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第020話 あなたの隣で

翌る朝から、館は出立の支度で慌ただしくなった。


昨夜の返事を、クラウス様は蒸し返さなかった。ヨナス様を呼びつけ、留守の差配を一つずつ言い渡している。わたしの答えは、もう問い直すものではなく、手筈に変わっていた。


十日の猶予といっても、その半分は道のりに消える。支度に許された数日は、瞬く間に過ぎた。


出立の朝、厩の前でミアが泣きじゃくりながらわたしの裾にしがみついた。


「聖女さま、ちゃんと帰ってきて」


繰り返すその小さな手を、わたしはそっと握り返した。


「必ず、戻ります」


クラウス様が、隣で静かに頷いた。今度の道行きは、二人だった。


「留守は任せた。避難民と、ミアたちを頼む。何があっても、この地を守り抜け」


ヨナス様に短く言い残すと、もう振り返らずに馬車へ乗り込んだ。



馬車が王都の門をくぐったのは、旅立ちから五日目の夕刻だった。


門の外には、長い列ができていた。都へ入る者の列ではない。荷車に家財を積み、子の手を引いて、都から逃れ出ていく人々の列だった。わたしたちの馬車だけが、その流れに逆らった。


かつて見慣れた大通りに、活気はなかった。軒を連ねた店の半分近くが板戸を打ちつけ、人影も俯いたまま足早に通り過ぎていく。辻の一角では、聖水売りが台に小瓶を並べていた。掲げられた値札は、辺境の民のひと月の稼ぎでも届かぬ数字だった。それでも、群がる手が絶えなかった。


その群がる手の、いちばん後ろに、見覚えのある背があった。


頬はこけ、外套は仕立てのよさだけを残して擦り切れている。台の隅には、家紋の彫られた銀の燭台が二つ、値踏みされたまま置かれていた。あの日、わたしを拾い子と嗤った家の紋だった。


ドラクロワ子爵は、震える手で小瓶を一つ受け取り、振り返って、わたしと目を合わせた。一度、口を開きかけ、そのまま閉じた。すがる資格すら、もう自分には残されていないと知っている顔だった。


わたしは、馬車を降りなかった。ただ、窓を細く開けて、一度だけ言った。


「……その一滴も、あなたの領地の民には届かないのですね」


子爵は答えなかった。小瓶を握りしめたまま、列の外へ歩いていく。わたしは、追わなかった。


大路を一つ折れた先は、丸太を組んだ柵で塞がれていた。札の向こうに、灯り一つない街路が黒く沈んで続いている。柵の手前には、誰が供えたのか、萎れた花が一束。


見上げれば、あの重い黒い霧は、もう空の彼方の帳ではない。屋根々々の稜線を這い越えて、都の輪郭を呑みかけていた。


大聖堂へ続く坂道が、遠くに見えた。門扉には閂が掛かり、上る人影は一つもない。十五年、あの坂を上って祈り続け、あの日は罪人として、雪の中を引き立てられて下りた道だった。


「怖いか」


クラウス様の低い声が、隣から届いた。


いいえ、とわたしは静かに首を振った。


「ただ、悲しいだけです。ここに住む人々の暮らしまでは、憎めませんから」


クラウス様は、何も返さなかった。人けの絶えた街並みを、ただ一緒に見ていた。



翌日、王城の大広間に、諸侯が居並んだ。


正面の玉座に座すのは、初めて間近に見る国王フェルディナント陛下だった。白髪交じりの頭に王冠を戴き、その眼差しは疲労の色を隠せずにいた。


壇の傍らには、大神官ヴァレリウス様が、いつもと変わらぬ穏やかな笑みを湛えて立っていた。その隣、一段低い場所に、ジゼル様が青ざめた顔で俯いている。付き従う侯爵家の者は、もう一人も見当たらなかった。


書記官が進み出て、羊皮紙を広げた。


「大神官ヴァレリウス。汝に問う。聖女すり替えの企て、先代聖女エルフリーデ様の死をめぐる疑い、及び聖女セラフィーナ様の出自を偽り留め置いた罪――これらの疑いに、申し開きはあるか」


広間が、しんと静まり返った。


大神官様は、ゆっくりと目を細めた。


「すべては、讒言にございます。国を憂うるあまり心得違いをした若輩者の妄言に、いちいち耳を貸すおつもりか」


その声には、微塵の揺らぎもなかった。だが、卓上に並べられた品――黒曜の杖から見つかった印章、焼け残った記録の断片――を一瞥した瞬間、その口元が、わずかに強張った。


「証人、ベンヤミンとアグネス」


書記官の声に、二人が広間の隅から進み出た。膝は震えていたが、その声は乱れなかった。焼却の命を受けた夜のこと、堂内に留め置かれた赤子の話を、順に述べていく。


大神官様は、最後までそれを鼻先で笑った。


「若い記録係の思い込みと、老いた下働きの繰り言だ。それだけで、神殿の権威を汚せるとお思いか」


「陛下」


ヴィルフリート殿下が、玉座の脇から一歩、前へ出た。


「印章は本物と鑑定済み。記録の筆跡も、猊下が神殿の裁可状に日ごろ署してこられた御自身の筆と、一字一字引き比べ、同じ手のものと確かめてございます」


殿下は、まっすぐに大神官様を見据えた。


「これだけの証が積み重なってなお讒言と仰るなら、猊下は、御自身の署された筆までを、偽りとお認めになりますか」


大神官様からは、ついに一言も返らなかった。その沈黙が、これまでのどんな抗弁よりも雄弁だった。


陛下は、重々しく口を開いた。


「本日はこれまでとする。ヴァレリウスの権はなお停止のまま、詮議は明日以降も続けよ」


短いやりとりだけで、ジゼル様には言葉一つ向けられなかった。それが、かえって残酷だった。


わたしと目が合うと、ジゼル様はすぐに顔を伏せた。胸の前で組まれた祈りの手は、指の節が白く浮くほど固く握りしめられていた。恨み言も、謝罪の言葉も、とうとう聞こえてはこなかった。



審議の後、陛下が自ら、わたしを御前へお召しになった。


「聖女セラフィーナよ」


陛下の声は、思いのほか穏やかだった。


「そなたの正統な血筋、確かに認めよう。改めて、聖女の座に迎えたい。この国に、そなたの力が必要だ」


広間の視線が、一斉にわたしへ集まった。わたしは深く一礼してから、静かに顔を上げた。


「陛下の御言葉、身に余る光栄にございます。……ですが、お断り申し上げます」


小さくどよめきが広がる。


「わたしの居場所は、もう辺境にあります。あの土地で、待ってくれている人々がいます」


「されど、都には」


「都には、これから立て直す時が必要でしょう。ですが、それは、わたし一人が座に戻ることでは成せません。この十五年、都が見誤ってきたものを、御自身の目で、もう一度お確かめください」


陛下は、しばし黙り込んだあと、静かに頷いた。


「……道理だ。無理は言うまい」


その言葉を聞いて、隣に控えていたクラウス様が、ほんの半歩、わたしの傍らへ寄った。


一言もなかった。ただその佇まいが、わたしの選んだ道は誰にも覆せないのだと、この場のどんな言葉よりも確かに告げていた。



その夜、宛てがわれた客間の露台で、わたしは一人、夜風に当たっていた。


見下ろす都の灯りは、思っていたよりずっと少なかった。そして、肌の奥では――辺境の露台から南の空を辿ってきたあのざわつきが、いまは、この足の下から昇ってきていた。


「疲れたか」


背後から、低い声が降ってきた。答える前に、その人は隣まで来て、手すりに肘をついた。今日一日の疲れが、その横顔に滲んでいる。


「いいえ。……ただ、この都はもう、わたしが知っていた都ではないのだと、今日、分かりました」


わたしは、遠い灯りに目を戻した。


「恨みは、残らんのか」


低く問われて、わたしは少し考えた。


「憎んでも、あの霧は晴れませんから。……憎む力は、祓うことに使いました」


クラウス様は、しばらく黙って同じ景色を見つめていた。それから懐へ手を入れ、小さな布包みを取り出した。


節くれだった指が、結び目をほどいていく。その手つきが、いつになくぎこちなかった。


「これを、渡そうとずっと決めていた」


布の中から現れたのは、素朴な鉄の指輪だった。宝石も飾りもない。表面には槌で打った跡がそのまま残る、一打ち一打ちに力のこもった輪だった。


「辺境の鍛冶場で、俺自身が打った」


夜露を弾く金属が、月明かりを鈍く照り返した。火の粉の散る鍛冶場でこの輪を叩き出す姿を思い浮かべると、胸の奥が締めつけられた。


「贅を凝らす暇も、才もない。だが、この地に、お前をつなぎ止めるものが要ると思った」


クラウス様が、片膝をついた。


北の戦鬼と恐れられる大男が、石畳の上に膝を折る。剣を振るう手が、槌を握る手が、いま、自分で打った小さな輪ひとつをまともに支えられずにいた。差し出された掌の上で、鉄がかすかに音を立てて滑る。


一度、深く息を吸い直す音がした。


「セラフィーナ。……フィーネ。俺の妻に、なってくれるか」


いつもの低い声が、名を呼ぶところだけ、わずかに掠れていた。篝火も花もない、質素な求婚だった。それでも、その声の重みは、どんな言葉よりも確かだった。


胸の奥から、熱いものが一息に込み上げた。


嬉しい、と叫んでしまいたかった。この手を取りたかった。けれど、喉の奥で言葉が凝って、声にならない。差し出された指輪が、月明かりの中でにじんでいく。


大きな手のひらは、まだ律儀に指輪を捧げ持っている。十年、名も知らぬ光を探し続けた人が、その果てに、こんなにも不器用な形で心のすべてを差し出している。


「わたしは……」


言いかけて、けれど、喉の奥で止まった。


断罪はまだ終わっていない。都の行方も、大神官様の裁きも、何一つ定まっていない。この胸の想いだけを先んじて差し出すことが、今のわたしにはできなかった。半端なままの心を、この誠実な手に握らせたくない。


「……今は、まだ、お答えできません」


言った瞬間、クラウス様の瞳に、隠しきれない翳りが差した。


その翳りに、心臓が縮んだ。違う、そうではないのです。わたしは慌てて、その大きな手に自分の両手を重ねた。冷たい鉄の感触が、手のひらの間に挟まれる。


「厭うたわけでは、決してありません。……ただ、あなたに応えるのなら、何も後ろに残さず、まっすぐにお応えしたいのです。中途半端な心で、この手を取りたくない」


クラウス様は、しばらくわたしの手を見下ろしていた。


「では」


低く、問うた。


「終われば、答えをくれるか」


はい、とわたしははっきり頷いた。


「すべてが片づいたら、必ず、お答えします。……この指輪を、そのときまで、預からせてください」


クラウス様は、しばし黙り込んだあと、ふっと表情を緩めた。どこか安堵の滲む、武骨な笑みだった。


「待つのは、慣れている。十年、待ち続けたのだからな」


指輪は、わたしの手のひらに、そっと預けられた。冷たかったはずの鉄が、握りしめているうちに、じんわりと熱を帯びていく。



その夜半になっても、わたしは眠りにつけずにいた。寝返りを打つたび、掌の中の小さな輪が肋を押す。指をほどけば眠れるのに、ほどく気にはなれなかった。


廊下を、慌ただしい足音が近づいてきた。


控えの間へ出ると、ヴィルフリート殿下の従者が、肩で息をしながら頭を下げた。


「大神官様は、なお権を手放そうとなさいません。総意の場で、最後の抗弁を用意しておられるとのことです」


すぐ後ろで、扉が開く音がした。クラウス様も、まだ休んでいなかったらしい。


「明日、また裁きの場に立つ」


低い声に、わたしは頷いた。


「行きましょう。……終わらせるために」


従者が下がると、クラウス様はわたしを部屋の前まで送り、そこで一度、立ち止まった。


「答えは、急がなくていい」


それだけ言って――それから、ひどく不器用な手つきでわたしの肩に触れ、かがめた顔を、頬に寄せた。


その唇が頬に触れたのは、ほんの一瞬だった。すぐに離れると、クラウス様は咳払いを一つして、大股で廊下を戻っていった。


扉が閉まってからも、わたしはしばらく動けずにいた。



一人になった部屋で、わたしは荷の底から細い組紐を探し出した。


指輪を通して輪にし、首から下げる。服の内側で、鉄が肌に触れて、ひやりとした。それも、じきに温まった。


上から手を当てると、布越しにも、丸い輪郭がはっきりと分かる。答えは、とうに決まっている。決まっているのに、まだ渡せない。この重みは、渡せずに預かっているぶんの重さだった。


明日、あの広間で、すべてが終わる。


終わったら、この鉄を、指へ返しに行こう。


胸元の重みに、手を重ねる。もう一方の手が、自然と頬へ行った。まだ熱の残るその場所に触れたまま、わたしは、夜が明けるのを待った。


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