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第9話 ナンパを撃退、お礼の奉仕


 西の空を赤く染め上げていた太陽が沈みかけ、街並みはゆっくりと夜の帳に包まれ始める頃。


 叔父の営む喫茶店『ライムノート』での長時間のシフトを終えた俺は、心地よい疲労感を覚えながら、駅前通りから少し外れた静かな路地を歩いていた。


 と、通りの先に見知った顔を見かけて、ピタリと地面に足を縫い付けられた。


「なあ、もしこの後少しだけ予定が空いてるならさ、一緒に近くのファミレスにでも行かないか? 新作のパンケーキが美味しいって評判なんだよ」


 街路樹の柔らかな緑が揺れる歩道の隅。そこに立っていたのは、見慣れた端正な顔立ちの少年──サッカー部のエースであり、校内のスクールカースト最上位に君臨する常磐弓弦だった。

 

 そして、彼の目の前で、わずかに身体を引くようにして立っているのは、他でもない七条芹愛だった。その表情にはあからさまな困惑の色が浮かんでいる。


 常磐弓弦。


 以前、七条がこの男について「無自覚にプライベートの領域に踏み込んできて、ちょっと窮屈で苦手だ」と語っていたのを、俺は思い出していた。


「えっと……常磐くん、その、気持ちは嬉しいんだけど……今日はこの後、ちょっと予定があるから」


 七条は、いつもの上品で隙のない優等生の仮面をかろうじて保ちながら、丁寧かつ明確に断りの言葉を紡いでいた。学校での彼女であれば、このスマートな拒絶だけで相手を納得させられたはずだ。


 しかし、今日の常磐はあっさりと引き下がりはしなかった。相手の本当の拒絶を好意的な照れ隠しだとでも勘違いしてしまったのだろうか。


「えー? そんなの調整できるって。少しだけでいいんだよ。最近さ、クラスでもあまりゆっくり話せてなかったし、な? いいだろ?」


 常磐は爽やかな笑顔を崩さないまま、さらに一歩、七条との距離を詰めた。


 その仕草は周囲から見れば親しい男子が可愛い女子を気軽に誘っている微笑ましい光景にしか見えないだろう。


 けれど、当事者である七条のわずかにこわばった肩のラインを見れば、彼女がどれほど追い詰められているかは一目瞭然だった。


 断りたいのに、明確な拒絶の理由が見つからなくて、彼女は今、一人で困り果てている。


 隣の部屋の住人として、そして彼女の秘密のパートナーとして、その様子を遠巻きに眺めているだけの自分に、じわりと焦燥感と情けなさが混ざり合った熱が込み上げてくる。


「おい、お嬢ちゃん、そんなやつより俺たちといいことしようぜ」


 突如、冷ややかで下品な声が響いた。


 見ると、派手な染め髪にダボッとした不良風の服装をした見知らぬ男が二人、ニヤニヤとした下卑た笑いを浮かべながら近づいてきていた。年齢は俺たちよりも少し上のようで、あきらかに街をうろつくチンピラ崩れのナンパだった。


「っ……!」


 七条がわずかに眉をひそめ、嫌悪感を露わにして身を引く。


 しかし、その男は、ますます調子に乗って七条の白い手首へと太い腕を伸ばそうとした。


「おい、待てよ! 急になれなれしく触るなよ!」


 正義感からか、常磐が慌てて二人の間に割って入り、男の腕を制止しようと手を伸ばした。

 

 だけど、体格差と不意打ちの前には、スポーツマンとしての反射神経も追いつかなかった。


「んだお前、邪魔すんじゃねえよ!」


 野太い怒声とともに、男は常磐の胸元を力任せに突き飛ばした。


 バランスを崩した常磐は、アスファルトの路上へと派手に尻餅をつき、「うっ……!」と苦悶の声を漏らす。綺麗にセットされていたセンターパートの髪が乱れ、彼の顔に驚愕の色が浮かんだ。


「おいおい、ざまあねえな、カッコつけ野郎がよ。なぁ、お前、いいから俺たちと付き合えよ!」


 男の一人が、なおも恐怖でわずかに震える七条の肩へと手を伸ばそうとしたその瞬間──。


 俺の中で、理性のリミッターが音を立てて弾け飛んだ。


 このままでは、七条が危ない。あんな奴らに、彼女の美しい髪一筋だって触れさせるわけにはいかない。


 目の前の光景に対する激しい怒りと焦燥感が全身の血液を逆流させる。


 俺は歩道の陰から飛び出し、一気に男たちの背後へと詰め寄った。


「そこまでだ」


 低く、冷ややかな声が、夕闇の路地に響いた。


 男は不機嫌そうに振り返る。


「あん? なんだお前、ガキが気取りやがって

。引っ込んでろ、めんどくせぇ──あいたたたたたっ!?」


 文句を言いかけた男の言葉は、次の瞬間に悲鳴へと変わった。


 俺は振り返った男の太い肩を背後から鷲掴みにし、握力を限界まで込めた。骨と筋肉のきしむ不穏な感触が手のひらに伝わる。


「ぐっ……お、おい、離せ! 肩が、肩が砕ける……っ!」


 男の顔から余裕の色が完全に消え去り、脂汗が噴き出す。屈強な見た目に反して、急所を的確に捉えた痛みに耐えきれず、男は情けない悲鳴を上げた。


「二度と、彼女にその汚い指を近づけるな。今すぐ目の前から消え失せろ。さもないと、次は骨をへし折るぞ」


 普段の陰キャモブとしての気弱な声色を完全に封印し、低く冷たい声音で言い放つと、男は恐怖に引きつった顔で「わ、分かった! 離せ、離せよ!」と叫び、もう一人の仲間とともに、情けない足取りでその場から逃げ出すように走り去っていった。


 俺はふっと息を吐き、力を抜いた。


 そして、地面に尻餅をついたまま呆然としている常磐と、その背後で信じられないものを見るような瞳でこちらを見つめている七条の方へと視線を向けた。


「常磐くん、怪我はない? ……それに、あなたも、助けてくれてありがとうございました。でも、もう大丈夫です」


 それは、あからさまな他人のふりであり、早くこの場から立ち去れというサインだった。


 常磐は、見知らぬ男に助けられたことへの気恥ずかしさもあるためか、「あ、ああ……助かったよ、サンキューな」と、どこか気まずそうに頭をかいた。


 俺は、「じゃあ、お気をつけて」とだけ低い声で言い残し、路地の反対側へと姿をくらませた。



   §



 その日の夜、七時。


 いつものように緊張感と期待感を胸に抱きながら、俺はマンションの202号室のインターフォンをそっと押した。


 ガチャリ、と軽い音を立てて扉が開くと、そこにはエプロン姿の七条が立っていた。彼女の顔には、先ほど街頭で見せたような強がりや緊張の色は一切なく、ただ穏やかで、どこかホッとしたような優しい微笑みが浮かんでいた。


「いらっしゃい、稲葉君。……今日は本当に、ありがとうね」


 玄関を跨いだ瞬間、鼻腔をくすぐったのは、香ばしい醤油とニンニク、そしてジューシーな揚げ油のたまらない匂いだった。


 リビングのテーブルの上には、湯気をあげる白米とワカメの味噌汁、そして皿いっぱいに積み上げられたこんがりきつね色の唐揚げが鎮座していた。添えられたレモンの黄色が鮮やかに映えている。


「うわ……めちゃくちゃ美味そうだな、今日のメニュー」


 席につき、箸を手に取った俺の目の前で、七条は少し誇らしげに胸を張ってみせた。


「ふふ、今夜はスタミナがつくものがいいと思って、唐揚げを揚げてみたの。うまくできてるといいんだけど……さあ、冷めないうちに食べて」


 言われるがままに、俺は揚げたての唐揚げの一つを箸でつまみ上げた。


 衣はサクッと軽快な音を立て、噛み締めた瞬間に、中から熱々の肉汁がジュワリとあふれ出してきた。下味がしっかりと染み込んだ鶏もも肉の旨味が口いっぱいに広がり、思わず頬が緩む。


「……うまっ! なにこれ、外はカリカリなのに、中はめちゃくちゃジューシーじゃないか。お店の味より全然美味いぞ」


「本当? よかったぁ……。実は揚げるの、ちょっとだけ加減が難しかったから安心した」


 七条は嬉しそうに目を細め、自分の分の唐揚げを上品に口に運んだ。


 外の喧騒や、夕方のトラブルなどまるで嘘のように、部屋の中には温かく穏やかな時間が流れていた。美味しい食事を共にし、他愛のない雑談を交わすうちに、日中の張り詰めていた神経がすっかりと解きほぐされていくのを感じた。


「それにしても……夕方のあれ、本当に危なかったよ」


 夕食の片付けを終え、ソファで一息ついた頃、七条はふと真面目なトーンに戻り、じっと俺の顔を見つめながら呟いた。


「あのチンピラ男たち、結構しつこそうだったし……常磐くんも巻き込まれて転んでたし。もし稲葉君が助けに来てくれなかったら、私、どうなってたか……」


「結果的に誰も大きな怪我はしなかったし、良かっただろ。それに、あの髪型で助けに入ったから、常磐には最後まで俺だってバレてなかったはずだしな」


「そうだけどさ……。でも、カッコよかったよ、あの時の稲葉君。いつもはあんなに地味に隠れてるのに、いざという時はすごく頼りになるんだね」


 彼女がふっと浮かべたその茶目っ気のある笑顔に、俺は思わず胸を突かれた。



   §



 リビングの心地よい気怠さが消えないまま、自然な流れで俺たちはベッドルームへと移動した。


 窓の外では、初夏の夜風がカーテンを優しく揺らしている。部屋の明かりが少しだけ落とされ、ベッドの上には二人を包み込むような甘い熱気が満ちていた。


 衣服がゆっくりと脱ぎ捨てられ、お互いの素肌が露わになっていく。


 絹のような黒髪を散らした七条の白い肌は、照明の光を浴びてまるで陶磁器のように滑らかに輝いていた。いつもは凛と張り詰めている彼女の瞳が、今は熱を帯び、潤みを含んだトロンとした表情で俺を見つめている。


「……ねえ、稲葉君」


 七条はかすれた声で俺の首筋に腕を回した。


 その声音には、いつものような切なさや恐怖の影はなく、代わりにどこか妖艶で、強い決意を秘めた甘い誘惑の色が滲んでいた。


「どうした?」


「今日の夕方、助けてくれたお礼……と言ったら変かもしれないけれど。……今夜はね、私から、いつもと違うことをしてあげる」


「え……?」


 戸惑う俺の隙をつくように、七条はふっと悪戯っぽく微笑み、これまでに見せたことのないような大胆な動作で俺の体をベッドのマットへと押し倒した。


 いつもは受け身で、俺のリードに身を任せることの多かった彼女が、今夜は主導権を完全に握ろうとしている。


「ま、待てよ、七条……急にそんな……」


「ダメ。今日は私の言う通りにして」


 彼女の指先が、俺の胸元から腹部へと、まるで這い回るようにゆっくりと滑っていく。その微熱を帯びた指先の感触だけで、全身の神経がビクリと跳ね上がるような強い刺激が走った。


 学校の生徒たちが誰も想像すらできないであろう、あの学年トップで品行方正な完璧なお嬢様が、今、俺の元で、自らの意思ですべてを脱ぎ捨てて奉仕するように動いている。


 美少女にこんなことをさせているという強烈な背徳感が、脳の奥を焼き焦がすように駆け巡る。


 外の世界のプレッシャーも、血縁の呪縛も、学校での仮面も、このベッドの上ではすべてが無力だった。


 ただお互いの体温を求め合い、魂の奥底まで溶け合うように、俺たちは何度も名前を呼び合いながら、夜の底へと深く、深く溺れていった。


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