第025話 辺境伯夫人にして、北の守り手
実りの季節が終わる前に、とクラウスは約束してくれた。その言葉どおり、麦の穂がすっかり黄金色に染まった朝、村の広場には夜も明けきらぬうちから人が詰めかけていた。
「フィーネ様、まだ寝てちゃだめです!」
弾んだ声に飛び起きると、窓の外はもう祝いの飾りでいっぱいだった。麦穂を編んだ輪や、摘みたての秋の花が、軒先という軒先に吊るされている。
用意されていたのは、白ではなく、淡い若草色の簡素な衣装だった。糸を紡ぐところから村の女たちが手がけてくれたのだと、支度を手伝う年配の女が誇らしげに教えてくれた。
鏡に映る自分は、聖女らしい荘厳さとは程遠い。それでも、これほど心が満ちた朝を、わたしは知らなかった。
ほんの一年ほど前、わたしはこの土地を死地と呼んでいた。聖痕を偽物と断じられ、名まで奪われて追い立てられた果てが、この痩せた北の辺境だった。
井戸は涸れ、畑は瘴気に黒く沈み、出迎えた村人の目は、飢えと諦めに濁っていた。誰にも望まれずに来た土地で、ただ朽ちていくのだろうと、あの日のわたしは思っていた。
その同じ土地が、今朝は花と麦穂で埋め尽くされている。軒を飾る輪の一つひとつが、この地に蘇った暮らしそのものだった。
「似合ってますよ、フィーネ様」
ミアが両手を叩いて言った。「聖女さま」ではなく、名で呼んでくれるようになったことが、共に過ごしたこの一年の距離を物語っている。
支度部屋の窓から見下ろすと、村人総出で組んだ長机に、収穫したばかりの果実や、燻した猪肉、蜂蜜を塗った焼き菓子が所狭しと並べられていた。誰に命じられたわけでもなく、みなが持ち寄ったのだという。
「こんなにしていただいて……」
思わず呟くと、支度を手伝う女が笑った。
「聖女さまには、うんと世話になりましたから。今日ばかりは、こちらが返す番です」
その言葉に、目頭が熱くなるのをこらえながら、わたしは広場へと向かった。
広場の中央、青みの残る麦穂を束ねた台の前で、ギュンターが待っていた。
「まさかこの歳になって、あの方の血を引くお嬢さんの婚礼に立ち会えるとはな」
皺だらけの顔をくしゃりとほころばせ、ギュンターが言う。
「エルフリーデ様の代からこの地を見守ってきた身として、こんなに嬉しいことはない」
それから、ギュンターは少しだけ声を落とし、遠い昔を見るように目を細めた。
「婆様の言い伝えでは、あの紋の聖女さまの御家系は、もとはこの北の森の出だそうでしてな。故郷の森を鎮めるために、代々、巡礼のお姿で還ってこられたのだと」
だから、だったのか。歴代の聖女を退けてきたあの深い森が、母にだけ道を譲った理由。同じ紋の聖女が、なぜ代々この土地に現れるのかという、祠の前で答えの出なかった問い。その全部が、いま、一本の糸に結ばれた気がした。
わたしは、遠い地へ捨てられたのではなかった。母が、そして母よりずっと前の誰かたちがそうしてきたように、故郷へ還ってきていたのだ。
その言い伝えに、胸の奥がじんわりと熱くなった。母たちが代々結んできた縁が、こんな形で今日に繋がっている。
正装のクラウスは、普段とはまるで違って見えた。慣れない詰襟の下で、居心地悪そうに肩を揺らしている。
「そう硬くならずとも」
小さく囁くと、クラウスは眉根を寄せた。
「十年、瘴気の魔物と渡り合ってきたが……これほど落ち着かんのは初めてだ」
思わず笑ってしまうと、居並ぶ村人たちからも笑い声が広がった。
ギュンターが両手を掲げ、静かな祈りの言葉を紡ぐ。長い誓いの末、最後に二人へ短く問うた。
「クラウス・フォン・アイゼンベルク。この方を、生涯支え、慈しむと誓うか」
「誓う」
迷いのかけらもない即答だった。また笑いが起きる。
「セラフィーナ様。この地に生き、この人と共に歩むと誓うか」
わたしは、薬指の指輪にそっと触れた。
「誓います」
ギュンターが、束ねた麦穂を高く掲げた。隣で、クラウスがこちらへ向き直る。詰襟の下の喉が、一度だけ大きく上下した。
大きな手が、わたしの頬を支えた。村じゅうの視線が、その一点に集まる。
触れたのは、鍛冶場の夜と同じ、乾いた唇だった。あの晩は、二人のほかに誰も知らなかった。今日は、この土地じゅうが見ている。罪人として引き立てられたあの日も、大聖堂じゅうの視線は、たった一点に集まっていた。細い肩に掛けられた、黒い外套の上に。同じだけの目に見つめられながら、今日は、誰ひとりわたしを裁かない。
「聖女さま、ばんざい!」
「辺境伯様、ばんざーい!」
唇が離れるより先に、広場のあちこちから声が上がった。誰かが太鼓を打ち鳴らす。クラウスに肩を抱かれ、集った人々の輪の中心に立つと、少し離れた場所で、ヨナス様が声も出せずにしゃくり上げているのが目に入った。
「めでたい……めでたいことです……!」
しゃくり上げるヨナス様に、クラウスが呆れたように肩をすくめる。
「泣きすぎだ、ヨナス」
「閣下が、ようやく……ようやく、な……」
言葉にならないまま、ヨナス様はまた洟をすすった。その姿に、集った民の間からも、あたたかな笑い声が広がっていった。
日が傾く頃には、長机を囲んでの宴が始まった。誰かが弦楽器をつま弾き、若い衆が手を取り合って踊り出す。クラウスは不慣れな足取りで輪の中に引っ張り出され、村の子どもたちに囲まれて四苦八苦していた。
「辺境伯様、下手すぎます!」
ミアの容赦ない一言に、広場じゅうがどっと沸いた。クラウスは苦笑いを浮かべながらも、抗うことなく子どもたちに手を引かれ続けている。
聖女であったころ、わたしを取り巻いていたのは、いつも何かを求める声だった。祈ってほしい、癒してほしい、結界を保ってほしい。役に立つあいだだけ、わたしはそこにいることを許されていた。
けれど、いま広場に満ちているのは、何ひとつわたしに求めない声だった。ただ、めでたい。ただ、嬉しい。役目とも力とも関わりなく、わたしという一人の人間が今日を迎えたことを、みなが我がことのように喜んでくれている。
その温かさを、どう受け取ればいいのか、わたしはまだ上手く知らない。けれど、長く胸の奥でこわばっていた何かが、篝火の熱にゆっくりと解けていくのを感じていた。
その不器用な姿を眺めながら、わたしは、これほど穏やかな夜が自分に許されているのだと、改めて噛みしめた。夜が更けても、篝火は絶えることなく燃え続けていた。
婚礼から、季節はふたつ巡った。
畑は今年も青々と芽吹き、かつて瘴気に沈んでいた土地とは思えぬほど、辺境は緑に満ちている。瘴気の大波に黒く焼け落ちたあの麦畑の一角にも、二度目の春を数えて、ようやく若い芽が戻りはじめた。灼けた土は春を二度か三度は数える——ギュンターの見立てのとおりだった。
ミアはこの春から、村の子どもたちに読み書きを教える仕事を、ヨナス様の下で覚え始めていた。都から逃れてきた人々の多くも、今ではこの地に根を下ろしている。井戸端で見つけたあの母子も、麦刈りの手伝いをしながら、すっかり辺境の顔になっていた。
幼子だった息子は、今では畑を駆け回るほどに元気を取り戻している。長く霧を吸いつづけ、一度の祈りでは祓いきれなかったあの老爺も、この春、ようやく自分の足で畑に立てるようになった。ヨナス様は、逃れてきた者たちの中から見どころのある若者を選び、新しい守備の兵として鍛え始めていた。
瘴気の森は、今ではすっかり嘘のように静かだ。もう、値踏みされるような気配もない。還るべき血筋が還り着いたからかと、婚礼の日のギュンターの言い伝えを、ふと思い返す。
ある夕刻、街道を早馬で駆けてきた使者が、王弟殿下からの書状を届けに来た。
「殿下は、いかがお過ごしですか」
尋ねると、使者は姿勢を正して答えた。
「都では、この半年ほどで祈り手の見習いが十数名、正式に神殿へ入りました。まだ、聖女さまお一人の力には遠く及びませぬが……黒い霧は、少しずつ、確かに退きつつあります」
「かつて辺境へ逃れてきたベンヤミン殿とアグネス殿も、今は都に戻っておられます。祈りの技を授けるのではなく、かつて神殿が何を誤ったのかを、若い見習いたちに語り伝える役目を、進んで引き受けてくださっているとか」
使者の言葉に、わたしは静かに頷いた。
「あの二人なら、きっと確かな証人になってくれるでしょう。二度と、たった一人に何もかもを背負わせぬために」
記録係だったベンヤミン殿と、捨て子院で下働きをしていたアグネス殿。浄化の力を持つわけではない二人だからこそ、危険を冒して真実を語った者として、神殿が同じ過ちへ戻らぬための戒めを遺せるのだと思う。その二人が、今は都の新しい礎を築く側に立っている。そのことが、何よりの慰めのように思えた。
その報せに、クラウスと顔を見合わせた。
「一足飛びには、いかんということだな」
「はい。ですが、それでいいのだと思います」
わたしは静かに答えた。
「一人に懸けたつけを、時をかけて自分たちの手で払っている。それでこそ、二度と同じ過ちを繰り返さずに済むはずです」
書状の末尾には、王弟殿下の几帳面な字で、こう添えられていた。「数年後、必ずまた報せに参ります。その頃には、もう少し、明るい便りを持って」。
門を閉ざしたままだというモンフォール家の屋敷のことも、使者は一言だけ触れた。誰も、あの門を開けようとする者はいないのだという。かつて聖女の座にあったあの人は、名を捨て、市井で針仕事をして暮らしているとか。因果は、静かに、けれど確かに、まだ巡り続けている。
その夜、屋敷の露台で、クラウスと二人、冷えた夜気にあたっていた。
星は今夜も近い。焚かれたランプの灯りが、揺れる二人の影を壁に長く伸ばしていた。
「都の話を聞くたび、思うことがある」
クラウスが、ぽつりと言った。
「求められて、初めて価値がある――お前は、ずっとそう思い込まされてきたんだろう」
図星を突かれて、わたしは黙った。
「だが、俺がお前を娶ったのは、お前が聖女だからじゃない。求められるからでもない。ただ、傍にいてほしかった。それだけだ」
不器用な言葉が、まっすぐに胸へ落ちてくる。母が遺してくれたあの声も、きっと同じことを、ずっと昔からわたしに教えようとしていたのかもしれない。焦らずとも、証を立てずとも、本物はいつか、ちゃんと見つけてもらえるのだと。
顔も知らぬ母の声。それでも、震える夜にわたしを支えてくれたあの旋律は、確かにこの胸のどこかで生き続けていた。求められずとも、証を立てずとも、お前はただここにいていい。言葉にならないその響きが、いま、クラウスの朴訥な声とひとつに重なっていく。
長いあいだ、わたしは自分の値打ちを、誰かの役に立てるかどうかでしか測れなかった。求められて、初めて許される。そう信じ込まされてきた冷たい物差しが、今夜、静かに手のひらから滑り落ちていくのを感じた。
「わたしも、同じです」
わたしは、クラウスの肩にそっと頭を預けた。いつからか、そうするのが自然になっていた。肩の高さも、傾け方も、もう体のほうが覚えている。
「聖女としてでなく、ただの、あなたの妻として、ここにいたい」
クラウスの腕が、静かに肩を抱き寄せる。何も言わずとも、それだけで十分だった。
辺境伯夫人にして、北の守り手。都の人々は、いつかそう呼ぶようになるのだろう。けれど今のわたしには、大仰な呼び名よりも、この静かな夜と、隣にある温もりのほうが、よほど確かな居場所だった。
明日もまた、畑に光を注ぎ、民の暮らしに寄り添う一日が来る。そしてその先には、まだ見ぬ季節と、二人で歩んでいく長い年月が続いている。
遠く北の稜線には、まだ瘴気の名残がわずかに燻っているという。いつかまた、剣と光を携えて立ち向かう日が来るのかもしれない。けれど今宵だけは、そんな先のことより、この温もりだけを感じていたかった。
北の空に、星がひとつ、瞬いた。
物語は、ここで一区切りを迎える。けれど、この地に根づいた光は、これからも静かに、確かに、灯り続けていくのだろう。




