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第012話 母の名残

ヴィルフリート殿下の一団が坂を下ってから、五日が過ぎていた。


館の警備は、いまだ緩む気配がない。クラウス様は毎朝、見張りの配置を自ら確かめて回り、坂の下の街道には夜どおし篝火(かがりび)が焚かれ続けていた。


殿下が去り際に残した言葉が、幾度もわたしの内側で繰り返されていた。


大神官様が、わたしの素性について、王家にすら明かさぬ何かを握っている――その一言が、胸の奥に小さな(とげ)のように刺さったままだった。


幾晩も、そのことばかりを考えて過ごした。


けれど、考えているだけでは、誰も答えを運んできてはくれない。答えを握っているのは都のあの方で、その方にだけは、問うことができない。


台帳が与えてくれたエルフリーデ様の名から先は、もう辿(たど)り尽くしてしまった。いま、まだ辿り直せるものは、二つきりだ。


背の聖痕と同じ紋が彫られた、あの古い木片。そして、この土地に一度だけ聖女が訪れたという、言い伝え。


どちらも、同じ人の口から聞いたものだった。


「ギュンター爺に、会いに行きたいのです」


朝の見回りから戻ったばかりのクラウス様へ、わたしは自分からそう切り出した。


「あの言い伝えを、もう一度、初めから聞かせていただきたくて。……台帳の先が見えぬ以上、わたしに辿り直せるものは、あれきりですから」


クラウス様は、書状を持った手を、ゆっくりと下ろした。


「供をつける」


「はい」


「……いや」


灰色の目が、ふっと窓の外へ逸れた。


「俺が行く」


「では、わたくしもお供を」


いつのまにか戸口に立っていたヨナス様が、丸めた紙を小脇に抱えていた。


「以前お調べした通行台帳を、地図に重ねてまいりました。お話を伺うのでしたら、突き合わせるものがあったほうがよろしいでしょう」



村の外れの小屋を訪ねると、ギュンターは薪を割る手を止め、わたしたちの用向きを最後まで黙って聞いていた。


やがて、皺だらけの顔が、ゆっくりと(ほころ)んだ。


「聖女さまが、御自らこの(じじい)を訪ねてくださるとは。生きているうちに、こんな日が来るとは思いませんでした」


老人は(おの)を壁へ立てかけ、道の先へ顎をしゃくった。


「言い伝えなら、いくらでもお話しいたします。……ですがその前に、お連れしたい場所がございます」



(ほこら)は、村外れの木立の合間に、ひっそりと佇んでいた。


苔むした石積みの上に、小さな屋根がかけられ、色褪()せた奉納布や干からびた花束が、幾つも吊るされている。


「巡礼の方が、礼を残していかれる場所でしてな。長らく訪れる者もなく、忘れられておりましたが……ここを守るのは、代々、(わし)の家の役目でございます」


「ここに、聖女さまがおいでになったことが」


問いかけると、ギュンターは目を細め、遠くを見るような顔をした。


「存じておりますとも。……もう十年になりますかな。この祠に立ち寄られた、旅の聖女さまがおられました」


「その方が」


「名は、ついぞ名乗られませんでした。供のお一人も連れぬ、ただの旅の巡礼のなりで。……ですが、病に臥せっていた子に手をかざしてくださると、翌る朝には、嘘のように熱が引いておりました。あれが聖女さまの御業でなくて、何でございましょう」


ギュンターは、遠い日を手繰るように、しばし言葉を切った。


「時期は、はっきりと覚えております。ちょうど、閣下のお生まれになった村が瘴気に呑まれたという、あの初雪の晩と同じ頃合いでございました」


ヨナス様が、丸めた紙を石積みの上に広げた。


節くれだった指が、村外れから森の(きわ)を抜ける細い線をなぞり、この祠の前で止まる。


「エルフリーデ様が通られたという道筋が、ちょうどここを抜けております。……台帳の日付も、爺様のお話と寸分違いませぬ」


息を、そっと詰めた。


わたしが自分の足で訪ねてきたものと、ヨナス様が机の上で辿り直した道筋とが、この苔むした石の前で出会っていた。


クラウス様の肩が、わずかに強張るのがわかった。



ギュンターは祠の奥から、布に包んだ小さな包みを取り出した。


「あの方が、宿と、病の子への手当ての礼にと、置いていかれたものです。……いつか、然るべき方の手に渡すべきだと思い、ずっと守ってまいりました」


震える指で解かれた布の中から、色褪せた肩掛けの端切れが現れた。


刺繍(ししゅう)で縁取られた布の隅に、幾筋もの線が絡み合い、枝のように広がる紋様が施されている。


――見覚えのある紋だった。木片に彫られていたものと、寸分違わぬ形。そしてそれは、わたしの背にある聖痕とも、静かに重なっていた。


指先が、震えた。


「代々、この地にゆかりの深い紋なのだと、婆様から聞かされておりました」ギュンターは静かに続けた。「あの方だけの紋ではない、と」


代々。その言葉に、木片の言い伝えと、この端切れとが、ひとつの糸で繋がっていくのを感じた。


けれど、糸の先はまだ闇に沈んだままだ。ギュンターの婆様が語り継いだという遥か昔の聖女と、十年前にこの祠を訪れたエルフリーデ様。時代の隔たった二人を、この一つの紋が確かに結んでいる。


ならば、その間には幾人の聖女がこの地を巡ってきたのか。なぜ代々、同じ紋を負う者ばかりが、この北の辺境に現れるのか。手がかりが一つ増えるたび、問いはそれ以上の数に膨れ上がっていくようだった。



「あの方は、病の子を看病しながら、いつも小さな歌を口ずさんでおられました」


ギュンターがそう言った瞬間、頭の奥で、何かが(かす)かに震えた。


短く、単純な旋律。歌詞のない、ただの節回し。


物心ついたころから、怖い夜に、わけもわからず口ずさんでいた、あの調べだった。


誰に教わったのかも、覚えていない。ただ、指先が震え出すほど恐ろしい夜に、唇だけが勝手に、その節を辿ってきた。


今にして思えば、あの節を口に乗せると、決まって震えが凪いでいった。まるで、唇に乗せた調べそのものが、忍び寄る闇をそっと押し返してくれるかのように。名も知らぬまま、わたしはあれを、祈りのように口ずさんでいたのかもしれない。


「その、歌を……覚えておいでですか」


声が、かすれた。


ギュンターは目を閉じ、しばらくして、ゆっくりと低く節を紡ぎ始めた。


耳にした瞬間、鳥肌が立った。


同じだった。一音の違いもなく、それはわたしが幾度となく口ずさんできた、あの調べだった。



隣で聞いていたクラウス様が、不意に息を詰めた。


「――それは」


灰色の瞳が、大きく見開かれている。


「その節を、俺は知っている」


低い声が、かすかに震えていた。


「あの夜、傷の痛みで朦朧(もうろう)としていたとき、光の向こうから、確かに聞こえていた。あの方が、傷に手をかざしながら、口ずさんでいた歌だ」


クラウス様の記憶にある救い手と、ギュンターの記憶にある巡礼の聖女と、わたしの中に眠っていた調べ。三つの糸が、ひとところへ手繰り寄せられていく。


喉の奥が、熱く塞がれた。ばらばらに散らばっていたはずの断片が、いま確かに、同じ一点を指し示している。そしてその一点の向こうに、わたしの生まれそのものが横たわっている――足元から、そんな予感が静かにせり上がってきて、うまく息が継げなかった。


けれど、それを言葉にする前に、わたしは自分に言い聞かせた。


――符合しているというだけだ。まだ、繋がると決まったわけではない。


ギュンターの記憶も、クラウス様の記憶も、確かなものだ。けれど、同じ節を口ずさむ者が、この世に一人しかいないとは言い切れない。血の繋がりを証すには、まだ足りない。


「……これだけで、決めつけることは、できません」


自分に言い聞かせるように呟くと、クラウス様が、静かに頷いた。


「わかっている。だが」


そこで言葉を切り、クラウス様は端切れの紋様に、そっと指を這わせた。


「これほど重なるものを、偶然と呼ぶのも、無理がある」



ヨナス様は地図を抱えたまま、確かめたいことがあると言って村へ下りていった。ギュンターは祠に残ると言い、結局、坂道を上るのはわたしとクラウス様の二人きりになった。


道すがら、クラウス様はしばらく黙り込んでいた。


館の見える丘の途中で、ふいに足を止める。


「フィーネ」


「はい」


「もし、お前があの方の……エルフリーデ殿の娘だったとして」


言葉を選ぶように、間が空いた。


「俺は、変わらん」


「クラウス様」


「勘違いするな。……あの方への恩義で、お前を見ているわけじゃない」


灰色の瞳が、まっすぐにわたしを捉えた。


「あの方は、十年前、俺を救ってくれた。それは、確かな恩だ。だが、今、俺がこうして焦がれているのは」


そこで、クラウス様は珍しく言い淀んだ。剣だこの残る手が、無意識のように腰の剣の(つか)へ伸びかけ、けれど掴むものもなく、行き場を失って途中で止まる。戦場でしか手の置き所を知らぬ人が、それでも懸命に言葉を探していた。


「……今、目の前にいる、お前だ。それだけは、間違えるな」


不器用な声が、風にさらわれそうなほど小さかった。それでも、確かに届いた。


胸の奥が、じんと熱くなる。頬が焼けるのを隠せず、わたしはそっと(うつむ)いた。


「わたしも……クラウス様が、そう仰ってくださって、嬉しいです」


かろうじて、それだけを返す。クラウス様は、それ以上何も言わず、けれど隣に立つわたしの手を、そっと握った。


そのまま、二人で坂を上りはじめる。


やがて道は細くなり、並んで歩けば肩がぶつかった。どちらかが半歩下がり、また並び、それでも繋いだ指はほどけないままだった。館の門が見えても、坂を上りきっても、そのままだった。


離すきっかけを、どちらも作らなかった。



館へ戻ってしばらくして、村を回ってきたヨナス様が、険しい顔で広間へ入ってきた。


「閣下、聖女さま。お耳に入れたきことが」


「どうした」


「祠へ向かわれたあと、村の外れで、見慣れぬ男を見た者がおります。旅装ではあったものの、荷が軽すぎると、猟師が妙に思ったそうで」


「人相は」


「暗くて、はっきりとは。……ですが、坂の下から祠のある森の方角を、じっと窺っていたと」


ヨナス様の声には、隠しきれない緊張があった。


「これほど的を絞ったような動きは、初めてです」


指先から、すっと熱が引いた。


出生の真相へ、あと一歩のところまで手が届きかけている。その矢先に、まるで見計らったかのように現れた、見知らぬ影。


大神官様が、この動きに気づいていないはずがない――そんな予感が、拭いきれずに残った。


クラウス様が、剣を提げたまま、静かに窓の外へ目をやった。


「……見張りを、増やす」


その横顔には、これまでにない硬さが滲んでいた。


わたしも、同じ方角へ目を向けた。


日はもう坂の向こうへ落ちかけ、街道の脇の木立が、黒い塊になって沈みはじめている。祠のある森は、その裏手だ。


篝火の光は、坂の下までしか届かない。その先は、どこまでが木立で、どこからが森なのかも、見分けがつかなかった。


その暗がりのどこかに、こちらを見ている目がある。


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