馬車が三台。隣領からの巡礼だそうです」
「隣領から、ここまで?」
思わず聞き返すと、ヨナス様は苦笑いを浮かべた。
「近頃はもっと遠くからも来ますよ。聖女さまがこの地に根を下ろされてこのかた、初めは近在の村の噂だったものが、行商人の口から口へ、街道を伝ってじわじわと広がってきたのです。『北の辺境に、本物の聖女さまがおられる』と」
そこで一度口をつぐんでから、ヨナス様は思い出したように付け足した。
「それをここまで遠くへ運んだのは、どうやら、いつぞやの巡察官様のようで。都へお戻りになってから、この地で見たものを方々で触れて回っておられるとか。……王都の御不調が囁かれ始めてからは、噂の足取りが、いっそう速いようで」
ヨナス様の口ぶりは、我がことのように誇らしげだった。
その報せに、胸の奥が小さくざわめいた。誰に強いられたわけでもなく、自分の力を求めて、遠い土地から人が訪れる。十五年、王都の結界の内側に閉じ込められていたころには、考えもしなかったことだった。
――己の失態は隠す。だが、見たものは、いずれ誰かに漏らす。
坂を下っていく灯りを見送りながら、クラウス様がそう言ったのを、今になって思い出した。あの夜の見立ては、そのとおりになったのだ。
坂の下には、この十日ですっかり見慣れぬ景色が広がっていた。荷馬車の轍が幾筋も刻まれ、野営の煙があちこちに立ち昇っている。かつて誰も寄りつかなかった死地に、今は絶え間なく人の気配が満ちていた。
坂の下の広場には、朝のうちから長い列ができていた。杖をついた老人、咳の止まらない幼子を抱いた母親、旅塵にまみれた行商人。誰もが、縋るような、けれど確かな期待を宿した目でこちらを見上げている。
わたしは一人ずつ、丁寧に手をかざしていった。乾いた咳が和らぎ、老人の曲がった背に張っていた重だるい澱みがほどけていく。
かつてはたった一人の子供を祓うだけで、胸がいっぱいになっていた。今は、その何十倍もの数を前にしても、手はもう怯まなかった。列の端まで浄化を終えたころには、日はもう高く昇っていた。
「……こんなに大勢を、一度に」
隣で見守っていたヨナス様が、感嘆したように呟いた。以前は、村の井戸ひとつを祓うだけで精一杯だった日々を思えば、確かに遠くまで来たものだと、わたし自身も思う。
「まだ、途中です」
そう答えながらも、疲れよりも、満ちていくものの方が大きかった。
額に浮いた汗を袖でぬぐい、わたしは次の一人へ向き直った。列はまだ長く、日が傾くまでは終わりそうにない。
列の最後にいた白髪の老婆が、震える手でわたしの手を取った。
「ありがとうございます、聖女さま。……こんな遠くまで来て良かった。王都では、もう誰も、祓ってはくださらないから」
「王都、では」
「ご存じないのですか。あちらの聖女さまは、近頃はとんと表にお出にならないとか。祈祷所の列も、いつまで経っても進まぬそうで」
老婆はそう言うと、深く頭を下げ、連れの者に支えられながら坂を下っていった。
その背を見送りながら、胸の内に、静かな確信が広がっていく。かつて自分を偽物と断じたあの場所で、本物の座に据えられた人が、今なお何も祓えずにいる。
大神官があれほどの嘘の建前を並べてまで守ろうとしたものが、いったい何だったのか――その答えは、まだどこにも見えていない。
その昼下がり、ヨナス様が困惑した顔で耳打ちしてきた。
「聖女さま、少々妙な客が。名も家紋も伏せたいと仰るのですが」
案内された裏庭に、粗末な旅装に身をやつした一団がいた。先頭に立つ婦人の物腰には、その身なりにそぐわぬ気品があった。
「どうか、内密に。……娘が、瘴気に触れてしまい」
婦人に庇われるように、青白い顔の少女が身を縮めていた。年の頃は、ミアと同じくらいだろうか。
「はい、こちらへ」
わたしは迷わず、少女の前に膝をついた。手をかざすと、纏わりついていた淀みが、するりとほどけていく。少女の頬に、みるみる血の気が戻った。
「……ありがとう、ございます」
婦人は深く頭を下げ、逃げるように立ち去っていった。最後まで、名乗ることはなかった。
裏庭の門を抜けていく後ろ姿を、わたしはしばらく見送っていた。娘の頬に戻った赤みだけが、確かにここにあった証だった。
「今の御方は」
「北の街道沿いを治める、男爵家の奥方でしょう。……表向きは、閣下や聖女さまとは関わりのない家だと聞いております」
ヨナス様の言葉に、胸の奥がすっと冷えた。
助けを求めながら、その事実を隠さねばならない。わたしは今も、罪人の烙印を背負ったままなのだ。噂がどれほど遠くまで届こうと、王都が正式にそれを認めない限り、この壁は消えてなくならない。
けれど、と思う。壁の向こうから、そっと手を伸ばしてくる人が増えている。その事実だけで、十分だった。
夕暮れが近づき、館の窓に橙色の光が差し込み始めていた。長い一日の終わりを告げる、静かな色だった。
そのまま回廊を歩いていると、クラウス様と行き会った。
「今日も、随分な数だったな」
「はい。……嬉しい悲鳴、というものでしょうか」
素直に笑うと、クラウス様は珍しく目を細めた。灰色の瞳に映る夕陽が、いつもより優しい色をしていた。
「お前の力を、正しく求める者が増えた。それだけのことだ」
短く言うと、クラウス様は窓の外、坂の下に連なる灯りへ目をやった。行商人の荷馬車や、巡礼者たちの野営の灯だ。長く人を寄せつけなかった坂道に、いまは夜も灯りが絶えない。
「妙だな」
「何がです」
「昔は、この地に人を呼び込むのに、十年かけても敵わなかった。それが、お前が来てからは……」
そこで言葉を切り、クラウス様は少し困ったように眉を寄せた。次の言葉を選びあぐねているような、そんな沈黙だった。
わたしは黙って、続きを待った。
「……フィーネ」
低い声が、初めてその名を紡いだ。
心臓が、大きく跳ねた。これまでずっと「セラフィーナ」か、素っ気なく「お前」としか呼ばれたことがなかった。
「今、なんと」
聞き返すと、クラウス様の耳が、ほんのわずかに赤く染まっているのが見えた。
「……呼び方くらい、変えても構わんだろう」
言い終えるより早く、クラウス様はふいと窓の外へ視線を逃がした。低い声は、最後のひと言だけ、かすかに掠れていた。
「フィーネ、と」
もう一度、確かめるように呼ばれる。その響きが、耳の奥でいつまでも温かく残った。
「はい」
短く答えるだけで、精一杯だった。頬が熱くなるのを、隠す術もなかった。
窓の外では、坂の下の灯りが、夜の帳の中で瞬き始めていた。この温もりに満ちた景色の中に、自分の名を呼ぶ声まで加わったことが、まだ信じられずにいた。
その夜遅く、坂の下から一頭の早馬が駆け上ってきた。土埃にまみれた旅装の男が、息を切らして館の門を叩く。
「辺境伯閣下に、火急の報せを……!」
取り次がれた男は、行商人だという。王都から続く街道を、休みなく馬を乗り継いできたらしい。松明の灯りに照らされたその顔には、まだ醒めやらぬ興奮の色が残っていた。
「三日前、大聖堂で行われた月例の祈祷の儀にて――偽の聖女様が、祭壇の前で崩れ落ちるように倒れられたと」
一同が息を呑んだ。
「祈祷の途中で気を失われ、集った貴族や民の前で、聖具に縋りついたまま、指一本動かせなくなったと聞きます。大神官様が慌てて場を収められたそうですが、あの場にいた誰もが、はっきりと見てしまったと」
男は声を落とし、続けた。
「――聖女様は、何も、祓えなかったのだと」
沈黙が、館の広間に満ちた。
クラウス様の手が、わたしの肩にそっと重なる。その重みだけを支えに、わたしは坂の向こう、王都のある夜の闇を見つめた。
十五年、当たり前のように結界を支えてきた身が、それを離れてまだそれほどの時も経っていない。それだけの間に、あちらはもう取り繕う術さえ失いかけている。
「無理も、通らぬところまで来ましたか」
ヨナス様が、低く唸るように呟いた。
「本物の聖女は、辺境にいる」――その噂は、もう誰にも止められないところまで来ている。
けれど、と思う。公衆の面前で化けの皮が剥がれかけたのなら、大神官はそれをどう取り繕うつもりだろう。あの狡猾な人が、ただ手をこまねいて崩れていくのを、黙って見ているとは思えなかった。
――次は、もっと確かな手を使う。連れ去られた刺客の言葉が、なぜか今、耳の奥でもう一度よみがえった。
化けの皮が剥がれ始めた今夜は、きっと、何かが大きく動き出す、その始まりに過ぎない。




