第023話 沈む都
大神官様が連行されていったあの夜から、都はひどく静かだった。
窓の外の大聖堂の尖塔さえ、心なしか明かりを失って見える。わたしは母の御髪を包んだ布を握りしめたまま、浅い眠りを繰り返しただけで朝を迎えた。
瞼の裏が重い。それでも、不思議と心は凪いでいた。
罪ある者は裁かれた。母の最期も、ようやく言葉になった。あとは、この都のことさえ片づけばいい。そうすれば、胸元で答えを待たせたままのもう一つにも、ようやく向き合える。
この都を、どうするか。
「陛下と殿下が、内々にお呼びです」
朝餉もそこそこに、若い侍従がそう告げに来た。昨日までの大広間ではなく、奥まった小さな謁見の間だという。
「法廷ではない、ということか」
クラウス様が短く問うと、侍従は畏まって頷いた。
「詮議はすでに終いにございます。本日は……その、お願いの儀に近いものかと」
その言い回しに、わたしは小さく息を吸った。今度は罪を問う場ではない。この都の、これから先を問う場なのだろう。
通された部屋は、大広間よりずっと狭かった。
壁際に積まれた書類の山が、この数日の混乱の重さを物語っている。
陛下は玉座ではなく、質素な椅子に腰掛けていた。傍らにヴィルフリート殿下。卓には、都の各地の被害を記した地図が広げられている。
黒く塗られた箇所が、思っていたよりずっと多かった。
「よく来てくれた」
陛下の声には、昨日までの重々しさが薄れ、代わりに、隠しようのない疲労がにじんでいた。
「率直に申そう。大神官の権は落ちた。ジゼルの座も失われた。……だが、それだけでは、この都は救われぬ」
地図の黒い箇所を、陛下は指先でなぞった。
「聖女セラフィーナよ。もう一度、問う。都へ戻り、この国の柱として立ってはくれぬか。称号も、権も、そなたの望むままに与えよう」
広間での懇願とは、重みが違った。あれは崩れゆく都を前にした藁にもすがる願いで、これは、国そのものを差し出すような申し出だ。
黒い染みの一つひとつに、名も知らぬ誰かの暮らしが埋もれている。それでも、答えは、もう決まっていた。
「陛下の御心、確かにお受け取りいたしました。……ですが、座には戻りません」
わたしは、静かに続けた。
「わたしの居場所は、辺境にあります。それは、もう変わりません」
ヴィルフリート殿下が、身を乗り出した。
「では、この都はどうなる。……そなたなくば、また同じことを繰り返すだけではないのか」
咎める響きではなかった。ただ、純粋な不安だった。わたしは、殿下の目を見て、ゆっくりと言葉を選んだ。
「丸ごと背負うことは、いたしません。ですが、見捨てもいたしません」
「三つ、お約束できることがございます」
指を一本、立てる。
「まず、辺境へ逃れてこられた方々を、これからも変わらず受け入れます」
二本目。
「都の中で、今すぐ命に関わる淀みがあれば、その都度、辺境から手を貸します。……ただし、それは都度の手当てであって、結界そのものを恒久に肩代わりすることではありません」
三本目を立てる指先が、わずかに震えた。
「そして――都自身が、祈り手を育ててください。わたし一人に懸けてきたこの十五年のやり方を、もう終わりにするのです」
言ってしまってから、胸の奥が、しんと冷えた。
物心つく前から、わたしはこの都の淀みを一人で引き受ける仕組みそのものだった。それを手放すのは、この身に馴染んだ役目を都へまるごと返すことでもある。楽になるはずの決断が、なぜか指先を震わせた。
けれど、それでいい。一人に懸けるやり方が、母を、そしてわたしを、どれだけ縛ってきたか。同じ鎖を、次に生まれてくる誰かへ繋いではならない。
陛下は、すぐには口を開かなかった。地図の黒い染みへ、もう一度、視線を落とす。
「……一人の力に懸けた報いを、我らはこれから、身をもって払うのだな」
「はい」
わたしは、頷いた。
「聖具や加護のせいにして、目を逸らし続けてきたものと、ようやく向き合うときが来たのだと思います」
殿下が、深く息を吐いた。
「分かった。……祈り手の育成は、我らの手で始めよう。時はかかるだろうが」
時はかかる。その一言に、ふと、辺境の焼けた麦畑が瞼の裏をよぎった。瘴気を祓っても、その年の芽は戻らなかった。灼けた土は、春を二度か三度は数えて、ようやく生き返る――ギュンターは、そう言っていた。都の立て直しにも、きっと、もっと長い時が要る。
けれど、時をかけて自らの足で立ち直る土地の底強さを、わたしはあの辺境で見てきた。
焼けた畑のことを思い返したら、胸の隅に引っかかっていたものが、そのまま口をついて出た。
「あの……審問官は、どうなりましたか」
殿下が、地図の黒い染みから目を上げた。
「アルブレヒトか。……北の塔ではない。北の鉱山だ」
「あの者が焼いた土に、ふたたび穂が実る日が来るとしても、その日を陽の下で数えることは、あるまいよ」
灼けた土が生き返るまでの歳月が、そのまま、あの人の贖いの長さになったのだ。
「……そうですか」
わたしは、それだけ返して頷いた。追い打つ言葉は、何も浮かばなかった。
殿下が、続けて少し声を落とした。
「それと、一つ。神殿の古い記録を検めるほどに、あの方の位そのものが、先代聖女様の死の偽装の上に築かれていたと明らかになりつつあります。裁きで問うた罪の、さらに外側の話です」
母を死んだことにした、あの偽りの一枚。あの方の権勢は、初めの一歩から、その紙の上にしか立っていなかったのだ。
殿下は、手元の綴りを一枚めくった。
「事後の調べで、他にも。……神殿の奥の書庫から、瘴気を凝らす秘法の写しが幾つも出てまいりました。祓う術と、生む術とを、歴代の大神官は同じ棚に並べていたのです」
背筋が、冷えた。
「紋を持たぬ影の組も、名簿ごと押さえております。もう、誰の御心も運ばれることはありません」
「ゆえに神殿は、当面、王家の目付のもとで作り直す。……二度と、一人の嘘の上に、国を載せぬためにもな」
陛下がそう引き取り、それから、重い頷きを返した。
「よかろう。……都の再建は、都自らの手で成す。それが、そなたの答えなのだな」
「はい、陛下」
十五年の懸け方が、ようやく都自身の手へ返された。
謁見を終えて廊下へ出ると、窓の向こうに、大聖堂の尖塔が見えた。あの日、罪人として引き立てられた坂道。今は、静かに立っているだけの、ただの石造りの建物にしか見えなかった。
長く背負ってきた重荷を、ようやく下ろせたのだという実感だけが、そこにあった。
「行くか」
クラウス様の低い声に、わたしは頷いた。
「はい。……帰りましょう、辺境へ」
馬車が都の門をくぐるとき、見送りに立ったヴィルフリート殿下が、深く頭を下げた。
「聖女セラフィーナ様。御身に成すべきであった詫びの遅れ、重ねてお許しを。祈り手の育成、必ず進める。数年後、また報せに参ろう」
「お待ちしております。殿下は、最初から、わたしの声に耳を傾けてくださった方でした」
都の外壁を離れてしばらく、街道が緩やかに折れたところで、クラウス様が窓の外へ顎をしゃくった。
「あれだ」
高い塀に囲まれた別邸の門に、王家の封印の札が貼られていた。開け放たれた蔵の口から、兵たちが白い壺を次々と運び出している。数えきれないほどの、聖水の壺だった。
門の外には、都から逃れる人々の列ができていた。執行官が一人ずつ、その手に小さな器を握らせていく。
黒い霧を避けて我先に郊外へ移り、金で買い集めて蔵に積み上げたもの。それが今、代金を払えなかった者たちの手に渡っている。あの老女の孫が、一滴も口にできなかったものだ。
「……ようやく、本来の行き先に着いたのですね」
わたしがそう呟くと、クラウス様は短く「ああ」とだけ返した。馬車は、止まらなかった。
街道が最初の丘へさしかかったところで、クラウス様が御者へ短く声をかけ、馬車を停めさせた。何も言わず、先に降りて、わたしへ手を差し出す。
丘の上に立つと、来た道の果てに、都があった。黒い霧に半ば沈んだ尖塔の群れが、早春の淡い光の中に、遠く霞んで見える。
「見届けたか」
クラウス様が、隣で静かに問うた。追放の日、大聖堂でわたしにだけ聞こえる声で、せいぜい見物しておけと言った、あの同じ低い声だった。
「はい。……もう、十分に」
わたしを捨てた都が黒い霧に沈んでいくのを、辺境から、ゆっくりと見届ける。あの日そう決めた言葉の、これが結びだった。沈む都は見届けた。裁きも、母の最期も、見届けた。この目に、もう思い残すものはない。
クラウス様は一つ頷き、先に丘を下りていく。
振り返っても、もう心は乱れなかった。
街道は、ゆるやかに北へ延びていた。都の周りで重く淀んでいた空気が、進むほどに澄んでいく。街道脇の木々は芽吹きはじめ、風には雪解けの土の匂いが混じっていた。
行きの道は、罪を晴らせるかどうかもわからぬまま、ただ祈るように急いだ。帰りのいまは、車輪が一つ回るごとに、同じ街道が違う色に見えてくる。
揺れに身を任せているうちに、瞼が重くなった。都にいたあいだ、ろくに眠れていなかった。
気づけば、隣の肩へ頭を預けていた。初めてそうした夜は、預けていいものかと迷って、息を詰めていた。いまはもう、迷いもしない。
クラウス様は、身じろぎひとつしなかった。ただ、車輪が石を踏んで跳ねたとき、こちらの頭が落ちぬように、肩の傾きだけがわずかに動いた。
街道を三日進んだ昼下がり、村外れの井戸端に、荷を背負ったまま座り込む母子を見つけた。都から逃れてきたのだと、くたびれた身なりと背の家財で知れた。
母親の腕の中で、幼子がぐったりと咳き込んでいる。井戸の底から、うっすらと黒い澱みが立ちのぼっているのが、わたしの目にはすぐ分かった。
馬車を止めさせ、駆け寄る。幼子の額に手をかざすと、光がじわりとにじみ出し、澱みが薄れていった。
「もう、大丈夫です」
母親が、涙ながらに何度も頭を下げた。都を追われ、辺境を頼って歩いてきたのだと、途切れがちな声で語る。行く当てを尋ねると、アイゼンベルクの名を口にした。
馬車に戻ると、隣のクラウス様が、遠ざかっていく母子の背を、じっと見ていた。
「これが、あの三つの約束のうちの一つ――辺境へ逃れてくる者を、拒まぬということだな」
静かな声だった。わたしは頷いた。
「はい。……都の淀みを、一つ残らず祓うわけではありません。ですが、目の前の命は、見過ごしません」
「それでいい」
クラウス様は、それだけ言うと、わたしの手を、そっと取った。
「都を、もう憎んでいないと言ったな」
「はい」
「辺境は、憎まれる代わりに選ばれた場所だ。……悪くない気分だ」
不器用な言い方に、思わず笑いがこぼれた。冷えた指先が、重なった手のひらの中で、じんわりと温まっていく。今この瞬間の穏やかさが、長い道のりの、何よりの答え合わせのように思えた。
五日目の夕刻、街道の先に、見慣れた瘴気晴れの丘が見えてきた。
畑には芽吹いたばかりの若緑が広がり、その向こうに、辺境の民が幾人も、こちらへ向かって手を振っているのが見えた。先頭を駆けてくる小さな影は、ミアだ。
「聖女さま――!」
弾む声が、風に乗って届く。馬車が止まるより先に、ミアがわたしの胸へ飛び込んできた。
「おかえりなさい!」
「ただいま、戻りました」
抱きしめ返した小さな体の温もりに、旅の疲れが、ゆっくりとほどけていく。
ヨナス様も、駆けつけた民の一人ひとりも、皆、変わらぬ笑顔でわたしたちを迎えてくれた。
つい数日前まで、わたしは黒く塗り潰された地図の前に立っていた。それが、ここでは井戸に水が湧き、畑に緑が萌え、子どもが笑って駆けてくる。同じ国の、同じ空の下とは、とても思えなかった。
けれど、この違いこそが、わたしの選んだことの答えだった。都を見捨てたわけではない。ただ、この手が本当に生かされる場所を、選び直しただけだ。
胸元に手をやると、組紐に通した鉄の指輪が、旅の間じゅう変わらぬ重みで、そこにあった。
都は、まだ完全には救われていない。けれど、罪ある者は裁かれ、都は自らの足で歩き出す約束を交わした。すべきことは、もう成し終えた。
帰ってきた辺境には、蘇った畑があり、待っていてくれる人々がいる。
そして、預かったままのこの指輪に、いよいよ答えを返すときが――来たのだと、わたしは静かに思った。




