第013話 黒幕の輪郭
夜が明けきらない窓辺で、わたしはいつのまにか、低く節を口ずさんでいた。
祠でギュンターが紡いでみせた、あの短い調べ。歌詞のない、ただの節回し。
――途中で、唇を閉じる。
まだ、これを母の歌と呼んでいいわけではない。そう決めたはずなのに、唇のほうが先に動いてしまう。
見張りが倍に増えて、三日目の朝だった。祠の森を窺っていたという見知らぬ男は、あれきり姿を見せていない。
坂の下から物見の声が上がったのは、その直後だった。
「閣下! 坂道に、行き倒れが!」
駆けつけると、旅装というにはあまりに粗末な布をまとった若い男が、坂の途中に倒れ込んでいた。
頬はこけ、唇は乾ききり、手足のあちこちに擦り傷が滲んでいる。
「水を」
わたしは膝をつき、震える口元に水筒を寄せた。ひと口飲み下すと、男は掠れた声を絞り出した。
「……神殿から、参りました」
その一言に、周りの空気が張り詰めた。
「名を」
クラウス様の声は低く、それでいて刃のような鋭さがあった。
「ベンヤミンと、申します。神殿の……記録係を、務めておりました」
館へ運び込まれ、傷の手当てと粥を与えられたベンヤミンは、いくらか血の気を取り戻すと、震える手を胸の前で組んだ。
「聖女さま。この身は、もう神殿には戻れません。ですが、どうしても、お伝えしなければと思い……」
「何を、です」
わたしが問うと、ベンヤミンは唇を噛み、しばらく黙り込んだ。それから意を決したように懐をまさぐり、煤にまみれた羊皮紙の切れ端を取り出した。
「大神官様のご命令で、古い記録を焼くよう申しつけられました。……その中に、これが」
差し出された切れ端には、焼け焦げた縁の内側に、辛うじて読み取れる文字が残っていた。
そこには「エルフリーデ」「病により身罷る」「遺されし赤子」――途切れ途切れの文言が、目に飛び込んでくる。切れ端の隅には、十八年前を示す古い年記が、煤の下から覗いていた。
十八年前。数えてみれば、わたしが生まれた年の頃と、重なっていた。
指先が、震えた。
ベンヤミンは、わたしの反応を窺うように、ちらと視線を上げた。
「詳しくは、私にもわかりません。焼く前に、たまたま目に入っただけのものですから」
声を落として、続ける。
「ですが、焼却を命じたのは大神官様御自らでした。年に一度あるかないかのことです。……普段は下の者に任せきりの方が、なぜあの晩に限って、ご自身で」
「その理由に、心当たりが」
膝の上で組んだベンヤミンの指に、いっそう力がこもるのがわかった。
「かつての私の師が、酔った勢いで一度だけ漏らしました。『先代の聖女様は、病では死んでおられぬ』と。……師はその晩のうちに、口を閉ざしたまま息を引き取りました」
沈黙が、広間に降りた。
ベンヤミンは、震える指で切れ端の続きを示した。
「もう一点、気になる記述が。『赤子は目立たぬよう、聖堂の内に留め置け』――そう記されておりました。……捨てるのでも、始末するのでもなく、留め置け、と」
耳にした瞬間、鼓動が大きく跳ねた。
「留め置け」
掠れた声が、思わず零れ落ちていた。
大聖堂の門前に捨てられたのだと、そう聞かされて育った。けれど、それが本当に「捨てられた」ことだったのか、それとも――
「わたしは、ずっと、見られていたということでしょうか。物心つく前から、あの方の、手のひらの上で」
声が、自分でも驚くほど掠れた。
十五年、罪人にも等しい扱いを受けながら、それでも結界のために祈り続けてきた。
あの日々のすべてが、誰かの掌の内で、都合よく飼い慣らされていただけだったのだとしたら。
床を見つめる視界が、ふいに揺れた。
「フィーネ」
低い声が、すぐ隣で名を呼んだ。
床へ落ちていたわたしの視線の高さまで、クラウス様が静かに身をかがめた。
大きな手が伸びて、俯いた頬にかかっていた髪を、耳の後ろへそっと払う。剣の柄を握るために硬くなった、節くれだった指だった。それが髪のひと筋を扱うのに、これほど慎重に動くのを、わたしは初めて見た。
遮るものがなくなって、伏せていた目と目が、まっすぐに合う。
「たとえ、お前がその方の掌の上にいたのだとしても」
その双眸は、いつもの刃のような鋭さの奥に、こちらを射抜くほどの熱を湛えていた。
「今、ここに立っているのは、お前自身だ。誰の掌の上でもない。……お前が何者であろうと、俺は、ここにいるお前を守る」
逸らされることのない視線に、揺れていた足元が、静かに定まっていく。
「……はい」
ようやく、それだけを返した。眼差しの熱が、今はただ、あたたかかった。
ベンヤミンは、その様子を眩しげに見つめてから、深く頭を垂れた。
「大神官様は、無知な方ではございません。あらゆる筋道を読み切ったうえで、なお恐れておいでのように見えました。……先代聖女様の血を、心の底から恐れておいでなのです」
ベンヤミンの言葉を、わたしは静かに引き取った。
「傀儡の聖女を据え、神殿と国を意のままにするため。そして、御しやすくない本物の血を、絶えず飼い殺しにしておくため――そういうことですか」
ベンヤミンは、静かに頷いた。
「憶測に過ぎません。ですが、そう考えれば、辻褄が合うことばかりです」
そこで、何かを思い出したように顔を上げる。
「……ひとつ、申し添えます。大神官様が位に就かれたのは、先代聖女様が身罷られたとされる、その年でございました。記録の上では、そうなっております」
記録の上では、と念を押す言い方だった。
位と死が、同じ年の中に並んでいる。それが何を意味するのか、わたしにはまだ、掴めなかった。
「一つ、解せんな。それほど周到な男が、なぜお前の師のような、口を知る者らを、十年以上も生かしておいた」
ベンヤミンは、卓の上の切れ端へ、そっと目を落とした。
「消せば、その不審こそが偽装を暴きます。だから殺さず、散らして黙らせるに留めたのでしょう。……あの方は、否認できる分だけの力しか、お使いになりません。表沙汰の詮索が、隠した何かを罪ごと掘り返すのを、誰より恐れておいでなのです」
そこまで言うと、ベンヤミンは深く俯いたまま黙り込んだ。
「よく、ここまで来られたな。見つかれば、命はなかったはずだ」
クラウス様の声には、労いとも、値踏みともつかぬ響きがあった。
「はい。……もう、後戻りはできません。私が消えたことに、大神官様が気づかぬはずがない。今頃、口を封じる手を探しておいででしょう」
ベンヤミンの声に、隠しきれない怯えが滲んだ。
クラウス様が顎で合図をすると、家人が二人がかりでベンヤミンを支え、奥の間へ連れていった。
扉が閉まるのを待って、クラウス様は口を開いた。
「あの男の話を、そのまま信じるのか」
ついさっき労いをかけた人と、同じ声とは思えなかった。
「神殿の記録係が、お前の出生を掘り当てる寸前で、都合よくこの坂へ転がり込む。しかも懐には、こちらが最も欲しがっている紙切れだ。……坂の下の牢にいる男は剣を、この男は紙を持って来た。それだけの違いかもしれん」
神殿から人が来るのは、これで三度目だった。旗を掲げた使者と、闇に紛れた刺客と、そして、坂に転がり込んできたこの男と。
「証言は採らん。身柄は縛って、殿下の手の者が来るまで牢へ入れる」
胸の奥が、ひやりと冷えた。粥を掻き込むときの、あの手の震え方が浮かぶ。あれは、人に見せるために作れるものではない。
「……お待ちください」
自分でも驚くほど、はっきりと声が出た。
「坂で水を飲ませたとき、あの人の肌の淀みを見ています。瘴気の残りが、体の芯ではなく、足の裏と脛にばかり溜まっておりました。……瘴気の濃い地面を何日も自分の足で踏み続けた者の溜まり方です。馬で運ばれた者は、ああはなりません」
淀みの深さと在り処を読み違えたことは、これまで一度もない。この目だけは、誰にも譲れなかった。
「歩き通した間諜も、おらぬとは言えん」
わたしは、切れ端の隅の年記を指で示した。
「この数字に意味があると気づくのは、この世でわたし一人です。あの人は、年記のことを一言も口にしませんでした。……罠の餌にするには、細かすぎます」
クラウス様は、しばらく答えなかった。灰色の目が、わたしと切れ端の間を、二度往復する。
「……お前は、俺の判断に異を唱えているな」
「はい」
そう答えてから、心臓が遅れて鳴った。この人の決めたことを正面から押し返したのは、初めてだった。
クラウス様は、それきり何も言わなかった。
ただ、牢へ入れる、とは、二度と口にしなかった。
夕刻、書庫から戻ったヨナス様が、別の報せを携えて広間に現れた。
「聖女さま、閣下。街道の商人が、王都の話を置いていきました」
「モンフォール家か」
クラウス様が片眉を上げて先を促すと、ヨナス様は苦笑いを浮かべた。
「はい。ジゼル様が倒れて以来、縁続きの家々が次々に手のひらを返し、『我が家はモンフォール家とは疎遠だ』と言い出す者まで出る始末とか」
「ドラクロワ子爵は」
わたしが尋ねると、ヨナス様は声を落とした。
「あの御方は、領地に閉じこもり、客を一切通さぬそうです。聖水の壺を買い漁りすぎて、蔵の金がとうに底を突きかけているとか。……先月まで居丈高だった執事が、隣領の商家へ職を乞いに来たそうで。家紋の入った銀器を、質草に抱えて」
家紋の彫られた銀の器が、見知らぬ商家の帳場に無造作に並んでいる。その絵だけが、やけにはっきりと目に浮かんだ。
かつて、氏素性の知れぬ拾い子と、わたしを嗤った人たちだった。今は、自らが積み上げてきたものから、一つずつ見捨てられている。
――大神官様は、いったい、どこまでを見越しているのだろう。
その夜遅く、わたしは窓辺で、ベンヤミンの言葉を幾度も反芻していた。
留め置け。飼い殺し。掌の上。そのどれもが、これまでの十五年に、新しい意味を塗り重ねていく。
扉を叩く音がして、クラウス様が姿を見せた。
「眠れんか」
わたしは、そっと目を伏せた。
「少し、考え事を」
クラウス様は、しばし黙ったままわたしの横顔を見つめ、それから窓辺に並び立って、坂の下の篝火の灯りへ目をやった。
「奴が消えたと知れば、大神官はもう、迂遠な手は使わん。……追い詰められた獣ほど、次の一手は大きい」
その言葉に、胸の奥がすっと冷えた。
「お前の出生が、あと一歩で像を結ぶところまで来ている。証跡を消すためだけではあるまいよ。あの男が最も避けたいのは、そちらだ」
刺客の残した言葉が、耳の奥で不意によみがえった。
――次は、もっと確かな手を使う。
あの言葉が、ようやく本当の意味を持ち始めている。
クラウス様は、篝火から目を離さぬまま、静かに口を開いた。
「明日の朝一番で、ヨナスを街道筋へ走らせる。哨戒線は外へ広げ、坂の中腹にも人を伏せる。……あの男が次の一手を打つより早く、盤面を整える」
一つ、また一つと、具体的な手立てを並べていく低い声だけが、部屋に落ちていた。
そこでクラウス様は言葉を切り、しばらく黙っていた。
「……ベンヤミンは、館のもっとも奥の間へ移した。牢では、ない」
顔を、上げた。
「ただし、外へは一歩も出さん。文も、使いも通さん。あの男の言葉は、他の証と突き合うまで、証としては数えん。……それでいいな」
「……はい」
「信じたわけではない、と言いたいところだがな」
クラウス様が、ようやく篝火から目を離した。
「お前が、あの男の体を読んだ。俺は、その目を信じる」
返す言葉が、すぐには出てこなかった。
昼間にわたしが押し返したたった一言を、この人は、日が暮れるまでかけて呑み込んだのだ。低く、短く、それだけを言うために。
「……ありがとう、ございます」
ようやくそれだけを返すと、クラウス様は「ふん」とも「ああ」ともつかぬ音を、喉の奥で鳴らした。
坂の下で、篝火がひとつ、音もなく爆ぜる。その灯りは坂の中腹までしか届かず、その先の街道は、王都へ向かって黒く沈んでいた。
どちらも、次の言葉を継がなかった。継がなくても、少しも困らなかった。
肩が触れそうな近さで、ただ黙って同じ火を見ている。それだけで、胸の奥のいちばん冷えていたところが、ゆっくりと温もっていった。




