第024話 その名を、呼ぶ
ミアたちの声が遠ざかった頃には、夕暮れが辺境の空を橙色に染めていた。
畑を覆いはじめた春の若緑が夕陽を吸って、淡く輝いている。半月ぶりに見る、見慣れたはずのその景色が、今日はやけに眩しく映った。
あてがわれた部屋で旅装を解くと、窓辺に置きっぱなしだった古い聖典や、干した薬草の束が、出立の日のまま迎えてくれた。埃をかぶった机の隅には、ミアが摘んでくれた押し花もそのままだった。ここでの暮らしが、確かに続いていたのだと、当たり前のことに胸が緩む。
けれど、片づけの手を動かしながらも、指先はずっと、首にかけた組紐の重みばかりを気にしていた。断罪も、都の行く末も、片づいた。残されたものは、もう一つだけだった。
ヨナス様に王都の顛末をかいつまんで伝え、労いの言葉を交わしたあと、わたしは屋敷を抜け出した。行き先は、もう決めていた。
村外れの鍛冶場からは、まだ炭の匂いが漂っていた。歩きながら、追放されたあの日から数えれば半年にも満たぬこの道のりを、思い返さずにはいられなかった。誰にも望まれず、それでも祓うことだけを続けてきた日々。その果てに、こうして自分の意志で誰かの元へ向かえる夜が来ようとは、夢にも思わなかった。
戸口に立つと、クラウス様が炉の前に座り込み、道具を片付けているところだった。汗の滲んだ額に、消えかけた残り火の色が映っている。
「戻ったのか」
顔も上げずに、そう言った。
「はい。……少し、お話ししたいことがあって」
わたしの声の硬さに気づいたのだろう。クラウス様は手を止め、ゆっくりとこちらを向いた。
この炉のどこかで、あの指輪は打たれたのだと思うと、胸の奥がひとりでに騒いだ。武骨な鎚の跡、火傷の痕が幾つも残る無骨な手。あの指先が、わたしのために、拙いなりに一つの輪を打ってくれたのだ。
わたしは、首にかけた組紐を指先でなぞった。
十五年、誰かに何かを望まれることはあっても、自ら望むことを許された覚えはなかった。この胸に、初めて自分の意志で選び取れる答えがあると知ったのは、この地へ来てからだ。
罪人として引き立てられたあの日、この人はわたしの手を取り、「本物だ」とただ一言で断言した。その一言から始まったすべてが、走馬灯のように過ぎっていく。瘴気に苦しむミアを浄化した朝。傷に触れた指先の震え。初めて名を呼ばれた声。膝をついた求婚。積み重なった一つひとつが、今このときへ続いていたのだと、ようやく分かる。
「クラウス様」
わたしは、一歩、前へ出た。
「あなたに、お答えしなければならないことが、まだ残っていました」
胸元の組紐を、指先でほどく。冷たい鉄の重みが、手のひらに落ちた。
クラウス様の目が、わずかに見開かれる。何かを言いかけて、けれど言葉を呑み込むように、口を引き結んだ。この人が、答えを急かさずに待ち続けてくれたこと自体が、どれほどの忍耐だったか。今更ながらに、思い知る。
「幼い頃から、わたしはずっと、誰かに求められるままに生きてきました」
わたしは、指輪を包んだ手を、そっと開いた。炉の残り火が、その小さな輪をぼんやりと照らしている。
「祈りも、聖痕も、この身に宿ったものすべてが、望まれるために在るのだと思っていました。……でも、あなたが見てくれたのは、わたし自身でした」
「フィーネ」
クラウス様が、案じるように、それでいてどこか震えを孕んだ声で、わたしの名を呼んだ。
「昔、あたたかい声が――つい先日まで、誰の声とも知らずにいた、母の声が、わたしに教えてくれた言葉があります」
わたしは、静かに、その言葉を口にした。
「焦らなくていい。本物は、時が証してくれる。――偽物は、時が暴くのだから」
十八年、意味も分からぬまま胸の奥にしまってきた言葉だった。母は、夜更けの捨て子院に、確かに通ってきてくれていた。あの声も、あの調べも、記憶ちがいでも、夢でもなかった。母が最後まで、この胸のそばにいてくれたことに、もう疑いはなかった。
先だって、都でその声の主が母だと知ったとき、悲しみばかりが胸を占めていた。だが今こうして言葉にしてみると、悲しみの底に、確かな温もりが眠っていたのだと分かる。生まれてすぐに引き離された母が、幾夜も枕元へ通って、この言葉と、あの調べを、この胸に残していってくれたのだ。
「ずっと、この言葉は、偽物がいつか暴かれ、報いを受けるまでの――ただそれだけの言葉だと思っていました」
わたしは、クラウス様を見上げた。
「でも、違ったのだと、今は分かります。あなたが、十年、名も知らぬまま待ち続けてくれたことも。わたしがここへたどり着くまでの、遠回りだったこの十五年も。……本物は、時が証してくれる。それは、あなたとわたしのことだったのだと」
クラウス様が、息を詰めるのが分かった。無骨な手が、指輪を持つわたしの手を、そっと包み込む。傷だらけの指の熱が、鉄の輪ごしに伝わってくる。
「答えを、聞かせてくれ」
低い声が、わずかに掠れていた。
「はい」
わたしは、頷いた。
「わたしは――あなたの隣にいたいです。これからも、ずっと」
言い終える前に、目の縁が熱くなった。それでも、言葉は迷わず出てきた。十五年、誰の前でも崩さずにきた声が、初めて、隠しようもなく震えていた。
クラウス様が、指輪をつまみ上げ、わたしの左手を取った。武骨な指先が、驚くほど丁寧に、その輪をわたしの薬指へ通す。冷たい鉄が、すぐに互いの温もりを分け合うように、なじんでいった。
「似合っている」
不器用な一言だった。それでも、これまで聞いたどんな言葉より、まっすぐに胸へ届いた。薬指に嵌った鉄の輪は、思っていたよりずっと重く、その重みがそのまま、この人と分かち合っていく日々の確かさのように、手のひらへ沈んでくる。もう二度と、この重みを首から下げて隠すことはないのだと思うと、それだけで、涙がにじみそうになる。
わたしは、指輪の重みを確かめるように、手を握り込んだ。そして、初めて、その名を、敬称のないまま呼んだ。
「クラウス」
一瞬、彼の肩が、はっきりと強張った。返事の代わりに、わたしの左手が、大きな手のひらに握り込まれる。一度だけ強く力がこもり、それから、名残を惜しむように、ゆっくりとほどけていった。十年、戦場で瘴気の魔物と渡り合ってきたこの人が、たった二文字の呼び名に、これほど動揺するのだと知って、わたしは思わず笑ってしまった。
「……もう一度、呼んでくれ」
「クラウス」
二度目は、迷いなく言えた。
呼び慣れないその響きは、舌の上で、まだ少しだけぎこちない。それでも、この二文字を口にするたび、聖女でも、罪人でもない、ただのわたしが確かにここにいるのだと、足元から温められていく気がした。
クラウス様は――クラウスは、何も答えず、ただわたしを、そっと抱き寄せた。鍛冶場の炭の匂いと、汗ばんだ体温が、すぐそばにあった。硬い胸板の奥で、彼の鼓動が、思いのほか速く跳ねているのが分かった。
「十年、待った甲斐が、あった」
耳元で、掠れた声がそう言った。
「これからは、待たせません」
わたしがそう返すと、クラウスは、低く笑った。初めて聞く、屈託のない笑い声だった。腕の中で、その笑い声の震えまで伝わってくる。
笑いの余韻が消えぬうちに、抱く腕がわずかに緩んだ。見上げた視界がかげり、額に、乾いた唇が落ちた。炭の火の匂いのする、短い口づけだった。
額の熱が離れ、そのまま身を引こうとする気配があった。わたしは、とっさに、その袖口を掴んでいた。
掴んでから、自分でも驚いた。求められたからではない。ただ、そうしたいと思ったから、指が動いていた。
顔を上げる。剣だこの残る大きな手が、宙で迷ってから、わたしの後ろ髪を支えた。
重なった唇は乾いていて、思っていたよりずっと熱かった。鉄と汗の匂いが、ほのかにする。息を継ぐほどの短いあいだ触れて、離れていった。
十五年、この口には祈りの言葉しか許されなかった。あの断罪の日は、身に覚えのない罪への詫びだけを求められた。……その同じ唇が、いま、自分の意志だけで、この人に触れている。
聖女の唇でも、罪人の唇でもない。ようやく、わたし自身のものになったのだと思った。
言葉が出てこないまま立ち尽くしていると、クラウスは何も言わず、もう一度、わたしを腕の中へ深く引き寄せた。
炉の残り火が、静かに爆ぜる。夕暮れの空は、いつしか藍色に沈み、村の灯りが一つ、また一つと灯り始めていた。抱き寄せられたまま、しばらく、どちらも動かなかった。言葉より雄弁な静けさが、そこにはあった。
「明日、村のみなに知らせよう。……祝いの支度は、任せてくれ」
クラウスの声に、わたしは頷いた。
「ミアが、きっと大喜びします」
「ヨナスは、きっと泣くな」
「ふふ、それは、見物ですね」
笑い合いながら、わたしたちは鍛冶場を出た。夜風が、火照った頬に心地よかった。星の瞬き始めた空の下、屋敷へ続く道を、二人分の足音だけがゆっくりと刻んでいく。
道すがら、クラウスは何も話さなかった。けれど、半歩だけ先を行く広い背中が、時折こちらを振り返っては、歩幅を合わせ直す。その不器用な気遣いの一つひとつが、これから重ねていく日々の形を、そのまま映しているようだった。
想いを交わしたあの夜も、同じように並んで歩いた。あのときは互いに急いだり待ったりして、肩が二度もぶつかった。あれから、都までの長い道を、この人と並んで往き、並んで帰ってきた。合わせ方を覚えたのは、どうやら、わたしだけではなかったらしい。
翌朝、屋敷の広間にヨナス様とミアを呼び、クラウスが指輪を嵌めたわたしの手を、少し照れくさそうに掲げてみせた。ミアは目を丸くしたあと、飛び跳ねながら歓声を上げ、わたしの首にしがみついてきた。ヨナス様は、案の定、目元を拭いながら「ようやくか」と何度も繰り返し、しまいには言葉にならず、ただ肩を震わせていた。
その声を合図に、屋敷の外まで知らせが広まるのは、あっという間だった。畑仕事の手を止めた民たちが次々と集まり、口々に祝いの言葉をかけてくる。
年老いた女たちは涙ぐみ、若い衆は歓声を上げて走り回る。誰かが早くも太鼓を鳴らし始めた。
誰もが、自分のことのように喜んでくれる。この地に来てまだ半年足らずだというのに、こんなにも多くの温かさに包まれるとは、思ってもみなかった。
「聖女さまが、辺境伯様のお嫁さんになる!」
ミアが村じゅうに触れて回るものだから、夕刻には村外れの広場に、簡素な篝火が焚かれていた。誰が言い出したわけでもなく、春先の慎ましい宴が始まる。差し出された麦酒の椀を、クラウスが柄にもなく困り顔で受け取っている。その戸惑いようが可笑しくて、わたしは、そっと口元をほころばせた。
「辺境伯様! お覚悟はよろしいので!」
「聖女さまを泣かせたら、村じゅうが黙っておりませんぞ」
「そりゃあ、わしらは殿より聖女さまの味方だからのう」
クラウスは応える言葉もなく、ただ黙って椀をあおった。その周りで、笑い声がいつまでも絶えない。
夜風が渡るたび、篝火の炎が大きく揺れ、集った民の影を長く伸ばした。薬指に嵌った指輪の重みは、もう心細さではなく、確かな温もりとして、そこにあった。
焦らなくていい――揺れる火を見つめるうち、母の声が、もう一度だけ胸の奥で響いた気がした。急がずに歩いてきた十八年の果てに、時が、わたしをこの火のそばまで連れてきてくれた。証されたのは、わたしとあの人の絆だけではない。母の残したあの言葉そのものが、今夜、本物だったのだと証されたのだ。
明日からは、辺境の聖女ではなく、この人の隣に立つ者として、新しい季節を迎える。都から遠く離れたこの地で、望まれるためではなく、望むままに生きていく――そんな日々が、これから続いていくのだと思うと、胸の奥が満ちていくようだった。
篝火の向こうに広がる夜空には、無数の星が、これまで見た夜よりずっと近く感じられた。婚礼の日取りは、まだ決まっていない。それでも、この地の実りの季節が終わる前に、村じゅうで祝う日が来るのだと、クラウスが静かに約束してくれた。傍らで杯を掲げるヨナス様と、駆け回るミアの笑い声を聞きながら、わたしは、その約束の日を思い描いた。
そのことが、こんなにも穏やかに胸を満たすのだと、いまはただ静かに、信じられた。




