第016話 エルフリーデの娘
アグネスが辺境へ辿り着いてから、三日が経っていた。
村はいつもの静けさを取り戻していたが、館の中だけは、どこか張り詰めた気配が抜けなかった。ベンヤミンもアグネスも、それぞれ別の部屋に匿われたまま、息をひそめる日々を過ごしている。
朝の光が広間に差し込むころ、クラウス様は文机の上に一枚の白布を広げた。
「今日、ここへ全て集める」
低い声に、迷いはなかった。
「万一に備えて散らしていたが……もう、隠している場合ではない」
ヨナス様が幾つかの木箱を運び入れ、蓋を開けていく。ベンヤミンとアグネスも、緊張した面持ちで卓の傍らに立っていた。
古びた木片。焼け焦げた羊皮紙の写し。祠から預かった刺繍布。そして、色褪せた産着の切れ端。
四つの品が、白布の上に並んだ。
隅から隅まで、幾筋もの線が絡み合い、枝のように広がる、同じ紋様が刻まれている。
木片は、ギュンターが館へ持ち込んだもの。羊皮紙は、ベンヤミンが命がけで持ち出したもの。刺繍布は、祠の奥でギュンターが旋律とともに差し出したもの。産着は、アグネスが十八年間、行李の底に隠し続けてきたもの。
それぞれ別の場所で、別の人の手を渡ってきた品が、こうして一枚の布の上に並ぶと、まるで最初から一組だったかのように、寸分違わず重なって見えた。
「並べてみると、いっそう明らかだな」
クラウス様が、静かに言った。
「ヨナス、通行台帳の写しを」
「ただいま」
ヨナス様が、羊皮紙の一枚をそっと卓に加えた。「聖女エルフリーデ、巡礼のため北方境域を通過す」――かつてクラウス様の故郷が瘴気に呑まれた夜と同じ週に記された一文だった。
わたしは、五つの品を一つずつ、順に指でなぞった。
木片の紋、刺繍布の紋、産着の紋。どれも寸分違わず同じ形をしている。
「産着の紋と、わたしの背の痣は、同じ形です」
声が、自分でも驚くほど落ち着いていた。
「アグネスさんが覚えておいでの赤子は、十八年前のわたし。ベンヤミンさんが目にした記録の『遺されし赤子』も、同じわたし」
ベンヤミンが、静かに頷いた。
「記録の日付と、聖女さまのお年を照らし合わせても、ずれはございません」
卓を囲む者は、誰も言葉を挟まなかった。皆、白布の上で重なり合う紋を、ただ見つめている。
「そして、この通行台帳の記録は」
わたしは、クラウス様を見上げた。
「クラウス様を救われた聖女さまが、エルフリーデ様であったという証」
「十年前の、あの一週間だ」
クラウス様の声が、わずかに掠れた。
「十八年前にお前が生まれた夜と、十年前に俺が救われた夜は、別の出来事だ。それでも、両方の真ん中に、同じお方が立っておられる」
わたしは、通行台帳の一行に、そっと指を添えた。「年の頃二十歳前後」――境番が書き留めた、旅の聖女の姿だった。
「ずっと、この数がひとつ、腑に落ちずにおりました。母がここを越えたのは十年前。けれど、わたしが生まれたのは、その八年も前の十八年前です」
指を折りながら、声に出して数えてみる。
「わたしを産んだとき、母が二十歳だったのなら、この境を越えた頃には、もう三十路に近かったはず。旅装にやつれたお姿を、境番が幾つか若く見て書き留めただけなのでしょう」
口にするそばから、ばらけていた年月が、静かに一本の糸へ寄っていく。
二十歳前後という走り書きに、惑わされていただけだった。数え直せば、母がわたしを産み、その後も生きて、クラウス様を救うまでの月日は、どこにも綻んではいなかった。
沈黙が、広間に満ちた。
白布の上では、五つの品がもう互いに寄り添うように紋を重ねている。乾いた古い繊維から、祠の香をわずかに残した気配だけが、指先に立ちのぼった。祠で聞いた旋律の切れ端が、耳の奥でひとりでに鳴った。
物心つく前から、理由もわからず口ずさんできた、あの調べ。
十五年、誰に聞かせるでもなく胸の内だけで繰り返してきたその旋律が、今ようやく、行くべき場所へ辿り着いた。
木片も、記録も、産着も、旋律も――ばらばらに散らばっていた欠片が、一つの名の下に静かに収まっていく。
都の記録は、あの方の手で焼き尽くせた。けれど、北の関所の台帳の一冊、村外れの祠の端切れ、行李の底の産着までは、その手も届かなかったのだ。
わたしを死地に捨てたその手が、わたしを、母の足跡の真上へと運んでいた。
「祠の言い伝え、通行台帳の記録、記録係の証言、そして今日の産着」
クラウス様が、一つずつ指を折るように数えていく。
「どの一つを取っても、証としては弱い。だが、これだけ揃えば話は別だ」
「もう、疑う余地はない」
クラウス様が、静かに言い切った。
「お前は、先代聖女エルフリーデ様の、娘だ」
胸の奥で、何かが音を立てて定まった気がした。
これまで幾度も、符合を前にしながら「まだ決まったわけではない」と自分に言い聞かせてきた。けれど今、積み上げられた証の重みは、もう保留を許さなかった。
「はい」
わたしは、ゆっくりと息を吐いた。
「わたしは、エルフリーデ様の、娘なのですね」
言葉にした瞬間、目の奥が熱くなった。物心つくよりも前から、名も知らぬまま抱えてきた「母のような、あたたかい声」に、ようやく名前が与えられた。
アグネスが、皺だらけの指で目元を拭った。
「あの晩、抱かせていただいた腕の温もりが、間違いではなかったのですね」
ベンヤミンも、深く息を吐いた。
「命がけで持ち出した甲斐が、ございました」
ヨナス様は、口元を引き結んだまま、何も言わずに深く頭を下げた。その仕草だけで、十分だった。
ベンヤミンとアグネスは、深く頭を垂れてから、静かに部屋を辞していった。二人の足音が遠ざかると、広間には、クラウス様とわたしだけが残った。
窓の外は、もう夕暮れに近い。
「クラウス様」
わたしは、卓の上の産着に、そっと指を添えた。
「あなたを救ったお方が、わたしの母だったのですね」
クラウス様は、しばらく黙り込んでから、低く答えた。
「十年、あの光を探し続けてきた。……見つけた先が、お前だったとは、思ってもみなかった」
その声に、わずかな戸惑いが滲んでいた。
「あの方が、いつ、どのように身罷られたのか。まだ、何もわかっておりません」
わたしは、静かに首を振った。
「あの焼け残った記録には、母は十八年前に病で身罷ったと記されていました。わたしを産んだ、まさにその年に」
わたしは、卓の上の羊皮紙へ、もう一度目をやった。
「けれど、通行台帳は、その八年もあとに、母が生きてこの境を越えたと告げています。十八年前に病で亡くなった人が、十年前に旅をしているはずがありません」
指先が、焦げた紙の縁でそっと止まった。
「病で死んだというのは、偽りです。誰かが、母をあの年に死んだことにしておきたかった。ベンヤミンさんも、病では死んでおられぬと誰かが漏らした、と仰っていました」
「では、生きていた八年のあいだ、あの方はどこにおられたことになる」
クラウス様の問いに、わたしは首を横に振った。
「思えば、わたし自身、堂の内で育ちながら、先代の聖女さまは遠い昔に病で身罷られたと、そう聞かされてまいりました。都の民も、きっと同じです」
祠のギュンターも言っていた。名は、ついぞ名乗られなかった。供の一人も連れぬ、ただの旅の巡礼のなりだった、と。
「神殿は、外に向けては、十八年前に母を死んだことにした。生きた母は表から隠し、名を伏せた巡礼の旅にだけ出していた――あの記録の偽りは、その帳尻合わせだったのでしょう」
言葉が、そこで途切れた。ならば母は、いつ、どのようにして本当に命を落としたのか。触れかけるだけで、腹の底が冷える。答えは、まだ手の届かぬところにある。
「怖くなりました」
わたしは、正直に口にした。
「正統な血筋だと知れれば、また誰かの都合のいい器にされるのではないか、と」
これまで十五年、力だけを求められ、飼い殺しにされてきた。
血筋という重みが加われば、その扱いはいっそう強まるだけかもしれない。
クラウス様は、卓越しにわたしの手を取った。剣だこの残る、硬い掌だった。
「血筋がどうであろうと知ったことか」
その言葉は、短く、乱暴なほど率直だった。
「俺が十年探していたのは、名でも血でもない。あの夜、俺を照らした光そのものだ。そして今、俺の目の前にいるのは、その光を今この手で祓っているお前自身だ」
わたしを見据える瞳に、迷いはなかった。
「誰の娘であろうと構わん。俺が欲しいのは、フィーネ、お前だけだ」
硬かった声が、ふと緩んだ。
「正直に言えば、俺も怖い。お前が正統な血筋だと国中に知れ渡れば、また誰かがお前を都合よく扱おうとするかもしれん。……だが、それを恐れて黙らせておく方が、俺には耐えられん」
不器用な言い方だった。それでも、その裏にある想いは、まっすぐに伝わってきた。
胸の内側が、じわりと熱くなった。血筋の重さに押し潰されかけていた心が、その一言で、少しずつ軽くなっていく。
「……ありがとう、ございます」
それだけを、ようやく返した。クラウス様は何も言わず、わたしの震えが凪ぐまで、ただ手を離さずにいてくれた。合わさった掌の温もりが、乱れた息を静かに整えていく。
そのとき、廊下を駆ける足音が響いた。
「閣下! 聖女さま!」
ヨナス様が、蒼白な顔で飛び込んでくる。
「早馬にございます。王都から――」
差し出された書状を、クラウス様が受け取り、目を走らせた。その眉が、みるみる険しくなっていく。
「何と」
わたしは、思わず身を乗り出した。
「瘴気が、王城のすぐ間近まで達したとのことです。内郭の中枢は、もはや持ちこたえられぬと」
ヨナス様の声が、震えていた。
外郭の井戸、内郭、王城の庭先――これまで一つずつ数えてきた綻びの先に、ついに都の中枢そのものが呑まれかけている。
「城内では、貴族の方々が続々と郊外へ逃れ始めているとの噂も」
ヨナス様が、声を落として付け加えた。
「陛下だけは、最後までお留まりになるおつもりだとか」
出生の真実は、ようやく像を結んだ。けれど、その真実をいつ、どこで、誰の前に示すのか。答えを出す前に、王都という時計の針は、もう待ってはくれない。
真実は一つ像を結んだばかりで、母の最期という、もう一つの真実が、その奥で息を潜めている。
わたしは、握られたままの手に、そっと力を込めた。
白布の上では、五つの証が寄り添ったまま、もう揺るがぬ一つの答えを結んでいる。確かなものは、その答えと、握り返してくださる手の温もりだけだった。
その夜、寝つけぬまま、わたしは館の露台に出た。
凍てつく夜気が、頬を刺す。頭上いっぱいに、冴えた星々が鋭く撒かれていた。
南へ、目を凝らす。
息が、止まった。
王都のある方角――その一帯だけ、地平の際の星が、帯のように消えていた。
雲ではない。雲なら、風に流れて形を変える。その黒い帯は、地平に低く根を張ったまま、微動だにしなかった。
夜ごと肌の奥で感じてきた、あの遠い胎動。形をなさぬまま地の底で蠢いていた気配が、いま初めて、目に見えるものとしてそこにあった。黒い霧が都の空を塞ぎ、星の光さえ、呑んでいるのだ。
肌で聞くだけだったものを、この目で、見た。
――わたしを捨てたこの王都が黒い霧に沈んでいくのを、辺境から、ゆっくりと見届けることにする。
追放の日、大聖堂を背に胸へ刻んだ言葉が、蘇ってくる。あの誓いを、わたしは今夜、初めて文字どおりに果たしていた。
けれど、あの帯の下には、逃げそびれた民の営みがある。祓う手を持たぬまま、霧に呑まれていく灯りがある。
見届けると、決めた。その言葉の本当の重さを、わたしは今になって、ようやく知った。
背後で、聞き慣れた足音がした。振り向かなくても、誰かはわかる。
クラウス様は何も言わずに隣へ立ち、同じ南の空へ目を向けた。
「……見えるか」
「はい。……見えて、しまいました」
星の消えたあの空の下から、次に届くのは何だろう。急報か、使者か、それとも――行き場を失った、人の波か。
隣で、留め金がかちりと外れた。クラウス様が外套の前をひらき、その片側を、わたしの背へ広げる。
大聖堂であの外套を肩へ掛けられた日、この人は掛けるだけ掛けて、背を向けて去っていった。今は、一枚の布の内側に、二人で並んで立っている。
夜気は、縁からいくらでも入り込んでくる。それでも、その内側だけは、確かに温かかった。




