第018話 告白
王家の一団が坂を下っていってから、三日が過ぎていた。
厩の二階に匿われた避難民たちは、日に日に顔色を取り戻していった。子供たちが雪だるまを作って笑い声を上げるころには、怯えの色もずいぶん薄れていた。
その朝、わたしは井戸端で盥に湯気を立てながら、遠く霞む南の空を見上げた。あの胎動は、まだそこにある。けれど今は、目の前の温かさの方が、ずっと確かだった。
「聖女さま。このご恩は、一生忘れません」
避難民の女が、幼子を抱いたまま深く頭を下げた。わたしはただ、笑って首を振った。
十五年、都で礼を言われたことなど一度もなかった。まだ慣れないその温かさが、胸の奥を熱くする。
その足で、館の奥へ向かった。ベンヤミンとアグネスは、一度に狙われることのないよう、離れた別々の部屋に匿われている。
先に覗いたベンヤミンは、窓辺の椅子で背を丸め、外の笑い声にじっと耳を澄ませていた。
「王家が、いよいよ動くそうですね」
わたしが入ると、彼は硬い声でそう言った。噂は、閉ざされた部屋の中にも届いているらしい。
「証人として、あなたにも、いずれ都へ足を運んでいただくことになるかもしれません」
わたしがそう告げると、ベンヤミンは膝の上で手を握り合わせた。
「怖くない、と言えば嘘になります。ですが、聖女さまがおいでくださるなら」
その言葉に、わたしは深く頷いた。
「必ず、お守りします。ここまで来てくださった、その勇気に報いるために」
彼の肩から、わずかに強張りが解けていくのがわかった。
廊下を隔てた向こうの部屋で、アグネスもまた同じ不安を抱えていた。けれど、同じ言葉を返すと、彼女もそっと息をついてくれた。二人を一つの部屋に集めないのは、この人たちの命こそが、大神官の企みを崩す最後の楔だからだ。
昼過ぎ、広間にヨナス様が急ぎ足で現れた。
「閣下、聖女さま。王弟殿下より、密使が参りました」
差し出された書状に、クラウス様が目を走らせる。
「総意を問う場は、ひと月後。王城の大広間で開かれる、とある」
ひと月――遠いようで、あまりに近い日数だった。
密使は、書状を渡してもなお、その場を動かなかった。
「……もう二つ、口上にてお伝えせよとの仰せにございます。一つ。猊下は日取りが定まったとお聞きになるなり、御前で杖を取り落とされました。それを拾おうとなさる手が震えていた、と居合わせた方々が」
慈悲深い聖職者の仮面に、ひびが入り始めている。
「今ひとつが、火急にございます。猊下は、場を待たず、御自ら、証人お二人を『異端』として処断すると布告なさいました。……長老会の連署も待たず、御一人の名で」
広間の空気が、ぴたりと止まった。
「連署なき布告ゆえ、王都でも効力を疑う声が上がっております。ですが猊下は、効力より先に、実力で口を封じるおつもりかと」
「証人ごと、始末するつもりか」
クラウス様の声が、低く沈んだ。
三日前の夜、この人は言った。追い詰められた獣ほど、体裁も建前もかなぐり捨てた桁の違う一手を打つ、と。それが、そのままの形で落ちてきている。
「通らぬと承知で、出されたのですね」
「布告が効くかどうかは、あの方にはもう関わりがない。要るのは、二人の口を塞ぐ間の建前だけだ」
「ヨナス。表の街道は、目が多すぎる」
「裏の猟師道であれば、手前の手勢だけで十分に守れましょう。雪は、まだ膝までは参りませぬ」
クラウス様が地図を広げると、ヨナス様の指の方が先に、その上を走った。
「証人お二人は、行商の一団に紛れさせます」
「物証は分けろ」
「写しをいくつかに割り、別の隊へ。……一度にまとめて奪われることのないように。それと、空の荷しか積まぬ馬車をもう一台、表の街道へ。これ見よがしに」
「そちらは、俺が引く」
ヨナス様は、止めなかった。長い付き合いで、無駄だと知っているのだろう。
「万一、どこかの一隊が襲われたときは」
わたしが口を挟むと、二人の視線が同時にこちらへ向いた。
「残る隊が届ける。道筋も日取りも、幾通りか用意しておく。どれが本物かは、この広間の外の誰も知らん。……一つも、奪わせはせん」
「明朝、暗いうちに動けるよう、支度を整えます」
段取りが、二人の口の間で、みるみる形になっていく。
それなのに、胸の底には、収まりの悪い小石のようなものが残っていた。
あの方がこれまでに打ってきた手を、一つずつ数え直してみる。使者が坂を上ってくるより前から街道脇の木立に立っていた黒外套の男。月のない夜を選んで村を襲った刺客たち。年に一度あるかないかの記録の焼却に、御自ら立ち会われたという一夜。どれも、同じ順序でできている。
――あの方は、いつも、口と紙を先に消す。
あの刺客ですら、わたしを殺しに来たというより、わたしが何者であるかを誰にも言わせぬために来たのだ。
そこまで考えて、背筋が冷えた。
「クラウス様。……あの方が恐れておいでなのは、この館にいる二人だけでしょうか」
クラウス様が、目だけをこちらへ上げた。
「アグネスさんは、堂を追われた古参の奉公人の一人でした。殿下の手の者に辿れたのなら、猊下にも辿れます。十八年、あの堂の主でいらしたのは、あの方なのですから」
「……続けろ」
「都には、まだ、十八年前のあの晩を知る古い口が残っています。捨て子院に出入りしていた者、書付を写した者。アグネスさん一人が残ったなどということは、ありません。街道の証人を守り切っても、都の口が先に消されてしまえば、証は半分に減ります」
ヨナス様が、息を呑む音がした。わたしは、密使の方を見た。
「殿下へ、お願いしていただけませんか。神殿を辞した古参の奉公人がたを、こちらの荷が動き出すより先に、保護していただきたいと」
クラウス様は、しばらくわたしを見ていた。それから、口の端をわずかに持ち上げる。
「――使者殿。返書を待たれよ。書き足すことができた」
「はっ」
クラウス様は羊皮紙を引き寄せながら、こちらを見もせずに言った。
「敵の手を数えて、次の一手を読んだな」
「……当てずっぽうです」
「当てずっぽうで、背筋は冷えん」
名も顔も知らないその人たちへ手を伸ばせるのは、たぶん今日が最後だった。
夕刻、わたしはひとり井戸端に立った。冷えた空気に、吐く息が白くたなびく。
厩の方角から、かすかな灯りと、子供のはしゃぐ声が漏れていた。
言おうと決めたわけではなかった。ただ、今日一日、胸の奥で同じ想いが幾度も込み上げては、そのたびに喉の手前で引き返していた。
引き返す理由は、いつも三つあった。
一つ。わたしはまだ、聖痕を偽ったと断じられた罪人のままだ。晴れるとも知れぬ汚名を抱えたまま想いを告げるのは、この人の背にもう一つ荷を括りつけることに思えた。
二つ。この人が十年探し続けた光は、母だった。わたしを見る目の奥に時折よぎる、あの痛みに似た色。あれが本当はどこを見ているのか、確かめるのが怖かった。
三つ。これが、いちばん重い。わたしは十五年、必要とされることでしか、そこにいてよい理由を持てなかった。断られたら、この館にいる理由を、自分の手で一つ削り落としてしまう気がした。
足音に振り向くと、クラウス様が隣に並んだ。何も言わず、ただ星を見上げている。夜気に晒された横顔は、遠い篝火に縁取られ、いつもより硬く、静かに見えた。
指先はとうに冷えきっているのに、隣に立つこの人の気配だけが、じんわりと温かかった。
出会った日のことを、ふと思い出した。断罪の場で立たされていたわたしに、この人だけが手を差し伸べてくれた。あれから、まだ一年も経っていない。それなのに、この人のいない暮らしなど、もう思い描けない。
胸の鼓動が、自分でもわかるほど速い。寒さのせいではなかった。
息を一つ吸って、そのまま止めた。吐いてしまえば、また飲み込んでしまう気がした。
「クラウス様」
わたしは、その横顔を見上げた。
「今日、あの方々の笑顔を見ていて、思ったのです。この温かさをくださったのは、あなたなのだと」
クラウス様は、何も言わなかった。ただ、ゆっくりと視線を落とし、わたしの顔から足元の雪へと目を移す。その沈黙が、拒む沈黙でないことは、なぜだか分かっていた。
「十五年、都では、誰かに必要とされることも、笑いかけられることもありませんでした。ここへ来て、初めて知ったのです。人を想うということが、こんなにも……」
言葉が、そこで詰まった。それでも、止めたくはなかった。
「あなたを、お慕いしています。ただの感謝でも、憧れでもなく」
篝火の爆ぜる音だけが、二人の間に落ちた沈黙を、静かに埋めていた。
「愛しているのです、クラウス様を」
言い終えた途端、止めていた息が堰を切って零れた。膝から力が抜けそうになり、慌てて足の裏へ力を込める。
クラウス様は、しばらく身じろぎもせず、わたしを見つめていた。篝火の灯りが、その瞳の奥で小さく揺れている。喉仏が、一度だけ、上下した。
「……フィーネ」
声が、掠れていた。
「俺のような無骨者に、そんな言葉をもらう資格があるとは、思っていなかった」
剣だこの残る手が、ためらいがちに持ち上がり、わたしの頬に、そっと触れた。武具を握り続けてきた掌は硬く、節くれだっている。それなのに、その指先は、壊れ物にでも触れるように、かすかに震えていた。冷えきった頬に、その熱だけが、じんと沁みていく。
「十年、光を探し続けて、ようやく辿り着いた場所がお前だった。……その時からずっと、俺は」
言葉を探すように、しばし黙り込む。
「愛している。お前のいない辺境なぞ、もう思い描けん」
短く、飾り気のない言葉だった。それでも、その一言に、十年分の重みが宿っているのがわかった。
わたしは、頬に触れたその手へ、そっと自分の手を重ねた。指先の冷たさが、掌の熱に溶けていく。
飲み込んできた三つの理由が、順に落ちていく。罪人の名なら、この人は初めから承知のうえでわたしを馬車へ乗せた。十年の光は、いま、わたしの名で結ばれた。そして――断られなかった。
けれど、いちばん深いところで解けたのは、そのどれでもなかった。かつては、力を求められることだけが、自分の値打ちだと思っていた。今はもう、求められるからではなく、ただこの人の傍にいたいから、ここにいる。いつか誰にも必要とされなくなっても、わたしはきっと、ここにいたい。その違いが、こんなにも胸を温めるのだと、初めて知った。
クラウス様の腕が、わたしの背に回る。硬い胸に頬を寄せると、規則正しい鼓動が伝わってきた。わたしもおそるおそる、その背へ腕を回す。外套越しの体温が、掌に広がっていった。
――向かい合って、互いから腕を回したのは、これが初めてだった。
大義の旗が押し寄せたあの日、頬に食い込んだのは鉄と革の硬さだった。いまは、鎧もない。
白い息が、二人の間でひとつに混ざり合っては、夜へ溶けていった。
どちらからともなく身を離したとき、篝火はずいぶん低くなっていた。
「……冷える。戻るぞ」
並んで、館へ続く雪道を歩いた。
幾度も並んで歩いた道だ。それなのに今夜は、歩幅がまるで合わなかった。わたしが半歩急げば、この人が合わせて遅くなる。待てば、今度は肩がぶつかる。二度、ぶつかった。二度目に、どちらからともなく小さな笑いが漏れた。
「……不器用ですね、わたしたち」
「十年、一人で歩いてきた足だ。すぐには直らん」
灯りの落ちた廊下では、暖炉の残り火だけが赤く息をしていた。別れ際、クラウス様は何か言いかけて、やめた。
「……明日は、早い。よく、眠れ」
それだけだった。けれど、去っていく背が、廊下の角で一度だけ止まったのを、わたしは見ていた。
部屋に戻り、扉を閉めて、寝台の端に腰を下ろす。指先は、まだ冷たいままだ。それなのに、頬だけが、いつまでも熱を持っていた。
わたしは、そこへそっと掌を当てた。
震えていたのは、あの人の指の方だった。剣を握って十年、揺らいだところなど誰も見たことのない手が、わたしの頬に触れるときだけ、震えたのだ。
ひと月後、王城の大広間。かつてわたしが罪人と呼ばれた場所だ。連署のない布告は、いまも二つの部屋の灯りへ手を伸ばしている。支度は、夜明けとともに動き出す。
それでも、と思う。守ると誓ったものは、ひとつも渡さない。
――わたしは、あの場所に立つ。
掌の下で、頬はまだ、温かかった。




