第10話 仄暗い悪意の足音
六月初旬の金曜日。
梅雨入り前の澄んだ青空が、どこまでも高く広がっていた。
初夏の乾いた風が吹き抜け、グラウンドの白線と青々とした人工芝のコントラストが鮮やかに目に映る。
今日は年に一度の球技大会だった。
朝から校内全体が一種独特の熱気と興奮に包まれている。
授業という足枷を外された生徒たちは、クラスごとのクラスTシャツやメガホン、色とりどりのタオルを身にまとい、思い思いに青春のワンシーンを謳歌していた。
そんな中、グラウンドの一角では、サッカーの試合が白熱している。
「常磐! 頼む!」
「任せろ!」
ピッチの空気を切り裂くような鋭い声とともに、常磐弓弦が鮮やかなフェイントで相手ディフェンダーを置き去りにする。ボールを足元に吸い付かせたまま、ゴール前へと猛然と駆け上がっていくその姿は、周囲の視線を否応なしに引きつけていた。
ズバッ!
豪快な音が響き渡り、ボールはゴールネットの隅へと突き刺さる。直後、クラスメイトたちから割れんばかりの歓声が上がった。
「うわ、今のシュートやばっ……!」
「常磐くん、かっこよすぎ……!」
グラウンドを囲む女子生徒たちのグループからは、黄色い歓声が惜しみなく送られている。汗に濡れた前髪をかき上げ、照れ臭そうに笑いながら仲間とハイタッチを交わす常磐の姿は、まさに青春の主役そのものだった。
そして、その歓声の中心にいたのは、クラスの女王様として君臨する玖珂玲和奈だった。
妹の玲美ちゃんに対しては聖母のような一面も見せるが、この場での振る舞いは違う。
今の玖珂は、化粧をしたその顔を上気させ、周囲の女子たちとは一味違う、あからさまに媚びた、甘ったるい黄色い声を張り上げていた。
「キャーッ! ゆずるー、すごーい! かっこいいよー!」
その異様なまでの熱量と、喉を細く絞ったような声援に、俺は少し離れた場所で思わず眉をひそめる。あの圧倒的な執着と熱の入れようは、単なるクラスメイトへの応援という枠を明らかに踏み越えていた。
一方、少しばかり体育館の方に移動してみても、熱気は最高潮に達していた。
バレーボールの試合に出場しているのは、日頃から運動神経の良さを発揮している七条芹愛だった。スラリとした長身としなやかな筋肉が生み出す跳躍力は、コートの上でひときわ異彩を放っている。
「七条さん、上げるよ!」
「うん!」
セッターからのトスに合わせ、七条が空中へと舞い上がる。まるで空中で時間が止まったかのような美しいフォームから放たれたスパイクは、相手コートの床を強烈にえぐり取った。
「決まったぁ――っ!」
体育館のパイプ椅子に座るクラスの応援団から、地鳴りのような歓声が沸き起こる。
七条はクールに微笑みながら、チームメイトと軽く両手を合わせる。その涼しげな横顔には、余裕すら漂っていた。
そんな華やかな主役たちとは離れて、俺はといえば──。
隅っこで、日陰のベンチに腰掛け、ただひたすら『目立たず、無難にやり過ごす』ことに全力を注いでいた。
出場する競技といえば、クラスの人数合わせで駆り出されたドッジボールくらいだ。
そこでも俺は、ボールが飛んでくれば素直に避けるか、あるいはそっとキャッチして近くの奴にパスを回すという徹底した背景に徹した。目立たないこと、波風を立てないこと。それが、この息苦しい学校生活を平穏無事に生き抜くための、俺なりの処世術だった。
やがて、長いようで短い球技大会の全日程が終了した。
生徒たちは更衣室で着替えを済ませ、それぞれのクラスに戻り、解放感から気だるい活気に満ちた教室で言葉を交わしていた。
「いやー、疲れたけど楽しかったな!」
「常磐、最後のシュートすごかったじゃん!」
「七条のスパイクもビビったわ。あれ絶対取れないって」
クラスメイトたちが口々に今日の健闘を称え合い、笑い声を響かせている。その中心には、汗を拭いながら誇らしげな顔をしている常磐の姿があった。
俺は自分の机に戻り、ぐったりと重くなった体を椅子に預け、早く放課後にならないものかとバッグのファスナーをいじっていた。
その時だった。
パタパタと慌ただしい足音が廊下を響き、クラスの女子たちが息せき切って教室へと飛び込んできた。
「おい、どうしたんだよ、そんなに慌てて」
「何かあったのか?」
クラスメイトたちが、彼女たちを取り囲むように群がる。
俺も思わず椅子から腰を浮かせた。
女子生徒の一人は荒くなった息を整えながら、周囲を見回し、そしてハッキリとした声音で言った。
「……更衣室で、大変なことが起きたの。みんな、ちょっと見に行った方がいいよ」
その一言に、教室の空気がさらに張り詰める。
何事かと野次馬の好奇心に駆られた生徒たちが、一斉に女子更衣室のほうへと押し寄せていった。
俺も気がかりで、人ごみの流れに紛れ込むようにして、その後を追った。
女子更衣室の入り口には、すでに何人もの生徒が群がり、中を覗き込んでざわめいていた。
「なんだこれ……やばくね?」
「うそ、マジで……?」
隙間から中を覗き込んだ俺の背筋に、冷たいものが走った。
そこにあった光景は、一言で言って異常だった。
ロッカーの一つ。その頑丈な金属製の扉に備え付けられていたダイヤル式の鍵が、何者かによって無残に叩き壊されていた。蝶番のあたりがひしゃげ、鍵穴はドライバーのようなもので無理やりこじ開けられたように無惨に歪んでいる。
そして、その壊されたロッカーの中にしまわれていたはずの制服のプリーツスカートが、床に引きずり出されていた。
その現場で、七条が、崩れ落ちるようにその場にしゃがみ込んでいた。その瞳には大粒の涙が浮かんでいる。
引きずり出されたスカートは、ただ汚されているだけではなかった。無数の鋭利な刃物のようなもので、幾重にも、細かく、執拗にズタズタに切り裂かれていたのだ。生地はボロ雑巾のように引き裂かれ、元の形を留めていない。制服としての機能を失ったその布切れからは、犯人の異常なまでの執念と、ドロドロとした悪意が嫌というほどに匂い立っていた。
「ひっ……なにこれ……気味悪っ……」
「うわ、怖……誰がこんなこと……」
集まった生徒たちの間から、引きつった声が漏れ出す。
イタズラというレベルを遥かに超越している。これは明らかな悪意の暴力であり、特定の個人に対する悪質な嫌がらせ、犯罪とも言える事件だった。
「待てよ、これって……警察呼ぶべきなんじゃないの?」
誰かが恐怖混じりに呟いた。
更衣室のざわめきは一瞬で凍りつき、代わりに重苦しい沈黙が場を支配する。
華やかな球技大会の余韻は、この悍ましい事件によって、一瞬にして音を立てて崩れ去った。




