吉永さん
ドッペルゲンガーは引き続き劇団に出没しているらしかった。送った覚えのないLINEの会話に私が参加していて、私は劇団の人たちに未だ状況の説明ができずにいる。ていうか私だってなにが起こっているのか正しく理解できてはいない。携帯代の請求が二倍来るんじゃないかと戦々恐々としていたがそれは大丈夫だった。
水守さんに頼んで劇団の人たちに一緒に説明してもらおうかと思った。が、多分吉永さん達には「水守が私におかしなことを言わせて役を取り返そうとしている」と思われるのが関の山な気がして、それはやめておいた。
しかしどうしよう?
やはり芸大に出向いて絵を取り返してくるのが私のやるべきことなのだろうか。でも私は私の絵を描いた子の正確な顔を覚えていない。顔見たら思い出すかな?
何もしていないよりは何かしている方がいい気がして、東京芸術大学に向かってみる。車通りの少ない裏道をとぼとぼ歩いていると、後ろからきた車がプッと軽くクラクションを鳴らした。
なんだろうと振り返ると、スーツ姿の吉永さんが車の窓から「ヨリ!」と私の名前を呼んだ。
「どこまでだい? 送っていくよ」
徐行運転で私に追いついた吉永さんが助手席のドアを開ける。
「いえ、結構です」
展開が理解できなくて断る。
「遠慮しなくていい。少し時間に余裕があるんだ」
手を伸ばした吉永さんが私を掴んで車の中に引っ張り込む。
別に強い力じゃないし逃げようと思えば逃げれたけどなにが起こっているのかよくわからずに頭が真っ白な私はまんまと車の中に引っ張り込まれて助手席に収まる。(私は道路の左側を歩いていた)
なにこの優しい拉致。
私はかなりビビる。
「一時間ほど余裕があるんだけど、君さえよければ喫茶店かどこかで話さないか?」
吉永さんの全身から芝居の時とはまた違う雰囲気のイケメンオーラが発散されて車内に充満していて私は息苦しくなる。
「あの」
「ん?」
にこやかに微笑みながら吉永さんが私の手を取る。
私は思わず手を振り払った。大袈裟に体を引いて頭をガラスにぶつける。痛い。
吉永さんの顔がちょっとだけこわばって「すまない、まだ早かったね」悲しげに目を伏せる。
そのあたりで私はようやく「吉永さんが私と一緒に私の実家に行った」と母が言っていたことを思い出す。
「ええと、すみません。私と吉永さんの関係って」
「恋人だと思っていたのは僕の早合点だったかな」
……やり手だな! 私のドッペルゲンガー!
と、とにかくこの誤解は放置しておくと後々にとんでもないことになりそうだ。
「ごめんなさい、ちゃんと話したいことがあるんですが喫茶店、行ってもらっていいですか」
吉永さんが頷いて、車を走らせてチェーンの喫茶店の駐車場に止める。私たちは車を降りて店に入る。吉永さんが「コーヒーでいい?」と訊いてきて私は頷く。水を運んできた店員さんに「アメリカンを二つとチーズケーキとザッハトルテ」と吉永さんが言う。
なにこの人、ケーキ二つも食うの? と私はぼけーっと思う。
運ばれてきて湯気の立つコーヒーを啜り、(一杯で500円とってるだけあってうめー。でも金の無駄―。私はペットボトルの88円でいいわー)とか思ってる私に向かって、「どっちが好み?」と訊いてくる。
私がなにも考えずにチーズケーキを指さすと、チーズケーキが乗った皿をこっちに押し付けてくる。
「え、あの、悪いです」
「困ったな。僕は二つも食べられないや。こいつの行き場所がない」
負けました。
いただきます。
ありがとうございます。
この人、もしかして去年の劇団のクリスマス会で私が「イチゴが苦手」と言ってショートケーキを食べなかったことを覚えていてチーズケーキとザッハトルテのチョイスだったんだろうか……? イケメンつっよ。吉永さんはケーキをつつきながら劇団のこととか時事ネタとか適当に振って、私が話しやすい雰囲気を作ったあとで「それで、話ってのは?」と訊いてくる。
私はドッペルゲンガーのことを話す。
サロメを演じたのは私ではないこと。
吉永さんと一緒に実家に帰ったのは私ではないこと。
私は退団の手続きをしたし、最近の練習に出ていないことを話す。
吉永さんは時折頷いたり、口元に手をあてて何かを考えていておもむろに「解離性同一性障害みたいな話かな?」と言う。
解離性同一性障害。
ようするに多重人格のことだ。
おお! と私は思う。ドリアン・グレイがどうだーとか非現実的な話に走った私や水守さんと違って、吉永さんらしいスマートな結論だった。間違っていること以外はエレガントな解答だった。
私にはドッペルゲンガーが活動している間の記憶がばっちり残っているし、お菓子とジュースを爆買いしたときのコンビニのレシートという動かぬ証拠もある。というわけで私は多重人格説を否定する。
「よくわからないけど、ヨリは二人いる、と君は主張するんだね?」
「そうです」
「見分けがつかないのは困るな」
「そうですか?」
「僕は君に触れたいと思ってるから」
うわー、イケメン以外に言われたら身の毛が弥立つ台詞だ。
イケメンに生まれてよかったな、吉永。
「君のドッペルゲンガーには触れても構わないのかな?」
「どうぞどうぞ、それ私じゃないし」
言ってから、私は吉永さんに脱がされてホクロの数とかシミとかタルミとか平たい胸だとかを把握されることを想像する。気持ち悪いか? 嫌か? と内心に問いかけてみるけど、結構どうでもよかった。
なんとなく自分の性体験が思い出された。大学のときに演劇のサークルで一緒に飲んでた男にラブホテルに連れ込まれてヤッたことがある。が、そいつがあとで「ブスのくせに具合が悪くて最悪だった」って言っていたのを聞いてしまって以来、ご無沙汰だ。
てめえの(ピー)も最悪だったし、めちゃくちゃ痛かったんだよ、下手糞。死ねばいいのに。ゲロブサイクが。
男にとって性経験の暴露はステータスみたいな扱いなのに、女にとっての性経験の暴露はヤリマンとかビッチとか軽蔑の対象になるのはすごく不公平だと思う。
私だってあいつのセックスを公然と罵りたかった。
「どうも調子が狂うな」
吉永さんが頭を掻く。
「ごめんなさい」
私はドッペルゲンガーの方ではないことを謝る。
勝手に謝ったくせになんで謝らないといけないんだと心の片隅でちょっと思う。
「違うんだよ、その」
吉永さんは自分に呆れたみたいな笑い方をする。
「今日の少しつれない君の方が魅力的に見えてね」
歯の浮くようなことをいけしゃあしゃあと宣う。
吉永さんが時計を見る。私たちは喫茶店を出る。
コーヒーとケーキの代金はまるっと吉永さんが奢ってくれて私は財布も出さなかった。
「どこまで?」
「東京芸大まで」
私をきちんと芸大の前まで連れていってくれて、私はお礼を言って車を降りる。
「吉永さんはこれから?」
「会社に戻るよ。営業の合間の空き時間だったんだ」
ヨカナーンの正体なんてこんなもんさ、と冗談めかしてキザっぽく言う。
私はちょっと笑う。吉永さんが会社員やってることさえ私は初めて知った。私はこの人のことをなにも知らない。いつも劇団のために駆けずり回ってる印象があるからもっと時間に余裕のある自営業とかだと思っていた。
「休みって」
「土日だけだよ」
その土日は練習にあてている。
水守さんは吉永さんのことを「才能と顔だけでやっている」と言っていたけれど、吉永さんには吉永さんなりの事情がある。
「それじゃあ。こっちの君にもまた会いたいな」
軽やかに言い、吉永さんが車を走らせて去っていく。




