第017話 沈みゆく都
「聖女さま。王城が危ないってお報せから、今日で五日です」
朝の井戸端で、水桶を抱えたミアが、指を五本立ててみせた。村の子どもまでが、日を数えている。
「……ええ。五日ですね」
答えながら、胸の内でも同じ数を繰り返した。
坂の下に連なる巡礼の列に、様子の違う人影が混じり始めたのは、二日ほど前からだった。荷らしい荷もなく、着の身着のままで、足を引きずるようにして歩く者たち。
そして今朝、坂の上の物見が、街道の異変を告げた。
「南の街道に、人の列が。……巡礼の、列ではございません」
ヨナス様の報せを受け、わたしはクラウス様と連れ立って、村境の丘まで出た。
丘の上に立って、息を呑んだ。
街道の上に、列があった。子を背負った母親、杖にすがる老爺、頬のこけた男たち。点々と、それでいて途切れることなく、人影が連なっている。
列の先頭は、もう坂の下まで来ていた。最後尾は、見えなかった。街道のうねりの彼方、南の地平へ、糸のように細くなって消えている。
その地平そのものが、黒く沈んでいた。
王都のある方角。晴れた日には塔の影が霞んで見えるという一帯だけが、低く這う黒に呑まれ、空との境目を失っている。幾夜か前、露台から見た、星の消えた帯。昼の光の下では、こういう色をしているのだ。
「……あれが、いまの都だ」
隣に立つクラウス様が、低く言った。
わたしは、頷くことしかできなかった。都の傷口から流れ出したものが、北の果てまで辿り着いた――そんな光景だった。
見届ける、と刻んだあの言葉が、こんな形で目の前に置かれるとは思わなかった。
わたしたちは丘を下り、列を出迎えた。
雪の残る坂を下りながら、ヨナス様が言った。
「エルフリーデ様が北をお通りになったのも、こんな冬であったと聞きます。……その御方のお子が、いま、都に見捨てられた者たちを迎えに下りていく」
わたしは、すぐには返せなかった。母の名を知って、まだ五日しか経っていない。娘だと呼ばれても、どこか他所の家の話のようだ。
「……その名に、わたしはまだ、追いついておりません」
「追いつく必要は、ございますまい。いま坂を下りておられるのは、エルフリーデ様ではなく、聖女さまご自身です」
その一言に、足の運びが、わずかに軽くなった。
村の広場に集められた人々は、皆、虚ろな目をしていた。数は、ざっと五十を超えている。
「黒い霧が、市場の屋根を越えて、住まいの軒先にまで届いたのです」
そう語ったのは、幼子を抱いた女だった。
「井戸の水も、澱んでしまって……。聖水を求めても、法外な値をつけられて」
隣にいた老婆――グレタと名乗った――が、皺だらけの手で女の背をさすった。
「モンフォール家に取り入っていた商人らが、聖水を根こそぎ買い占めておるのです。うちの孫は、それで一滴も口にできぬまま」
言葉が、そこで途切れた。
見れば、女の腕の中の幼子の首筋に、薄墨を刷いたような斑が浮いていた。霧の淀みが肌に残した痕だ。並んだ人々の手の甲にも、頬にも、同じ翳りが散っている。
女が、胸元から焼け焦げた小さな御守りを取り出した。
「聖水が買えぬ代わりに、堂の軒で火にくぐらせた御守りが効くと聞いて……。気休めと、わかってはいたのです」
わたしは、その御守りを見つめた。都の惨状は、もう伝聞ではなかった。一人ひとりの肌に、胸元に、いまの都がそのまま写し取られている。
わたしは、何も言わずにその場へ膝をつき、幼子の額に手をかざした。
淡い光が、痩せた小さな体を包む。荒い息が少しずつ静かになり、首筋の斑が、雪の溶けるように薄れていった。
「……あたたかい」
グレタが、震える声で呟いた。
「王都では、もう、誰も、こんな風には」
「大丈夫です」
わたしは、集まった人々を、一人ずつ順に見回した。
「ここでは、誰も、指をくわえて見ている必要はありません」
光を、輪のように広げていく。倒れかけていた者たちの顔に、少しずつ血の気が戻っていった。
誰かが声を殺して泣き、誰かが震える両手を合わせて、わたしを拝むように頭を垂れた。
ただ一人、逃げ遅れて最後まで霧の中に残っていたという老爺だけは、顔色が戻りきらなかった。吸い込んだ淀みが、骨の髄まで染みついている。一度の祈りでは、祓いきれない深さだった。
「すぐには、抜けません。日をかけて、何度も、祓わせてください」
老爺は皺に埋もれた目でわたしを見上げ、何度も、何度も頷いた。
かつて自分を追い出した都が、今度は自分の民さえ見捨てている。その事実に、怒りより先に、静かな悲しみが胸を満たした。
いつの間にか隣に来ていたクラウス様が、無言のまま毛布とスープの椀を、次々と人々の手に配らせていた。
「今夜から、空いている厩の二階を使わせる。冬を越すだけの蓄えなら、まだ足りる」
短い指図だったが、ためらいのかけらもなかった。都が見捨てた人々を、辺境はまた一つ、当たり前のように呑み込んでいく。
その半刻ののち、坂の下に、また新たな一団が現れた。
「閣下、聖女さま。王家の紋を掲げた一団が。数は、先だっての比ではございません」
ヨナス様の声に、緊張が滲んでいた。
先頭に立っていたのは、ヴィルフリート王弟殿下だった。今度は、大臣格と見える者たちを幾人も従えている。
広間に迎え入れると、殿下は懐から一通の書状を取り出し、卓へ恭しく置いた。紅い封蝋に、国章が深く刻まれている。
かつての神官長ゲオルクの携えていた通達とは、重みからして違った。あれは形だけの命令書だったが、これは、国そのものの名を賭けた誓紙だった。
「陛下の御璽にございます」
殿下は、深く頭を垂れた。従う大臣たちも、それに倣う。紅い封蝋が、燭台の火を映して、ぬめりと光った。
「儂一人の一存ではない。御前会議にて、陛下ご自身がお認めになった、国としての正式な詫びだ」
殿下は、そこで一度、言葉を切った。
「先ごろ、諸侯列席の大典が催された。その祭壇の前で、ジゼル嬢が崩れ落ちられたのだ。……集うた諸侯すべての目の前でな」
殿下の声が、苦く沈んだ。
「もはや、体調不良では言い逃れが利かぬ。あれは聖女ではないのでは、と都中で囁かれておる」
十五年見過ごされてきた事実が、人々の目に触れるまでに、これほどの犠牲が要ったのだ。
「そのうえで、改めて願いたい。王都へ、戻ってはもらえぬだろうか。此度は、陛下ご自身の願いだ」
わたしは、卓上の書状を見つめた。
「殿下。詫びの重みは、確かに受け取りました」
顔を上げ、まっすぐに殿下を見る。
「けれど、聖女の座には、戻りません」
殿下の眉が、わずかに動いた。
「今朝がた、この村は、王都から逃れてきた方々をお迎えしたばかりです。聖水を買う金もなく、都の中で見捨てられておいででした。わたし一人が座へ戻ったところで、根にある冷たさが変わらなければ、同じことがまた繰り返されるだけです」
「……では、都を、見限られるか」
「いいえ」
わたしは、首を横に振った。拒む言葉だけを返すつもりで、この広間に立った。けれど、今朝のあの列を見たあとでは、それだけでは済ませられなかった。
「二つ、こちらからお約束いたします」
自分の声が、思いのほか、はっきりと響いた。
「一つ。都から逃れてこられる方々を、この辺境は拒みません。今日のように、これからもお迎えし続けます」
「二つ。都の中で、いま命に関わるほどの淀みが生じたなら、限りはあっても、辺境から手を貸します。……座に戻ることと、命を見捨てぬことは、別のことですから」
殿下は、しばらく黙って、わたしを見つめていた。
「……拒まれるとばかり、思うておった」
「その方々の顔を見るまでは、わたしも、そのつもりでおりました」
供の大臣の一人――財務を司るヴェルナー卿が、たまりかねたように口を挟んだ。
「聖女殿。施しの約束ではなく、座に戻っていただかねば意味がないのです。あなたが拒めば、都はいずれ滅びましょう。後の世は、あなたを何と語り継ぐか」
広間の空気が、ぴんと張り詰めた。
傍らで、クラウス様の気配が硬くなるのがわかった。けれど、その口が開かれるより早く。
「控えよ、ヴェルナー」
殿下ご自身の声が、広間を打った。
低い、刃のような声だった。大臣が、びくりと肩を跳ねさせる。
「儂らは、詫びに参ったのだ。恫喝しに参ったのではない」
殿下は、卓上の書状を指した。
「この誓紙に懸けて言う。都をここまで沈めたのは、この方ではない。我らだ。十五年背負わせ続けた方へ、まだ足りぬと詰る――その舌こそが、都を今日まで滅ぼしてきたのだと、まだわからぬのか」
ヴェルナー卿は血の気の引いた顔で頭を垂れ、口をつぐんだ。
殿下は、わたしへ向き直った。
「見苦しいところをお見せした。……二つの約束、ありがたく、陛下へ持ち帰らせていただく」
殿下は、声を一段低くした。
「そのうえで、正直に申そう。この使いにも、猊下は最後まで反対しておいでだった」
「反対、ですか。……都をお救いするための使いに?」
「ああ。都が沈もうとも構わぬから、そなたを都へは入れるな、と。御前会議の場で、そう言い切られた」
殿下の顔に、隠しきれぬ困惑が浮かんだ。従えてきた大臣たちも、皆、目を伏せている。
「あの御方は、神殿の権威も、傀儡の聖女すらも惜しんではおられぬ。ただ、そなた一人が都へ戻ることだけを、何を犠牲にしても阻もうとしておられる。……正気の沙汰とは思えぬ」
胸の奥が、冷たく波打った。
広間の高い窓から差す光が、卓に置かれたままの御璽の書状を、白々と照らしていた。国そのものが名を賭けて頭を垂れても、なお届かぬものがあるのだ。
傀儡の聖女を操り、神殿の力を保つことが目的なら、都が沈めば大神官様にとっても損のはずだ。それなのに、都を失ってでも、わたし一人を拒む。
――何を、それほどまでに恐れておられるのか。
かつて母を手にかけたのが、あの方だとしたら。わたしという血が都に戻ることは、その罪の生き証人が戻ることと同じなのかもしれない。
答えは、まだ出ない。
殿下は、力なく笑った。
「陛下は、猊下の専横を、これ以上見過ごすおつもりはない。……近く、神殿の総意を問う場を設けると仰せだ」
「総意を、問う」
「大神官の一存で、これ以上、国を振り回させはせぬ、ということだ」
その一言に、クラウス様と目が合った。王家と神殿の間に走った亀裂は、もう後戻りのできぬところまで来ている。
一団は、来たときよりも重い足取りで、坂を下っていった。
その夜、篝火の脇に立つと、厩の方角から、かすかな灯りが漏れていた。今夜だけは、飢えも寒さも凌げる者たちが、あの屋根の下にいる。
「約束を、したのだな」
隣に立ったクラウス様が、灯りへ目を向けたまま言った。
「はい。座には戻らないと決めたまま、それでも、差し出せるものを差し出しました。……欲張りだったでしょうか」
「いや」
クラウス様は、篝火に薪を一本、静かに足した。
「拒むだけなら、誰にでもできる。何を引き受け、何を引き受けぬか。その線を自分で引いた者だけが、約束を最後まで守れる。……お前は今日、それをやった」
わたしは、頷いた。守るべきものは、もう遠い都の理想ではない。今朝見たあの黒い地平と、この厩の灯り。その両方から、もう目を逸らさない。
言葉の代わりに、わたしは半歩だけ体を寄せて、隣に立つ人の肩へ、そっと頭を預けた。
クラウス様は、身じろぎ一つしなかった。ただ、薪へ伸ばしかけた手が、途中で止まったのがわかった。
この地へ来て、守られることには、少しずつ慣れた。それでも、自分の重みごと誰かに預けるやり方は、まだ知らずにいた。
祓いつづけた一日ぶんの疲れが、肩の高さから、ゆっくりと抜けていく。
「ですが……大神官様は、追い詰められるほど、何をなさるか読めなくなる気がします」
クラウス様は、しばし黙ってから、低く言った。
「総意を問う場が開かれれば、あの方も、もう後がない」
炎に照らされた横顔が、ふっと引き締まった。
「追い詰められた獣ほど、なりふり構わず牙を剥く。次にあの方が動くとすれば、体裁も建前もかなぐり捨てた、これまでとは桁の違う一手だ」
篝火が、ぱちりと爆ぜた。
桁の違う、一手。ただ、あの屋根の下の灯りと、今日口にした二つの約束だけは、何が来ようと手放さない。
預けた肩越しに、夜風が篝火を揺らしていく。それでも、厩の小さな灯りは、消えずにそこにあった。




