第021話 崩れ落ちる神権
審議二日目の朝、大広間には昨日よりも重い沈黙が満ちていた。
高い窓から差し込む冬の陽が、居並ぶ諸侯の顔に、青白い影を落としている。誰もが息を潜め、壇上の一人へ視線を注いでいた。
昨夜、宛てがわれた客間で、わたしはほとんど眠れなかった。
服の上から、胸元の指輪の輪郭を幾度も確かめた。確かめるたびに、露台での一幕がよみがえる。この鉄を捧げ持っていた大きな掌の上で、小さな輪がかすかな音を立てて滑ったこと。人を斬るための手が、たったそれだけの重さを持て余していたこと。
答えは、まだ預けたままだ。返しに行くためには、今日、すべてを終わらせるほかない。
権を停止されてなお、神権を盾に抗弁をやめようとしないあの方が、最後の申し開きで何を突きつけてくるのか。読めない不安が、幾度も胸の内で渦を巻いた。
眠れなかった理由は、それだけではない。昨夜から、肌の奥のざわつきが、止まらないのだ。辺境の露台から、南の空の彼方に感じつづけてきた、あの重く沈んだ胎動。遠い地鳴りのようだったそれが、いまは、この王城の――すぐ足の下まで、迫っている。
「今日で、片がつく」
朝食も取らずに支度をするわたしに、クラウス様が短く言った。その硬い声の奥に、案じる気配が滲んでいるのが分かった。
「はい」
短く答えて、震えそうになる手を、そっと握りしめた。
大神官様の立ち姿には、一分の乱れもなかった。慈悲深い聖職者の顔のまま、静かにその場に立っている。それが、かえって不気味だった。
書記官が羊皮紙を掲げ、昨日の続きを読み上げる。
「大神官ヴァレリウス。昨日の申し開き、今一度伺いたい」
大神官様は、ゆっくりと目を伏せてから、口を開いた。
「陛下。恐れながら申し上げます。神に選ばれし者を、俗人がその座から引きずり下ろすことなど、そもそも許されるのでしょうか」
穏やかな声だった。それだけに、広間の空気が、じわりと固くなる。
「これは、俗世の裁きの及ぶ話ではございません。神殿の権は、神が定めしもの。陛下といえど、これを覆す資格をお持ちなのか、わたくしは問いたい」
陛下の眉が、わずかに動いた。答えを探すように、しばし沈黙が落ちる。傍らのヴィルフリート殿下も、口を挟まず、じっと成り行きを見つめていた。
大神官様は、その隙を逃さなかった。
「加えて、申し上げねばならぬことがございます」
視線が、まっすぐわたしへ向いた。
「そこなる娘は、先代聖女の血を騙り、神殿の座を私物にせんとしております。正統な血筋などという物言いは、神殿の権威を我が物にせんとする簒奪にほかなりません」
広間に、どよめきが走った。
「先代聖女様の御名を騙り、御自身を神格化なさろうというのなら、それこそ異端。陛下、どうかこの者の企みをこそ、お裁きくださいませ」
言葉は静かなのに、その一つ一つが、わたしを罪人の座へ押し戻そうとする力を持っていた。十五年、聞き慣れたはずのその響きに、胸の奥がひやりと冷えていく。
諸侯の中に、大神官様の言葉へ小さく頷く者がいた。長年、神殿の権威に連なってきた古い家柄の者たちだ。その視線が、値踏みするようにわたしへ注がれる。
隣に立つクラウス様は、動かなかった。一歩も踏み出さず、何も言わず、ただ静かに壇上を見据えている。こちらへ向いていた幾つもの視線が、その動かぬ双眸に触れて、一つ、また一つと伏せられていった。それだけで、十分だった。指先の震えが、少しずつ収まっていくのが、自分でも分かった。
そのときだった。
大広間の窓という窓が、一斉に翳った。
「な……」
誰かの短い悲鳴が上がる。天井近くの明かり取りから、黒い霧が糸のように滲み出し、あっという間に広間の隅々へ這い広がっていく。灯された燭台の炎が、次々と細く萎んでいった。
「王城の、中枢まで……!」
衛兵たちが慌てて剣を抜くが、斬るべき相手がどこにもいない。霧はただ、静かに、確実に、床を這い、壁を伝い、玉座へと近づいていく。陛下の御座を守る近衛が、震える手で楯を並べた。諸侯の何人かは、我先にと戸口へ駆け寄ろうとして押し合いになった。
肌を刺すような冷たさが、広間いっぱいに広がっていく。十五年、幾度となく嗅いできた瘴気の気配だ。だが、これほど濃いものに触れたのは、初めてだった。昨夜から足の下に感じつづけていた、あのざわつき。それが今、堰を切って噴き出したのだ。
その混乱の中、大神官様の声だけが、なぜか落ち着いていた。
「ご覧あれ。聖具と、歴代の加護の力添えなくば、都はもはや持ちませぬ」
「わたくしの権を、直ちにお戻しくださいませ。……さすれば、罪人セラフィーナの身柄を神殿へお返しいただき、聖具をもってその手を正しく用い、必ずや都を鎮めてご覧に入れましょう」
好機とばかりに差し出された言葉に、わたしは静かに息を呑んだ。
――またあの手か。
辺境へ懇願の使者を寄越したときと、言っていることは何ひとつ変わらない。罪人のまま、名も返さぬまま、祓う手だけを神殿の内へ戻せ。この瘴気さえ、自らを不可欠と見せかける道具に変えて、わたしをもう一度、あの方の装置に据えろというのだ。
――次は、もっと確かな手を使う。
刺客が言い残し、審問官が繰り返した、あの言葉が耳の奥で鳴った。
刺客も、審問官も、証人の口を封じる布告も、この方にとっては、時を稼ぐための小手先にすぎなかったのだ。本当に頼りにしていたのは、もっと確かなもの――都が沈めば沈むほど、祓える手を握る自分だけが要り用になる、というただ一事。
だからこの方は、都が死んでいくのを、玉座の傍らで待っていられた。
「ジゼル」
陛下が、短く命じた。
「祓ってみせよ」
促されたジゼル様が、震える手を持ち上げた。爪先まで血の気の失せた指が、宙をまさぐるように彷徨う。祈りの言葉を紡ぐその唇からは、しかし何一つ生まれてはこなかった。手のひらの先で、黒い霧がただ揺らめくだけだった。
繰り返すたび、その手は少しずつ高さを失っていった。三度目には、もう膝すら支えきれず、床に崩れ落ちる。すすり泣くような息だけが、しんと静まった広間に漏れていた。
痛々しい姿だと、思う。それでもこの人は、自分が偽物だと承知の上で、わたしから座を奪い、今日までそこに立ち続けてきたのだ。
居並ぶ諸侯の中から、庇う声はひとつも上がらなかった。かつてこの人を「真の聖女」と讃えた口が、いまはひとつ残らず閉じている。膝を折ったその人へ歩み寄ろうとする者は、ひとりもいなかった。
ただ、知らぬ間に、細く長い息が、唇からこぼれていた。偽りが万人の前で終わっていく、その足元で、十五年ぶんの息が、ようやくほどけはじめていた。
「わたしが」
わたしは、一歩、前へ出た。クラウス様が、わずかに肩の力を抜いて道を譲る。その一瞬の眼差しに、行けと、確かな意志が宿っていた。
霧の中心へ向かって、両手を掲げた。
指先から、いつものように光がにじみ出す。祈りの言葉を紡ぐまでもなかった。十五年、体に染みついたものが、自然と手のひらから溢れていく。辺境の畑を、井戸を、あの子供の頬に触れたときと、何ひとつ変わらない。相手が村の澱みであろうと、王城の中枢であろうと、祓うべきものはただ一つ、目の前の闇でしかない。
祓いながら、ようやく、分かった。
南の空で幾夜も脈打ちつづけた、あの重い胎動。都を人質に取る、あの方の手の内かと思っていた。だが、これは、あの方の手ですら、なかった。支え手を失った結界そのものが、打ちつづけてきた、末期の脈だ。
あの方は、これを起こしたのではない。起きるに任せたのだ。日ごとに細っていくその脈を、御自身の値が吊り上がっていく音として、静かに聞いていた。
黒い霧が、光に触れた端から、音もなくほどけていった。渦を巻いていた瘴気が、糸をほぐすように薄れ、天井の明かり取りから差し込む陽の筋が、少しずつ広間を取り戻していく。萎んでいた燭台の炎が、一つ、また一つと、力を取り戻していった。
居並ぶ諸侯の誰もが、声もなくその光景に見入っていた。先ほどまで囁き合っていた者たちさえ、身じろぎひとつしなかった。
最後の一筋が、光の粒となって空へ消えたとき、大広間には、ただ静けさだけが残っていた。ややあって、陛下がゆっくりと立ち上がった。
「今の、これは……」
「結界を支えていたのは、聖女セラフィーナ、そなた一人であったということか」
問いというより、確信に近い響きだった。
壇上の大神官様の顔から、初めて、あの穏やかな笑みが消えた。
「聖具と、歴代の加護が結界を保つと、猊下は常々仰せでしたな」
ヴィルフリート殿下が、静かに、しかしはっきりとその沈黙を突いた。
「ならば今の光は、いったい何によるものです。聖具も加護も、この場に現れはしませんでしたが」
大神官様は、答えなかった。ただ、口元が、かすかに震えていた。十五年言い続けてきた建前が、たった今、万人の目の前で崩れ落ちたのだ。慈悲深い聖職者の仮面の下から覗いたのは、行き場を失った、ただの動揺だった。
「印章の一致、記録の筆跡、証人二人の証言。そこに加えて、今この目で見た証」
殿下が、卓上に並べられた品へ視線を落とす。
「これでもなお、讒言と仰るか」
大神官様は、唇を薄く開いたが、そこから出たのは言葉にならない吐息だけだった。
陛下は、しばらく黙り込んでいた。それから、重い声で告げた。
「猊下の権は、なお停止のまま据え置く。詮議は、明日、続ける」
書記官が、何かを言いかけて、ふと言葉を止めた。手元の記録に目を落としたまま、眉をひそめている。
「陛下。ベンヤミンの証言に、一点、まだ問うておらぬことが」
その声に、大神官様の肩が、初めてはっきりと強張るのが見えた。
「先代聖女エルフリーデ様が、いかにして身罷られたか――その最期を知る者が、まだこの場に呼ばれておりません」
広間に、再びざわめきが広がっていく。
わたしは、その言葉に、胸の奥が冷たく凪いでいくのを感じた。母の死の真実が、いよいよ、すぐそこまで来ている。
大神官様の額に、うっすらと汗がにじんでいた。今まで一度も見たことのない、その姿だった。
「明日、すべてを」
陛下の声が、静かに広間へ響いた。
散会となった広間を出るとき、大神官様の傍らを通り過ぎた。目が合うことはなかった。ただ、その横顔から、あの穏やかな笑みは、最後まで戻らなかった。
その数歩先で、ジゼル様は、まだ床に座り込んだままだった。
侍女が両脇から支えても、膝が立たないらしい。わたしの足音に気づいて、俯いていた顔が上がった。あの日、伏せたまつ毛の下からわたしへ向けられた音のない笑みは、どこにも残っていなかった。
「どうして……あなたは」
掠れた声が、そこで途切れた。その先に何を置きたいのか、たぶん本人にも分かってはいなかった。わたしは、一度だけ足を止めた。
「わたしは、一度も、その座を欲しがったことがありません」
ジゼル様の唇が、小さく動いた。今度は、音にならなかった。それ以上は何も言わず、わたしは歩き出した。
その夜、客間へ戻ると、クラウス様がわたしの隣に腰を下ろした。
何も問わないまま、大きな腕が、わたしの肩を抱き寄せる。そこで初めて、自分の肩がずっと細かく震えていたことに気がついた。
「今日、お前がいなければ、この城は今ごろ黒い霧に沈んでいたかもしれん」
「わたしがいたから、ではありません。……ただ、祓うべきものが、目の前にあっただけです」
そう答えながらも、胸の奥では、別の想いが渦を巻いていた。明日、母を手にかけた者の名が、ようやく白日の下に晒される。喜びとも、恐れとも、まだ名づけようのない感情だった。
「怖いか」
クラウス様の問いに、わたしは少し考えてから、正直に頷いた。
「はい。……それでも、知らなければならないのだと思います」
クラウス様は、何も返さなかった。慰めも、明日の約束も、ひとつも口にしないまま、震えが引いていくまで、ただ肩を抱いていた。
「フィーネ」
それだけだった。いつもより低く、ゆっくりとした声で、この人はわたしの名を一度だけ呼び、あとは何も付け足さなかった。




