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第019話 偽りが、剥がれ落ちる

夜が明けきらぬうちに、クラウス様たちは発った。


雪明かりの中、ヨナス様が馬に鞍を置く手つきに、迷いはなかった。証人二人を乗せた荷馬車が一台、空の荷しか積まぬ囮の馬車がもう一台。二手に分かれる支度が、暗いうちに黙々と整えられていく。


「囮は俺が率いる」


クラウス様は、剣を腰に佩(は)きながら短く言った。


「敵の目を引くなら、俺の方が都合がいい」


「それでは、あなたが危険です」


わたしが言うと、クラウス様はわずかに口の端を緩めた。


「十年、瘴気の中で生き延びてきた。荒くれ者の一人や二人、恐るるに足らん」


それだけ言うと、クラウス様は鐙(あぶみ)に足をかけ――そこで、一度だけ振り返った。


手袋をはめたままの手が持ち上がり、わたしの冷えた頬に、一瞬だけ触れて離れる。革の硬さ越しでも、昨夜のあの熱は、確かに同じ場所にあった。


昨夜のことを、この人はまだ一言も口にしない。それでも、馬首を返すまでのわずかな間が、いつもより半拍だけ長かった。


ヨナス様が本隊を率い、証人二人を乗せた馬車を裏の猟師道へ導いていく。二台の轍が、坂の下でゆっくりと分かれていった。


「聖女さま。お二人の道中は、この身に代えましても」


ヨナス様が、馬上から短く一礼した。厳めしい顔の下に、隠しきれない緊張が見えた。


蹄の音が、暗い坂の向こうへ遠ざかっていく。聞こえなくなるまで、わたしはその場に立ち尽くしていた。



わたしは、館に残った。留守を頼まれた数人の兵と、厩に匿われたままの避難民たちを見守りながら、日々を過ごした。


朝には井戸端の水を清め、夕には熱を出した老爺の額に手をかざす。合間には、雪だるまを作っていたミアが「聖女さま、閣下はいつお戻りに」と、心配そうに袖を引いてきた。


「必ず、お戻りになります」


わたしはそう答えながら、自分自身にも言い聞かせていた。


初めてこの人の帰りを待った日のことを、ふと思い出す。あのときは、ただ無事でいてほしいと祈るだけでよかった。いまは、帰ってきたその人とどんな顔で向かい合うのかまで考えてしまう。待つ心細さの、中身が変わっていた。


小さな務めを一つずつこなすたび、坂の下の街道へ目が行った。


夜、寝台に横になると、決まって胸の内に、あのあたたかい声がよみがえった。幼い頃から、苦しいときにはいつも寄り添ってくれた声。母が遺してくれたものだと、今ならわかる。


――ただ、物心もつかぬうちに神殿へ留め置かれたわたしが、どうしてその声を覚えているのか。そればかりは、いくら手繰り寄せても、糸の先が霧の中へ消えていくばかりだった。


館の奥の、二人が匿われていた部屋は、どちらも空になった。ベンヤミンとアグネスは、いまごろ雪の街道のどこかで、行商の荷に身を伏せているはずだ。発つ前の晩の膳に、二人ともろくに箸をつけていなかったと、給仕の女中がそっと教えてくれた。


夜が更けても、雪はやまなかった。窓を打つ音を数えながら、わたしは何度も同じ問いに戻ってきた。証は届いただろうか。二人は無事だろうか。



三日目の夕暮れ、坂の下から蹄の音が響いた。


「閣下がお戻りです!」


見張りの声に、わたしは駆け出した。


雪を蹴立てて坂を上ってくる馬影を、息を切らして見上げる。クラウス様が、無事に馬を下りた。頬に浅い擦り傷があるほかは、大きな怪我はないようだった。それだけで、胸の底から力が抜けていく。


「囮の隊が、途中で襲われた」


クラウス様は、外套の雪を払いながら言った。息はまだ整いきっていない。


「黒い羽根の徽章(きしょう)を付けた者どもだ。……わざわざ、またあれを着けてきた」


「同じ、徽章」


「数は、さほどでもなかった。二人を捕らえ、残りは追い返した。……だが、妙なのはそこだ」


クラウス様の眉間に、浅い皺が寄った。


「囮に食いついたにしては、攻めが浅すぎる。証人の首が懸かった襲撃なら、あの倍は寄越すはずだ。仕掛けておきながら、深追いする気配すらなかった」


あの方は、意味のない手を打つ人ではない。胸の隅に、小さな棘が残った。


それでも、クラウス様の顔に気負いはない。傷の手当てもそこそこに、まずわたしを見つけて歩み寄ってくる、その足取りだけが少し重かった。


「本隊は無傷だ。証人の二人は、手筈どおり行商の一団に紛れさせてある。印章も記録も、写しを幾つかに分けて、先に別の便で送り出しておいた」


「捕らえた二人は、いかがなさるのですか」


「縄を打って、後詰めの手の者に本隊まで送らせた。発つ朝には、牢に繋いだままだった初めの刺客も、ヨナスの隊に預けてある。ヨナスが証人と現物を、あの者どもごと王城近くの隠れ家まで運ぶ。数日のうちに、すべて王弟殿下の手の内に渡る」


わたしは、詰めていた息をゆっくりと吐いた。指先の強張りが、そこでようやく解けた。


「あとは、無事に届くことを、祈るばかりですね」


「案ずるな。……約束したはずだ。誰にも、奪わせはしないと」


クラウス様は、それだけ言うと、剣を鞘ごと従者へ預け、疲れの見える肩を一つ回した。


騒ぎを聞きつけた村の者たちが、遠巻きに広場へ集まってきていた。無事な姿を目にして、誰かがそっと手を合わせるのが見えた。



それから五日ののち、王弟殿下の使いが、早馬で辺境へ駆け込んできた。


雪まみれの外套の男は、馬から転げ落ちるように下りると、膝に手をついたまま肩で息をしていた。顔を上げたその目には、まだ興奮の色が残っている。


「殿下より、火急の報せにございます」


クラウス様が受け取り、目を走らせる。読み進めるうちに、その表情が険しくなっていった。


「証人と物証は、残らず殿下の手の内に収まったそうだ」


まずその一行を、クラウス様は静かに読み上げた。胸の奥で固く結ばれていたものが、ひとつ、ほどけていく。


「そして――捕らえた者どもの口から、徽章の出どころが割れた」


声が、低くなった。


「大神官様御自らの命であったと、認めたそうだ。初めにこの地を襲った刺客も、殿下の御前で、同じ名を口にしたと。……祠(ほこら)の森をうろついていた男も、同じ組の一人だったと吐いたそうだ」


「認めた……。では、ご本人も、罪を」


「いや、大神官様は今も、しらを切っておられる。『神に仕える者に、俗なる詮議など要らぬ』と、御前会議の場でも突っぱねられたとか」


使者が、荒い息の合間に言葉を継いだ。


「なれど陛下は、捕らえた者どもの自白と、辺境から届いた印章、記録の写しを併せてご覧になり、猊下の神殿における一切の権を、総意の場が開かれるまで停止するとお決めになりました。……権の停止と同時に、異端審問の団を率いた審問官アルブレヒト以下、身柄はすでに押さえられております。長老会もついに連署を拒み、証人お二人を『異端』とする布告は、正式に流れましてございます」


使者は、そこで一度、声を改めた。


「今ひとつ、殿下より言付けがございます。……先の返書で聖女さまがお願いなされた、神殿を辞した古い奉公人がたの保護。殿下は、こちらの荷が動くより先に手配なさいました。そして囮の隊が襲われたのと同じ夜、そのお一人の宿へ賊が忍び入りかけたのを、殿下の手の者が間一髪で取り押さえましてございます」


クラウス様の目が、すっと細くなった。


「……囮への襲撃は、目くらましか」


「だから、攻めが浅かったのですね」


わたしの口から、掠れた声が漏れた。あの方の本命は、街道を行く荷ではなく、都に残る生きた証人の口だった。撃退した、守り抜いた――そう思っていた同じ夜に、あの方の刃は、まったく別の喉元へ伸びていたのだ。


徽章は、わざと見せたのだ。三度目の同じ意匠を、わたしたちは敵の失点として数えた。あれは失点ではない。こちらに数えさせるための、札だった。


勝ったのではない。型を破られかけたのは、こちらの方だった。


間に合ったものが、たった一つだけある。あの晩、名も顔も知らない人たちへ、先に手を伸ばしておいたこと。それだけだった。


さらに、使者は声を落とした。


「折悪しく、その最中、黒い霧が宮殿の中庭にまで這い込みました。陛下の御身に瘴気が及びかねぬ事態となり、居合わせた方々が、ジゼル様に浄化をと詰め寄ったそうです」


「ジゼル様は」


「手をかざされました。なれど霧は、晴れるどころか濃さを増すばかり。二度、三度と繰り返されても、同じことにございました。……居並ぶ方々の顔から、みるみる血の気が引いたそうにございます。黒い霧は、陛下の御座の階(きざはし)のすぐ下まで這い寄ったとか」


わたしは、静かにその言葉を受け止めた。十五年ずっと隠れていたものが、ようやく誰の目にも見える形になったのだ。背筋を、細い冷えが伝っていった。剥がれた偽りの下から現れたのは、都の剥き出しの死に顔なのだから。


この報せは、遠からず村にも伝わるだろう。厩の二階で温かい粥をすすっているあの人々の耳にも。都を捨てられた者たちが、都の崩れ落ちる様をどんな顔で聞くのか、わたしにはまだ想像がつかなかった。


広間の壁に掛けられた燭台の火が、じりじりと音を立てて揺れていた。誰も、それ以上は口を開かなかった。


使者は、懐から二通目の書状を取り出し、深く頭を下げてから告げた。


「陛下は、総意を問う場を、予定より早め、十日後に開くとお決めになりました。そして」


一度言葉を切り、まっすぐにわたしを見た。


「聖女セラフィーナ様御自身に、その場へご出座いただきたいとのことです。すべてを終わらせる証人は、あなた様をおいて他にないと」



使者が下がったあと、わたしはひとり、館の露台に出た。


凍えた夜気が、頬に貼りつく。頭上には、変わらず冴えた星々が広がっている。けれど、南の空だけが、違っていた。


初めてここから南を見た夜、地平の際には、星の消えた黒い帯が、一筋だけ低く根を張っていた。その帯が、いまは帯とは呼べぬほどに太い。せり上がった黒が低い星を幾つも呑み、都の灯りの淡い照り返しさえ、跡形もなく消していた。


肌の奥では、あの重い胎動が、夜ごとに近く、速くなっている。御座の階のすぐ下まで這い寄ったという黒い霧――使者の言葉が、目の前の黒いふくらみと、胸の中でひとつに重なった。


追放の朝、雪の中でわたしは決めた。わたしを捨てたあの都が黒い霧に沈んでいくのを、辺境から、ゆっくりと見届けるのだと。


いま、わたしは、本当に見届けている。


言葉にした覚悟と、目の前に置かれた現実とは、こんなにも重さが違う。手すりを握る指先が、夜気より先に冷えていった。


足音もなく、クラウス様が隣に並んだ。何も言わず、同じ南の空へ目を向けている。


「行くのか」


静かな問いだった。


「……あの晩、あの場所に立つと、自分に決めました」


わたしは、南の黒を見つめたまま答えた。


「ただ、決めたときのわたしは、都がこれほど早く沈むとは、思っていませんでした」


クラウス様は、しばらく黙って、南の黒い空を見ていた。それから、低く言った。


「お前は、もう何も証さなくていい。……見ろ。時が、勝手に暴いてくれる」


その視線の先で、黒いふくらみは、音もなく都を呑み続けている。


「行くも、行かぬも、お前が選べ。どちらでも、俺はお前の隣にいる」


その言葉に、胸の奥がじんと温かくなった。十五年、誰かに選ばせてもらったことなどなかった。


手すりを握りしめていたわたしの手の上に、外側から、大きな掌が重なった。剣だこの硬さと、そこに残る熱。急かすでもなく、答えを催促するでもなく、ただ重ねられているだけのその重みで、十分だった。


背後の厩の方角から、子供らの笑い声が、かすかに届いた。目の前には、沈んでいく都の黒。そのどちらもが、いまのわたしの世界だった。


十日後、王城の大広間で、断罪の火蓋が切られる。かつて、わたしが罪人と呼ばれた、あの場所だ。


わたしは重ねられた掌の下から手を抜き、その人の方へ向き直った。


「行きます。……この目で、けじめを見届けます」


自分の声が、思っていたよりずっと落ち着いていた。露台の下では、追放の朝と同じ雪が、また静かに降り積もりはじめている。


クラウス様の目が、わずかに細まった。


「――なら、俺も行く。あの広間の敷居は、今度は二人でまたぐ」


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