第022話 因果は巡る
審議三日目。窓の外は鈍色の空だったが、大広間は昨日の混乱が嘘のように静まり返り、集った誰もが張り詰めた顔をしていた。
昨日の書記官のあの一言以来、わたしは眠れぬまま夜を過ごした。
クラウス様の隣で開廷を待つ間、胸元に下げた指輪が、いつもよりずっと重く感じられた。
「大丈夫か」
「分かりません。……ですが、逃げるつもりはありません」
クラウス様は、言葉の代わりに、わたしの手を強く握った。
「大神官ヴァレリウスに問う」
陛下の声が、広間に響いた。
「昨夜、そなたの罪を証す新たな証人が見つかった。この場へ」
大きな扉が開き、腰の曲がった老女が一人、衛兵に付き添われて進み出た。足取りは震えていたが、その目には確かな意志があった。
「神殿奥向きの世話係を務めておりました、マルタと申します」
「半月あまり前の夜、わたくしの宿へ忍び入ろうとした者を、殿下の御手の方々が取り押さえてくださいました。それでも恐ろしくて、夜の明けぬうちに村を移り……昨夜、ようやく、見つけていただいたのです。もう、隠し通す気力もございませんでした」
クラウス様が囮となった、あの晩だ。敵の刃が狙っていたのは、この人の口だった。わたしが殿下にお願いした、たった一つの手が、間に合っていた。
大神官様の視線が、その老女に据わった。
「わたくしは、先代聖女エルフリーデ様の、身の回りの御用を承っておりました」
マルタは、声を落として続けた。
「エルフリーデ様は、御子をお挙げになった頃から、猊下と折り合いを欠いておいででした。結界の座を退けられ、巡礼にばかり出されて、都におられる日のほうが、少のうございました」
「結界の祈りは、いつからか、捨て子院の幼子が肩代わりさせられている――奥向きでは、そう囁かれておりました」
指先が、冷たくなった。三つで祈りの座に据えられたあの頃、母はまだ、同じ神殿の内に生きていたのだ。
「エルフリーデ様は、都においでの折には、夜更けに人目を忍んで、捨て子院の幼子の枕元へ通っておられたようでございます。夜明け前の渡り廊下で、お戻りのお姿と一度だけすれ違ったことがございました」
では――あの声は。
遠い夜の記憶が、胸の奥で音もなく一つに繋がる。だが、マルタの声は、もうあの冬へ進んでいた。
「十年前の、あの冬の終わりでした」
「北の巡礼よりお戻りになったエルフリーデ様は、都へお着きになってすぐ、大神官様のお呼び出しを受け、奥の間へお移りになりました」
「以来、誰の目にも触れることなく、日に日にお痩せになっていかれて。……ある夜、大神官様御自らが盆をお運びになるのを、この目で見ました。あのお方が給仕をなさるなど、後にも先にもそれきりです」
「翌朝から、エルフリーデ様は床からお起き上がりになれなくなり、十日と経たず、お亡くなりに」
母の最期が、ようやく言葉になっていく。
「何を盛られたかまでは、存じません」
マルタは、そこだけは慎重に言葉を選んだ。
「ただ……あれほどお元気だった御方が、あの夜を境に、坂を転げ落ちるように弱っていかれた。それだけは、確かでございます」
震える手が、懐から小さな布包みを取り出す。
「亡骸は、夜のうちに、誰にも知らせず葬られました。以来、二度と口にするなときつく戒められて。……それでも、これだけは、今日まで手放せずにおりました」
布の中身は、一房の御髪だった。灰色がかった金の髪が、老いた指の上で儚く光を照り返していた。
自分の髪と、よく似た色だった。会ったこともない母の面影が、この一房にだけ残っている。喉の奥が、熱くなった。
「……秩序のためだ」
大神官様の声は、乱れてはいなかった。むしろ、これまでで一番、静かだった。
「あの女は、御しやすくなかった。神殿を保つために、必要なことだった」
広間が、水を打ったように静まる。
乱れたのではない、とわたしは思った。この期に及んでもなお、この方は勘定をしている。否認が通らぬと見た瞬間に、最も傷の浅い言い分へ乗り換えたのだ。
最後まで、この方は慎重だった。ただ、慎重さでは、もう何一つ守れなくなっただけだ。
ヴィルフリート殿下が、静かに進み出た。
「印章、記録の筆跡、実行犯の自供、ベンヤミンとアグネスの証言。そこへ今、母君の最期を見た者の証言が加わりました。もはや、疑いの余地はございません」
陛下は、しばらく目を閉じてから、玉座を立った。
「大神官ヴァレリウス。そなたの罪状、これにて確定する」
「聖女すり替えの企て。先代聖女エルフリーデの弑逆。その娘セラフィーナの出自を偽り、飼い殺しにせんとした罪。加えて、王の裁可を仰がず辺境伯領へ兵を入れ、呪具をもって領民の田畑を害せしめた咎。すべて、事実と認める」
焼け落ちた麦畑の一角が、いま、王の言葉のなかで名を呼ばれた。ミアが刈ったと誇った、あの畑だ。
「大神官の位、及び神殿における一切の権を剥奪する。以後、生涯を北の塔にて幽閉とする。二度と、陽の下を歩くことは許さぬ」
「あわせて、先にセラフィーナへ下された聖痕詐称の断罪は、偽りの裁きとして、すべて破棄する」
王都が認めない限り、罪人の烙印は消えない――いつか胸の内で数えたあの壁が、王の言葉ひとつで崩れた。
大神官様は、何も言わなかった。ただ、その場に崩れるように膝をついた。
衛兵が両脇から腕を取って立たせた。引き立てられていく足が、わたしのすぐ脇を過ぎる。
「猊下」
その足が、止まった。
「ひとりの小娘の手に、都の命運が握られていたなど、ありはせぬ。……あの日、そう仰いましたね」
猊下は、振り向かなかった。ただ、次の一歩が出るまでに、一拍の間があった。
わたしの用は、それで済んでいた。十五年ぶんの問いは、この一言でちょうど足りていた。
広間に、堰を切ったようなざわめきが広がった。
ようやく、腑に落ちた。なぜこの人が、都が黒く沈もうとも構わぬとばかりに、わたしを拒み続けてきたのか。
御しやすくなかった――あの一言は、答えの入口にすぎない。傀儡の糸を断たれるのを恐れた、というベンヤミン様の読みも、途中までだった。
十年前、この人は意のままにならぬ母を消した。始まりは、もっと前だ。十八年前、母を病死としてその座から消し、神殿の全権を握ったその日から、この方の座は偽りの上にしか立っていない。殺さず留め置いたのは慈悲ではなく、結界に祈りを注げる者が、わたしのほかにいなかったからだ。名を奪い、捨て子として堂の奥に置き、装置のように使った。
わたしが生きて、名を取り戻す。ただそれだけで、弑逆も、死の偽装も、簒奪も、飼い殺しも、十八年かけて塗り固めたすべてが、遡って白日の下に晒される。守っていたのは、神殿の秩序でも権勢でもない。己の罪、そのものだった。
長じるほどに、わたしの力も顔立ちも母に近づいていく。生かして使う危うさが膨らんだところへ、聖痕を欲しがる侯爵家が現れた。渡りに船だったのだろう。
都が沈む目方と、己の罪が露見する目方。この方の天秤に載っていたのは、都ではなく、この人自身の首だった。
――沈めきるつもりは、なかったのだろう。
沈みかけた都へ、御自身の手でわたしを引き戻す。そのときこの方は、都を滅ぼしかけた者ではなく、都を救った者になる。天秤は、そこまで見て釣り合っていた。
読み違えたのは、ただ一つ――都の崩れる速さだけだった。この方は、わたしの十五年を、聖具に祈りを添える程度のものと見積もっていたのだ。祓う手が毎朝そこで何をしていたかを、ただの一度も、見に来たことがなかったのだから。
この人を今日の裁きの場へ引きずり出したのは、王家でも、わたしでもない。本物を捨て、偽物を据えた、この人自身の企てだ。偽物が都を沈め、沈む都が王を動かし、消したはずの証がひとつ、またひとつと、この人の名を指し示した。因果は、確かに巡っていた。
陛下の視線が、ジゼル様へ向いた。
「ジゼル・ド・モンフォール。偽りと知りて聖女の座に就き続けた咎により、その位を剥奪する。以後、この国のいかなる神殿にも、席を持つことは許さぬ」
ジゼル様の肩が、深く落ちた。声にならない嗚咽だけが、広間に漏れる。
本物を蹴落として祭壇に立つ。その甘い蜜を、この人は承知のうえで選んだ。いまの涙も、罪への悔いではない。手にした蜜を失った、それだけの涙だった。
書記官が、新たな羊皮紙を掲げ、読み上げた。
「神官長ゲオルク。偽りの神託を奏上し、鑑定の儀を虚偽に執り行い、聖痕詐称の断罪を成立せしめた咎により、位を解き、神殿の詮議に付す。儀に立ち会うた神官二名も、同様である」
辺境の館で、大神官の名が出たとたんに血の気を引かせ、固く口をつぐんだあの人。あれは怯えではなく、自分の手で成立させた絵図の名を呼ばれた沈黙だったのだ。
「モンフォール侯爵家。偽りの聖痕の周旋に侯自らが関わった証文、及び買い占めた聖水を都の民へ売り惜しみ、暴利を得た咎により、領地・財の没収の沙汰が下された。縁続きのドラクロワ子爵家も、同様である」
かつて雪の下で瘴気に呑まれて終わるだろうと嗤った人々が、いま、自分たちの築いた没落の中に沈んでいく。あの日の嘲りが、そっくりそのまま、その頭上へ還っていた。
広間を出ると、冬の陽が眩しかった。居並ぶ諸侯たちは誰も目を合わせようとせず、そそくさと道を空けていった。
「終わったな」
隣で、クラウス様が言った。
「はい」
わたしは頷いた。だが、その声に、勝ち誇る響きはなかった。ただ、長い重荷を一つ、ようやく下ろせたような、静かな安堵だけがあった。
その夜、客間で一人、マルタから受け取った母の御髪を、そっと手のひらに乗せた。
十八年、顔も知らずに生きてきた母。ようやく知ったその最期は、安らかなものではなかった。
あの声は、夢ではなかった。母は夜更けの堂の暗がりを人目を忍んで、確かにわたしの枕元まで通ってきてくれていた。顔を覚えていないのは、道理だった。わたしはいつも眠りの縁にいて、声と、あの調べだけが、この胸に残ったのだ。
涙が、堪えきれずにこぼれた。声を殺して泣いたのは、物心ついてから初めてだった。
扉が、音もなく開いた。振り向くと、クラウス様が湯気の立つ器を手に立っていた。
何があったのかを、もう聞くまでもないという顔だった。器を卓に置き、着たままの外套の裾を広げて、わたしの肩ごと自分の側へ抱き込む。
顔は覗き込まないまま、前を向いて告げた。
「悲しんでいい。……お前は、ずっとそれを我慢してきたんだろう」
外の冷たさを残した布の内側は、あたたかかった。夜ごと枕元へ通ってきた声も、こんな温もりだったのだろうか。
「俺も、名すら知らぬまま、十年探し続けてきた」
しばらくして、クラウス様が、ぽつりと言った。
「あの方が、お前の母君だったと知った今も、正直、実感が追いつかん。……だが、あの方がいなければ、俺は今ここにいない。この命は、あの方に救われた」
「……不思議です」
わたしは、掠れた声で言った。
「顔も知らない母が、遠い昔にあなたを救って。そのあなたが、今こうして、わたしの傍にいてくださる。まるで母が、この巡り合わせを、ずっと昔に結んでおいてくれたみたいで」
「……そうかもしれんな」
クラウス様は、静かに頷いた。
「だとしたら、俺はあの方に、二度救われたことになる。一度は、この命を。もう一度は――お前を、俺の手の届くところへ導いてもらった」
その不器用な言葉に、涙の膜の向こうで、母の輪郭が、確かな像を結んだ気がした。
「ありがとうございます、伝えてくださって」
クラウス様は、目元だけで頷き、わたしの背をゆっくりと撫でた。
涙が収まると、窓の外の都の灯りへ、そっと目をやった。
罪ある者は、裁かれた。それでも、あの灯りの向こうに広がる黒い霧は、まだ晴れてはいない。
近いうちに、この国はまた、わたしに縋ってくるのかもしれない。
けれど、この身の置きどころは、もう決めてある。聖女であるかぎり、これからも求められ続けるのだろう。それでも、もう二度と、誰かの都合のために生きるつもりはない。わたしが息のできる場所は、あの北の地のほかにない。
問題は、あの人々が――この都が、これからどう歩んでいくかだった。
指輪を握りしめる手に、そっとクラウス様の手が重なる。窓の外、遠い都の灯りは、まだ心もとなく揺れ続けていた。




