第015話 証を立てる者
坂の下の麦畑――黒く焼け落ちたあの一角にだけは、まだ何も戻らない。
瘴気はとうに祓い浄めたのに、炭の色の土は、霜の朝を五つ数えても芽のひとつ覗かせない。杖が砕けたあの朝から、それだけの日が過ぎた。
村は少しずつ元の静けさを取り戻しつつある。子供たちの笑い声も戻り始めた。戻らないのは、この一角だけだ。
ベンヤミンは、館の最も奥に匿われたままだ。顔色は戻りつつあるが、扉の音ひとつに肩を震わせる癖だけは、まだ抜けない。
目を覚ました、あの夕暮れのことだ。わたしはクラウス様に、ひとつの推量を口にしていた。
――赤子は目立たぬよう、聖堂の内に留め置け。
熱の底でその一文を幾度も反芻するうち、文字の輪郭が、見慣れた場所の形を結んでいったのだ。
「大聖堂の内で、素性の知れぬ赤子を置いておける場所は、ひとつしかありません。……捨て子院。わたしが、育った場所です」
十八年前、あの堂で赤子を受け取り、世話をした者が必ずいる。当時を知る人の口は、焼け残りの記録よりずっと雄弁なはずだった。
「わたしたちは、この地を離れられません。ですが、王弟殿下なら――王都の内を探れる手を、お持ちのはずです」
言い終えるより早く、クラウス様は頷いていた。
「早馬なら、もう出してある」
思わず、目を瞠った。
「お前が倒れたあの晩のうちに、同じ答えに行き着いた。十八年前の捨て子院を知る者を探されたし、と殿下へ文を送った。……お前の口から同じ名が出た。的は、外れていない」
わたしが熱に沈んでいる間に、この人はもう、同じ一点へ辿り着いていた。
あとは、王都からの答えを待つだけだった。
その日の夕刻、坂の下から物見の声が上がった。
「閣下! 街道に騎馬が二つ! 王家の旗印を掲げております!」
二騎のうち片方の鞍の前に、外套に埋もれた小柄な人影が支えられて乗っていた。
差し出された書状を検めたヨナス様が、目を見開いた。
「王弟殿下の印にございます。……殿下の、手の者かと」
クラウス様が書状を開き、目を走らせて短く言った。
「――見つかったぞ」
書状にはこうあった。殿下の手の者は、かねて神殿を追われた古参の奉公人の行方を追っていた。そこへクラウス様の文が届き、探す先が捨て子院と定まった。堂を追われて北の街道を辿っていた元下働きの女に騎馬で追いつき、護り送る、と。
馬から助け降ろされた女が、頭巾の下に怯えを滲ませたまま、その場に膝を折った。
「……アグネスと、申します。大聖堂の、捨て子院に、長く勤めておりました」
眠りの底で結んだ推量が、生身の姿でこの坂を上ってきた。
館の奥へ通されたアグネスは、白湯で人心地がつくと、震える手で頭巾を下ろした。年の頃は五十過ぎ、目元に深い皺が刻まれている。
「聖女さま」
わたしの顔を見るなり、声を詰まらせた。
「大きく、なられましたね」
思わず、息を呑んだ。
「わたしを、ご存じなのですか」
アグネスは頷き、震える指で懐を探ると、色褪せた布の包みを取り出した。解かれた中から現れたのは、赤子の産着の切れ端だった。
隅に、幾筋もの線が絡み合い、枝のように広がる紋様が、丁寧に刺繍されている。
見覚えのある紋だった。木片にも、祠の端切れにも、わたし自身の背にも、同じ形が刻まれている。
指先が、震えた。
古びた布の匂いがした。埃と、微かな乳の匂いが、まだそこに染みついているようだった。
「十八年前の、雪の晩でした」
アグネスは、目を伏せたまま語り始めた。
「神殿の、位の高い方の従者が、夜更けに赤子を一人、抱いて参られたのです。表向きは、よくある捨て子として扱え、と。ただ、書付には一言、〈目立たぬよう、堂内に留め置け〉と」
やはり、と思った。ベンヤミンが持ち帰った焼け残りの記録と、寸分違わず同じ文言。二つの証が、初めて互いを裏づけ合った。
――他の証と突き合うまで数えん。あの夜クラウス様が引いたその線を、いま越えた。
「その子の、背中に」
アグネスの声が、かすかに掠れた。
「この産着と同じ紋の、痣のようなものがございました。忘れられるはずがございません。あれほど、はっきりとした形の痣は」
けれど、誰の子であるかまでは、と付け加える声は、いっそう小さくなった。
「わたしのような下働きに、教えてくださる方は、おりませんでした。ただ、大切に、それでいて誰の目にも触れさせるなと……そう命じられていただけで」
十八年前の、雪の晩。――それは、わたしがこの世に生を落とした頃に、そっくり重なる。今年で十八になる、その数と。
物心もつかぬうちに、聖痕を持つというだけで神殿へ囲われた。まだ三つかそこらで祈りの座に据えられ、以来十五年、この背ひとつで王都の結界を支えさせられてきたのだ。
幼子にすら祈りを課して憚らぬほど、神殿はわたしを、力を汲み出すだけの器としか見ていなかった。その冷たさが、いま一本の糸となって、この産着の温もりと繋がっていく。
「では、この産着は」
わたしが問うと、アグネスは布を両手で包み込むように握った。
「本来なら、焼くよう命じられておりました。……ですが、どうしても、できなかったのです。あの晩、震える赤子を抱いた腕の温もりだけは、忘れられずに。焼いたと偽って、ずっと、行李の底に隠しておりました」
「堂を、追われたのだな」
クラウス様の問いに、アグネスは唇を噛んだ。
「記録係の方が、消えたと聞きました。それからです、堂にお仕えする古い者たちが、次々と暇を出されるようになったのは。理由もなく、静かに。……次は、この身かと思い、都を離れました」
「行く当てが、あったわけではあるまい」
「噂を、耳にしたのです。本物の聖女さまは、北の地におられると。……ですが、この足で辿り着けたかどうか。街道で殿下のお手の方に呼び止められたときは、追手かと、心の臓が縮みました」
クラウス様が、問いを重ねた。
「堂の内は、いまどうなっている。大神官は、この地への破門を吊るしたままだが」
アグネスは、力なく首を振った。
「破門の布告には、神殿の長老会の連署が要ると聞いております。ですが、猊下御自らの粛清で、堂の内は皆、互いを疑うありさま。……連署など集まるまいと、囁かれておりました」
証人の口を封じるための粛清が、めぐりめぐって、あの方自身の刃を鈍らせている。
「ここに留まれ」
クラウス様が、静かに言った。
「お前の身も、証のひとつだ。粗末には扱わん」
アグネスは深く頭を垂れ、目元を拭った。
その夜、わたしはアグネスを、ベンヤミンの部屋へ案内した。同じ神殿を追われた者同士、顔を合わせるなり、二人は言葉もなく見つめ合った。
「あなたも、生きて辿り着かれたのですね」
ベンヤミンがそう呟くと、アグネスは静かに頷き、初めて小さく笑った。ひとりではないという事実だけで、二人の肩から力が抜けていくのがわかった。
木片。刺繍布と旋律。焼け残った記録。そして今、産着の切れ端と、この身に刻まれた痣。
ばらばらだった糸が、もう解きほぐせないほど固く縒られていく。神殿の別々の隅にいた二人が、それぞれの手触りで、同じ一点を指し示している。
今度の証は、向こうから転がり込んできたのではない。留め置け、の四文字から捨て子院を手繰り、王家の手を借りて、こちらから掘り当てたものだ。
――たとえ、すべてが真実だったとしても。
それでも、わたしが生きる場所は、ここだ。
十五年、王都で誰にも顧みられなかった。この地に来てから初めて、人に必要とされ、笑いかけられ、名を呼ばれることの温かさを知った。
血筋という答えが、その温かさに何かを付け加えることはあっても、奪うことはできないはずだった。
アグネスを休ませたあと、クラウス様と二人、館の裏手の井戸端に立った。冬の星が、凍えるほど澄んで瞬いている。
「怖くはないか」
不意に、クラウス様が尋ねた。
「己が何者か、確かめることが」
わたしは、少し考えてから答えた。
「怖くない、と言えば嘘になります。ですが――答えがどうであれ、わたしは、ここにいたいのです。クラウス様の隣で、この地の民と共に。それだけは、揺るぎません」
失いたくない、と言われた夜から、この人はその言葉に一度も触れない。触れないままで、備えだけを増やしている。
だからきっと、あの晩のことは二度と口にされないのだろうと思っていた。
クラウス様は、しばし黙り込んでから、ゆっくりと口を開いた。
「なら、これから先も――共に、この地で生きよう」
それだけを、一息に言った。求婚の言葉でも、愛の言葉でもない。けれど、その短さの分だけ、確かな重みがあった。
答えようとして、言葉が出てこなかった。
代わりに、クラウス様が一歩、間を詰めた。冷えた額に、硬く乾いた額が触れる。
息のかかる近さに、この人の顔があった。目を開けていられなくて、わたしはただ、まぶたを閉じた。
革と鉄の匂い。頬を刺す夜気が、触れ合ったその一点だけを際立たせている。
この人の顔がこれほど近くにあったことは、一度もなかった。
どちらも、何も言わなかった。言えることは、さっきの一言で全部だった。
やがてクラウス様は額を離し、戦の陣立てでも語るように低く続けた。
「お前の出自が公になれば、必ず横槍が入る。だから、備えは進めてある」
指が、ひとつずつ数えるように折られていく。
「ベンヤミンとアグネス、二人は明日から、館の者にも悟らせぬよう、別々の場所へ移して匿う。証となる品は、写せる記録は写しを取り、現物は幾つかの蔵へ分けて隠した。万一どちらかが奪われても、証が丸ごと闇へ消えることはない」
「そして、王家だ」
星明かりの下で、横顔が引き締まった。
「今度の一件で、王弟殿下との糸は、もう細くはない。あちらは約束どおりに動き、こちらは証を積んでいる。……王家と神殿の亀裂は、真実を明るみに出すとき、こちらの味方になり得る」
「クラウス様は」
声が、われ知らず震えた。
「いつも、言葉より先に、手が動いておられるのですね」
クラウス様は、ふと言葉に詰まり、咳払いをひとつして、夜空へ視線を逃がした。
そこへ、ヨナス様が足早にやってきた。
「閣下、聖女さま。……王都で、風向きが変わりましてございます」
「何だ」
「大神官様が、王のお許しも仰がず、異端審問の団を辺境へ差し向けられたこと――それ自体が、王都で問題になっているそうです。旗を掲げて堂々と都を発たれた以上、隠しようもございません。王弟殿下が、その独断専行を、陛下の御前で問い質されたとか」
「王家は、なぜ行軍を止めなかった」
クラウス様の問いに、ヨナス様は肩をすくめた。
「止められなかったのでございましょう。王家とて、神殿の兵の行軍を遮れば、それこそ神権への宣戦。……歯噛みしながら、見送るほかなかったようで」
「道理で、あの一隊は、都からここまで誰にも遮られず来られたわけか」
クラウス様の目が、すっと細くなる。
「呑まされた借りの分だけ、亀裂も深くなるというわけだ」
亀裂が深くなる。証が積み上がる。いずれ、すべてを明るみに出す日が来る。
けれど、そのどれを数えても、胸の底に片づかないものがひとつ残る。
氏素性の知れぬ拾い子と嗤った人たちのことは、もう、どうでもいい。飲み下せないのは、たった一行だ。
――エルフリーデ、病により身罷る。焼け残った紙に、そう記されていた。
病では死んでおられぬ、とベンヤミンの師は言い遺した。ならば、あれは嘘だ。誰かが筆を執り、一人の人の終わりを都合よく書き換えたのだ。
祠の炉端で病んだ子の枕元に付き添い、礼にと布を一枚刺していった人がいる。ギュンターは、その手つきを覚えている。産着にこの紋を刺した指も、確かにこの世にあった。
その人が、たった一行で消された。わたしの十五年は、その嘘の上に積み上げられていた。
気づけば、外套の下で両の拳を、指の関節が白くなるほど握りしめていた。慌てて、力を抜く。
――静かに。
自分に言い聞かせてから、思う。静かにしていることと、何も感じていないことは、同じではない。
クラウス様は、しばし黙考してから、静かに言った。
「証は、揃いつつある。だが、問題はここからだ。いつ、どこで、誰の前でそれを示すか。それを誤れば、真実は、また闇に葬られかねん」
夜の帳が、館の窓を静かに叩いていた。
――いつ、どこで、誰の前で。
決めなければならないのは、その三つだった。




