第014話 押し寄せる大義
夜明け前、肌が、知らないものを捉えた。
祠の森を窺っていた者の気配とも、刺客の淀みとも違う。もっと遠く、もっと大きく、まだ何の形もなしていない何かが、南――王都のある空の彼方で、地の底に沈むように重く胎動している。
十五年瘴気を読んできて、初めて出会う手触りだった。あれはまだ遠い。すぐに届く牙ではない。
けれど、それとはまったく別の気配が、夜明けとともに、坂の下で剥き出しに立ち上がった。
朝靄を裂いて、松明の列が現れた。
物見の声が上がり、ヨナス様が駆けつけてきた。その顔は、これまでになく険しい。
「神殿の紋にございます。ただし――先頭に、黒い旗を。見たことのない意匠です」
クラウス様の目が、すっと細くなる。
「数は」
「五十は下りますまい。武装した聖騎士団に、輿を担いだ一団が続いております」
これまでの使者とは、明らかに質が違う。村を襲った刺客は、懐に徽章を隠した影働きだった。けれど今度は、旗を掲げ、神殿の紋を白日のもとに晒してくる。
「フィーネ」
クラウス様の低い声が、わたしを呼んだ。
「今日は、俺の後ろに立て」
ミアが母親に手を引かれ、不安げにこちらを振り仰いでいる。その小さな背が館の陰に消えるのを見届けてから、わたしは大きく息を吸った。
坂を上ってきた一団の先頭に立つのは、白髪を短く刈り込んだ痩身の男だった。黒地に金糸で縁取られた法衣をまとい、右手に黒曜石を思わせる杖を携えている。
「審問官、アルブレヒトと申す。大神官猊下の名において、異端審問の令状を執行しに参った。セラフィーナ、そなたには聖痕を偽り、辺境伯を惑わして国家に害をなした疑いがかけられている。神殿への同道を命ずる」
――「異端審問」ときたか。呼び戻しでも懇願でもない、消すための建前だ。
王弟殿下ご自身が頭を垂れて助けを乞うたのは、つい先日だ。これは、王家の意ではない。
異端審問なら、俗世の王の裁可は要らない。猊下の名ひとつで掲げられる大義だ。
けれど――腑に落ちない。
あの方は、否認できる分だけの力しかお使いにならない――ベンヤミンはそう言った。旗を掲げて兵を出せば、王家の目にも民の目にも残る。掠めることを、あの方は自分から捨てたのだ。
記録係が逃げ、焼いたはずの紙がこの館にある。否認する土台が、もう無いのだ。だから否認をやめ、大義で押し切りにきた。
慎重さが崩れたのではない。否認できるうちだけ慎重でいられた方が、否認できなくなっただけだ。
クラウス様が、一歩前へ出た。
「見え透いた言いがかりだ」
クラウス様は、腰の剣に手をかけた。
「この地は、俺が預かる領地だ。民の一人たりとも、無体には渡さん」
「拒まれるか」
「王家は先日、この方に頭を垂れて助けを乞うたばかりだ。その裁可もなく、神殿の名だけで領地へ兵を入れるか。大神官の焦りが、透けて見えるぞ」
「異端審問は、神の御業。俗世の王の裁可なぞ、要らぬ」
「拒めば、この地全体に破門と禁令を布告する。以後、この地に神殿の祝福も聖務も、一切届かぬものと思われよ」
禁令――洗礼も、葬送の祈りも、すべてが止まる。けれど。
「わたしは、逃げも隠れもいたしません」
わたしは、静かに前へ出た。
「けれど、身に覚えのない罪で連れて行かれる理由もございません」
「潔白を証すのは、そなたの役目ではない。神殿の役目だ」
アルブレヒトの目に、初めて嘲りが浮かんだ。
「もっとも――生きて証を立てられれば、の話だが」
言うと同時に、彼は黒曜の杖を地に突き立てた。
杖の先から、黒い靄が噴き上がった。村の空が、瞬く間に濁っていく。
「散れ! 民を、坂の上まで!」
クラウス様の号令が、朝の空気を裂いた。
靄の中から、瘴気に爛れた獣の影がいくつも湧き出してくる。クラウス様は迫る群れへ躊躇なく斬り込み、返す刀で聖騎士の一人を弾き飛ばした。
「死地に相応しく、呑まれるがいい」
アルブレヒトの声が、靄の向こうから届いた。
わたしは、両手を掲げた。
祈りを込めるより早く、黒い靄が村ごと呑み込もうと膨れ上がる。地から滲むのではない。頭上から、四方から壁のように押し寄せ、閉ざされた戸の隙間へと、意思を持って手を伸ばしてくる。
一つずつ祓う暇など、ありはしなかった。
「――全部、一度に」
肺の底から、声を絞り出した。光が、両手からあふれ出す。
けれど、いつものように指先から解けていく力ではなかった。光は泥のような瘴気の壁に押し返され、進むそばから飲まれかける。奥歯を噛みしめ、胸の芯から、絞れるだけの力を汲み上げた。これまでのどの浄化よりも、身の内を掘り起こす感覚だった。
クラウス様が瘴気獣を斬り伏せ、わたしの傍らへ戻ってくる。
「無茶はするな」
「いいえ」
わたしは、光の輪をさらに広げた。
「ここで退けば、次はもっと多くの人が、これに呑まれます」
村を包み込む靄の中心へ、光を押し込んでいく。腕の感覚が、少しずつ遠くなっていった。
そのとき、光の輪の切れ目を、黒い靄のひと筋が、するりと抜けた。
靄は坂の下の麦畑――ミアが「わたしが刈ったんだよ」と穂を掲げてみせた、あの畑へと滑り落ちていく。
光を割いて追えば、人のいる家々を押さえる輪が破れる。わたしは、輪を離せなかった。
黒い靄は畑の一角を音もなく呑み、炭のように黒ずんだ土だけを残して、退いていった。
膝が、がくりと崩れかけた。
「フィーネ!」
クラウス様の腕が、その体を力いっぱい抱き止めた。
「もう、いい。無理をするな」
「まだ……」
「聞け」
いつになく余裕を失った声が、耳元で震えていた。
「お前を、失いたくない」
初めて聞く、剥き出しの言葉だった。
胸当ての鉄と、なめした革の硬さが頬に食い込んでいた。血と鉄の匂い。片手は抜き身の剣を握ったまま、空いた腕一本が、わたしを地面から引き剥がすように抱え込んでいる。
抱きしめられた、というより、盾にされていた。霞みかける視界の端で、そう思った。
その腕の震えが諦めろという意味でないことだけは、痛いほど伝わってきた。
胸の奥に、まだ消えない熱があった。十五年、誰にも顧みられず結界を支えてきた、あの祈りの芯だ。
「大丈夫です」
わたしは、震える声で笑った。
「わたしは、まだ――ここに立っていられます」
クラウス様の腕を借りて、もう一度、足を踏みしめる。
視線の先に、黒曜の杖を掲げたアルブレヒトがいた。
――あの杖が、瘴気の源だ。
「クラウス様。あの杖を」
「わかった」
クラウス様が地を蹴り、聖騎士の壁を斬り払ってアルブレヒトへ迫る。剣が黒曜の杖を弾き飛ばした瞬間、わたしは残る力のすべてを、その一点へ叩き込んだ。
光が、渦の中心を貫く。濁っていた空が、波紋のように晴れていった。
弾き飛ばされた杖が地に落ち、黒曜の表面に亀裂が走った。砕けた欠片の内側から、見覚えのない印章が覗いていた。神殿の紋ではない、個人の名を刻む印だった。
アルブレヒトは片膝をついたまま、忌々しげにこちらを睨んでいた。
「呪具を失った審問は、もはや審問ではない。大義を欠いた兵をこの地で損なうは、猊下の失点になるだけのこと」
冷えた算盤を弾くような声で言い、彼は聖騎士たちに退き手を命じた。
「猊下は、これしきで退かれるお方ではない。次は――もっと確かな手を、用意しておられる」
聖騎士たちに支えられ、アルブレヒトは坂を下っていった。悔いる素振りは、最後まで一片もない。
ヨナス様が、駆け寄ってくる。
「閣下、聖女さま。村の者に、大きな怪我はございません。ミアも、無事に匿われております」
「禁令は」
クラウス様の問いに、ヨナス様が首を振る。
「あの審問官が令状を執行しきれず退いた以上、いま布告される謂れはございませぬ。ただ――大神官が神殿の総意として正式に破門を宣してくれば、その時は」
「その時は、また考える」
クラウス様は短く言い切った。脅しの刃は鞘に納まっただけで、頭上に吊るされたまま消えたわけではない。
「次の兵は」
重ねての問いに、ヨナス様は顎を撫でた。
「すぐには、来られますまい。聖騎士団の大半は、瘴気に沈みかけた都で、逃げ散る民と火事場泥棒の押さえに釘付けとか。辺境へ割ける兵は、あの一隊で精一杯でしょう」
クラウス様が、砕けた杖の欠片を拾い上げた。
「この印章――大神官ヴァレリウス様、ご本人の印章だ。神殿の紋ではない」
わたしは、欠片に目を凝らし――腑に落ちた。
「――残さざるを、得なかったのです」
「どういうことだ」
「これほどの瘴気を、人の手で一つに凝らせ、封じ込めるには……封じた者、その人の印を、核に据えるほかありません。力が、その名を軸にして淀みを束ねるのです」
力の理そのものが、名を要求する。この一点だけは、あの方にも逃れようがなかった。
「では、なぜ今まで露見せなんだ」
「本来なら、村もろとも呑み込まれ、誰の目にも触れずに済むはずでした。呑まれた者は、検分もできませぬから」
印章が白日のもとに晒される。それは、大神官様の筋書きにない、たった一つの誤算だった。
これまでの証跡は、すべて間接だった。けれど、これは――動かぬ証だ。
刺客も、この審問官も、同じ言葉を残して去った。けれど、そのたびに大神官様は証をひとつずつこぼしていく。徽章、記録の切れ端、そして今度は――ご本人の名。
次に何を寄越そうと、もう「知らぬ存ぜぬ」では逃げられない。追い詰められているのは、あの人のほうだ。
館へ戻る前に、わたしは、坂の下へ足を向けた。
麦畑の隅、家二軒分ほどの一角だけが、黒く焼け落ちていた。
刈り入れのあとに蒔き直され、芽吹いたばかりだった冬麦は、影も残っていない。
畑の縁で、ミアが黒い土をじっと見つめていた。駆け寄ってきたその前に膝を折り、目の高さを合わせた。
「ごめんなさい。……全部は、守れませんでした」
十五年祈りつづけてきて、初めて口にする言葉だった。
ミアは、ふるふると首を振った。
「聖女さまは、みんなを守ってくれたもん」
小さな手が、わたしの指を包む。その温かさが、かえって焼けた土の黒さを胸に刻みつけた。
わたしは焦げた土に手のひらを当てた。瘴気の気配は、もう欠片も残っていない。それでも、この土が今年の芽を返すことはない。
「……祓えば済むものでは、ないのですね。灼かれた土に実りが戻るには、季節が、いくつも要ります」
傍らに立ったギュンターが、静かに頷いた。
「灼けた土は、いっぺんは死にますでな。春を、二度か三度は数えましょう。……それでも、村ごと呑まれるよりは、ようございましたよ」
頭を下げようとしたとき、足元が、ふいに大きく傾いだ。
「フィーネ!」
クラウス様の声が、遠くで聞こえた。抱き止められた感触を最後に、視界が、音もなく閉じた。
それからの数日を、わたしは切れ切れにしか覚えていない。熱い泥の底で眠っているようだった。
夜半にまぶたが開いたとき、窓の外を、雪を踏む足音と、それを短く指図する低い声が通り過ぎていった。
――クラウス様の、声だ。
わたしが祈れずにいる間、あの方が剣ひとつでこの村の夜を守っている。安堵とも申し訳なさともつかないものが胸に満ちて、わたしはまた、眠りの底へ沈んだ。
はっきりと目が覚めたのは、三日目の夕暮れだった。
寝台の傍らに、クラウス様が座っていた。頬に無精髭が浮き、目の下に濃い影が刻まれている。胸当てを外してすらいなかった。
「気がついたか。……三日、眠っていた」
クラウス様は、わずかに目元を緩めた。
「村は、何事もない。森を窺う斥候が二度あったが、追い払った」
この方が眠っていないことは、問うまでもなかった。
「十五年、お前は一人で都を守ってきたんだろう。……数日くらい、守られる側でいろ」
言い返す言葉が、見つからなかった。守られるということが、こんなにも重くあたたかいものだとは、知らずにいた。
寝台の脇の卓に、布でくるまれた黒曜の欠片が置かれていた。あの印章がここにある限り、あの方は次の手を打たずにいられない。
祈りの底は、まだ薄いままだ。焼け落ちた畑の黒さも、瞼の裏に残っている。それでも。
わたしは、掛布の上に置かれたクラウス様の手に、そっと自分の手を重ねた。
「次に何が来ても、わたしは、ここに立ち続けます」
「――今は、まだ、この通りですけれど」
そう付け足して小さく笑うと、クラウス様は何も言わず、ただ強く、わたしの手を握り返した。




