第011話 国が、頭を垂れる
ジゼル様が人前で崩れ落ちたという報せから、十日ほどが過ぎていた。
公の場で祓えずに膝を折った——その報せに浮かんでくるのは、霧に怯えているであろう都の民の顔ばかりだった。けれど、王都はもう、わたしの手の届かぬ遠い場所だ。今わたしにできるのは、この地で祈り続けることだけ。そう自分へ言い聞かせて、日々をやり過ごしていた。
坂の下に集う巡礼の列は、今日も途切れない。荷馬車の轍が幾筋も刻まれた道の脇では、村人たちが野営の旅人に湯を配っていた。
子供たちが異国の言葉を真似て笑い合う声が、風に乗って館まで届く。かつて死地と呼ばれた土地は、もうすっかり別の顔を持ち始めていた。
それでもクラウス様は、見張りの数を減らそうとはしなかった。
「次は、もっと確かな手を使う」
連れ去られた男が残していったその言葉を、誰も忘れてはいなかった。
その朝、物見からの報せに、館の空気が張り詰めた。
「閣下、聖女さま。坂の下に一団が。……今度は、王家の紋です」
駆け込んできたヨナス様の声には、これまでとは違う硬さがあった。
「神殿の紋ではなく?」
思わず問い返すと、ヨナス様は頷いた。
「はい。モンフォール家の紋もございません。純粋な、王家の使者かと」
護衛の兵たちの数も、以前より随分と少ないという。武で押し通すのではなく、言葉で頭を垂れに来た――そう聞かされただけで、ヨナス様の声にも、いくらか和らいだ響きが混じっていた。
クラウス様の眉が、わずかに動いた。
「……表の顔ぶれが違う、か」
いつものように剣へ伸びかけた手を、ふと止める。
「今日は、館の広間で迎える」
意外な言葉に、わたしはクラウス様を見上げた。
「門前ではなく、ですか」
クラウス様は、迷いのない顔で続けた。
「王家が正式に頭を下げるつもりなら、無下に扱う理由はない。それに」
言葉を切り、クラウス様はわたしへ目をやった。
「お前の答えを、雨風の中で聞かせるものでもないだろう」
その一言に、わたしは思わず睫毛を伏せた。かつて門前で睨み合った、あの日とは何かが違う。そう思いながら、わたしは広間の椅子に座を移した。
広間の扉が開かれると、先頭に立っていたのは、白髪交じりの髪を几帳面に整えた壮年の男だった。
供の者たちが纏う外套には、神殿の紋でも侯爵家の紋でもない、王家の紋章が金糸で縫い取られている。
「セラフィーナ殿」
丁重な呼びかけだった。罪人として送り出されたその名が、今は確かな敬意とともに呼ばれている。
「王弟、ヴィルフリートと申す。此度は、陛下の名代として参った」
王弟殿下は、その場に膝までは折らなかったものの、深く、長く頭を垂れた。
供の者たちも、それに倣う。
かつて、伏せることしかできなかった頭が、今は自分より高い位の者から向けられている。その光景を、わたしはどこか遠い出来事のように見つめていた。
広間に、しばしの沈黙が満ちた。
「面をお上げください」
わたしが静かに促すと、ヴィルフリート殿下はゆっくりと顔を上げた。その目には、取り繕った様子がなかった。
「単刀直入に申し上げる。国は、そなたに対し非を犯した」
はっきりとした声だった。
「聖痕の真偽を誤り、十五年その身を捧げてきた者を、罪人として辺境へ追いやった。詫びて済む話ではないと、陛下も承知しておられる」
以前の使者、神官長ゲオルクの「不問に付す」という言葉とは、明らかに質が違っていた。
「そのうえで、頭を垂れて頼みたい。王都に、力を貸してはもらえぬだろうか」
ヴィルフリート殿下の声に、初めて、懇願の色が滲んだ。
「霧は、王城の内庭にまで及んでいる。このままでは、都そのものが立ち行かなくなる」
「王弟殿下」
わたしは、静かに口を開いた。
「非をお認めになったこと、確かに承りました。それは、以前の使者にはなかったことです」
「では」
殿下の声が、わずかに色めいた。その期待を、わたしは静かに断ち切る。
「けれど、詫びと願いは、別のものです」
きっぱりと告げると、殿下の表情が強張った。
「わたしの居場所は、ここにあります。ここで祈り、ここで人を助ける。それが、今のわたしの答えです」
殿下の手が、膝の上で握り込まれた。
「そなたの力を失えば、罪もない民が苦しむのだぞ」
「存じております」
胸の奥が、小さく痛んだ。それでも、揺らぐことはなかった。
霧に怯えているのは、貴族でも神殿でもない、何も知らぬ市井の民だ。その顔まで見捨てるつもりはない。けれど、その情ゆえに答えを曲げれば、十五年繰り返してきたことの、ただの焼き直しになってしまう。
「けれど、王都には王都の民を守る手立てを探す責があります。それを、わたし一人に押しつけて良いはずがありません」
広間に、重い沈黙が落ちた。
「彼女の答えが、すべてだ」
それまで黙って傍らに立っていたクラウス様が、静かに口を挟んだ。
「フィーネは、俺の所有物でも、辺境の道具でもない。一人の人として、自分の答えを出した。それを踏みにじる真似は、俺が許さん」
低く、けれど揺るぎない声だった。
以前のように「渡さん」と刃を向けるのではなく、ただわたしの隣に立ち、わたしの言葉を支える。その在り方が、以前の彼とはどこか違って見えた。武で守るだけでなく、選ぶ自由ごと守ろうとしている。そのことに、握った指先がふっと熱を帯びた。
ヴィルフリート殿下は、しばしクラウス様とわたしを見比べていたが、やがて、深く息をついた。
「……道理だ。無理を通す資格など、我らにはない」
殿下は再び、深く頭を垂れた。
今度は、供の者たちも呼吸を合わせるように倣った。
「せめて、詫びだけは、真実であったと知っておいてほしい」
随員たちが荷を整え始める中、ヴィルフリート殿下は一人、わたしのそばへ歩み寄ってきた。
声を落とし、他の者には聞こえぬほどの小さな囁きだった。
「一つ、腑に落ちぬことがある」
わたしは足を止め、殿下へ向き直った。
「なんでしょうか」
囁き声の中に、隠しきれない困惑の色が滲んでいた。
「都が沈もうというのに、大神官ヴァレリウスだけが、そなたの帰還に頑なに反対しておられる。陛下の御前でもだ。……救いの手を、なぜ拒む」
殿下の眉間に、深い皺が寄った。
「陛下の御意向でも、あの方おひとりの反対が、通ってしまうのですか」
わたしが思わず問うと、殿下は疲れたように首を振った。
「神殿は、建国の盟約以来、王権に服さぬ。聖騎士団は神殿の直属で、王軍の指揮の外にある。神官を裁くには、神殿の総意を問う場という古い手続きが要るのだ」
殿下は、絞り出すように続けた。
「儂ら王家は、あの方に、指一本触れられぬ」
王ですら、あの方には手が届かない。初めて聞かされる国の骨組みに、わたしは言葉を失った。
「そして、もう一つ」
殿下は、さらに声を落とした。
「あの御方は、そなたの素性について、我ら王家にすら明かさぬ何かを握っておられるようだ。折に触れ、そう仄めかされる。……あれは、いったい何を恐れておいでなのか」
その言葉に、心臓が跳ねた。
「素性、ですか」
問い返す声が、われ知らず掠れた。
「儂にも分からぬ。だが、都が沈んでも構わぬとばかりに、そなた一人を都へ入れまいとする執着だけは、尋常ではない」
殿下は、そこで一度言い淀んだ。
「……そもそも、あの方が大神官の座に就かれた経緯からして、儂には分からぬのだ。当時を知る者が、神殿にはもう一人も残っておらぬ」
一人も残っていない。その言い方だけが、妙に据わりが悪かった。けれど、それが何を意味するのかは、今のわたしには見当もつかなかった。
殿下は深く一礼し、身を翻した。
一団は、来たときと同じ静けさで、坂を下っていった。
夕暮れの光が、広間の床に長い影を落としている。随員たちを見送った広間に、もう、わたしとクラウス様のほかに人影はなかった。
隣に立つクラウス様の気配を感じながら、わたしはヴィルフリート殿下の言葉を、幾度も胸の内で繰り返していた。
大神官様は、なぜ都が沈んでも、わたしを都へ入れたくないのだろう。
思えば、あの神官長様の呼び戻しは、罪人の身柄を「不問に付す」と称して、あの方の手の内へ戻す話だった。帰すことそのものを、あの方は厭うてはいない。
あの方が阻んでいるのは、王家の手でわたしが復権する帰り方——わたしの素性に、光が当たる帰り方だけだ。その一点を拒むために、都が霧に呑まれるのも構わぬという。ただの意地や面目では、あまりに釣り合わない。
「何を、考えている」
クラウス様の低い声が、静かに問いかけてくる。
「……大神官様は、わたしについて、わたし自身も知らない何かを、ご存じなのかもしれません」
口にした途端、足元が急に覚束なくなるような心地がした。
わたしが何者なのか、わたしは知らない。物心つく前に大聖堂の門前に捨てられ、名も、生まれも知れぬまま育った。その空白のすべてを、あの方だけが握っている。そう考えると、身に覚えのない追放も、命を狙う刺客も、この不可解な拒みも、ようやく一本の糸で繋がる気がした。
「調べる価値はあるな」
クラウス様が、短く言った。その声には、お前を一人で暗がりに立たせはしないという、確かな響きがあった。
「……それなら、一つ、迷っていたことがあります」
わたしは、対面のあいだずっと胸に引っかかっていたことを口にした。
「あの徽章と、捕らえたあの男のこと。今日、殿下にお預けすべきだったのではないでしょうか」
クラウス様は、ゆっくりと首を横に振った。
「徽章の出どころは、ヨナスの伝え聞きが頼りだ。確かな証もなく神殿の長を名指しすれば、先に向こうへ口実をくれてやることになる」
淀みのない答えだった。とうに考え抜いていたのだと、それだけで分かった。
「口実、ですか」
クラウス様の目が、暮れかけた窓の外へ向いた。
「ああ。それに、王家の内にも、神殿の耳はある。今日の殿下は信じるに足る。だが、あの随員たちの口までは、誰にも縛れん」
クラウス様の声が、一段低くなった。
「切り札は、王家が本気で神殿と割れるまで伏せる。使いどころを誤れば、二度と使えん手だ」
わたしは、静かに頷いた。あの夜からの沈黙は、見て見ぬふりではなかったのだ。刃を抜く時を、この人は慎重に測っている。
さきほどの声の響きが、まだ胸の底に残っていた。返す言葉を探してみたけれど、どれも軽すぎる気がして、わたしは代わりに手を伸ばした。
剣を握り続けてきた、硬く乾いた手だった。その指を、自分の指でそっと包む。クラウス様が驚いたようにこちらを見たけれど、振りほどかれはしなかった。
差し出された手を取ったことなら、これまでにもあった。けれど、自分から誰かの手を取りにいったのは、生まれて初めてだった。
「……離しませんから」
思いがけないほど小さな声しか出なかった。それでも、指の力だけは緩めなかった。
クラウス様は何も答えず、ただ、包み返すように太い指を折った。
そのまま、二人で窓辺へ寄った。坂の下では、今日も遠い土地から辿り着いた人々が、焚き火を囲んで語らっている。その温かな灯りの向こうに、昼間、王家の一団が下っていった街道が、うっすらと白く伸びていた。
去り際の、あの背を思い出す。
供の者たちの前で、あの方は一度も背を丸めなかった。詫びを述べるときも、断られたときも、まっすぐに立っておられた。けれど身を翻して馬へ向かうその背には、随員の誰にも見せぬはずの疲れが、確かに滲んでいた。
国を背負う人が、遠い辺境まで頭を垂れに来て、それでも何ひとつ持ち帰れぬまま戻っていく。
――指一本、触れられぬ。
そう言い残していった人は、いまごろ、あの白い道のどこかにいる。王家の紋を縫い取った金糸だけが、夜の色へ沈んでいく街道で、小さく光っているはずだった。




